時岡を蹴る少女
「ジュブナイルって言い方、どうなの?」
時岡士郎は『俺っていいこと言うだろう?』とでも言いたげに、いつものように、けししと笑った。
「そんな洒落た言い方しなくてもラノベでよくね?」
あたしはそいつの背中を蹴りたくて仕方がなかった。
彼が一体何について喋っているのかわからなかった。
いつも時岡はそうだ。ねっちゃりとした笑顔を浮かべて、自分にだけわかる話を愉快そうにして、けししと笑う。
寂しさは、鳴らなかった。
ラベンダーのフレグランス立ち込める理科室といえば、雰囲気はとっても怪しげ。
怪しげだけど、恋が始まらなければおかしいシチュエーション。
そんな場所に高校2年の男女が二人きり。
一体神様はあたし達に何をさせようというのか。
続けて時岡は文房具とイタチが宇宙で戦争を繰り広げる物語を始めた。
そこであたしはハッと思い出した。自分が、誰であったかを。
「あたしの名前は、ビキちゃん」
あたしが唐突にそう言うと、時岡はメガネの奥の目を丸くして、口は笑った。
そして言った。
「は?」
「ビキちゃんだよ」
「で?」
「知らない? 商店街の服屋さんのチラシのモデルやってて、今度歌手デビューする予定の、現在話題沸騰中のビキちゃんよ」
「うそつけ」
嘘だった。商店街のチラシのモデルをやっていたところまでは本当だ。ただし小6までだったけど。そこから後は全部嘘だ。
「おい、三匹」
時岡があたしの下ノ名前を呼び捨てにした。
「何よ」
「長女が一匹、次女が二匹、三女の名前が三匹って、お前んとこの子供の名付け方、変わってんな」
「今さら何だよ」
すると時岡は唐突に話題を変えた。本当に、何の脈絡も唐突にだ。テントウムシの幼虫に寄生するブフネラ菌の話を始めた。
「あれは優しい生き物なんだよな。寄生する相手を殺さずに、それどころか自分なしでは生きられないようにさせる。黑暗森林理論も尻尾を巻く」
あたしは負けじと言い返した。
「イッピキ、ニヒキ、サンビキ。だから三女のあたしはビキなんだよ!」
時岡は「ヤバい!」というような表情を浮かべると、口から泡を飛ばしながら言い返して来た。
「俺、ニーチェとか好きなんだよね」
「よくやるよ」
あたしは吐き捨てるように言ってやった。
「追っかけなんて青春真っ只中にいる男がやることじゃねーよ。お前はオッサンか!」
「やめなさい」
突然ラベンダーの香気の中に出現していた美しいけどちょっとキモい男性があたし達のラブシーンに制止を呼び掛けた。
「僕は1999年の未来からやって来た」
「古っ!」
あたしが言い返すと、未来人は恥ずかしそうに帰って行った。
時岡を見ると、いつの間にか窓から外へ出ており、冷たいベランダに寝転んで「ムニャムニャ、ニーチェたん」と寝言を言っている。
あたしが時岡の背中をそっと蹴ると、びっくりしたように振り向き、聞いて来た。
「今の、何?」
「知らない。風じゃない?」
時岡はメガネをかけ直すと、すべてが吹っ切れたような顔をして、言った。
「全然知らない初めての感覚だった」