第5章 帰結の時に
第五章 帰結の時に
これまでのパターンに無い『キワミ』の動きは、『一座』の中でも問題視されていた。
復活する件と他者を操る件だけでも驚愕の事態であったが、何よりも関与者がいきなり四人それも被害者ではなく、『キワミ』側として発生したことも問題を大きくしていた。
八坂の『一座』メンバーは事件の始末に全力で当たる中で、迎撃チームである司、九葉、華菜、そして支部長の幸造が今回の事件の考察のために九葉の屋敷で顔を合わせていた。
「あれは、イザナギじゃ・・・」
沈黙する一堂の中で真っ先に九葉がそういって口を開いた。
「イザナギ?」
司が聞きなれない言葉にオウム返しをすると、九葉は静かに頷いてみせる。
「幸造、よいな?」
司に顔を向けながら九葉は視線だけ向けると、幸造がしぶしぶ頷くのが見えた。
「日本の神話を知っていれば聞いたことがあるかも知れぬが、イザナギはイザナミとともにこの国を形作ったとされる神の名前じゃ」
九葉はそこまで言うと、忌々しげに表情を歪めて一拍置き、それから再び言葉を続ける。
「じゃが、われわれには別の意味を持つ名前でもあるのじゃ」
「別の・・・意味?」
司の問いに、九葉は頷きで答えると説明を続ける。
「かつてこの世で栄華を極めた愚か者たちが、傲慢の果てに行き着いた神の人造計画、その一組の神々の名がイザナギとイザナミなのじゃ」
吐き捨てるように言い放たれた九葉の言葉に含まれた嫌悪感に司は顔を強張らせるが、それを気にするでもなく、九葉は淡々と言葉を続けていく。
「ナギは凪にして不変。ナミは波にして変動。ギは気にして精神、ミは身にして肉体。そして、人々をイザナウ神。それがこの計画においてイザナギ・イザナミの名に込められた呪、先日、イヌの件で説明した言霊の応用じゃ」
そこで更に一拍おいてから、九葉はまた静かに語り始める。
「正しく計画が全うされていたならば、永遠の精神と不変の支配力を持つ陽性の神イザナギと、永遠の肉体と無限の変化を続ける陰性の神イザナミが誕生するはずじゃった」
目を閉じて溜息をつくように言う九葉の言葉を幸造が引き継ぐ。
「全うされなかったのだよ。陽性の神の暴走でね」
「それが、先程のイザナギ・・・ですか・・・」
華菜が幸造の言葉を補足するように確認する。
九葉は華菜に視線を向けて頷くと、少し思案の表情を浮かべてから口を開いた。
「やつの狙いはわらわを支配することじゃ」
「え?」
九葉の言葉に驚きの表情を浮かべた司の肩に華菜が優しく手を置いた。
「わらわがイザナミだからじゃ」
平然と言い放たれた九葉の言葉が司にはとても衝撃だった。
確かに、普通の生き物ではないことは分かっていたけれど、それでも『作られた存在』というのは、司の中で大きな激震を引き起こした。
「華菜にどこまで聞いているかは知らぬが、わらわは心臓に短刀を突き立てられて、命を失っても新に精神を産み落とし肉体を再生する。先代のわらわである八葉は華菜を姫護とし、華菜の破棄によって、今のわらわである九葉を産み落とし、九葉として蘇ったと言うわけじゃ。この葉というのはヨウ、すなわち容、カタチの事じゃ。一のカタチ、一葉から始まって、わらわが九番目の・・・」
司はそこで九葉の言葉を聴き続けることに耐えられなくなって、大きな音を立てて立ち上がると、そのまま部屋を飛び出していってしまった。
開け放たれたままの襖を前に慌てて立ち上がった華菜はその後を追い、幸造も立ち上がる。
そんな二人を余所に、司と華菜の出て行った襖を見つめながら、九葉だけがぼんやりとした表情を浮かべていた。
九葉の言葉がどうしても聞くに堪えなくて、司はいつの間にかあの日目を覚ました客間で膝を抱えていた。
夜明けまでは少し時間があるせいで明かりの灯っていない部屋は薄暗く、生活臭のするものが置かれていないせいでとても寂しい。
そんな部屋の中で膝を抱えていれば、気が滅入るばかりで溜息が何度も口を突く。
司は溜息をつきながら膝を抱えた姿勢でごろりと横に転がった。
長く伸びた髪がさらさらと畳に落ちて次々に音を立てる。
寝転がったまま自分の髪に手を当てて、指で梳きながら持ち上げてみると、指を擦り抜けた髪が再び畳に落ちて音を立てる。
「突然席を立つなんて失礼ですよ」
不意に声をかけられた司は気だるげに首だけ開かれた襖に向けた。
そこでは片手で襖に手をかけてもたれ掛かりながら、もう片方の手を腰に当てた華菜が苦笑いを浮かべて立っていた。
「華菜さん・・・私、なんかよくわからなくて・・・」
すっと顔を戻して丸くなる司に歩み寄ると、華菜は司のわき腹を突っついた。
「ひやぁ!」
変な悲鳴を上げて飛び上がった司は胸をどきどきと高鳴らせながら華菜を見つめる。
「司ちゃんはなるべくして女の子になったのではないかな? すごく自然ですよ」
そういって微笑む華菜に、司は表情を曇らせる。
「生まれたときは男の子だったけれど、いろいろなことが重なって、今の君になっている。イヌ君だってそう。確かに生まれは『キワミ』だけど、君から名前をもらって今は立派な私たちの仲間でしょ?」
そこまで言って今度は司の頭を撫でながら華菜は続けた。
「過去とか、生まれとか、そういうのは、今を作るただのきっかけ。それとも、小林司は過去を知っただけで心変わりしたり、気持ちが揺らぐような人間なのですか?」
「う〜〜〜」
司はなんとも情けない表情を浮かべて唸ると、突然立ち上がり客間を後にした。
廊下に戻って司の背中を見送りながら、腕を組むと華菜は笑みを浮かべて、「手のかかる弟子ですねぇ、まあ、出来過ぎよりは何故か嬉しいですかね」と呟いた。
司は九葉の元に向かう途中で、学園にある支部の施設に戻るという幸造とすれ違った。
「津香紗さん、イザナギは陽性の神ですから、血珠で男に体を戻しておく方が良いかもしれません。どうやらイザナギは男性を操ることはできないようですから」
幸造はそれだけ言うと、疲れからかふらふらした足取りで玄関へと向かっていった。
その足取りに不安を感じた司は、幸造を支えながら玄関へと導いていく。
「まさか、この年で介護が必要とは・・・」
苦笑交じりに言う幸造だったが、思い返すと司は彼の年齢も出身も知らない。
「あの、学園長先生、私、先生の年齢を」
申し訳なさそうに頭を下げた司に、幸造はさして気にした様子も見せずに言葉を返した。
「知ったら驚くかもしれませんね」
そういって微笑む幸造の表情は柔らかい。
「でも、まあ、それだけのことですよ」
言うなりピンと背筋を伸ばして、司の補助の手など必要ともせずにすたすたと玄関に向かって歩いていく。
その後姿に、幸造風に道を示してくれたことを悟って、司は深々と頭を下げてみせた。
顔を上げた先で廊下に残った幸造の手が、軽く振られたのを見届けた司は、なんだか胸がいっぱいになって、九葉の部屋に向かう足取りも幾分軽やかになっていた。
襖を軽く叩いて部屋に入ると、部屋の真ん中にクッションをおいて身を預ける九葉が、頬を膨らませて恨めしげな視線を向けてくるので、司は一瞬面食らってしまった。
「何のようじゃ、司」
不満を体全身に纏いながら言う九葉は、体を揺らしてはクッションの感触を確かめている。
「ごめんなさい」
司は余計なことは言わずに大きく頭を下げて謝罪の言葉を口にした。
「なにがじゃ?」
九葉はすぐさま感情を押し殺した抑揚の無い声を返す。
容赦も感情も無い九葉の言葉に戸惑いながらも、司は真剣な表情で答えた。
「うまく言えないけど、九葉ちゃんを傷つけた・・・いや、それよりはがっかりさせた・・・かな? ともかく、その・・・ごめんね」
あくまで優しく声をかける司に、九葉はちらりと視線を向ける。
「私に私のことをたくさん教えてくれた九葉ちゃんが『ツクリモノ』って聞いたら、私の自信が揺らいでしまって、そのまま混乱を・・・」
司は言いながら視線を足元に落として、徐々に声をすぼめていく。
「司はちゃんと感情を持っているじゃろ? わらわがどうかなんて関係ないはずじゃ」
ぷいと顔を背けながら、九葉は照れが含まれた様な声で司に言った。
「そうだよね・・・」
司が平然と同意をしたことに、九葉は呆れ顔で振り向いた。
「おぬし・・・」
引きつった表情の九葉を迎える司の笑顔は妙に可愛らしくて腹が立った。
文句の一つも言ってやろうと口を開く九葉より先に司が言葉を続ける。
「生まれ方とか、そういうこと、全然関係なかった。九葉ちゃんは九葉ちゃんだよね」
言いながら照れを隠すように、司は後頭部を掻きながら視線をはずす。
「ちょっとかっこ悪いけど、華菜さんに言われて、大事なことを思い出したんだ。最初に九葉ちゃんと会ったとき、九葉ちゃんが私の心を救ってくれたこと、とても驚いて、でもとても心が安らいで、どんなことでもいいから恩返しをしたいって思ったんだ。だから、姫護になれてよかったと思っているし、この繋がりが愛おしい」
頬を赤く染めながら司は柔らかい微笑を浮かべる。
「司・・・」
九葉は耳まで赤く染めながら体を起こし、司の姿をしっかりとその目に捉えていた。
「まあ、性別は変わっちゃったけど・・・あと、人生二回目の中学生・・・」
苦笑交じりに言う司を九葉はじっと見つめて、それから「嫌か?」と小さく呟く。
聞き取れるか聞き取れないか、ぎりぎりだった九葉のその一言に、司は小さく横に頭を振ると柔らかな表情と声で答えた。
「言ったでしょ、この繋がりが愛おしいって、だから・・・私を信じていて」
話しながら真剣な眼差しを浮かべた司は、九葉に向かってそういうと微笑んでみせた。
九葉の表情に、司に対しての違和感から陰りが浮かぶ。
そして次の瞬間、九葉の表情は驚愕に変わっていた。
「・・・ちょっと、いってくる・・・ね・・・」
微笑みながら言う司の右手はすでに液体になり、地面に引かれ始めていた。
そしてそれは、右足、左足、左手、顔と広がっていき、震えながら九葉が立ち上がったときには、司は畳の上に着ていたセーラー服と水溜りを残して姿を消してしまっていた。
「つ、つかさ・・・?」
驚きの表情を浮かべたまま立ち上がった九葉は、水溜りを前に震えながら、司の名前を口にすることしかできなかった。
そして力なく崩れ落ちる九葉は空を仰いだまま、声もなく大粒の涙をこぼしていた。
再び意識を覚醒させた司の周囲には。真っ白な世界がただ広がっているだけだった。
得体の知れない空間ではあったが、不思議と司に不安は無かった。
明確に分かっているわけではないが、司にはこの場所が現実とは少し違う精神世界のようなものだという認識があった。
それだけでも、不思議と心は落ち着いて、自分がすべき事を冷静に思い出させてくれる。
九葉を狙う存在イザナギから守りきることが、姫護である自分の使命であり、絶対に成し遂げねばならないという認識が、精神の死などありえないと確信を与えてくれていた。
それでも、この白い世界でどうすればいいのかという答えを、瞬時には思いつくことができなくて司は白い世界を静かに漂っていた。
司の周囲はぼんやりと白くて明るいが、形あるものは見当たらない。
自分自身の体の感覚はあいまいだが存在していて、しかし、その姿は目に見えない。
そもそも、目で見ているのかどうかも自信が無いが、周囲を映像で認識している気はする。
体の感覚は水の中に浮いている様な感じだけが続いていて、何かをつかもうとか起き上がろうといった意思を示しても、その通りに体が動かないことは自覚できた。
「困った」
いつイザナギがやってくるかもしれない状況で、こんな状態を長く続けるわけには行かないという焦りが、司の心を締め付けてくる。
とにかく現状を打開するすべを必死に考え始めたところで、いつか見たここに似た場所で、自分が少女になる夢を思い出した。
司は順を追って正確に夢を思い出していくうちに、白いだけの世界に変化が起こり始めた。
交互に表と裏を確かめた手が、イメージにしたがって白い世界に現れた。
次に風に舞う長い髪を感じると、その頭に乗るベレー帽の感触が現れる。
視線を体に落とすと、白いブラウスとジャンパースカートが目に映り、白いソックスと革靴が目に入ると同時に足の感覚が急に認識できた。
目で確認しなくてもわかるくるぶしの少し上までのソックスの感触に続いて、首元にかすかに触れる紐リボンの感覚がどこか懐かしかった。
そのまま、両手で頬に触れると、華菜の指導で洗顔やら肌ケアでしっかりと記憶してしまっていた感触が手に伝わってくる。
司はようやく姫之森学園の制服を身に纏った姫森津香紗の姿を取り戻した。
津香紗の姿を取り戻したところで、イザナギに対するときには司の姿がいいと、言われたのも思い出したが、男に戻るイメージはできそうに無かったので、ともかくこの世界から現実の世界への帰還が最優先だと思い直して周囲に集中を始めた。
精神を集中させ、あたりの気配を視覚ではなく、感覚で捉えていく術は、華菜に目隠し状態での書道や踊りをやらされたお陰で、今の司には少々自信があった。
それでも徐々に広がる司のセンサーには何一つ感知しなかった。
何度か繰り返し意識を集中するうちに、かすかに自分を呼ぶ声を耳にした。
声はいつか見た夢の始まりに聞いたあの司を呼ぶ声だった。
司はその声を聞くなり躊躇なく、声のほうへと歩き出していた。
明確に理由を説明することはできないが、司にはそれが正しいという絶対の自信があった。
それは呼ぶ声が九葉に似ていたからなのかもしれない。
九葉の自室では、泣き腫らした九葉とそれを抱き締める華菜の姿があった。
明け方近く、しかも特殊な『キワミ』対策のために総員が借り出されてしまった屋敷には、今や九葉と華菜の姿しかない。
いつの間にか司だったものの水溜りはすっかり乾いてしまっていて、その場所には華菜によって綺麗にたたまれたセーラー服だけが置かれている。
司の消失は華菜の中では想定された事態の一つだったが、九葉の動揺は想像以上だった。
九葉は司のセーラー服に視線を向けては、涙ぐむのを繰り返している。
その度に頭や背中を撫でながら抱き締めてやるのだが、イザナギという脅威が現れてしまった現状では、何の対策も準備もできないことが華菜にはもどかしかった。
「九葉様、大丈夫ですか?」
頭を撫でてやりながら、勤めて優しい声で華菜は語りかける。
それまでは小さくとも反応を返していた九葉だったが、突如、反応を止めてしまった。
華菜が覗き込んだ九葉の顔には、涙の跡だけを残して無表情の仮面が張り付いている。
「九葉様!」
華菜は慌てて九葉の体を大きく揺り動かすがまったく反応を示さない。
それどころか、揺さぶられた反動で畳の上に倒れこんでしまう。
反応を示さない人形のような九葉に、様々な想像が華菜の脳裏に浮かんでは消えていく。
そして、一番恐ろしい結論を、華菜は無意識に口に出してしまった。
「精神の・・・死」
自分で言った言葉に心底おびえながらも、必死に頭を振ってその悪い想像を打ち消して、必死に九葉の名前を呼び続ける。
しばらくの間、九葉の体を揺すりながら名前を呼び続けていた華菜の蒼白な顔に、ようやく
安堵の表情が浮かんだ。
心配する華菜の手を握りながら、ゆったりと微笑む九葉の表情に、懐かしい気がして華菜は一瞬息を呑んだ。
「かー、心配しなくても大丈夫ですよ?」
伸ばした手で華菜の後頭部を撫でながら掛けられた懐かしい呼び名に、華菜の表情が一気に崩れてしまった。
「あらあら」
困ったように微笑みながら囁く九葉の声は優しく、どこか九葉ではなかった。
「大丈夫です、私もあのときのままじゃありませんから・・・」
瞳いっぱいに涙をためながら、華菜は声をわずかに震わせて強く九葉の手を握った。
「久しぶりにお会いできて、嬉しかったです。八葉様」
愛おしそうに九葉の、八葉の手を頬に当てながら囁く華菜の表情はとても穏かだった。
「かー、もう自分を責めるのは、やめたのかしら?」
「そう、思われますか?」
八葉の質問に華菜は少し間を置いてから質問で返すと、八葉は優しく微笑む。
「そうねぇ、とても綺麗な顔をしているわね」
答えのような、答えで無いような不思議な解答に、華菜は八葉を確かに感じていた。
「今は大切な妹が二人もできましたから」
自然と口をついた言葉を八葉に伝えながら、華菜は満足そうな表情を浮かべる。
八葉も満足そうに頷いてから、潤んだ瞳で華菜を見つめて囁いた。
「かー、あなたの妹たちがもうすぐ帰ってきます。今度こそとか、余計なことは考えないで、ただ姉としてしっかり守って、しっかり甘やかしてあげなさいね」
言いながら瞳を閉じていく八葉を見つめながら、華菜は唇をかみ締めた。
瞳を閉じきったところで、八葉は一言だけ呟くように言い添えた。
「無理をしすぎてはいけませんよ、貴女も女の子なのだから・・・」
八葉はそのまま眠るように意識を失う。
華菜は八葉の、九葉の体を起こすと、はその耳元で何事か囁いた。
意識を失った九葉を椅子に座らせた華菜は、武器の手入れをしながら目覚めを待っていた。
九葉と司のセーラー服を時より見つめては武器の手入れを繰り返している。
部屋の外からは小鳥のさえずりが聞こえ、外と部屋を隔てる障子にも日があたり始め、時折光を浴びた華菜の武器の刀身が、九葉の顔を反射で明るく照らし上げる。
黙々と続けられる武器の手入れが、一通り片付いたところで九葉の体が小さく跳ねた。
薄っすらと目を明ける九葉の足元で司のセーラー服が鈍い光を放ち始める。
九葉の目が完全に開かれた瞬間、部屋中が眩い光と白い煙に包まれ、華菜は咄嗟に九葉に覆いかぶさるように抱きついて、そのまま畳に引きずり倒した。
煙が薄れていくのを確認しながら、周囲に警戒を向ける華菜の下から、九葉の苦しげな声が響いてきた。
「華菜〜〜おもい〜〜のじゃ〜〜〜」
じたばたともがく九葉だったが、煙の中に人の気配を感じ取った華菜は、体勢を変えずに警戒を続けている。
今現在人のいない屋敷にあって、頼れるものは自身しかいない華菜は、なんとしても自分一人で九葉を守り抜かねばならないという覚悟で警戒を強めていく。
九葉に覆いかぶさった体勢のまま、手元に手入れを終えたばかりの日本刀を引きよせる。
華菜は九葉に静かにするように伝え、体を起こして膝立ちになりながら、納刀された状態の日本刀を左の腰に構える。
いつでも抜刀できる居合いの型を取りながら、華菜は気配のするほうに意識を向ける。
そんな華菜の視線の先、薄れ行く煙の中で、気配の主浜の抜けた声を上げた。
「あれ? 華菜・・・さん?」
それを司だと認識した瞬間、華菜はそれまでの警戒など忘れ去ったかのように、日本刀を手放して、抱きついてしまっていた。
戦場で命取りだとか、幻覚の姿かもしれないと、普段の自分なら警戒したであろうこと全てが、このときの華菜にはどうでもいいことだった。
ただ、司が試練を乗り越えて生還したことが、華菜には嬉しくて仕方なかった。
力いっぱい自分を抱き締める華菜の腕に篭る力はとても強くて、司の心を安堵させてくれる。
司はそんな華菜の抱擁にしばらく身を任せていたが、思い出したようにおずおずと口を開く。
「あの・・・服、着ても・・・いいですか?」
耳まで赤く染めて恥らう司は、長い黒髪で一糸纏わぬ姿を隠している。
「ああ、そう、ですね・・・」
珍しくうろたえて体を離した華菜の横から、九葉が浴衣を投げて寄越した。
浴衣を受け取ると、司は立ち上がりながらふわりと舞わせて素早く身に纏う。
「あの状態から体が元に戻るには、元の姿のイメージが大事なわけじゃが・・・」
腕組みをしながらわずかに首をかしげて九葉はにんまりと笑顔をうかべて言い放つ。
「少女の姿のほうとはのう」
浴衣を帯で留めながら、顔を真っ赤にして司は九葉に言い返した。
「ず、ずっとこの姿だったんだから、しょ、しょうがないじゃないですか!」
ぶんぶんと両手を振り回して抗議をする司は、九葉に返された笑顔に目を奪われて動きを止めてしまっていた。
そのまま、すねたような表情で視線をそらしてから、呟くように司は言葉を続けた。
「でも・・・ちゃんと帰ってきました・・・約束どおり」
司の言葉に優しい眼差しを浮かべて華菜は笑顔で頷いてみせる。
「うむ」
九葉は満足そうに言いながら深く頷いくと、突然司に飛びついた。
視線をはずしていたせいでまともな受身も取れないまま、九葉に抱きつかれた司はバランスを崩して、九葉とともに畳の上に転がった。
天井を見上げながら呆然としていた司を覗き込むように体を起こした九葉と視線が合った拍子に、二人はどちらからとも無く吹き出した。
「それに、男の体じゃ九葉ちゃんに触れないですし」
「それもそうじゃ」
言って笑いあう司と九葉を一頻り見つめた華菜は大きく頷いて静かに部屋を後にした。
「八葉様、今度こそ・・・」
聞く相手がいない言葉を口にしながら、ついさっき禁じられたばかりの言葉を口にしたことに気がついて、華菜は苦笑を浮かべる。
八葉を思い返しながら、華菜は愛刀を強く握り締め、力強い足取りで廊下を進んで行った。
肉体の形を失い、そこから再構築を果たした司は、身体的な状態を確かめるために、普段と変わりなく登校をしてから、体調不良と称して保健室に来ていた。
姫之森学園の保険医を担当するのは、医学や生物学の博士号を有する『一座』八坂支部医療班の主任を務める若松早苗である。
早苗は肩まで伸びる明るい茶色の髪を結い上げ、メガネをかけた女性で、普段からスーツの上に白衣を纏っていた、割りと大雑把な明るい性格で生徒からも慕われている保険医である。
そんな生徒受けのいい早苗だったが、他人に干渉をしない性格のせいか、司には行動も思考も感じ取れないことが多く、比較的苦手な部類の人間に感じていた。
早苗は保健室にやってきた司に問診をした上で、ベッドに寝かせて全身をくまなく触診すると、大丈夫そうだという結論を出した。
「大丈夫そうって・・・」
不安そうな表情でベッドの上から呟く司に早苗は事も無げに答える。
「そもそも、普通の人間じゃないんだから、簡単な診察で状況把握なんて無理無理、概ね大丈夫って言う結論が出せるだけでも感謝してもらいたいものだわ」
「うう」
「細かい状態を確認するには時間も機材も必要だし、この緊急時では大丈夫だろうってあやふやな結論でもあるだけましと思って頂戴」
言いながら白衣の裾を翻し棚に納められていた書類をいじる早苗に悪気は一切感じられ無い。
「津香紗ちゃん、それよりも確認してもらいたんだけど」
早苗はスチール製の机の上にノートパソコンを広げて司を手招きする。
ベッドから起きて司が確認した画面には、八坂市の航空写真らしき映像が映っていた。
「まず、この八坂に、このレイヤーを載せて・・・」
マウスを巧みに操って早苗がパソコンを操作すると、航空写真の上に勾玉を重ね合わせたような図柄の半透明の陰陽図が重なって表示された。
黒い勾玉の尻尾に姫之森学園、本体付近に元町や田園地帯が含まれ、駅を円の中心として、白い勾玉には新興住宅地や開発中の駅前商店街などが含まれているのが分かる。
「これは?」
それぞれの勾玉の中心部にあたる円を指差しながら司が尋ねると、早苗は操作を続けながら説明をしてくれた。
「黒い陰性の強い地域の白円は、いま超高層ビルを建てている現場ね。表向きは政府の電波実験施設だけど、実際は『一座』八坂支部の移設用の施設が作られている場所。白い地域は古いレンガ倉庫のある場所で、今は廃墟になっているから、可愛いお嬢様は近づいちゃ駄目よ」
軽口を交えながらテンポ良く説明していく早苗は、最後に司に向き直り解説を締める。
「まあ、どっちも霊脈の影響を受けていて、陰陽が他よりも強くなっている場所ね」
「なるほど」
司は早苗の説明に頷いて、そのまま次の言葉を待った。
手早く数値を入力して、何かの操作を加えた所で、早苗が短く驚きの声を上げた。
「え?」
早苗の表情の変化と驚きの声に、真剣な表情を浮かべて司は何事かと尋ねるが、早苗は「そんな・・・」と言葉を繰り返しながら、慌てて何かの操作を繰り返している。
答えを得られない司が画面に視線を移すと、勾玉の白い地域に黄色い光点が無数に表示されていて、徐々にその数が増殖しているのが見て取れた。
「これは?」
状況の異常さを感じ取った司が漏らした声に、操作を繰り返していた早苗が手を止めて、震える声で答えた。
「昨日のイザナギに操られていたと思われる女性達から得た『キワミ』の残存霊波を数値化して、捜索を掛けてみたの・・・」
早苗は暗い表情で俯きながら、たどたどしく現状を説明していく。
「それじゃあ、この光点は・・・」
「たぶん、感染者・・・つまり、昨日の女性達のように操られている人達・・・」
愕然としながらも司の問いに答えた早苗の表情には焦りが色濃く浮かんでいる。
「この勢いではすぐに八坂市全体が感染してしまう。イザナギをどうにかしないと・・・」
早苗は独り言のように呟いて、再び操作を始める。
「まず、この学園も感染範囲に入るのも時間の問題だと思う。イザナギは陽性の神、この黒い地域への感染速度はそう早くないはずだし、電波実験施設の現場には学園長もいる筈だから、まずは九葉様と華菜さんと、ここで合流を・・・」
早苗がそこまで言ったところで、がらりと音を立てて保健室の扉が開く。
そこに見知った顔を見て司は声色を変えると、軽く手を振ってみせた。
「あ、唯ちゃん、奈緒子ちゃん」
立ち上がって早苗のパソコンの画面を隠しながら、二人に数歩近づいたところで、司はその異変に気がついた。
普段なら近づいてきて明るく声をかけてくる唯も、それに習って飛びついてくる奈緒子も、俯いたままで何の反応も示さず一歩も動かない。
司は立ち止まって距離を保ちつつ、不自然ではない笑顔を繕いながら二人に問いかける。
「どうしたの? お、お迎えにきてくれたんじゃ・・・」
そこまで言いかけた司は、背後から突然抱きとめられた。
胸に回った白衣の腕が早苗のものだと理解するとともに司の脳裏に嫌なイメージが走る。
「早苗さん!」
短く早苗の名前を呼びながら、腰を落として腕から逃れると、そのまま体をひねって早苗の脇をすり抜けながら、視界の隅に捉えた画面に映る八坂市の衛星写真に散らばる光点が学園にも数多く現れているのを確認して、司は素早く保健室の入り口へ向かって駆け出した。
入り口に待ち構える唯と奈緒子も、昨晩の女性達のように焦点の合っていない目を泳がせながら、司を捕らえようと迫ってくる。
その表情に悲しさを感じながらも、何もできない悔しさを胸に、司は唯の肩に手をついて四つん這いにさせると、その上を跳び箱の要領で飛び越える。
長いスカートが唯の頭に引っかかりバランスを崩しそうになるが、それでも何とか駆け抜けたところで後ろを振り返り、廊下に転がる唯とそれをまたいで迫り来る奈緒子と早苗の姿を確認した司は、唇をかみ締めながら昇降口へと向かう。
学園を抜け出そうと司が駆ける昇降口に向かう廊下には、すでに学園の生徒や職員が大挙して待ち構えていて、逃げ惑う内に屋上へと追い詰められてしまっていた。
屋上に追い詰められた司は、少しでも時間を稼ごうと扉の前にベンチやテーブルを並べて、簡単なバリケードを組み上げ、冷静に状況を把握するために周囲の様子を確認していく。
眼下に見える校庭には生徒の姿はなく、おそらく屋上へと向かってきているだろう事、そして、遠くに見える九葉の屋敷に向かう人々の姿を確認して、司の焦りはいよいよ強まった。
司自身、感染を免れてはいるものの、自分もいつそうなるか分からない恐怖心もあったし、離れているせいか、九葉と華菜の無事が心配で仕方なかった。
焦りを必死に押さえ込みながら、ブレザーの内ポケットにしまってあった携帯電話を取り出すと、震える指先で華菜をコールする。
繋がるのを願う司の心が乱れるほどコール音が繰り返されたところで電話が繋がった。
「もしもし、華菜さん!」
無事を祈りながらも、最悪の事態も脳裏に描いている司の声は必死そのものだった。
「大丈夫です、私達は車に待機していたので、今は屋敷から南下しているところです」
華菜の声に、司は一つ大きく息をつくと、状況を簡潔に報告しはじめる。
ややあって、司の報告を電話越しに聞き終えたところで華菜からの返事が返ってきた。
「わかりました。私達はこのまま幸造さんのもとに向かいます。司ちゃんは・・・」
「大丈夫です。何とかそっちに合流しますから」
背後で徐々に開こうとしている扉を見ながら、司は華菜の言葉を遮るように言い切った。
司が言い切った後で少しの間を置いて、九葉が少し低めのトーンで言う。
「司、約束じゃ、必ずわらわを守りに来るのじゃぞ」
「はい」
九葉の言葉に短く答えると司は電話を切って、今度はスカートのポケットに収めた。
立ち上がるなりブレザーを脱ぐと、腰のくびれている部分に袖を巻きつけ強く結びつける。
緩まないのを確認したところで、左肩と左脇のボタンをはずして、ジャンパースカートの右肩からも腕を抜くと、上半身はブラウスだけの姿になった。
司はお腹側のボタンをいくつか外すと、その状態で素早く屋上の金網に駆け上り、間を置かずに飛び降りた。
重力に引かれ地上に真っ逆さまに落ちていく司の体が途中でふわりと舞い上がった。
司の背中に生えた純白の翼が力強く空気を捉え、羽ばたきと共に校舎を離れていく。
風を受けながら滑空する司は、姫之森学園の校門に着地すると、振り返って屋上の人だかりを確認した。
「イザナギ・・・」
険しい表情でそう呟く司は、翼を生やしたことでお腹を出すほどめくりあがってしまったブラウスを調えボタンをはめると、ジャンパースカートを着なおしてブレザーに袖を通した。
合流地点に向かう手段を考えながら、その場を後にしようとした司に突然声がかけられた。
「司!」
身構えながら声のした方向へ体を向ける司の視線の先には明雄の姿があった。
「あ、明雄!」
司は咄嗟に明雄の名前を呼んだところで、自分の姿を思い出してあわてて訂正を加えた。
「・・・さん」
平然とした表情の明雄に、司は心臓を早鐘のように脈打たせながら言葉を続ける。
「み、みちゃいました?」
「真っ白な腹か?」
「な!」
明雄の言葉に司は緊迫した状況も忘れて、顔の真っ赤に染め固まってしまう。
「冗談だ、いくぞ」
司に向かって、明雄はそういうと後ろにあるワンボックスカーを指差した。
「え?」
明雄は言葉の意味も、状況も理解できずに目をぱちくりさせる司の手を引いていく。
がらりとスライド扉を開けたところで、明雄は中に置かれた巫女装束を指差した。
「急でちゃんとした服が用意できなかったそうだ。着物に袴なら男に戻っても大丈夫だろう」
「え?」
明雄の言葉に司はただただ驚きの声を上げるばかりで固まってしまっている。
「俺も『一座』に入った」
言いながら司を車に押し込むと、その手に赤い珠を握らせてスライド扉を閉める。
そのまま運転席に座ると素早くシートベルトを締めて車を発進させる。
「それは血珠だ。カーテンで目隠しができるから着くまでに支度をしろ」
慣れた手つきで車を運転する明雄はそう言うと車を飛ばし始めた。
カーテンで仕切られた車内で混乱しつつも状況を何とか把握した司は、携帯電話を取り出すと再び華菜に電話をかけ始めた。
薄暗い車内で電話を切った司は、素早く制服を脱ぎ終えると、襦袢と小袖の白衣を羽織た司は、明雄から受け取った血珠を右手に乗せ、すっと目を細めて深く息をついた。
司は小さな手で血珠をつまみあげ覚悟を決めると、舌の上に乗せてそのまま飲み込んだ。
全身の血が脈打ち熱を放つ身体を押さえ込みながら、司は声を殺して体の変化に耐える。
やがて、背中に感じていた長い髪の感触が消えていく頃には、体の熱も消えてあれほど早く高鳴っていた脈動も平常を取り戻していた。
司はゆっくりと立ち上がって袴に足を通し、気合をこめながら帯を締め上げる。
頭の中で様々に状況を想像しながら、この先に備えて気を引き締める司の表情は硬い。
男の姿に戻り巫女装束に身を包んだ司は、運転席と後部座席を隔てるカーテンから顔を出すと、車は元町を抜け田園に差し掛かったところだった。
バックミラーで司の顔を見ながら、明雄は驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑顔を作る。
「もうすぐつく・・・それにしても、あの子がお前っていうのは、ちょっと信じられないな」
「う・・・うん」
司の気合の入った表情が明雄の言葉で照れて崩れる。
その様子をバックミラーで確認しながら、力強い口調で司に向かって明雄は言う。
「俺はこんなことしかしてやれないけど頑張れよ」
司はいつも背中を押してくれる親友の言葉に深く頷きながらより強く覚悟を固めた。
「必ず、イザナギをとめる」
司が決意の言葉を口にするころ、田園を抜けた車の前方に、建築用の足場と幕に囲まれた無数の鉄筋が空高く伸びる建築中の電波実験施設が現れた。
開け放たれたままになっていた工事車両搬入口から車を乗り付けると、先にたどり着いていた華菜の使う黒塗りの高級車が停められていた。
車から降りた司と明雄は、車内に二人がいないことを確認して、頷き合うと建築中の建物に向かって走り出した。
靴の明雄と違い、足袋と草履の司は、懸命に追いかけるが徐々に距離をあけられてしまう。
もっとも、間取りを知っているらしい明雄が先導する形になるので、司にはありがたかった。
明雄について何階か上ったところで、二人の前に大きな扉が現れた。
振り返って頷いてみせる明雄に促されて、司はその扉に手を掛けると一気に開け放った。
「九葉ちゃん、華菜さん!」
二人の名を叫びながら扉を開け放つ司の目の前には、体育館程度の広さの空間が広がっていて、数人の人影が見て取れる。
それが誰かを確認するより先に、突然司に向かって人が吹き飛ばされてきた。
「なっ!」
驚きの声を上げながら吹き飛ばした主を見て、司に再び驚きの表情が浮かぶ。
「美紀!」
司の視線の先には、右足を振り上げた姿勢のままで、全身黒尽くめの美紀が立っていて、その後ろには九葉の肩を押さえる幸造の姿がある。
驚愕を隠しながら吹き飛ばされてきたのが華菜だと確認した司は、再会を祝す状況でなく、二人を守るべく戦わなければいけない状況と悟ってゆっくりと身構える。
それでも、状況をうまく受け入れられずに司は美紀に向かって怒鳴る。
「どうして、こんな、美紀、いったい何があったんだ」
吹き飛ばされた華菜に歩み寄りながら咆える司に、美紀ではなく、九葉を押さえつけながら不敵な笑みを浮かべる幸造が応えた。
「わからないかね? 姫護」
幸造の声に悪意をはっきりと感じ取った司は、華菜を抱き起こしながら怒りの感情を向ける。
司に睨み付けられた幸造の手元では、肩を押さえつけられた九葉が、必死に逃げようともがく度に、着物の襟から垣間見える首がわずかに透け始めている。
その光景に我を忘れて幸造に向かって走り出す司が幸造へたどり着くより早く、一瞬で間合いを詰めてきた美紀の右足がその顔に迫る。
反射的に腕で頭を庇いつつ、肉体を変化させて受け止めようと試みるものの、走っていた体勢では攻撃の受け流しも不十分にできず蹴り飛ばされる。
ごろごろと床を転がりながら、草履が脱げた足で必死にブレーキを駆けようとするも、足袋は想像以上にすべり、結局、華菜のそばまで戻されてしまった。
「司!」
呆然としていた明雄が慌てて司に駆け寄ってその体を支えて起こす。
「幸造さんが・・・イザナギだったんですか!」
司は足袋を脱ぎ捨てて立ち上がりながら、怒りに満ちた表情を浮かべて怒鳴る。
司の肩に歩み寄ってきた華菜の手が置かれる。
「陽性の『キワミ』と同じように寄生している状態です。陽性の『キワミ』と同じことができるのもイザナギの力ですから・・・ただ、昨日の男より融合度は高そうです」
愛刀を脇に構えながら、華菜はすっと目を細める。
「どっちにせよ、ここで封印して、九葉ちゃんを・・・」
言いかけた司に、間合いを詰めてきた美紀の鋭い蹴りや拳が迫る。
美紀は空手道場に通う有段者で、子供の頃、司も数日だが同じ道場に通ったことがあった。
残念ながら司は早々に辞めてしまったが、美紀はずっと道場に通い続け技を磨き、全国にも名が知れる程度の実力を持つまでになっていた。
その努力の姿をずっと見てきた司は、美紀の蹴りや拳に魂がこもっていることを知っていた。
華菜との修行で多少は武術の心得も学んだ今ならば、そのことがよくわかった。
鋭く放たれる蹴りや拳に何の思いも感情も感じられないことが一撃を受け流す度に、司の心を悲しくさせていく。
美紀の攻撃を受け流しながら、悔しさで司は悲痛な叫びを幸造にぶつける。
「どうして、美紀を巻き込んだ!」
美紀との格闘を続けながら大声を張り上げる司に答える幸造はひどく饒舌だった。
「巻き込んだ? 巻き込んだというよりは、自らやってきたというほうが正しいねぇ。なにせ彼女は君達が懸命に操作した情報を紐解き、小林司の失踪に気付き、君達を探し当てるほど、彼女は懸命に努力をしていたんだよ。これはなんというのか、愛とかいうのかな? とにかく滑稽なほど情熱的で崇高だった気がするよ。まあ、私には自己の思いに囚われた狂信者にしか見えなかったけどねぇ」
視線を向けられる度に怒りを増していく司の視線を心地よさそうに受けながら、嫌な笑いを浮かべて幸造は語り続ける。
「しかし、それほど深い思いも私にとっては最高の素材だ。何せ、私は精神をつかさどる神イザナギだからねぇ。精神を代償に力を得た彼女はこの場でおそらく最強だろうね」
さも楽しそうに笑みを浮かべながら語る幸造の手元では九葉が苦しげにもがき続けていて、司の視線を感じる度に幸造はわざと消えかかった体が目に留まるように着物をずらす。
九葉の参上が目に映る度に司の動きは鈍り、美紀の攻撃がその体を捉え始める。
「や、やめるんだ、美紀、あんな奴に・・・」
美紀の攻撃を肉体の硬化で耐えながらも押され始めた司は、懸命に美紀に訴えかける。
しかし、美紀は司の言葉に反応を返すことも無く、無感情に攻撃を繰り返し、やがて、硬化した司の体の硬さに拳が砕けて血を流し始めた。
「美紀!」
悲痛な叫びを上げながら司が硬化を解いた瞬間美紀の一撃が司の腹部を捉える。
腹部を打ち抜かれた司は、そのまま膝をついて苦痛に顔を歪ませる。
動きが止まった司に止めを刺そうと拳を振り下ろした美紀の一撃を、華菜が納刀したままの日本刀で受け止めた。
「司君、役割を代わります。イザナギの封印と九葉様を!」
短く言い切ると、華菜は大きく刀を振り、美紀に距離を取らせて引き離していく。
腹部を押さえながら痛みをこらえ、なんとか呼吸を整えた司は、華菜が担っていた隙を突いて幸造と九葉を押さえる役目を引き継ごうと右ひざに手をついてよろよろと体を起こす。
それを手伝うように二の腕に手をかけられた司は感謝の言葉を明雄にかける。
「ありがとう、明雄・・・」
明雄に介助されて立ち上がった司は、幸造と九葉を視界に捉え、駆け出そうとしたところで、
突然、明雄に体を引き寄せられ、そのまま羽交い絞めにされてしまう。
「明雄、まさか・・・」
慌てて振り解こうとするも、しっかりと組み付かれてしまった司には逃れる術は無かった。
「司君!」
美紀の足止めで精一杯な華菜にも必死に呼びかける以外にどうする事もできない。
うろたえる司と焦る華菜の様子を前にして、幸造は大声で笑い始めた。
明雄に羽交い絞めにされた司には、もはやそんな幸造を睨み付けることしかできない。
司の睨みを涼しげに受け止めた幸造は、九葉の両手を後ろ手にとって司に歩み寄りながら悠然と語り始めた。
「かつて、私がイザナギとして、神としての有り様に目覚めたとき、私の創造主たちはこの私に恐れを抱き、私の半身であるイザナミを私から遠ざけるという愚挙を犯した」
頭を振って必死に嫌がる九葉を無理やり歩かせる幸造が気を配る気配はなく、その様が司の心の中に激しい怒りを掻き立てるものの、どうしても明雄の腕を振りほどくことができない。
「それだけではない! こうして人の体を介さなければ、私が接触した瞬間に存在が消えてしまうという呪いをイザナミの体に仕掛け、忌々しき姫護という仕組みを組み込んだ! 私がイザナミの体を奪った瞬間に精神を強制的に切り離す仕組み、それが盟約破棄だ。貴様らは疑問に思わなかったかね? 契約破棄のために肉体を滅ぼし精神を生み出す仕組みを・・・全てはこの私とイザナミの融合を阻止する為だ。忌々しいことにな」
感情のままに喚き散らしながら司と明雄に歩み寄る幸造の表情には狂気が満ちていた。
「しかし、手段が無いわけではない。姫護の肉体を奪えば、イザナミを支配する精神、九葉の人格を肉体から切り離し、新に芽生える前に宿主として奪うこともできるというわけだ」
司の目前まで歩み寄った幸造は言うなりいやらしい笑みを浮かべる。
「・・・つ、司」
苦しげに身をよじる九葉の様子を前に何もできない司は悔しげに唇を噛んでから呟いた。
「あなたが僕を男に戻そうとしたのは女性の体に乗り移れない・・・いや、乗り移ったら封印されてしまうからですよね?」
幸造を睨みつけながら問う司に、幸造は表情を一瞬強張らせてから大声で笑い始めた。
「いまさら、そんなことを知ってどうするのかね? 君はもう私に体を奪われるしかないというのに・・・今こうして君が男の姿で私の前にいることが、私の計画のなった証なのだよ!」
さもおかしそうに笑う幸造の手元では、後ろ手に取られた腕を振りほどこうと懸命に暴れる九葉の姿があった。
「司! 逃げるのじゃ、こんな奴に好きにされてはならぬ!」
悲痛な叫びを上げ、必死にもがき暴れる九葉の腕は薄っすらと透け始めている。
その痛々しさに表情を歪めながらも、司はもはや明雄の腕を振り解こうとも、幸造の伸ばした腕から逃れようともしていなかった。
「九葉ちゃん・・・ごめん・・・」
司はそう言うと、覚悟を決め、唇をかみ締めて静かに瞳を閉じた。
「つかさ・・・」
司の諦めの姿勢に、目を見開き大粒の涙を落として、九葉もまた現実を受け入れるように静かに視線を落とした。
落胆する二人の様子に、美紀と格闘を続ける華菜の焦りは勢いを増していく。
「九葉様、司君!」
華菜の叫びのような呼びかけも、部屋に虚しく響くだけで二人の反応はなく、動揺する華菜の一撃には、無駄な力が篭る様になり、息が上がり始める。
それでも美紀を退けることもできずに、司に幸造の手が伸びるのを黙って見ていることしか華菜にはできなかった。
司の胸に手を置いた幸造が短く何事か口にした瞬間、幸造の手を中心に光が放たれ、瞬く間に部屋中を駆け巡る。
白く眩い光が広間を包み込んで数秒後、元の明るさに戻った広間には、司と華菜、そして美紀だけが立っていて、九葉も幸造も明雄も意識を失って立っていた。
動きを止めた美紀とその影から司の様子を伺う華菜の視線の先で、司はそれまでとは打って変わった醜悪な笑みを浮かべていた。
「ついに、ついに姫護を手に入れたぞ。私は勝った! 勝ったのだ!」
大声を上げて興奮する司は、もはやそれまでの司ではなかった。
「美紀よ、短刀を!」
司は喚起の表情と興奮を纏ったまま、美紀に右手を差し出した。
美紀も司に呼ばれたのを知ってか、満面の笑みで腰に挿していた契約の短刀を引き抜く。
最後の仕上げを彩る契約の短刀を受け取るべく手を差し伸べたイザナギの宿る司は、その瞬間に長い計画の中で唯一にして最大のミスを犯していた。
美紀の後方から美紀を目隠しにして突進してくる華菜の存在を完全に忘却していた。
もっとも、姫護の力を手に入れたイザナギにとって、華菜の存在など、もはや障害ではなかったのだから、それは油断というよりは当然のことだったのかもしれない。
美紀の真横を低い姿勢で駆け抜ける華菜の左脇から鞘走りの音を立てて、すさまじい勢いで抜き放たれた日本刀が司の体を襲う。
手加減の無い一撃が司の胴を凪ぐより早く、万象変化の能力を発動し、鋼と化した司の右腕が火花と高音を立てて受け止める。
そのまま腕をひねり華菜の一撃を受け流した司は勝利の確信とともに、敗れ去った九葉の、イザナミの最後の守り手に、手向けの言葉を口にしようとして開いた口に、赤い珠を放り込まれていた。
イザナギがそれの正体に気づくより早く、司の体はその赤い宝珠を体内に受け止めていた。
司の表情が驚愕で歪み、華菜の背後に立っていた美紀が短刀を差し出したままの姿勢で、意識を失ってその場にゆっくりと倒れこんでいく。
悠然とした動作で日本刀を鞘に戻す華菜の目の前で、一回り小さくなったせいで、司の袴の帯は緩み、ふわりと床に落ちた。
華菜は司の変化を最後まで見届けずに、床に伏せたままの九葉を抱え起こす。
やがて、ぱたりと音を立てて司も床に倒れこんだ。
その場で唯一意識を保ち立つ華菜は、長い戦いの終わりに大きな溜息をついて、それぞれの体を見て回り始めた。
意識を覚醒させた司はそこが精神世界だということをはっきりと自覚していた。
どこまでも真っ白が続くだけの世界がなんのためにあるのか、そんなことも漠然とだが理解し始めていた。
司が意識を集中すると、真っ白な空間に制服姿の姫森津香紗が姿を現した。
自分の姿を確認しながら、この世界で女の子の姿しかしていないことも、司に一つの確信を与えていた。
それからしばらくして、司の前にようやく待ち人が姿を現した。
それは司の予想に反して、幸造の姿でも、司の姿でもなく、九葉を少年にしたような姿をしていた。
「ようこそ、イザナギ」
にこりと微笑む司を九葉が浮かべる不機嫌な表情に似た顔でイザナギは睨みつけた。
「貴様・・・」
今にも噛み付きそうなイザナギに、司は微笑みかけながら口を開く。
「ここは姫護の精神世界。この世界で私を倒せば、また、私の体を支配できると思う」
司は涼しい顔で自分がいたったひとつの結論をイザナギに向かって告げる。
「ほう」
司の言葉に明らかに表情を変えたイザナギは、包み隠すことなく殺気を放ち始める。
「つまり、多少の寄り道か・・・」
そういった刹那跳躍したイザナギの一撃が司の体を捉える。
わずか一瞬で決着がついたことに、再び、勝利の感触を沸きあがらせるイザナギの耳に、打ち倒したはずの司の声が届く。
「駄目ですよ。ここは精神世界。そんなことでは倒せません」
何事も無かったように悠然と構える司に、イザナギはより強い敵意を向ける。
その敵意もまるで感じないかのように、ゆったりと宙に漂う司に向かって、イザナギは嫌な笑みを浮かべると、勝ち誇った表情を向けた。
「そういえば、私は君の名前を知っている。偽名も・・・真名も・・・」
イザナギがそこまで言った瞬間、平然としていた司の表情に焦りが浮かんだ。
その態度に自らの予測が正しいことを確信したイザナギは再びいやらしい笑みを浮かべる。
「精神の世界では、なるほど、言霊が有効というわけだ・・・」
イザナギの言葉に完全に焦りの表情を浮かべて司は固まってしまっていた。
『コバヤシツカサ、ワレニフクジュウセヨ』
笑みを浮かべ言い放つイザナギの言葉が、不思議な反響をしながら司に迫る。
そして、司の体を言霊が捉えた瞬間、イザナギは歓喜の声を上げた。
「さあ、小娘、体をあけ渡せ」
ゆらりと佇んだまま、身動きをとめてしまった司に、イザナギが勝ち誇った態度で命を下すが、司は何の反応を示さない。
「どうした、私の命に服従しろと・・・」
苛立ちながら司に歩み寄ったイザナギは、目を丸くして驚きの表情を浮かべた。
「き、貴様・・・何故・・・」
言霊で縛ったはずの司が、顔を覗き込んだ瞬間、満面の笑みで微笑んでいたのである。
イザナギの脳裏に様々な可能性が過ぎり、どれもこの状況を説明できずに戦慄する。
「この世界では、言霊が聞かないということか・・・」
そうして出した結論に、司は大きく首を振ってみせた。
「そんなこと無いです。使い方を知りたくて、あなたに使ってもらったぐらいですから」
言い放たれた司の言葉は、イザナミの心に完全なはずの精神に大きな揺れを与えていた。
「し、しかし、私の真名を知らない貴様には、私を支配することなど・・・」
うろたえながらも、自分が不利に回ることは無い絶対の事実を思い描き口にする。
それでも目前の小娘は得体の知れない気配を発していて恐ろしくて仕方が無い。
「理論的に説明できないのですが、私には真名を与える能力があるらしいです」
そういって微笑む司に、イザナギは味わったことの無い恐怖を抱き後ずさる。
「まずは自分で試してみました。真名の上書き」
後ろへと下がるイザナギにあわせて、一定の距離を保つ司は更に続ける。
「結果は、あなたの知るとおり」
そういって小首をかしげてみせる司に、完全に気圧されてしまったイザナギはその場に座り込んでしまっていた。
「言霊で私を縛れなかったのはそういうことで、あなたが私に負けないという根拠にしていたあなたの真名を知らないという事実も、もはや砂上の楼閣でしかないことが分かりますか?」
座り込んだイザナギに見下ろしながら言葉をかける司の表情は笑顔だったが、その裏に渦巻いている美紀を、九葉を傷つけたことへの怒りが、イザナギを更に追い込んでいく。
「あなたは使い魔として、私たちに協力してもらいます」
司は高らかにそう宣言すると、念を押すように言葉を付け加えた。
「わかりましたね? 『ナギ』」