回帰
「…どうして。何でなんだよ。」
語気を荒らげるあなた。
三日月の仄かな光に照らされて一筋の涙のあとが光る。
あなたの涙を見て、あぁこの子はまだ間に合うと直感で思った。
だから、行動に移すことを決めた。
それが、どれだけ自分の人生の足かせになろうとも。
「あら、お帰りなさい。
悪いんだけど手を洗ったらいつもみたいに手伝ってもらえる? 」
あなたの中で母親の存在が失くなって一年。
想像でしか知らない母親を演じ続けて一年。
あなたが帰るまでに帰りついて家事を始める。
「姉さんにはちょっときついよな、これ。」
率先して重労働を手伝う優等生になったあなた。
まるで一年前の面影はない。
(…あたしだって、親に甘えたいのに。)
いつだって浮かんでくる思いを掻き消して母親に徹する。
「お父さん、進路のことは何も聞かなかった、あたしの独断でやったこと。
勝手した学費は手を出さないで。」
お父さんはあなたへの想いを知って、あなたに嘘をついた。
あなたを苦しめたくないがための嘘。
あたしが優しい嘘をつくことを決めた。
あなたに罪悪感を抱かせないためにも必要なことだった。
「お前、そんなに働きづめで平気なのか?」
(平気なわけないじゃん、お父さん。)
言いたかった。助けてって。
言えなかったから、自分で解決するしかなかった。
それでもあなたの笑顔を護るために。
「姉ちゃん、いつ帰るの?」
あたしに似たのか弱音なんて吐かないあなた。
それでも、あなたの親でいると決めたときから些細なことでも気付くようにしてる。
なのに、何で?
朝から具合が悪かったこと見抜けなかった。
心の痛みを隠して接する。
あたしが本当の母親だったら気付いてあげられたのかなぁ。
あたしは本当の母親じゃないから。
仮初めの存在でしかないから。
「卒業おめでとう。」
姉さんもね。おめでとう。
優しい笑顔のあなた。
2学年差のあたしたちは高校と短大を卒業の春を迎えた。
未だに優しい嘘をついたままで、社会人を始めることになる。
2年前、仕事と育児を一手に担うのは難しいと考えての進学をしたわけだけど。
果たしてそれがよかったことなのだろうか?
「3年間お弁当を作ってくれてありがとう。」
いつも、弁当作ってくれる人を母さんって言って自慢してた。
卒業式の夜に唐突にアルコールで据わった瞳で語りだしたあなた。
病気になったときに看病してくれて、本当は学校だったのにサボってまで様子を看てくれた。
学校とバイトで遅くなっても夜明けから体操着を用意してくれた。
バイトがあるのにわがまま聞いて、大会の朝食を作ってもらったこともあった。
もっと、数えきれないくらい面倒見てもらったから。
「お母さんって。…あたし、そんな歳じゃないわよ。」
声が震えていた。
まだ泣かないから。
まだ、あと2年あるから、だから。
「…うん。そう、もう終わらせようと思って。」
(本当は、もう体が限界なのを知られたくない。)
少し早いけど、あなたの母親を卒業することにしました。
あなたの養育費を確保するために親に押し付けるわけにもいかず。
実家を離れてからも毎月送金し続けてきたけれど。
ゴールは見えていたの。
ゴールが来たら、そのときには…。
母親役をやめて、15歳の時に封印した元のあたしに戻ることに決めていたの。
ごめん。ごめんね。
最後まで護る人でいられなくてごめん。
「…痛い。」
今のあたしには頭を抱えて鎮静剤で痛みを押し留めることが精一杯。
専門医も進められるけど、諦めるしかなった。
ゴールが来たら、ちゃんと検査を受けなくちゃいけない…。
たとえ、どんなに辛くても、その日が来るまで…。