表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

第3章 それぞれの思いに

第三章 それぞれの思いに


 九葉たちとの出会いから約一ヶ月、司は久々に高校の男子制服に身を包んで、母校の校門の前に立っていた。

 校門には大きく第十五回卒業式と書かれた看板が置かれ、普段はジャージ姿の体育教師までが、着慣れない背広姿で立っている。

 久々の登校が卒業式というのも不思議なものだと思いながら、司はしばらくぶりに目にした母校に何年ぶりかに再会したような錯覚を感じて、思わず感慨深げに呟いていた。

「なんだか、すごく懐かしいなぁ」

 司が苦笑交じりに校門に佇んでいると、突然、息が詰まるほど思いきり背中を叩かれた。

「はぅっ!」

 突然の苦痛に背中をさすってうずくまる司の頭の上から明るい声が降り注いできた。

「いやぁ、久しぶり、司ーーー」

 背中を叩いた声の主は悪気も無いらしく、からからと笑いながら仁王立ちをしている。

 嬉しそうに満開の笑顔を浮かべる声の主は、司よりもやや色の濃い肌をした健康的少女で、司よりも短く髪を切っているが、体のメリハリはしっかりしているので、少年っぽい格好をしても、司のように性別を間違われることはなさそうである。

「い、痛いですよ、美紀ちゃん・・・・」

 よろよろと立ち上がりながら膝の砂埃を叩く司は、恨めしそうな視線を未だ仁王立ちを続ける美紀へとぶつけた。

「いや、だって、あんた大学受験組でもないくせに一ヶ月も行方不明だったじゃん。心配してたのよーー、ご飯ものどを通らないほどー・・・・・・では、なかったけども」

 ひらひらと手を振って、悪びれた様子もなく笑顔を見せるのは、柴田美紀、司とは小学校からの腐れ縁で、高校生活のほとんどを軟式テニスでの青春に捧げていた少女である。

 ことあるごとに司を誘っては、珍事件を巻き起こすトラブルメーカーではあるが、持ち前の明るい性格と何事にも動じないさっぱりした態度で、周囲からの人気は高い。

 司にとっては、口うるさくてのりのいい姉のような存在の幼馴染である。

 そんな美紀と連れ立って校舎へと向かいながら、司は本当に申し訳なさそうに頭を掻く。

「申し訳ありません、ちょっと、修行が・・・」

 言いにくそうに理由を口にした司に、美紀が素っ頓狂な声を上げて驚いた。

「修業ーーーーーーーー?」

 美紀は驚きつつも、眼をランランと輝かせている気がするのは司の目の錯覚ではなさそうだ。

 久々に面白いものを見つけたというような類の笑みを浮かべて、幹は司に一歩歩み寄る。

「修業って、なんの? どんな? おしえて、おしえて!」

 詰め寄る美紀は司の周囲をくるくる回りながら、犬のようにじゃれ付いて答えを求めてくる。

 一ヶ月のブランクのせいですっかり忘れていたが、美紀に興味を引かれるような話をするなど、絶対に避けねばならないことだったと、今更ながらに司は後悔していた。

「え、えーと・・・」

 まさか女の子になるための修行などとは間違ってもいえない司が、困った表情を浮かべて横目で伺う美紀の顔には、うずうずする気持ちが満面に溢れ出していた。

 そして、司の答えを待ちきれなくなった美紀は腕組みをしてにやりと微笑んだ。

「ははぁん」

 美紀の言い方も態度もどこか怪しくて、司は一瞬無意識に後ずさってしまった。

 そんな司の態度を気にもとめない美紀は、後ずさりで開けられた距離の分、踏み込んでから司の耳元へ向かって、妙な色気を込めた囁きを放つ。

「自己啓発セミナー・・・とか?」

 想像もしなかった言葉に固まった司が、ようやく口を開いて短く「な!」と驚きの声を上げる頃には、美紀は昇降口へと向かって歩き出している。

 慌てて後を追ってくる司に振り向くと、美紀は笑顔を浮かべて言い放つ。

「なんか、明るくなったからさ、悩みなくなったのかと思ってねぇ」

 そんな言葉を貰えるとは想像もしていなかった司には、美紀の言葉が心に強く響いた。

 そして、以前のように相応しい言葉を捜すより早く、素直な感想を口にしていた。

「ありがとう・・・ございます・・・」

 司の感謝の言葉は、途中でうつむきながら言ったせいで、徐々に小さくなって朝の雑音に消えてしまったが、美紀には届いたようで大きく頷いてくれた。

 自分の気持ちが届いたようで、それが司にはとても嬉しかったが、続く美紀の言葉が司の温まりかけた心を氷結させた。

「なんか、より女の子っぽくなって、多少気色悪くなったけどね!」

 腰に手を当てて大笑いをする美紀に悪気は無いだろうことは、今までの経験で十分わかっているが、それでも司の中の嬉しかった気持ちは粉々に崩れてしまっていた。


 久々の教室は喧騒で溢れ返っていて、司が顔を出すと皆が気さくに声を掛けてくる。

 その一つ一つに笑顔で答えながら、一年間ともに過ごした自らの机に腰を下ろす。

 司は自分の席に着くなり突っ伏して、ため息交じりにこの一ヶ月の出来事を思い返していた。

 血珠を飲んで女の子になった夜から始まった修行は、喋り方や着替え方に始まり、髪の毛の結い方や服装の選び方、果てはお茶にお花に料理にピアノと、お嬢様はかくあるべしという厳格なもので、決して妥協の無い恐ろしいものだった。

 特に苦手意識のあった華菜に監視されての女の子基礎講座は、失敗が即クビに繋がっていそうで気が気ではなかったが、講座の中で華菜の優しさや不器用な愛情表現を理解できたのは、司にとってはありがたいことで、今では随分と仲良くなった気がしている。

 今は完全に慣れてしまっているが、修行の一環として華菜の用意した部屋に入ったときの衝撃は、今でもはっきりと思い出せるほどしっかりと記憶に刻まれていて、これでもかと言わんばかりの少女趣味で構成された室内は、ぬいぐるみや小物に溢れ、カーテンやベッドもレースがふんだんにあしらわれ、カーペットやクッションにいたるまでが、一部の隙も無く少女らしさで埋め尽くされていた。

 クローゼットも、ワンピースやスカートばかりで、ズボン状のものは見当たらないし、寝間着も同様で、下着類に至っても恥ずかしくなるような可愛さで溢れかえっていて、いじめなんじゃないかと思うほどの印象だったが、少女の体には相性が良く、数日後には初めからここで育ってきた錯覚を抱いたときには、洗脳されているようで背筋が凍った。

 それでも、九葉が毎晩のように遊びに来てくれたし、女の子同士ということに慣れるという名目で行われたお互いに服の着せ替えや着物の着付けの練習と、男のままでは体験しなかったであろうことを味わって、想像もしなかった新たな世界に浸ってしまうと、いつのまにか洗脳も良いかと思うようになっていた。

 当初から血珠を使えば、任意に性別を戻せることは華菜から聞いていたし、割と簡単な決意で少女になった司だったが、その血珠を生み出すための儀式が、九葉に多大な精神力の消費と苦痛を与えるものだと知り、実際に儀式で苦痛を耐える九葉の姿を目にしたことで、その決意は少女であり続けなければいけないと固く誓わせるほど強いものになっていた。

 それ故に少女であることを自然体として受け入れられるということは、決意を固めた司にとって好ましいことといえた。

 それこそ、男には戻らない覚悟までして、司は自身の卒業式を辞退するつもりであった。

 しかし、一生の思い出だという九葉と、小林司を失踪者にするわけにはいかないという華菜の言葉でしぶしぶ承諾して今日の日を迎えていた。

 特に今後のことを考えると、小林司がいなくなるのは、様々に想定外の問題が発生するかもしれないという華菜の言葉は、決意を固めていても尚納得せざるを得ない説得力があったし、なし崩し的に少女としての人生を始める前に、しっかりとけじめをつけたほうがいいとだめ押されると、もはや断ることは出来なかったのである。

 そうして、昨晩は夜遅くまで段取りを整えたり、小林司の住み込みで修行というストーリーを組み立てたりと、まるで修学旅行の夜のようなにぎやかさで朝まで会議をしていたので、正直、司はひどく眠かった。

 あまりの眠さにうとうとしかけたところで前の席に座る大柄の男子生徒が声を掛けてきた。

「司、お前就職組みだよな?」

 前置きも無く大柄の少年、楠田明雄は司の肩をがっしり掴んで揺すり始める。

 明雄も美紀と同じく、古くからの馴染みで、一緒にボランティア活動や迷子猫捜索などをやった仲でもある。

 心優しき力持ちの明雄だったが、体格がいいのと顔が怖いので誤解されてしまうことも多く、内心では慈善活動をしたいと思っている明雄の橋渡し役として、司は何度も行動を共にしていたのである。

 そんな心優しい明雄には絶対に嘘をつきたくないという思いが司の中には昔からあった。

「そう・・・だけど・・・?」

 半分意識が遠のいてはいたが、明雄が答えを求めている以上、ちゃんと答えねばと司は無理やり顔と体を起こす。

「この後・・・その、進路、決まっているんだよな?」

 いつに無く真剣な表情で尋ねてくる明雄の姿に、心底心配してくれているのがひしひしと伝わってきて、司は涙が出そうになったが、突如、後ろから組み付いてきた美紀のせいですっかり引っ込んでしまった。

「うちに永久就職でしょ! ねぇーーー司!」

 テンション高くじゃれ付きながら、腕で司の首を締め上げる美紀を明雄が慌てて止めた。

 顔を紫色に染めてもがいていた司は、開放されなり床にはいつくばって、思いっきり息を吸い込むと、むせながらも呼吸を整え始める。

「美紀、加減しろよ」

 うんざりといった表情でいう明雄に、ごめんごめんと手を合わせて美紀が詫びている間に、司は立ち上がって席に戻る。

「司、んで、本当はどうなの?」

 今度は司の首に腕を絡ませると、もたれかかりながら美紀は尋ねた。

「姫乃森の中等部に入学す・・・」

 そこまで言いかけて、司は自分の決定的なミスに気がついた。

 今朝早くまで散々練り上げた『小林司』の将来を口にしなければならないところで、少女としてのこれからを口にしてしまっていた。

 凍りつく司の目前に座る明雄も同じく固まってしまっている。

 嫌な汗が司の背中を一気に湿らせていく中で、突如、頭の真上から笑い声が降り注いだ。

 その大きな笑い声でクラス中の視線を集める美紀は、スカートなのも気にせずに床に寝転がって腹を抱えて笑い転げ始めた。

 しばらくそのまま大笑いしながら、ごろごろと転がっていたが、美紀は突如笑いを止めると、むくりと起き上がった。

 クラス中の視線は今や美紀の一挙手一投足に集中している。

 そんな中で美紀の行動に呆然としている司の肩を、バシバシと叩きながら大声を上げた。

「いやぁ、そうかぁ! 司ちゃんは春から女子中学生かぁ! いや、まいった、それは予想外だ、うんうん」

 納得したといわんばかりに大きく頷きながら、美紀は司の顔にべたべたと触る。

 やがて、変に色気のある眼差しで見つめながら、司のあごを右手で持ち上げて、微笑を浮かべながら囁く。

「・・・卒業したら嫁にもらってやるぜぇ」

 色っぽい男性のような仕草で司を抱きしめようとする美紀だったが、普段なら暴れだしてオチが付くところで、呆然と見つめ返すだけの司に戸惑いながらも、千載一遇のチャンスと一歩踏み込もうとしたところで明雄のツッコミが入った。

「やめんか、学校で不順異性交遊はいかん」

 いかにも堅物という立ち居振る舞いでクラスの笑いを誘ったところで、どうにかオチが付いたので美紀も慌てて司から離れた。

「ちょっと、司、明雄が突っ込まなかったら危なかったじゃない!」

 美紀は僅かに顔を染めながら、妙にうっとりとしている司に耳打ちをする。

「へ、あ、え?」

 しかし、当の司はたった今我に返ったところらしく、今頃おたおたし始めている。

「司? 大丈夫?」

 さすがに不安になってきた美紀は司の隣の席の椅子を引き出して腰掛けながら問いかけた。

 いつものコントだと思って自分たちの会話に戻ったクラスメートを余所に、明雄も心配そうな顔で司を見つめている。

 二人の表情に慌てて応え方を幾通りも考えた司は力なく机に突っ伏した。

「実は職人の修行って思っていた以上に、体力と精神力を使ってさ」

 司のぼやく様な口振りに、美紀が無言で司の頭を撫ではじめた。

 明雄は司の言葉に大きく頷きながら感慨深げに呟く。

「職人になるのか」

 その感心するような明雄の言葉が司に軽い罪悪感を抱かせたが、九葉たちと決めたとおりに答えることにした。

「父さんの友達の銀細工の職人さんが、住み込みで修行をさせてくれているんだけど」

 疲労をアピールするように司はいいながら大きく伸びをする。

 その様子を見ながら、美紀が笑顔で司の肩を叩いた。

「司は体力無いからなぁ」

 そういいながら今度は涙を拭うような仕草をしてみせる美紀の口元は微笑んでいる。

「確かにか弱いからな」

 美紀の言葉にむっとしていると、明雄も頷きながら乗ってきた。

「大丈夫だよ、ちゃんとできる」

 むくりと上半身を起こしながら不服そうに言う司に、笑っているような困ったようなあきれたような複雑な表情で明雄が応えた。

「知ってるよ・・・だから心配なんだろう?」

 明雄の穏やかな表情と言葉が、司の心を一瞬で鷲掴みにしてしまった。

 固まる司に席を立ち上がりながら美紀が続いた。

「私の嫁は頑張り屋で一生懸命期待に応えようとして無理するからねぇ、旦那の私としちゃあ、心配だよ、一人ですぐ抱え込むし」

 椅子を元に戻すと美紀は腕組みをしてそういいながら首を傾げた。

「無理しすぎるなよ」

「そうだ、司、頑張りすぎちゃだめだぞ、少なくともうちに嫁に来るまではね」

 そういってにっかりと笑う二人の言葉に胸が熱くなってしまった司はそのまま俯いてしまう。

 うつむきながら苦し紛れに口にした言葉は震えていて、司にはそれがとても恥ずかしかった。

「私はそんなに弱くない」 

 司のそんな聞き取るのもやっとの小さな呟きに二人は声をそろえて応えた。

「しってるよ」

 その言葉に触発されて司はこらえていた涙をこぼしてしまっていた。

 少女としての日々を経験してから涙もろくなったかもしれないと思ったが、心が洗われる様でこのときの涙はすごく心地よかった。

 以前なら機械のような自分にこんなに優しくしてくれるなんて騙している様で申し訳ないと思っていたのだろうが、今の司には素直に心から感謝することが出来た。

 それが誇らしくて浮かべた満面の笑みを、明雄と美紀が可愛くなったというので、つい反抗してしまった自分も司は案外好きだった。


 卒業式は滞りなく終わり、小林司としてもらう最後の証明書かもしれないなと思いながら、自分の名前の書かれた卒業証書を丸めて証書入れに収めた。

 クラスメートからは住所を尋ねられたが、お世話になる先だからと断った。

 その代わりに、携帯やデジカメで盛大に写真を撮って、メールアドレスの交換をしてしばしの別れを惜しんだ。

 いつも元気で明るい美紀が少し目を潤ませていたのが印象的だったし、明雄とは何も言わずに握手を交わして分かれた。

 華菜が言っていた戦うことは、この街の人を護ることだという言葉をかみ締めながら全員の映った写真を携帯で確認して、高校を後にした司は、そのまま父の眠る寺に向かった。

 司の父親の墓は、偶然にも九葉たちの住まう屋敷のある山の麓にある古い寺にあった。

 父方の血筋である小林家代々の墓所で、今では司の両親も眠っている。

 途中にあった花屋で仏花を買った司が、寺の目前に差し掛かると、寺の長い石段の前の日陰で手を振る人物に気がついた。

 司が手を振って応えると、人影は手を降ろして大声を上げる。

「司ー!」

 司を呼ぶ少女は真っ黒のドレスに、黒い手袋、黒のタイツに黒い革靴で、綺麗に結い上げられた髪には黒い帽子が乗っていて、ご丁寧に黒のベールまで掛けられている。

 そんな全身黒尽くめの九葉の脇には、真っ黒なパンツスーツに身を包んだ華菜が立っている。

 司は二人に手を振りながら、花が散らないように気をつけながら駆け寄った。

「二人とも、どうして」

 司の驚きの顔もお気に入りらしい九葉が、その表情を見てにんまりと微笑んで見せる。

「これから貴方を正式にお預かりするわけですから、ご両親にご挨拶をしなくては」

 そういって微笑む華菜の表情はいつに無く柔らかかった。

「九葉ちゃん、華菜さん」

 司は二人の顔を交互に見つめながら深々と頭を下げた。

「ありがとう」

 少し涙混じりになってしまった司の声に、九葉が悪戯っぽく応える。

「まったくもって、司は涙もろくなったものじゃ」

 九葉の言葉に少しむっとした司は、唇を尖らせて言い返す。

「華菜さんの修業のせいです」

 そう言って視線を向けた司に、華菜はにこりと微笑んで言葉を返した。

「私の指導は優秀ですからね」

 笑みを含ませてそういいながら、華菜は真っ先に寺へ向かって歩き出した。

 それに笑いながら九葉が続き、おいてかれまいと司が慌てて寺の階段を駆け上がっていく。

 古い石段を上がると、本堂の脇に大きな木々に包まれた墓場が広がっている。

 小林家の墓は墓地の奥にあり静かではあったが、大きな木の影になっていて冬ともなるとやはり寒い。

 父を納骨してからは思い出すたびに来ていた司だったが、こうして複数の人間で来たのは初めてだった。

 不謹慎だとは思いながらも、一人では無い墓参りに司の心は弾んでいた。

 墓を丁寧に掃除して、仏花を備え、線香を手向け、三人はそれぞれに手を合わせた。

「父さん、また来るよ・・・そのときはその、女の子かもしれないけど・・・」

 どうにも恥ずかしかったが、事実である以上仕方ない。

 報告も兼ねているのだと、自分に言い聞かせながら手を合わせる司の頭をぽんぽんと華菜がたたいてくれたのが、父がしてくれたようで妙に嬉しかった。

 それから卒業証書を見せて、今日の高校での出来事を一生懸命に語った。

 とても照れくさかったが、九葉も華菜も笑顔で見守っていてくれた。

 そうして、三人は日陰を選びながら九葉の屋敷へと戻ってきた。

 屋敷へ戻ると三人はそれぞれの自室に一旦戻ることにしてその場を離れた。

 屋敷の廊下を男物の服で歩くのは初めて来たあの夜以来だと思い返しながら、自分の部屋の前まで歩いてきた司の右手には華菜から預かった血珠が握られている。

 今着ている制服を脱いで、血珠を口にすれば、今度はいつ戻れるかもわからない少女としての日々が始まると思うと、さすがに一度は覚悟をした司であっても、はっきりとした躊躇いが生まれていた。

 この屋敷にあてがわれた自身の部屋の前で、司は深く息を吸って心を落ち着ける。

 扉を開ければ少女趣味の部屋と今までの生活との決別が待っていると思うとどこか気が重い。

 それでも卒業式で仲間たちと顔を合わせたことで、美紀や明雄をはじめとした大切な人たちの住むこの八坂を守るという使命感が大きくなっていたお陰で迷いはまったく無かった。

 九葉や華菜と挑む『キワミ』は人や街に様々な被害を与える存在であり、それと命がけで戦う理由を常に思っていろというのは華菜の教えだった。

 この一ヶ月、『キワミ』との接触は無かったが、華菜が相手を務めてくれた基礎武術の訓練の中で、何を守り、何のために戦うのかを見失ってはいけないと何度も叩き込まれていた。

 今日の卒業式への出席も、守るべきものを再確認する意味があったのかもしれないと、自分の部屋のドアノブに手を掛けながら、司はふとそんな意図を感じ取っていた。


 司達三人が暮らす九葉の屋敷は、司が少女として通う予定の中学校のある私立の女子校、姫乃森学園に隣接している。

 もともと、姫乃森学園は九葉の家が出資して作られたという形で歴史には記されているが、実際は少し違っている。

 明治期の変革時代に西洋化の反抗勢力であるとされ、廃止され禁じられた中央の陰陽師一派が、この土地の人間や同様に政府に追われた人々とともに、当時主流であった四神相応の解釈になぞらえて北に山、南に海、西に大道、東に川が配された土地として選び出し、より呪力的に強い集落にしようと、陰陽の理を表す大極図を基盤として作り上げられたのが、八坂市の前身である八坂村であった。

 政府に追われ八坂にたどり着いた者の中には、西洋の建築や設計を学んだものも多く、急速に近代化と呪術都市化を遂げたのが現在の八坂市であり、その監視と観測を行う場所として設計されたのが、今現在は姫乃森学園の学び舎である洋館群と九葉たちの住まう屋敷である。

 さらに、八坂市もこの当時に施策された様々な呪術結界や呪法により定められた通りに、現代でも成長と衰退を繰り替えしている。

 それほど高度に計算された呪術的施策は、隣接する町々が太平洋戦争の空襲で消失したにも拘らずほぼ無傷で戦火を逃れ、自然災害である大地震でも影響を受けなかった程優秀であった。

 そして、その事実は戦後復興の折に、八坂の状況を大きく変えることになる。

 明治政府に追われたもの達が、洋の東西を問わず知識を組み合わせて独自に作り上げた街の機能は、戦後復興を掲げる日本政府にとって垂涎の存在であった。

 八坂を作った多くの家が世代を代えていたせいもあって、中央に招聘されていくものが後を立たず、結局最後に残った九葉の先々代七葉が、すべての権利を譲り受ける形で屋敷群の所有者となり、創設したのが姫乃森学園の始まりであるというのが、九葉と華菜が語った真実の歴史であった。

 それゆえに校舎には今現在も動き続ける様々な観測装置などがあり、その管理と調整を兼ねて入学させられることになったというのが、司の中等部入学の真相である。

 もっとも司自身は他にも裏があるのではないかと睨んでいたのだが、連日の華菜による修行の日々で考える気力も削がれ、今では素直に受け入れることにしてしまっていた。


 身支度を整え少女の姿に戻った司は、部屋の前で待っていた華菜に連れられて、初日に訪れた奥の広間にやってきた。

 部屋には品の良さそうな初老の男が司と華菜を待っていた。

 背広姿で姿勢よく座っている初老の男は、ニコニコと柔らかな笑顔を浮かべて迎えてくれた。

 軽く会釈をした華菜が、後ろについて部屋に入った司に男を紹介する。

「彼は『キワミ』と戦う我々の同士で、支部長でもある篠塚幸造さんです」

 そう言われて司はまず軽く会釈をすると、幸造は笑顔のままで頭を下げた。

「司ちゃんにとっては学園長でもあるから失礼の無いように」

 華菜は司に座るように促しながらそう付け加えると、司は改めて深々とお辞儀をしてから、座布団に腰を下ろす。

 座布団に座る仕草が教本の様に完璧だったので幸造は感嘆の声を漏らした。

「いやぁ、お若いのに大変美しい所作だね。結婚相手には困らないだろうね」

 言いながらさらに目じりを下げた幸造の言葉に、司は過敏に反応して飛び上がった。

「ええ!」

 驚きのあまり口を押さえて顔を赤らめる様は、完璧に少女としての仕種が板についている。

 幸造に向かって華菜が座りながら頷いて見せると、すっと幸造の表情から笑みが消えた。

「司君、今日より『一座』の人間として、組織にも戦列にも加わってもらうことになります」

 静かで重みのある幸造の声が一瞬にして場の空気を和やかなものから、緊張感みなぎるものに変えてしまった。

 すでに華菜から聞かされていたことだが、八坂を開いた者達の作り上げた組織、通称『一座』は、八坂を守り、術の監視運行を目的として設立された組織であったが、戦後の新政府による施策で中央に移管され、かつての陰陽寮のように占術や呪術を用いた首都や国家の防衛や政策の諮問機関としての顔を持つ、その存在を一般からは完全に隠匿された特殊機関となっている。

 現在では『一座』は国家的規模の組織ではあるが、九葉や華菜が所属するのは発祥の地であり霊的施策の実験地であった八坂に置かれた支部で、機関員としては九葉や華菜のほか、責任者であるこの幸造と二十名あまりの人間だけという決して大きな組織ではない上に、構成員の多くは八坂の管理運営を主な任務とする研究員で、危険因子である『キワミ』の対処をするのは、九葉と華菜だけというのが現状であった。

 その中で特殊な手順であったとはいえ、『キワミ』対策員として加わることになったのが司であり、補充要員の候補すら少ない現状では『一座』としても待望の存在なのである。

 司の新たな戸籍の作成や小林司の失踪の痕跡を残さない工作を実施したのはこの『一座』であり、司に対する期待の分、問題が発生しないようより念入りに執り行っていた。

「これが、司君の新しい戸籍です」

 そういって幸造が差し出したのは八坂市の住民票で、新たな苗字が姫森で、名前は同じ読みで漢字の違う津香紗であることと、この三月に転籍してきたことが記載されていた。

 生年月日も生まれた年以外はこれまでと同じだった。

 幸造から受け取った住民票で、ざっくりと内容を確認してから、司は深々と頭を下げた。

「姫森津香紗です。これからよろしくお願いいたします」

 綺麗に礼を追えて頭を上げる頃には、幸造は元の好々爺然とした様子に戻っていた。

「では、無理をしないように、頑張ってくださいね」

 幸造はいいながら立ち上がると、軽く会釈をして部屋を後にする。

 玄関へ向かう幸造に華菜と司は続き、長い廊下を多少の雑談を交えながら歩いていく。

「それでは次は学園でお会いしましょうね」

 そういって司に向かって微笑みかける幸造に、大きく頷きながら司は応える。

「はい、学園長先生!」

 事情はすべて知っている幸造ですら見惚れるほどの笑顔で答えた司は完璧に少女だった。

 しばらく司に見入っていたが、再び会釈をすると学園に向かって幸造は屋敷を後にした。

 玄関に立って、しばらく去り行く幸造を見送っていた華菜が不意に口を開いた。

「津香紗ちゃんの気持ちは変わらないでしょうけど・・・」

 突然話しかけられて視線を向けた司の目には、ひどく冷たい目をした華菜が映り込む。

「九葉様を刺して、契約を破棄しなさい」

 冷たい目のまま司を見つめて、華菜はまるで言い聞かせるようにそう告げた。

 これからの覚悟を決め、華菜ともうまくやれていると思っていた司にとって、再びのその言葉は理解できるものではなかった。

 そうして、理解できないまま固まっている司を残して、華菜は長い廊下をほとんど音も立てずに戻っていく。

 司は開け放たれたままの玄関から吹き込んできた風に、スカートから伸びる足をくすぐられて心細さを感じながら、華菜の言葉をうまく受け入れられずに立ち尽くしていた。


 八坂の高度に計算された霊的構造体は、その地に住まう人々に力と幸福をもたらす為に、世界のあらゆる呪術を建築学などと融合させて作り上げられたものである。

 しかし、呪術都市としては一つの完成系といえる霊的に高められた街も、不自然に高められたが故に、歪みを引き起こしやすいという危険性を内包してしまっていた。

 本来は人や動物に僅かな影響を与えるだけの悪霊や怨念が、八坂の霊的力を高める構造体の影響を受けて、霊的干渉だけでなく物理的な影響を引き起こすことのできる『キワミ』へと変化させてしまうのである。

 今現在では『一座』の管理を離れ、土地の権利者や開発者によって、当初の計画から逸脱して成長を始めた八坂の歪みや不安定さは、年々強まる一方であったが、もともとの原因を生み出した『一座』には、それを理由に手を引くことは出来なかったし、自分たちが唯一『キワミ』に対抗できる存在であるという事実も大きかった。

 もちろん組織の全員が責任感で職務についているわけではなく、中には研究や特別に許可される権利に対する興味や仕事と割り切っている者がいるのも事実である。

 その中にあって、華菜は自分流の責任感に従って職に当たっているのは確かだったし、何よりも九葉の為に身をすり減らしているのは間違いなかったのだが、その華菜が言う『九葉を刺せ』という言葉の真意だけが司にはどうしても理解できなかった。

 血を媒介にして結ばれた契約を破棄して、姫と姫護の関係を解消するための唯一の手段だということは何度も聞かされたことだが、司には九葉を傷つけてまで、それこそ死なせてしまうかもしれない状況を作り上げてまでする事ではない気がして、なぜ華菜がそこまで契約破棄をさせようとするのかが理解できなかったのである。

 確かに、司と出会い、窮地の中で契約を交わした事は想定外のはずだが、それでも、九葉も望んでいないはずの契約破棄を、華菜が執拗に決意させようとする事が、司にはどうしても納得できなかった。

 しかも、何が何でも破棄させようというわけではなく、司が拒否をすれば、華菜はそれ以上要求しない事実も、司をより混乱させ、悩まさせていた。

 司がそんな華菜の事を頭の中でぐるぐると悩んでいると、不意に九葉が声を掛けてきた。

「どうしたのじゃ、司? 腹でも痛いのかの?」

 九葉はきょとんとした表情の浮かんだ顔を、司の目前にまで近づけていたので、我に返って驚いた司は、自分が非常階段の下にしゃがんでいたことも忘れて慌てて立ち上がり、床板に鈍い音を響かせて、頭を強かぶつけてしまった。

 声にならない悲鳴を上げて、頭を押さえてうずくまる司の肩を九葉が優しく叩く。

 溜息混じりに司を気遣う九葉の背中越しに見える時計の針はすでに頂点をくだり始めている。

 時間が時間だけに、夜歩きが出来る年齢には到底見えない二人は、補導員や警官に見つからないように駅前の雑居ビルの片隅でこうして息を潜めているのだが、華菜からの連絡を待つうちに、司はひとり思考の迷宮に突入していたのである。

「司は女になっても面白いのう」

 出会ったときと同じ着物姿でちょこんとしゃがむ九葉はとても可愛らしかったが、頭の痛みが引くまではじっくり観察することもできそうに無い。

 どうやら九葉の着物は『キワミ』戦の制服のようで、華菜もあの晩と同じスーツ姿であたりの警戒に出ている。

 司も『一座』の制服として服を与えられたのだが、どういうわけか三本線の白い線が映える襟に、同じく純白のスカーフが眩いセーラー服というのはどうにもセンスを激しく疑った。

 制服は個人の印象を薄くし、どこかの学校のようで、どこの学校でもないからこそ、迷彩になるという華菜の力説を思い浮かべると、とても昼間契約破棄を迫った人間とは思えない。

 それでもこの格好を、九葉に可愛いとか羨ましいとか言われては、司が断れるわけもなく、迷彩ということで髪も三つ編みにして、きっちりと伊達メガネまで装着してきたのだが、よく目立つ真っ白な着物姿の美少女が横にいてはその努力も台無しな気がしていた。

「そうじゃった、司、手を出すのじゃ」

 ふと思い出したように、九葉はがさごそと自分の着物を弄くり回すと、袖から野球ボールくらいの黒い珠を取り出して、右手で司の顔の前に突き出した。

 僅かに目の端に涙を溜めながらも顔を上げた司は、目の前の珠を不思議そうに眺める。

 九葉は司に手を出すよう指示をしながら説明を始めた。

「これはの、先日、司が従えた例の『キワミ』じゃ」

「へ?」

 説明を聞いてさらに間の抜けた顔を浮かべる司に、九葉は噴出しそうなのを必死にこらえながら言葉を続けた。

「あの夜も言ったが、この『キワミ』を従えたのは、おそらく言霊で真名を縛ったからではないかと思うのじゃが・・・」

「ことだまで、まなを?」

 オウム返しに聞く司に、九葉は微笑みながら頷いてみせる。

「あの夜よりは少々知識もついておるじゃろうから、少し詳しく説明をしようかの」

 九葉は司の反応を確認しながら少々偉そうに胸をそらして説明を始めた。

「そもそも言葉には力があり、世界を形作っているのが『ことたま』これらを力として組み替えて扱うのが『ことだま』じゃな」

 確認するように九葉が顔を覗き込むと、司は真剣な表情で頷いてみせた。

 その様子に満足そうに頷くと、九葉は再び説明に戻る。

「つまり、言葉を力が発揮されるように並べるわけじゃから、魔術法則に則れば呪文、物語を紡げば経文、奉り言葉を並べれば祝詞となるわけじゃな」

 ちらりと視線を向けた九葉の目に映る、何度も必死で頷く司の姿が愛らしくて、九葉の説明にも無意識に力がこもる。

「宗派や呪術系統によって、様々な形がある言霊じゃが、司が使ったのは『真名』を縛るという使い方じゃ」

 そこまで言って言葉を切った九葉に、司はあの夜の話を思い返し、確認の言葉を口にした。

「真名って、私が縛ったっていう・・・?」

「うむ、万物にはそのものの真の名がある。これが真名なわけじゃが、その真名を知り、命を下せば、下されたものは意思に関係なくそれに従ってしまうのじゃ」

 何度も頷く司に、にやりと微笑んで悪戯っぽく八重歯を見せる九葉は平然と言ってのける。

『例えば、コバヤシツカサ、自分のスカートをめくるのじゃ』

「へ?」

 九葉の言葉に従って、勝手に自分のスカートの裾を掴んだ自分の手に驚いて、司は変な声を上げるが、必死に止めようとしてもまったく言うことを聞かない。

 おろおろと首を振って嫌がる司の手が、自分のスカートをめくり、太ももが見え始めたところで、もう一度にやりと笑ってから九葉が声を掛けた。

『コバヤシツカサ、やめよ!』

 その一言が耳に届いた瞬間、急に司の手に自由が戻り、司は慌ててスカートの裾を整える。

「ちょ、ちょっと、九葉ちゃん!」

 この上なく上擦った声で抗議をする司に、九葉は「のう?」と首を傾げてみせる。

「真名を支配するということはそういうことじゃ、意志の力など関係ないのじゃ」

 九葉はそう言いながらゆっくりと立ち上がる。

「肉体を持つヒトですらそうなのじゃから、実体のないキワミには効果絶大じゃ」

 腕組みをしながら語る九葉に、スカートを押さえながら司は頷いた。

「しかし、問題はこれが『イヌ』という真名だったのかどうか・・・」

 九葉は左手をおもむろに顎に当てると、老人が髭を撫で付けるような仕草で疑問を口にした。

「真名が『イヌ』じゃなかったってこと?」

 今度は頭に気をつけてゆっくりと立ち上がると、九葉に手を伸ばしながら司は尋ねた。

「うむ・・・もしわらわの想像が正しければじゃが・・・」

 九葉はそういって眉を寄せて、うーんと一つ唸ってからぱっと明るい笑顔を浮かべた。

「司が名づけたと思うのじゃがなぁ」

 そういってぽんと司の手に黒い珠を乗せた瞬間、黒い珠は強烈な閃光を放った。

 慌てて司が目を庇おうとした瞬間には、受け取った珠の感触はすでに手の中には無かった。

 ぼんやりと霞んでしまった司の視界の向こうで九葉の声がする。

「森羅万象を司る『ことたま』には、一文字一文字に神が宿るという考えもあっての、イは意思という意味があるし、ヌは主といった意味があるのじゃが、主の意志に服させたということかも知れぬ」

「なんか、こじ付けみたいだね・・・」

 司の一言に、九葉がぴたりと言葉をとめて、その顔をじっと見てからぼそぼそと呟く。

「そ、そもそも、真名と言霊は、わらわの専門外じゃからのう・・・」

 ゆっくりと戻りつつある視界とは反対に、九葉の声が申し訳なさそうにしぼんでいくような気がして、司は慌てて口を開いた。

「つ、つまり、九葉ちゃんを護る力が増えたって事だよね?」

 はっきりと言い切られた司のその言葉は、消沈気味だった九葉を強く揺さぶった。

 その証拠に、視界の晴れた司の目の前には満面の笑みを浮かべる九葉が立っていた。

 そして、もう一匹、ドーベルマンのような精悍な顔つきの漆黒の毛並みをした大型犬が、司に向かって恭しく脚を突いて控えていた。

 控えるイヌを視界にとめて、司は苦笑いを浮かべながら呟いた。

「こんなことなら、もう少しカッコいい名前をつけてあげればよかったね」

 司の言葉に答えるように、イヌはどこまでも響くような澄んだ遠吠えを上げた。


 華菜からの連絡を待つ間に、九葉の指導でイヌを従わせることを学び始めた司は、雑居ビルと雑居ビルの間を左右に跳躍させながら駆け上がらせたり、急加速急停止をさせたりと、僅か数分で自分の手足のように扱えるようになっていた。

「ふむ」

 その様子を黙ってみていた九葉が頷きながら、突然、司の三つ編みを思い切り引っ張った。

「はう!」

 突然の出来事に間の抜けた悲鳴を上げうずくまった司のもとにイヌが瞬時にして舞い戻る。

 そしてそのまま、司の周囲を警戒するように身構える。

 その様子を見て、九葉は再び「ふむ」と頷いた。

 司はひりひりと痛む後頭部を押さえながら、頷いたまま腕を組んだ九葉を涙の浮かんだ恨めしげな眼差しで見つめる。

 そんな司に視線を戻したところで九葉はすっと目を細めた。

「華菜の言いつけを破っておるな?」

 何事も無かったように平然と言い放たれた九葉のそれを、司は瞬時には理解することが出来なかった。

 しかし、ようやくその言葉の意味に気づいた瞬間、背筋が凍る思いがした。

「そ、それは・・・」

 動揺のあまり言葉に詰まった司をじっと見つめながら、九葉は大して気にした様子も見せずに言い放った。

「華菜がその使い方を教えてなお禁じたのなら、それは従う価値があることじゃ」

 九葉のすべてを知った上で放たれたその言葉は、司にまた新たな疑問の種を芽吹かせた。

 司はほぼ無意識でその疑問をそのまま口にしていた。

「どうして、華菜さんは万象変化を使うことを禁止するんですか?」

 まっすぐ九葉を見つめる司の瞳に、一瞬九葉は目を伏せた。

 それからゆっくりと目を開けて、司に視線を送らずに静かに口を開いた。

「・・・その為のイヌじゃ、可愛がってやるのじゃぞ」

 どこか悲しげな雰囲気を纏った九葉の横顔は、司に振り向く頃には笑顔に変わっていた。

 飛び切りの笑顔だったはずなのに、何故か心を締め付けられるようで、司はそれ以上質問を続けることが出来なかった。

 そのまま呆然と立ち続ける司は、その脚に触れる感触に気がついて視線を向けると、心配そうに頭を擦り付けるイヌの姿が目に入る。

「犬のイメージがあるからそんな風になったのかな?」

 司はそう言いながら、視線を合わせるようにしゃがみこむ。

「それとも君のオリジナルな気持ちかな?」

 視線をイヌと合わせた司は、優しい手つきで頭を撫でてやった。

 それを見ていた九葉の表情がふっと緩んだような気がして司はなんとなくほっとした。

 そんな安堵感に後押しされて、九葉に声を掛けようと立ち上がった瞬間、絹を裂くような甲高い悲鳴が辺りに響いた。

 その声に反応して顔を見合わせる司と九葉は互いに頷くと身構えた。

「イヌ、お願い!」

 周囲に警戒を向けると同時に叫んだ司の言葉に、一声吼えるとイヌは迷うことなく駆け出していき、その姿を見て振り返った司に、九葉は大きく頷いて見せる。

「姫護津香紗、参ります」

 イヌへと視線を戻してすぐさま後を追って駆け出した司の揺れる三つ編みを見つめながら、九葉は袖から大きなトランシーバーを取り出した。

 トランシーバーに耳を当てた九葉は、二言三言口にすると再び袖にしまってゆっくりとした足取りで、イヌと司が駆けて行った方へと歩き出した。


 イヌの後を離されないように追いかけながら、司は自分の右手を見つめて華菜の言っていた言葉を思い返していた。

「この力は切り札です。使い方を知らなければ切り札にならないでしょう・・・ですが、使ってはいけません、絶対に・・・」

 あの時、使ってはいけないといった華菜の表情はなんとも形容しがたかった。

 厳しい表情だったのは確かだったが、それだけではない表に出していない深い感情が裏側にあったような気がして、どうにも気になっていた。

 他人の気持ちがなんとなく感じ取れる能力を持っていたはずの自分の鈍感さが恨めしかった。

 そんな事を思いながら駆ける司の周囲の景色は徐々に繁華街の華やかなものから、どこか薄暗い電灯だけが照らす路地へと変わっていた。

 司は路地を駆けながら感じるイヌの気配から、現場が近いことを悟り意識を集中させる。

 そのまま勢いを殺さずに回った角の先に、肩を押さえてうずくまるスーツ姿の若い女性の姿が飛び込んでくる。

 先に到着していたイヌは、女性を守るようにその傍らに臨戦態勢で身構えている。

「だ、大丈夫ですか」

 司が慌てて駆け寄って抱き起した女性は、表情を苦痛で歪めて、必死に押さえる肩からはぽたりぽたりと血が滴っている。

 抱き起こされ呻く女性の瞳が、怯えを含んで司の後ろを見つめていた。

 女性の視線に気付くと同時に、とても嫌な気配を感じ取って、慌てて振り返った司の視線の先には一体の人影があった。

「ああああああ」

 低い唸り声を上げながらゆっくりとした足取りで近づいてくる人影は、中腰の姿勢で両手に何かを持ったまま、異様な気配を発している。

「・・・『キワミ』・・・じゃ、ない?」

 距離が近づくにつれてはっきりとする輪郭は、人間の男のようで服を着ているのがわかる。

 まともな精神状態とは思えない焦点の定まらない瞳で、ぐらりぐらりと体を揺らしながら傷を受けた女性を追っている。

 相手が『キワミ』ではなく、暴漢だったとしても、傷ついた女性を放っておくわけにはいかないと覚悟を決めた司は、男に警戒しつつ自分のスカーフを手早く引き抜き、華菜に習ったとおりに応急処置を施してゆっくりと立ち上がる。

 目の前の少女の視線に反応してか、異様な雰囲気を纏った男も身構える。

 男の両手に握られているのが、街灯の反射で鈍く光る刃物と気づき司は静かに注意を向ける。

 ちらりと、女性とイヌを振り向いてから、司は短く息を吐いて男へと駆け出す。

 向かってくる存在に身構える男は、先程までのゆるりとした動きが嘘のようにまったく隙がうかがえない。

 しかし、そこで司は一瞬たりとも間を置かなかった。

 隙が無いことは承知の上で無謀に突進していく司の足元から飛び出したイヌが、司を追い抜いて男の胴へと体当たりを加える。

 予想外の攻撃によろめく男の右手首を捉えた司は、華菜直伝の関節技を決め、手にした刃物を落とさせようと手首を捻り上げる。

 だが、男はまるで痛みを感じていないかのように、平然ともう片方の手に持った刃物を司のわき腹めがけて突き出した。

 咄嗟に手首を離して距離をとろうとする司だったが、男の刃物の方がそれより早く司の腹を捕らえていた。

 刃物によって切り裂かれた司のセーラー服の一部が宙に舞う光景に、地面に座り込んだまま様子を見ていたスーツの女性が咄嗟に目を反らす。

 イヌも体勢を整えて再び男へと踊りかかるが、一撃を食らったままの司はうずくまって荒い息をしている。

 仕留めた司には気にも留めず、イヌの突進を手で打ち払いながら、男が再び女性へ向き直ったところで、不意に背後から首を腕で絞められた。

 男が怒りに満ちた表情で視線を向けると、そこには仕留めた筈の司の顔があった。

「お、お姉さん、逃げてください!」

 司に悲鳴のような叫び声で逃げるように言われた女性は、大きく頷いて声も出せずに這いつくばって逃げ出す。

「ぬあああああ」

 逃げ出す獲物に怒りの咆哮を上げる男を、首を締め上げる力を強めて止めようとする司だったが、まったくダメージを入れられずに、怒りに任せて暴れる男の力任せの動きで、司は大きく前方へと投げ飛ばされてしまう。

 体を丸めてごろごろと前転で何回か転がってから、片膝をついた姿勢で身を起こす司は、肩で大きく息をして呼吸を整える。

 司との格闘で獲物を完全に見失ってしまった男の怒りは頂点に達し、目を真っ赤に充血させながらその目標をはっきりと司に定める。

 男に切り裂かれたセーラー服の間から手を差し入れて腹をさする司の突き刺された筈の腹部には傷一つ無かった。

 咄嗟に使った万象変化の能力で、刃物を弾くほどの硬度に腹部を変化させたが、その効果も発動自体も半信半疑だったために、司は手で確認することでようやく実感を得ていた。

 華菜に隠れて能力の修行をした成果ではあったが、司の心中には罪悪感よりも達成感が上回っていた。

 その達成感は結果さえ出せば、華菜の信頼も許しも得られると司に思い込ませるほど大きく、

駆けつけてきた華菜を視界にとらえると、即座に司に行動を促すほどだった。

 司は完全に自分のものにしたイヌを、男の膝に体当たりさせて体制を崩させ、その男の太ももに乗ってジャンプをすると、大きく右手を振り上げて腹を庇ったときの硬度をこぶしに持たせ、重量を載せた渾身の一撃を男の顎に放った。

 一瞬で振り下ろされた司の一撃は、骨の砕けるような鈍い音を立てると同時に、顎を打ち抜かれた男は大の字にその場へと倒れこんだ。

 完全に打ち倒した司が自信に満ちた表情で華菜を振り返った瞬間、司は渾身の力で華菜に殴り飛ばされていた。

 自らの打ち倒した男の傍らに倒れこみながら、司はわけもわからずにただ呆然と華菜の拳を見つめていた。

 華菜は無言のまま、司の襟を掴み上げ、顔を近づけて怒りに満ちた表情で睨みつける。

 そのあまりの形相に、達成感で浮かれていた司の気持ちは一気に冷え切ってしまった。

 司は力なく腕をたらして、華菜に為されるままに吊るされながら、華菜の怒りの深さに驚き、同時に薄れていたはずの罪悪感が顔を上げ始める。

 そして、いつの間にか司はボロボロと大粒の涙をこぼして泣きじゃくり始めていた。

 外見の年齢そのままの幼い泣き方に、華菜は無言でその手を離した。

 力なくその場にしゃがみこんだ司は、泣きながら何度も「ごめんなさい」と繰り返すが、華菜は何の反応も返さずに男の様子を見始めた。

 鼻を突く痛みが、頬を伝う暖かい雫が、情けなくて悲しくて、司は子供のように泣きじゃくり続けた。


 それからのことをはっきりとは覚えていないが、華菜の車で屋敷に戻るなり九葉に風呂に入れられて、浴衣に身を包んで九葉の寝所に布団を並べて横になっていた。

 ナツメ電球のぼんやりとした暖かい光が司の琴線に触れたのか、鼻の頭が熱くなり視界がぼやっと歪み始めたところで、不意に布団を並べて横になっていた九葉が口を開いた。

「司、しっかり説明しておかなかったのじゃが、先程の暴走した男もまた『キワミ』じゃ」

 九葉は司を初めから気にしていないように、返事や反応を待たずに自分の言葉を続ける。

「陽の性質とは外に向けての影響を及ぼす力での、ヒトや動物のように肉体を持つものがその依り代となればあのように破壊衝動や加害衝動が異常に強くなってしまうのじゃ」

 九葉はそういって一息つくと、天井を見つめたまま、再び自分のペースで話を続けていく。

「今後は今日のような暴走した人間が相手の場合もあるからのう。イヌのような霊的な存在と違って、あのように刃物を使ってくる可能性もあるわけじゃが、まあ、今日の戦い方は悪くはなかったと思うぞ、実際、一人助けられたわけじゃし」

 悪くはなかったといわれて、司は目を潤ませながらも、ようやく視線を九葉に向ける。

「・・・華菜も別に、お前を憎く思っておる訳ではないのじゃ」

 相変わらず天井を見つめたままでそう言い切った九葉に、司が不安そうな表情で尋ねた。

「私は華奈さんにどうしたら許してもらえるでしょう・・・」

 じっと九葉の答えを待ちながらその横顔を見つめる司は、右手で体を支えながら、ゆっくりと布団から体を起こしかけたところで、ぐらりと体勢を崩してしまった。

 自分でも何が起こったのかわからないまま布団に転がった司を、妙な物音で視線を向けた九葉が捕らえ、慌てて布団から飛び起きた。

 何故か力の入らない右手に戸惑ううちに、司は九葉に支えられて体を起こした。

「司! 大丈夫か!」

 とても慌てた様子でぎゅっと右肩をつかむ九葉を見つめる司の頭は、ぼんやりと靄が掛かってしまったようで何故だかはっきりとしない。

「司、しっかりするのじゃ!」

 司があまりにもぼんやりした表情を浮かべているので、徐々に九葉の焦りは増していく。

 その声を聞きつけたのであろう華奈が、九葉の寝室の襖を一息で開け放つと二人のいる布団まで険しい表情で歩み寄った。

 その顔を不安げに見上げた九葉に頷いて、華奈は司を力いっぱい抱きしめた。

 その想像もしていなかった華奈の行動に司の頭は一瞬動きを止めると、次の瞬間にはすさまじいスピードではっきりとし始める。

「え、あ、華奈・・・さん?」

 自分を抱きしめる華菜の腕の力強さと不安げに見つめる九葉の視線を感じながら、状況をうまく理解できずに、自分を抱きとめる人物の名を呼んでいた。

「司ちゃん、まずは落ち着いて」

 穏やかな華奈の声はそれだけで気持ちを持っていかれるような強さがあった。

 司はまるでそうするのが自然であるかのようにゆっくりと目を閉じて頷く。

「心が落ち着いたら右腕を見てみなさい」

 囁くようなとても近くで発せられる華奈の言葉には、今までかんじたことの無い安らぎの色で満ちていて、司はどこか夢心地のまま促されて視線を向ける。

 そこで司はどろりと垂れ下がった自分の右腕に息をのんだ。

 司の驚きを察した華奈が、背中をさすりながら抱きしめる腕に力をこめた。

「大丈夫、ゆっくりと受け入れなさい」

 いつの間にか、水の詰まった風船のような肌色で棒状の弾力のある物体に変わってしまった自分の右腕を見た司は、恐怖と怯えから全身を震わせ、うまく息継ぎができずに短い間隔で苦しげに呼吸を繰り返していた。

 九葉は何もできずただ自分の浴衣の裾を握り締め唇をかみ締めながら、恐慌状態に陥った司とそれを抱きしめる華奈を座り込んだままでじっと見つめている。

 華奈はゆっくり司の頭をなでながら、諭すように穏やかな口調でささやきを続ける。

「少しずつ心を落ち着けて、いつも見つめていた右手を思い出しなさい」

 状況が理解できずに陥った恐怖の中で、華奈の言葉が溶け広がっていくのを感じて、司は言われるままにいつも見ていたように形を失ってしまった右手を見つめる。

 ミトンのように丸みを帯びた水風船に変貌した右手を見つめる司の頭に、ぼんやりといつも見ていた右手のイメージが浮かぶと、右腕全体がそれに呼応するように脈打ち始め、やがて指が分かれ、手首が生まれ、肘の関節が形作られ、爪が姿を現し始める。

 右腕が元の形に変化する中で、肩で息をしていた司の呼吸が徐々に落ち着いたものへと変わり始めたのを確認すると、華奈は声をかけるのをやめ、優しく抱きしめた。

 完全に元の姿を取り戻した右腕を視界の端で見届けた華菜は、司の呼吸が落ち着いたのを確認してゆっくりと布団に寝かして、ハンカチで司の額に浮かんだ大粒の汗を拭っていく。

「華奈さん・・・」

 額から、頬、顎、首、胸元と優しい手つきで汗を拭く華菜に身を任せながら、司は華菜の名前を呼んだが、結局言葉を続けられずにそのまま黙り込んでしまう。

 体を起こして華菜に話しかけようと何事か逡巡して黙り込んだ司に向かって苦笑いを浮かべると、華菜はわずかに視線を向けて九葉に声をかけた。

「九葉様、もう大丈夫そうですので、少し二人で話をしてもよろしいですか?」

 華菜が申し訳なさそうに尋ねると、九葉は「ん」と小さく頷いて立ち上がる。

「泣き落としてはどうじゃ?」

 部屋を出るために司の脇を抜ける瞬間、九葉はにやりと笑って囁いた。

 九葉が部屋を出て襖を閉めるまで何の事か分からなかった司だったが、自分が尋ねた華菜に許してもらう方法の答えだと思い至ると、急に頬が赤く染まるのを感じて、司は華菜に顔を見せないように慌てて右腕を下にして寝転がった。

 そのまま、ナツメ電球だけが照らす薄暗い部屋の中で、二人はしばらくの間押し黙っていたが、華菜は意志を固めて長く息を吐くと静かに口を開いた。

「・・・昔『一座』にある一人の少女がいました」

 華菜はじっと司を見つめたまま、反応を待たずに言葉を続ける。

「少女は幼い頃から『一座』に憧れ、姫護を目指して日々修行に明け暮れました」

 静かに語る華菜が気になって、司は寝返りを打ってそっと視線を向ける。

 恐る恐る顔を向けた司に、穏やかな視線を返しながら華菜は言葉を続ける。

「大変な修行を重ね、ついに姫護としてお仕えできることとなった少女は、与えられた能力を十二分に使いこなそうと、禁じられていた万象変化の術を影で修行し始めたのです」

 華菜の語る話が、自分のことを言っているようで、司はピクリと反射的に身体を緊張させた。

「己の身を鋼と変えて盾となり、己の背に羽を生やして姫のもとに駆けつけ、己の腕を剣と変えて姫の敵を討ち果たす・・・それは力に奢っていたのかもしれません」

 華菜はそこまで言うと苦笑交じりに溜息をついて、身を強張らせる司に微笑みかける。

「天罰なのか・・・少女はやがて術の反動で体に変調をきたし始めたのです」

 言いながら華菜はすっと差し伸べた両手で、司の右手を優しく包み込む。

「元の形を明確に記憶していた肉体が、ある日突然元の形状を強くイメージしないと維持できなくなり、突然流動体に代わってしまう現象が起こったのです」

 華菜の両手に覆われた右手を見て、さっきの体の変化を思い出した司は、怖さからか、無意識に左手で右腕をつかんでいた。

「少女は突然起こった想像を絶する事態に焦りながらも、懸命に元の姿を思い描いてなんとか取り戻すことができたのです」

 不安の表情で右腕をさする司の頭に手を伸ばすと、その髪を梳くようにして撫でながら、司の表情が落ち着くのを待って、華菜は目を伏せて口を開く。

「しかし、それから体に起こる変調は日増しに大きくなっていき、腕だけではなく足でも起こるようになり、少女にはそのうち一つの考えが思い浮かぶようになりました」

 暗い表情で言葉を紡ぐ華菜の手を、司はもどかしい気持ちでぎゅっと握り締めていた。

 司の行動に驚きながらも微笑を返す華菜の様子があまりのも悲しげで、胸がいっぱいになった司は、反射的に華菜に飛びついていた。

 急に飛び込んできた司を抱き止めながら華菜は、両腕を司の背中に回す。

 お互いの鼓動を聞き取れるほど密着した状態で囁くような小さな声で華菜は話を続ける。

「いつかは自分の心臓やあるいは脳ですら、同じように形を保てなくなるのでは、そうして命を失ってしまうのでは、という恐怖が心に芽生えたのです」

 話を進めるほどに怒りの感情が華菜の言葉にこもり始めたような気がして、司は抱きかかえられた姿勢のまま、華菜の表情をうかがおうと頭を動かした。

「その時から、私は恐怖のあまり姫ではなく自分のことを一番に考えるようになりました」

 華菜はそこまで言うと口を真一文字に結んで唇をかみ締める。

 心配そうに見上げた司の目に噛み締められた唇ににじむ血が映る。

「華菜・・・さん・・・」

 華菜の悔しさが嫌というほど伝わってきて、司は華菜を抱き締める腕に力をこめた。

 しばらくそうしていた華菜は、司の腕を静かに解き、ゆっくりと立ち上がりながら、襖のほうへ身を返して司に背を向ける。

「そして、私は姫を短刀で刺したのです」

 背を向けた華菜は仁王立ちで、声を震わせながらもきっぱりと言い切った。

 握りこまれた拳が、肩の震えが、その言葉を口にするのにどれだけの思いを華菜が乗り越えたのか物語っているようで、司の心をとても切なくさせた。

 それでも、華菜の考えに触れられたような気がして、司は確認をしようと口を開く。

「だから、華菜さんは・・・」

 しかし、そこまで言いかけた司の言葉を、華菜の声はばっさり切り捨てた。

「ちがう!」

 驚きで言葉をとめてしまった司へと、背を向けたまま華菜は更に言葉を放つ。

「私はきっと修行もなく、あんなにも簡単に姫護になった司君が憎かったんです」

 必死に言葉を続ける華菜を見つめながら、司は静かな動作で立ち上がる。

「短刀を突き立てるかもしれないと、理由を説明もせずに姑息に待っていたんです」

 華菜の言葉は吐き捨てる度に強くなっていき、震えもかすれも増していく。

 司は立ち上がるなり、更に言葉を続けようとする華菜の後頭部を力いっぱい平手で叩く。

 叩かれて振り向いた華菜を、司が満面の笑みを浮かべて待ち受けていた。

「司・・・ちゃん・・・」

 笑顔の理由がよくわからずに先ほどの興奮もあいまって、華菜は軽い混乱をきたす。

 混乱してしまっている華菜に向かって、司は九葉のようににんまりと笑うと、腰に手を当てて大仰に溜息をついて見せた。

「私、華菜さんは嫌々付き合ってくれているんだと思っていました」

 華菜は困惑の表情を浮かべて、心のうちをそのまま言葉にしていた。

「何を言っているんですか・・・」

 華菜が発する言葉は動揺を現すように震えていたが、司は構わずに自分の言葉を続ける。

「華菜さんは九葉ちゃんだけじゃなくて、私のことも気にしていてくれていたんですね」

 司は力強い眼差しを華菜に向けながら胸の上に手を置いて嬉しそうに微笑む。

 そんな司に気圧されて、一歩引きながらも華菜は司の言葉を否定する。

「ちゃんと話を聞いていたんですか? 私はあなたを憎んでいたし、姑息にもあなたの破滅を待っていたんですよ?」

 まるで否定か、侮蔑の言葉でも求めるように、司の言葉を否定する華菜の姿が、司には痛々しくて愛おしかった。

「でも、さっき抱き締めてくれました」

 司が言うなり再び華菜の手を握って微笑むと、華菜は思わず節句してしまった。

「本当に姑息な人はあんなに必死に私を助けてくれないと思います」

「・・・っ」

 司の言葉に華菜はただ黙るだけで、うまく否定することもできなくなっていた。

「あんなに大きくて優しい華菜さんの思いに気がつかないなんて、私の読み解く力がいかに未熟かってことを、ここに来て思い知らされました。ちょっと前まで何でも分かるような顔をしてあんなに悩んでいたのか、今では恥ずかしい限りです」

 恥ずかしそうに情けない顔を浮かべて、頭を掻く司の頬は真っ赤に染まっている。

 その表情に心が和らぐのを感じながら、それでも華菜は精一杯突っ張ってみせる。

「司ちゃん、私はあなたを憎く思って・・・」

 必死に主張する華菜の唇に右手の人差し指を当てて言葉を遮ると、上目遣いで司は言う。

「好きと憎いはベクトルの方向は逆ですけど、特別に思っているってことですよね?」

 華菜の顔を覗き込むようにしながらそういって司は微笑む。

「感情の動いちゃう相手ってことは、逆転のチャンスはありますよね?」

 悪戯っぽい表情を浮かべて迫る司に、華菜は顔を崩して絶句するしか術は無かった。

「つ・ま・り、陰の思いを導いて陽に変えれば、憎いとか嫌いとかって思いも、好きに変わっちゃいますよね」

 嬉しそうにそう言って腰に手を当てた司は、内心どきどきしながら華菜の反応を待った。

 華菜は深く長い溜息をついてから、軽く何度か縦に首を振った。

「何より陰と陽を理解して導くのが術の基本ですよね、師匠?」

 ダメ押しとばかりに言葉を続ける司に、華菜は負けたとばかりに顔を崩して笑みを浮かべた。

「まったく、飲み込みがよすぎて、嫌な弟子ですね。自分が無能に思えます」

 呆れた表情を浮かべた華菜に、司は満面の笑みを返して満足そうに頷いてみせる。

「師匠が良いとですね、弟子の成長も著しいのです」

 済ました表情で言い放った司の頭をくしゃくしゃと撫でながら華菜は言う。

「実際に万象変化の副作用が脳や臓器を含めて変質した際にどうなるかは分かりませんが、血珠には性転換をさせる効力があるせいか、一時的に副作用を抑えることはできるようです」

 真剣な表情に変わった華菜に頷きながら、司も真剣な表情をして言い切った。

「華菜さん、私は例え体の全部があんな風になっても短刀は使いません。もちろん精神的な死のことも覚えています。それでも九葉ちゃんを傷つけたりしません」

 司の言葉を聴きながら、すっと目を細める華菜は忌々しげに応える。

「だから、あなたは嫌なんです。怖くて逃げ出した自分が滑稽でたまりません」

 華菜はそう言って溜息をついてみせるが、表情に曇りは無かった。

 司はそんな華菜の腕に飛びついて、顔を合わせないまま宣言をしてみせた。

「私が華菜さんの分も、乗り越えて見せますから見ていてください」

 司の言葉に、華菜は不機嫌そうな表情を浮かべて答える。

「本当に優秀すぎて、いじめたくなります」

「え、ええ、いやですよぅ」

 華菜の言葉に不満げな声を上げて、司は華菜の腕にじゃれつく。

「まあ、禁止は逆効果のようですし、何かあったらちゃんと相談するんですよ、司ちゃん?」

 溜息混じりに言う華菜の表情は柔らかくて、明るい気持ちになりながら司は頷く。

「分かりました、師匠!」

 そう言って明るく返事をした司は、華菜と供に九葉を迎えに部屋を後にした。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ