第十話 世界魔法統括機関
第六話の創造魔法の説明が不十分だったため、追記しました。
以下追記内容
・『分野:創造』。その名の通り、一度でも ("直接") 見たことがある場合――。
など
第10話の文字数は約8720文字で読了時間は約18分です。
※500文字/分で算出
記憶から生まれた龍と対峙した翌日。
帰り際にジーニアから聞いた話だが、結局のところ、機関から助っ人が来るのは随分後回しになっていたらしい。
というのも、同日、他の地域でも同じような現象が多発しており、優先順位が決められた。
その時、ウルリラの能力値から、一人で防衛は可能と判断され、結果、優先順位が下がっていたらしい。
――あの無茶な決断は、少なくとも良い方に傾いていたようだった。
現在の時刻は、地球でいう十三時頃。昼を回って少し経ったくらい。
当初の予定通り、僕とジーニアは、この世界で最も歴史ある組織と言われている『世界魔法統括機関』に向かおうとしていた。
なお、穂香もウルリラも、用事があるからと、今は近くにいない。
「カオルさん! 準備はいいですか?」
「ばっちりです! ……とはいっても、たいして準備するものもなかったんですけど」
基本、必需品はすべて、超便利な鞄――というよりかはポーチ――に詰め込んでいるので、準備するものはこれと言ってなかった。
「ふふっ、確かにですね。……それじゃあ、しっかり掴まっててください!」
「了解です!」
「――ふぅ……それでは行きますよ」
ジーニアは、僕が自分の右腕をしっかりと掴んでいるのを確認してから、目を閉じる。
そして、彼女はゆっくりと唱える。機関に転移するための魔法の詠唱を――。
詠唱が終わると同時に――視界が真っ白になる。
次いで、目が回る感覚、揺れる感覚、落下する感覚。
真っ白な景色にもかかわらず、画面酔いのような感覚も付いてくる。
転移の時間は一秒にもかかわらず、気持ち悪さが長い時間と錯覚させる。
「つきましたよ」
「……この感覚ホント慣れない」
ジーニアの言葉に、耳鳴りと乗り物酔いに近い気持ち悪さに耐えながら、僕は目を開けて――。
「……おお!! めっちゃ広い!!」
目の前に広がる圧巻の光景に、気持ち悪さも一瞬で忘れて、感嘆の声を漏らす。
世界魔法統括機関。
この世界の年代で、2985年の内、約1500年もの間、世界を統括している組織。
魔法の管理。依頼の管理。囚人の監視。禁止魔法の制定。――そのほか、多くの役割を担っている。
この世界の技術は、発展の仕方は異なるものの――地球よりは遥かに進んでいる。
そして、世界の繁栄に、この機関が一役買ったのはまず間違いないだろう。
ジーニアから以前教わった内容を思い出しつつ、周囲を見渡す。
目の前には三段程度の階段があり、左右では人が消えたり出てきたりしていた。
外部の見た目は円柱になっていると聞いていたが、どうやら内部の構造は円柱ではないようだった。どちらかといえば、鍵穴を彷彿とさせる構造である。
三階程度まで吹き抜けになった、今僕がいる円形の場所と、目の前に見える吹き抜けになっていない巨大な廊下――廊下と言っていいのか分からない程横に広い。
全体的に無機質な空間ではなく、青を基調とした壁紙(?)が貼られている。しかし、所々石の壁がむき出しになっており、千五百年の趣を感じさせる。
壁には一切の窓がない――なのに、陽光に照り付けられているかのような明かるさがあった。
その時、周辺が少し影になっていることに気が付く。
影の正体が気になり天井を見上げると、そこには――気高き龍の銅像が今にも羽ばたかんとした姿で、悠々と浮かんでいた。
「凄っ。……あの、ジーニアさん。上にある龍の銅像。鎖とかで繋がれていないですけど――やっぱり魔法で?」
「そうですね――カオルさんの言う通り、魔法で浮かべています。……凄いですよね。細部まで作りこまれた造形に圧巻の一言です。いつ見てもすごいと思います。……本当にどうなってるんでしょう? 一回間近で見てみたいものです」
彼女の言葉に無言で頷く。翼の骨と羽根の隙間や、牙の一本――他にもありとあらゆる部位が細部まで作りこまれている。
昨日の記憶龍よりも、よほど生きていると思わせてくる銅像だった。
「でも、なんで龍の銅像が浮かんでいるんですか?」
「それはこの世界の歴史にあります。まあ、大体そういうものですけれど」
「どんな歴史なんですか?」
「そうですね……機関が千五百年前に設立されたというのは覚えていますか?」
「――なんとか」
「それはよかった。龍の銅像が機関に設置されている理由は、千五百年以上前――機関が設立されるよりも前の人々が起こした事件に対する――贖罪と戒めの意味が込められています」
「……贖罪と戒め――」
「難しく聞こえるかもしれませんが――単純な話で、人々が龍を殺していた。これだけです」
誰かが誰かを殺す。――単純でありながらも、最も赦されざる罪。
少しばかり過去を思い出して、苛立ちを覚える。
そんなこと知りもしないジーニアは、龍の銅像である理由の説明を続けた。
「元々、人間と龍は友好関係を築いていた。とはいっても、言葉は通じなかったらしいのですが。ただ、互いが互いを殺し合うことはなかったと聞きます」
「言葉が通じなくても、友好関係になれるんですね。……良い関係だと思います」
それでも、未来で人は龍を殺すに至ったわけだが――。
「私もそう思います」
どこか遠くを見るように、一瞬だけ静かな笑みをジーニアは零す。
しかし、すぐに説明を再開しようと彼女は笑みを途絶えさせた。
「ですが、人の方は少しだけ欲に溺れていました」
「欲に?」
「はい。――龍はそもそも珍しい存在でした。故に、死体から採取されたものであっても、角や牙――そして、臓器は高く売買された。正しくいうならば、誰かが売ったら、高値で売れた……です。これが皮切りとなって――人々は殺しは絶対にしないと肝に銘じながらも、臓器や牙を剥ぎ取っていきました」
「なんというか――貪欲ですね。その時代の人達」
「…………そうかもしれませんね。規制なんてなかった時代だったはずですから。――ですが、これでも人は欲に負けていなかった方だと、あとの話を聞けばわかります」
僕は首をかしげる。
彼女は息継ぎするように言葉を途切れさせた後、「ここにいるのも邪魔ですね」と言って、ゆっくりと歩き始める。
慌てて僕は彼女の右に付くように足を進める。
僕が付いてきていることを横目に確認して、ジーニアは話を続ける。
「――死した存在の臓器とかは腐敗していることがあります。そして、新鮮な臓器や美しい牙の方が高く売れる。――じゃあ、次はどうなるか。――簡単に予想できますよね?」
「……生きた龍を殺し始める」
僕の答えに、ジーニアはゆっくりと一度首を縦に振った。
「そのとおりです。人というのはおかしなもので――どれだけ我慢していても、簡単なきっかけ一つで欲に負けてしまうんです。今までの我慢を全てかなぐり捨てて」
「簡単なきっかけ?」
「たった二人――そう、たった二人の青年が、一体の龍を殺めました。――龍が寝ている隙をついて」
酷すぎる。
そんな言葉が口から出かかるが、無理矢理飲み込んだ。
その二人が何を思って、龍を殺したのか僕は――知らないのだから。
「――誰かがやったのだから、自分だってやっても構わない。人々の中でそんな考えが連鎖していくことになります」
「当然の流れな気がします。――僕のいた世界でも、そういったことはよくありますから」
「こういうのは異世界共通なのかもしれないですね。新発見です」
「――嫌な発見ですけど」
「それもそうですね」と彼女は一言。
その後、一度軽く咳払いをした後、龍の歴史に話を戻した。
「龍は心優しかった。同族を殺められてもなお、人と戦うという選択肢をとろうとはせずに、ただ守りに徹し、いつしかまた友好的な関係を築けることを期待していた」
「期待していた? ……ってことはまさか」
「多分、そのまさかです。そんな未来は訪れずに――龍は絶滅しました」
贖罪と戒め――その意味を漸く理解できた気がした。
ただ殺す。それだけでも充分罪もあれば、罰もある。
しかし、組織――いや、世界の象徴となり得る巨大な銅像を作るまでに至るかと言われれば疑問も残る。
だが、その殺しが龍を破滅へと導いたのならば――。
「……その後、機関が設立されるとなった時、設立者の一人がこの歴史を恥じました。そして、贖罪と戒めを込めて龍の銅像が作成されたのです」
「これが歴史です」とジーニアは話を締めるも、すぐに「全て学生時代に習った内容なので一部相違があるかもしれませんが」と付け加えた。
科学技術の世界で生き続けてきた僕にとって、その歴史はまるでお伽話で――この世界に来てから一年経った今でも、何処か非現実的に感じさせる。
「……一応補足しておきますと、龍は生きていました」
「あっ……そうなんですね。――よかった」
「本当、ですね……。ひっそりと隠れて生命を繋いでいたみたいです。ただ、もう友好的な関係を築こうとはしていないようです。……先程も言いましたが、人間と龍は決して会話できません。だから、人間側も龍側も絶対干渉しない――それを勝手に貫いている形です」
「……今もまた龍狩りが行われたりとかってしているんですか?」
「……私には分かりません。でも――私が生まれた後、一度だけ行われたことは知っています。直ぐに機関が気付いたおかげで、少ない犠牲で済んだようですが」
彼女の言葉を受けて、昨日龍を倒した時に流れ込んできた記憶を思い返す。
『我が盟友のために――命を……捧げよう』
その静かな龍の誓いは――いつの時代の誓いだったのだろうか。
ジーニアは喧噪の中に手を叩く音を響かせ、朗らかな笑顔を浮かべる。
「少し長くなりましたね! 用事を忘れてしまうところでした! 用事が終わってから、こういう話はしないとでしたね」
「あ、すいません! でも――答えてくれてありがとうございます」
「いえいえ、この世界の歴史に興味を持っていただけるのなら、私としては嬉しい限りですので。――っと、いいタイミングで受付に付きましたね」
「あっ、ジーニア!!」
受付に座って、何やら書類を整理していた一人の女性が、ジーニアに気が付き、大きく右手を振った。
ジーニアは、やれやれと言いたげに――それでいてまんざらでもなさそうに苦笑して、受付の女性に近づく。
「こんにちは、アンナ」
「今日はこっちなんですね」
「そうそう! いやぁ、最近人手不足らしくて……ってあれ? そちらの方は?」
短いやり取りから伝わってくる仲睦まじい様子を見守っていると、アンナが僕の事に気付く。
僕は軽く一度頭を下げた後、名前だけを告げた。
「はじめまして、カオルです」
「どうも! <リベル・ボルム>周辺地区依頼処理担当、アンナです! 今日は代理でこちらの方でお仕事をさせていただいています!」
「アンナは一年前にお話した西国出身の同僚です」
「あ……そういえば言ってましたね」
西国はこの世界で唯一言語が違うという、彼女の嘘にまんまと騙された日のことを思いだす。あの時、西国そのものも嘘なのでは? と思っていたりもしたが、実在したらしい。
どこか名前も日本人っぽい気がする。
僕とジーニアの小声でのやり取りに、アンナはむすっとした表情を浮かべる。
「あ、内緒話はよくない! あたしにも、ほらあたしにも!」
「別に内緒話ではないですから。あと 、一応、私は機関に用事があってきているのですよ? 同僚とはいえ、接客はしっかりと……お願いしますね?」
「…………はあい」
アンナは「別にいいじゃん!」と言いたそうに目を細めていたが、一度咳払いをすることで仕事モードに移行していた。
「……コホン。こんにちは! ようこそ、全国魔法統括機関受付へ。本日はどういったご用件でしょうか?」
「昨日の記憶魔物の大量発生の件についての詳細が知りたいのです。特に、あの時<リベル・ボルム>以外でも記憶魔物が発生したと言っていましたが、どれほどの地域で発生していたのですか? あ、それと……何故急に?」
「少々お待ちください。…………。――そうですね。まず一つ目の要件につきましてですが……一言でいうと全世界です」
「全世界?」
「はい。西国含め、東、西、南、北。全て制覇です」
冗談交じりにアンナは語るが、恐ろしく異常事態であることは、あの光景を見ていれば、この世界の住人でなくとも容易に分かる。
「そして二つ目のご質問についてですが、実は急ではないのです。元々、類似した異変は一年程前から確認されてはいたそうなんです」
「一年前……」
「この辺りは私も知りませんが――大きな出来事が一つ発生したといわれているみたいです」
「……マジですか」
もしかしなくても――。
僕の表情からジーニアは事情を察し――完全に反らすとまではいかないものの、話の流れを変えた。
「私、一年前から発生していたなんて話聞いていませんが? 機関の人間なのに……」
「本当に一部地域だけだったので、上層部が機密事項として調査されていたみたいですね」
一年前――記憶を辿って過去を振り返っていると、初めてウルリラと出会ったときに、彼が話していた内容を思い出す。
「アンナさん。初めてウルリラさんに会った時に、魔物が蘇生するかもしれないから、徹底的に叩き潰すようにと言われたって言ってたんですけど、何か関係性があったりするんですか?」
「ああ、そんなこともありましたね。因果関係は不明ですが、地脈関連の異変ですので、多少は関係していると言われています。...…最近は蘇生されるといった事象はないみたいです」
「無きにしも非ず……といったところですか」
「その程度の認識で大丈夫かと。そして、今日のところは目立った異変も起きていないみたいですけど、またいつ似たようなことが起きるか分からない。そんな状況です。――昨日は全地域が無事だったみたいなので……本当に良かった」
一瞬だけアンナは素の口調に戻り、安堵の息を漏らす。
すぐに受付対応の表情に戻ったが――彼女は、見ず知らずに人のことを心配できる心優しき人物なのだろう。
「他にご質問はありますでしょうか?」
「私はそれだけ聞きにきたのでもうないですね。……上の奴らに直談判してもよかったんですけどね。アンナの話で概ね理解できました。――できたことにしておきましょう」
「そうですか……カオルさんは何かご用件がありますでしょうか?」
僕は少しばかり考える。
そして、昨日美鈴から届いた連絡に記載されていた名前――アドーラ。
その大人か子どもか――性別さえ不祥なその人物について、調べられるなら調べてほしいと思った。
「あの、特定の人物の情報を確認する事ってできますか? 」
「……そー、です……ねえ。…………基本的には禁止されているのですが、名前だけ伺って、場合によっては、一部情報をお教えすることは可能ですね」
「だったら、調べるのをお願いしてもいいですか? ……アドーラ、という人物なんですが……」
「アドーラ……ですね。わかりました。調べてみますので、少々お待ちを」
アンナは椅子をくるりと回し、灰色の大理石のような壁に身体の正面を向ける。
そして、壁に右手を当てると――右手の周辺の壁が薄青く光始めた。
「今何を?」
「壁の奥には個人情報が記された羊皮紙が保管されているんです。そこからアドーラ? さんの情報を調べています」
それを聞いて、凄い以外の感想が出てこなかった。
一分程度経過した時、壁に取り付けられていたポストのような開閉式の小さな扉から、一枚の紙が飛び出してくる。
アンナはその紙を手に取り、不思議そうに首を傾げた。
「うーん、アドーラという名前の人は見つかりませんね。――一人くらいいてもおかしくなさそうな名前なんですが……」
「…………そうですか」
「その人がご存命かどうかわかりますか?」
「多分、生きていると思います」
「なるほど……ご存命かどうかが曖昧なようですので、既にご逝去なされた方々からも調べることが可能ですが……」
「いや……そこまでは大丈夫です」
本当は調べた方がよかったのかもしれない。だが、死んでいる存在とは考えにくかったのだ。
アンナは僕の返答に、一度頷き、対応を続けた。
「かしこまりました。……一応お話しておきますと、機関は全ての人々の個人情報を保有しているわけではありません。魔法を使用する以上は、ある程度個人情報の提供を要求しますが、それも別に強制ではありませんので」
「そうですか。調べてくださりありがとうございます」
「お気になさらなずに。お客様の疑問や質問に、可能な限りお答えする。それが私たちの役目ですので」
アンナは優しい笑顔を浮かべる。懇切丁寧、かつ真摯な対応に感動を禁じ得ない。
彼女は口調や表情、手の動きに至るまで――一切の不快感を与えないように、配慮しているように感じた。
役所仕事に似たような――というか、ほぼ役所仕事みたいなものなのだろう。
「あ、そうでした。話を少し戻しますが、ジーニア、それとカオルさん。今、この世界では多くの異常事態が発生しています。理由は未だ尚不明ですが、充分にご注意を」
「分かってます」
「分かりました」
「……他に何かご用件はありますでしょうか?」
僕とジーニアは互いに顔を見合わせた後、同じタイミングでゆっくりと首を左右に振った。
「分かりました。それでは、また困ったことや気になることがあった場合、ご気軽にお越しください」
アンナは深くお辞儀する。それにつられて、僕も軽く頭を下げた。
彼女が再び顔をあげた時には、仕事モードは何処へやら――その表情は明るく朗らかなものとなっていた。
彼女は瞼を落として、腕を上にあげて伸びをする。
「はい、仕事時の対応は終わり! ねえねえ、後ろに誰もいないから、ちょっと話そうよ!」
「もう、アンナってば。……はぁ、少しだけですよ?」
あんなに右腕を引っ張られて、困ったように笑うジーニアだったが、やはり嫌そうではなかった。
寧ろ、懐かれていることと我儘を言われることに嬉しさを覚えているようだった。
「あ、そうでした。アンナに聞きたいのですが……カオルさんはここに来るのは初めてなんです。何処か見学できるところとかってあります?」
「うーんと、三階までなら誰でも見れるようになってるから、行ってみるといいかも? まあ、面白いかどうかは全くわかんないけどね。……ちなみにあたしは面白くなかった」
「大体同じ構造ですからね」
「でも、時代毎の武器が保管されている部屋は、圧巻だったかな! 魔法と違って、武器は比較しながら見れるのがいいよねぇ。……あ、でも、今閉鎖されてたような」
「あれ? そうなんですか?」
「関係ない場所だから詳しいことは知らないけど、確か閉鎖されてたはず……」
「千五百年も経っているので、普通に劣化とかはあり得そうですけどね。魔法での補強にも限度というものがありますから」
建物自体は広いが、決して人が多いわけではない。そのため、二人の当たり障りない会話が機関に小さく響いていく。
二人とも見るものがなくて面白くないと言っていたが、僕にとっては一階だけでも充分新鮮だった。
だから、是非とも見学したいと思って――。
「君はどこまで――理解できるかな?」
「なっ!?」
背後から聞こえたその声は――誰の声か。
間髪入れずに後ろへ振り返ったが、そこには既に誰もいなかった。
その声の主は誰か――。
分からない。
分からない。
――分からない。
どこかで聞いたことがあるのか、それとも一切聞いたことがないのかさえ分からない。
「どうかなさいましたか?」
「…………いえ、なんでもない、です」
ジーニアが不思議そうな顔で僕の様子をうかがっていた。アンナも前で同じように心配そうな顔を浮かべていた。
僕は二人の方に視線を戻して、引きつっていたかもしれないが、何とか笑みを零す。
嫌な予感が身体を巡る――それと同時に、止まっていた時間が動き出すように、受付に置かれていた、時計の円針がカチッと音を鳴らした。
「イヤアアアアアアアア!!」
背後から聞こえてきた、女性の甲高い悲鳴が鼓膜を震わせ、機関中に反響した。
僕とジーニアはその声を受けて咄嗟に振り返り、アンナは顔を上にあげて奥を睥睨する。
そして僕達が振り返った先にいたのは、女性を右腕で掴み、喰らおうとしている――茶色い毛皮を持った、無邪気で巨大な猫がいた。
いや、猫というのにはふさわしくないかもしれない。顔以外の全てが、猫とはまるで異なっているのだから。
馬のような尻尾を揺らし、グリフォンのような翼を靡かす。長い腕と足が地面を捉え、まるで動く気配がない。
猫マガイの魔物の周辺にいた人達は、距離をとろうと右往左往に走って逃げていた。
鋭い真っ黒な眼で、右手に握った女性を、ぎこちなく首を何回も傾けながら、見つめていた。
気味悪さの中に可愛さが。可愛さの中にかっこよさが。かっこよさの中に、他者を怯ます狂気さが。
どこから出たのか――何処にいたのか。
兎にも角にも、一刻も早く女性を助け出さないといけない状況だった。
「早く助けないと!」
「僕も援助します」
僕は魔法道具に手を伸ばし、中から剣を取り出そうと試みる。
その横でジーニアが、魔物に対し左手を伸ばして目を閉じ、詠唱を唱え始める。
「詠唱番号10023。魔法分野、攻撃。根脈より応呼び出……せ――。っ……根脈より呼び出せ――!」
「どうしたんですか!?」
何回も同じフレーズ――しかも、魔法陣を呼び出す段階の詠唱を繰り返すジーニアに、違和感を覚えた僕は彼女に理由を問う。
彼女は今までになく瞠目した驚愕の表情を浮かべながら、何回も左手を見つめて――。
ただ一言――呟いた。
「――魔法が……使えない……です」
その事実は――絶望へ突きつけて。
そして、その事実が彼女だけでなく、この場にいた全員なのだと、直ぐに気づくことになった。
Tips : この世界の2985年を完全な地球時間で考えるならば、2135年程度である
第一章完結まで通常シナリオはあと四話。よろしくお願いします。