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第2章 運命の選択に

第二章 運命の選択に


 屋敷の中に入るとすぐに九葉は着替えのために二人と別れて屋敷の奥に姿を消してしまった。

 これまでの経緯やこれからのことを話すために奥の間で待つこととなった司を、その場に残った華菜が案内していくことになった。

 華菜に連れられて歩く屋敷の中は、長い廊下と襖や障子で仕切られていて、テレビの時代劇のシーンでしか見たことの無いそれは、司の目にはどこか現実感の乏しい空間に映った。

 造りだけでなく、明り取りのために廊下の端々に置かれた行灯や柱で、ゆらりゆらりとゆれる蝋燭の炎を利用した照明の神秘的で心地よい暖かさにも驚きを覚えた。

 本来ならば、目移りする自身に任せて、好奇心を満たしていきたいところであったが、先程から怒りのオーラを纏う華菜の気配に、司は余計なことはしてはならないと、自らに言い聞かせて、黙々と後について歩いている。

 屋敷に入る直前に九葉の言った『運命の選択』についても今のところ何の説明をされていなかったし、それ以外にも黒犬のことや二人のこと、この場所のことなど、聞きたいことは山ほどあるのだが、華菜は答えてくれそうな気がしなかったし、下手に逆鱗に触れるのも得策じゃないと考え、疑問については九葉に聞くことに決めたために司も自然と無口になる。

 無言でただひたすら廊下を歩く二人の間の空気は重い。

 会話も交わしていない司の首をいきなり締め上げ、服や体が傷ついても動じることなく仁王立ちで黒犬の攻撃を耐え続けていた華菜は、司にはあまりにも規定外で、とにかく早くこの気まずい二人きりの状態から抜け出したいと感じさせるだけの威圧も発している。

 やがて突き当りの襖にたどり着くと、ぴたりと足を止めて華菜は司をわずかに振り返る。

 何事か言われるのかと反射的に身構えた司に、華菜はさして興味を示さずに、見事な細工の為された豪華な襖に手をかけると、静かな口調で囁くように司に告げる。

「お入りなさい」

 司が華菜に促されて入った部屋は、ふわりと漂う井草の香りがどこか懐かしい気持ちにさせてくれる畳敷きの立派な和室で、床の間には古くて高そうな掛け軸や美しく花の生けられた花器が飾られている。

 華菜は入り口で仁王立ちする司の前に部屋の隅から座布団を運んできて座るように促し、どの座布団に司を座らせてから、華菜は軽く司の肩を叩いて一言口にする。

「私も着替えてきます。ここで待っていてください」

 自分の言葉に司が頷くのを確認して、華菜は入ってきた襖から廊下に出ると、静かに襖を閉じて部屋を後にした。

 広くて明るい大広間に突然一人で取り残された司は、間の抜けた顔で天井を見上げて、この部屋は蛍光灯なのだなとそんなことを確認していた。

 華菜が部屋を出て、ようやく緊張も解けた司は、今までの出来事を回想し始める。

 思い起こせば、普通ではないことが数多く起こった気もしたが、当たり前のことのように順応している自分に気づいて、自分の神経の太さに驚く。

 それから九葉も華菜も、その考えや思いが自然に感じ取れないどころか、努力しても読み取れなかったことを思い出して、司はなんだか嬉しくなった。

 何よりも九葉はおどけながらも、自分のことを導いてくれたような気がして、感謝と興味が一段と大きくなり、司は九葉のことが気になって思わず独り言をこぼす。

「九葉ちゃんは・・・やっぱり普通じゃ・・・ないよなぁ」

 何気なく呟いた司の言葉に、突然背後から返事が帰って来た。

「まあのう」

 慌てて振り返った司の視線の先には、薄桃色の厚手の浴衣に、もこもことしたこげ茶色のどてらを羽織る九葉が立っていた。

 その姿はどてらに着られてしまっている様で、横から押しただけで今にもころころと転げだしそうである。

 珍妙な顔をして自分を見つめる司に、ピクンと肩眉だけ上げて九葉は少し頬を膨らませた。

「何じゃ、その目は! 珍獣扱いは面白くないぞ」

 不機嫌そうな顔を浮かべた九葉に、司は慌てて両腕をブンブンと振り回しながら否定の言葉を口にしていた。

「いや、ただ、その可愛いなと思っただけで・・・それも、珍獣というか小動物みたいだなとおもったわけで、ですね! その・・・」

 司が何かを取り戻そうと必死に熱弁を振るう姿は滑稽だったが、どういうわけだか九葉は見る間に顔も耳も真っ赤に染めて大声を張り上げる。

「や、やめぬかぁ!」

 九葉の突然の大声に、司は仰け反ったまま、両手を上げた姿勢で固まってしまう。

 そこにけたたましい足音を立てて駆けつけた華菜が力いっぱい襖を開くと、あまりの勢いに桟を外れた襖が、司に向けて大きく風をまき起こしながら倒れてくる。

 咄嗟に襖を交わそうと仰け反った姿勢から体を横に倒して襖をよけ、そのままに畳に転がって難を逃れた司の目前に、鈍く銀色に輝く一振りの抜き身の日本刀が一瞬の間も置かずに突き刺さった。

 あまりの状況に口をパクパクとさせながらゆっくりと上げた司の視線の先には、華菜が地獄の鬼も怯えそうな恐ろしい形相を浮かべて見下ろしていた。

 何を言っても許してもらえないどころか、下手な事を口にすれば即座に叩き斬られてしまいそうな雰囲気に、背中全体に冷たいものを感じながら、司は九葉に助けを求めようとするが、視線の先の九葉はにやにやと小気味良さそうに笑みを浮かべるだけで、どうも救いの手は差し伸べてくれそうに無い。

 にやつく九葉と憤怒の華菜を見比べていた司は、すぐさま体を起こして、正座の姿勢をとると深々と華菜に向かって頭を下げた。

「ご、ご、ご、誤解です、な、なにも、し、していないです!」

 頭を必死にこすり付けて弁解を始めた司の様子に華菜はふぅっと息をつくと日本刀を鞘に戻しながら、とてもとても穏やかな笑顔で尋ねてくる。

「それで?」

 穏やかな声色も表情も、恐る恐る顔を上げた司には、生きた心地はしなかったが、ともかく誤解を解こうと状況を説明し始めたところで、またもや九葉が素っ頓狂な悲鳴を上げた。


「まったく、あなたという方は・・・」

 司の説明を聞き終えた華菜は上座に座る九葉に向けて、呆れた顔で言い捨てる。

 九葉の対面に座る司は、座布団で正座したまま、びしっと背筋を伸ばしている。

 九葉の左側、司の右手に座る華菜は、先ほどのスーツ姿とは打って変わって、デニム地のパンツと黒のゆったりとしたデザインの長袖カーディガンに身を包んでいる。

 目を閉じて話している華菜だったが、自らが座る座布団の脇に置かれた日本刀の鞘を左手でしっかりと握っていて、いつでも抜けるような気配を漂わせていた。

 司は恐怖心から日本刀についつい目が行ってしまうために、九葉と華菜のやり取りには参加はおろか、集中すらできないでいる。

 司とは違った意味で落ち着かない様子の九葉は、日本刀に注視する司をビシッと指差しながら震える声で自分の主張を懸命に訴えている。

「仕方あるまい、司が、恥ずかしいことをじゃな・・・」

 言い訳を口にする最中で、不意に司が自分へと目を向けたので、動揺をしてしまった九葉の主張は尻つぼみに小さくなってしまう。

 視線を向けただけで頬を上気させながら消え入りそうなか細い声で言い訳をする九葉が、自分に対して過剰に反応していると感じて、たとえ錯覚だとしても司は嬉しかった。

 九葉も司の顔を見る度に、真正面から言われた『可愛い』という一言が蘇ってきて、恥ずかしさのあまり怒鳴りそうになるが、華菜の前でそう何度も醜態をさらすわけにもいかず、苦し紛れに手元にあったお茶碗の蓋を司に向かって投げつけた。

 司は不意に投げつけられた茶碗の蓋を避けることができずに、頭を抱えてうずくまる。

「九葉様、何をしているのですか」

 そのやり取りを寒々しい目で見つめていた華菜が、呆れた表情を浮かべて、茶碗の蓋を投げつけた九葉を諌める。

「し、しかたないのじゃ、司が、可愛い可愛いと何度も思うからじゃな・・・」

「その様に取り乱していては、確かに幼い娘のようで可愛いです」

 ぶんぶんと袖を振りながら主張を続ける九葉に、華菜はぴしゃりと言い切ると、顔中を真っ赤に染めたまま九葉はしぶしぶと腰を降ろす。

 司はうずくまりながら、人形のように愛らしい少女が、可愛いといわれるのに弱いというのは意外だが、平静を装いつつも声が上擦ったり、耳が真っ赤だったりするところを見ると確実に図星なのだと、妙に納得していた。

 司は九葉に一歩近づいたような気がして、ニコニコと笑顔を浮かべながら体を起こして、心の底から九葉のことを『可愛い』と思うと、即座に顔を真っ赤にして九葉が睨んできた。

 その反応を見た司は完全に思い描いた事を読み取ることが、九葉にはできると確信する。

 そうなって来ると気持ちの上でも完全に舞い上がっていた司は、九葉を苛めてみたい衝動にかられて何事か思い浮かべようとしたところで、カチャリという金属の放つ音が耳に届く。

 それが真横に腰を据えた華菜の日本刀が放った鍔鳴りだと気がついて、司は慌てて集中を九葉から華菜に移した。

 司の中で、九葉は可愛くて話の出来そうな存在だったが、華菜はまったく違っている。

 とにかく何を考えているのかわからないのと、すぐさま刃傷沙汰に至る事に躊躇のなさそうな雰囲気が死の気配を漂わせていて、これまでの人生で遭遇したことも無い窮地であることを嫌でも自覚させられる。

 この状況下では、好奇心や衝動に任せて九葉の可愛いうろたえぶりを楽しむよりも、華菜の機嫌を損なわず、無事に生き延びることが最優先であることは間違いなかった。

 司はそう思い至り、油断無く華菜の様子を伺うことにした。

 九葉は司を、司は華菜を、華菜は九葉をお互いに観察しあう妙な静寂がその場を支配してから、ややあって、華菜がため息交じりに司に向き直った。

「こうしていても、九葉様も落ち着かれそうに無い」

 そういいながら日本刀を片手にゆらりと立ち上がると、床の間の端に置かれた刀の台座から一振りの短刀を持ち出して、九葉と司の間に置くと、ゆっくりとした動作で九葉の左後方に下がって片膝を立てて控える。

 その瞬間、ぴりっと広間全体に緊迫感が走った。

 張り詰めた気配に自然と喉を鳴らす司の前に座る九葉は、今しがたの百面相が嘘のような無表情を作り出して、華菜によって置かれた短刀を両手で持ち上げる。

 そうして肩の高さまで持ち上げると、九葉が射抜くような鋭い視線を司に向けた瞬間、野生の獣にでも睨まれた様な恐怖が司を捉えたが、その瞳に見つめられるうちに何故か体の緊張は薄らいでいった。

 気を抜いてしまえばそのまま九葉の瞳に吸い込まれそうな幻想が頭の中で広がっていく。

 その原因が何にあるのか分からなかったが、司の感覚は急激に遠ざかり、世界が急激に回転を始め、幻想と現実があやふやに感じられ始める。

 自分自身の感覚がおかしくなっているのを理解しながらも、何もできない司の意識を凛とした九葉の声が引き戻した。

「司、私と貴方は血の盟約で結ばれました」

 九葉の声、九葉のイントネーションだったが、違和感が司の中で大きく弾ける。

「司、貴方には盟約に従い三つの力、権利が与えられます」

 先程までとはまったく違うどこか機械的な九葉の言い回しに、司の中での疑問は大きく膨らんでいき、そして、ついに口を突いた。

「待って、君は・・・・・・誰だ?」

 まっすぐとした司の問いかけに迷いは一つも無い。

 その司の問いに九葉より先に、その後ろに控える華菜が最初に反応を示して揺らいだ。

「・・・・・・!」

 華菜の表情が驚きの深さを、開け放たれた口が大きさを示しているようだった。

 華菜が大きな動揺を見せた質問だったが、九葉は薄く微笑む。

「私は一つの葉と書いて、かずは。九葉とともに合って、この身に宿る意識の一つです」

 その言葉を受けて、自分の頭で整理した結論を口にしようとした司に一葉は頷いて見せた。

「ええ、多重人格というものです。発生原理はヒトとは違いますが」

 もともと考えを読み取れる九葉の体を共有する一葉が自分の考えを呼んだことにいまさら驚きは無かったが、発生原理が異なるという言葉が引っかかって、司は更に質問を思い浮かべる。

 ところが、今度はにこりと微笑を返すだけで、司の疑問には答えずに、一葉は再び説明の続きに言葉を戻してしまった。

「三つの権利、資格、それは、一つ、万象変化」

 司は疑問の答えを知りたかったが、一葉の様子からもそれ以上答えは求められないと悟り、じっと見つめ口を開ざし、その言葉に意識を集中する。

「二つ、不生不死」

 そこまで言うと、一葉はゆっくりとした所作で、手に持った短刀を司に向けて差し出すと、司はそれがまるで当然のことのように、自然に両手でその短刀を受け取る。

 短刀を手にした司はその手に感じた重みで、初めて受け取っていたことに気がつくほど、それは無意識で行われていた。

 急に短刀を渡された司が慌てて口に仕掛けた問いかけは、一葉の締めの言葉に遮られた。

「三つ、盟約破棄」

 そこまで言い切ったところで、一葉の顔に浮かべていた微笑みが、穏やかなものから華やかなものに変わり、目にも輝きが戻った。

 それが一葉から九葉に戻った合図なのだと、言葉にして確認しなくとも司には感じ取れた。

 九葉はぱちくりと何度か瞬きをしてから司を見据えて、なにやら照れくさそうに笑みを浮かべると、今度は九葉らしい語調で話し出す。 

「簡単に言うとじゃな、司の選択というのはその短刀でわらわを刺すか、女になるかというものじゃ」

 あまりの突拍子も無い九葉の言葉が、司の脳みそに理解という形で受け入れられるまで、しばらくのときを要した。

 そうしてしばらくの時を挟んだ後で、司はこれまでの人生で一度たりとも上げたことの無い大きな声を上げて、とても情熱的に驚きを表現したところで、華菜の体当たりをその身に受けて盛大に気を失った。


「・・・つか・・・司・・・司」

 どこか遠くもやのかかったような現実感の無いふわふわとした場所で名前を呼ばれていることにぼんやりと気がついた司は目をこすりながら体を起こした。

 ぼんやりとする頭の中で薄っすらと疑問が浮かぶ。

「あれ? 私の手ってこんなに小さかったかな?」

 司は手の表と裏を交互に返しながら、空にかざしたり見つめたりを忙しく繰り返す。

 やがて周りの景色が霧で覆われてしまって真っ白なことに気がつくと、どこからか吹いてきた突風で、何かが目の前で踊っているのが目に留まった。

 それが自分の髪だと気が付いたが、司はいまひとつ飲み込めなかった。

 自分の記憶では肩位までの長さだった髪が、二の腕ぐらいまでは有りそうな長さになっていたのである混乱するほどではなくとも、どうにも納得できなかったが、とりあえず、風で暴れないように押さえつけようと頭に手をやると、指の先が何かに当たる。

 不思議に思いながら手にとって見ると、それは臙脂のベレー帽だった。

 ますます疑問が大きくなったところで体に目を移すと、白い丸襟のワイシャツと、オーバーオールを着ているようで、足元には黒い革靴とくるぶしで折り返された白いソックスを履いていて、すねがむき出しになっている。

 半ズボンなんて体操服ぐらいでしか着た事が無いのにと立ち上がったところで、ようやく自分がスカートを履いていることに気がついた。

「おや?」

 ワイシャツと思っていたのはブラウスで首元には臙脂の紐が蝶結びで止められている。

 オーバーオールと思っていたのは紺色のジャンパースカートだったらしく、この格好が、八坂市にある私立の女子校の中等部だか高等部だかの制服ではなかっただろうかと思い描いたところで、不意に『姫乃森学園』という名前が閃く。

 その名前を車の中から診たことを思い出した司の脳裏に、九葉と華菜の二人の姿が思い浮かび、自分が少年であることも思い出した。

 司には少女に間違われることはあってもスカートを履いた記憶は無かったから、これが現実ではないことはしっかりと認識できた。

 そうして、何故かぼやけていた記憶が間欠泉のように次々と噴き出してくる。

「私・・・ボクは何をしていたんだ・・・?」

 誰もいない真っ白な空間の中で、急激に我を取り戻した司の女学生のような外見は一気にその様相を変え、髪の毛は外側に向けてはねる肩に届く程度の長さに、少しくたびれたデニム生地のパンツに厚手のトレーナーと、元の姿を取り戻していく。

 そうして、司がついさっきまでの自分を取り戻したところで、その視界は再びホワイトアウトし始めた。


 次に司の目に飛び込んできたのは木目の美しい飴色をした日本家屋の天井だった。

 布団に寝かされているらしい事に気づいた司は、先程の変な夢が気になって、布団に転がったまま、全身を触って確認してみる。

 どうやら、服装も性別も記憶通りであることに間違いはなさそうだと確信すると、司は妙な疲れと、どこからか沸き起こってきた安心感に深い溜息をついた。

 そのまま、横になって天井を見つめる司の頬を、朝の匂いがする肌寒い風がくすぐった。

 視線を風がするほうに向けると、障子が一枚開けられていて、冬の日差しに照らされて白く輝く廊下と縁側が目に入った。

 そんな縁側の先には立派な池を持つ日本庭園が広がっていて、スズメやムクドリの羽ばたきや鳴き声が聞こえてくる。

 司がさらに視線を障子に向けると、日陰ではっきりとはしないが、そこに小さな人影がぼんやり映っていることに気がついた。

 司は静かに布団から抜け出して、影の主を確かめるべく部屋から顔を出すと、縁側にちょこんと腰掛ける九葉の姿があった。

 昨晩と同じ厚手で薄桃色の浴衣に身を包んでいるが、髪には寝癖一つ付いていない。

 九葉は起き出してきた司に気が付くと、微笑みを浮かべて右手を差し出してみせる。

「どうしたの? 九葉ちゃん」

 差し出された真っ白に輝く手を見つめながら、司は九葉に優しく問いかけた。

 九葉は表情を変えずに、手を差し出したままで短く司に言う。

「握ってください」

 その言葉に一葉だと確信しながらも、吸い込まれそうなあの瞳で言われた司は、ほとんど脊髄反射のように間を置かず、その手を握ってしまっていた。

 そうして一葉が離すように言うまで、しばらくの間、司は力いっぱい握り締めていた。

 何故手を握って欲しいと言ったのか、まったく分からなかったが、司はその理由を意外な形で知ることになった。

 司が手を話した瞬間、握っていた一葉の右手が薄っすらと透けていたのである。

 皮が、筋肉が、骨が、血管が薄く透けて、薄ぼんやりとその輪郭だけが宙に浮いている。

 あまりの事態に言葉を失ってしまった司だったが、自分が一葉の手を握ったから起こったということだけが、何故かはっきりと自覚できた。

 司の頭の中で抜け落ちたピースが瞬く間に埋まっていき、だから九葉も華菜も自分を遠ざけたのだと唐突に理解できた。

 そして、黒犬が飛び掛ってきたあの時、躊躇することなく自分を庇ってくれた九葉が、消えてしまう不安も顧みず危険に身をさらしてくれたのではないかと思い至った。

 何故という大きな疑問とともに、全身を震わせるほどの深く心を揺さぶる九葉への愛おしさが、司の胸中に沸き起こる。

「わらわに触れるのは陰性のもの・・・女性だけなのじゃ」

 消えかけた右手を左手で支える九葉は、すでに九葉の顔になっていて、苦痛に顔をゆがめながらも司に顔を向けると、弱々しいがしっかりと笑みを作って見せた。

 その痛々しい九葉の笑顔が、司の心の中で沸き起こった感情の渦をより大きく強くしていく。

「血の盟約とはわらわを司が護るという契約じゃ、触れられなくては護れまい?」

 苦しげに言葉を続ける九葉を抱きとめることも出来ないまま、司は言葉無く頷いてみせる。

「そこで司の選択は女となってわらわを護るか、短刀でわらわを刺して契約を破棄するかの二つに一つなのじゃ」

 言いながら擦っていた九葉の右手は、徐々に輪郭をはっきりさせ始め、完全に透けていた部分もその度合いは減り始めていた。

「すまんかったのう、司」

 九葉は形を取り戻し始めた右手で、息を荒くしながらも司の頬に触れようと差し伸べる。

 司が咄嗟に九葉の手を避けるようにして距離をとると、その所作を見つめながら九葉は少し悲しげな表情を浮かべた。

 その表情にいたたまれなくなった司はすぐさま頭を深々と下げて謝った。

「ご、ごめん」

 自分に向かって深々と下げられた司の頭を見ながら九葉は弱々しく微笑んだ、

「気にするでない」

 伸ばしていた右手を手元に戻して、ゆっくりと腰を上げた九葉はそのまま司に背を向けた。

 司は九葉の背に向かって、まっすぐ背筋を伸ばすと、腹の底から大声で宣言をして見せた。

「ちゃんと、女になってから触ってもらうよ」

 その言葉に振り向く九葉には顔中に驚きが浮かんでいた。

 驚きのあまり声はか細くなっていたが、九葉はどうにか疑問を口にした。

「わ、わらわのことを気味が悪いと思ったのではないのかえ?」

 九葉の言葉に今度は司がおかしな表情を浮かべた。

「こんなに可愛く思っていて、こんなに愛しく思っているじゃないですか!」

 はっきりと庭中に響き渡るような大声で気持ちをぶつけた司は、心が読めるくせにからかわれているのだと意地悪さに腹が立ったが、昨日の仕返しなら仕方がないかと思い直して、九葉の反撃を待った。

 しかし、一向に九葉のカウンターは返って来ない。

 それどころか俯いたままで、九葉は顔や耳はおろか露出されている足の先まで真っ赤に染めてゆでたこの様になってしまっている。

 その様子に疑問を感じた司は、一つの仮説を組み立てて、恐る恐るそれを口にして様子を伺ってみることにした。

「もしかして、僕の気持ちが・・・わかってなかった?」

 その質問にピクリと肩で反応を示す九葉だったが、それ以上のリアクションは起こらない。

 どうにも気まずい空気が二人の間に立ち込めたまま、しばらくの時が過ぎてから、不意に九葉が声を震わせながら答えた。

「・・・昼間は・・・能力も・・・弱くて・・・のぅ」

 その言葉に今度は体中を真っ赤にしたのは司のほうだった。

 九葉が心を読めていなかったのなら明らかにあれは大告白だったと、初めて頭が真っ白になるというのを体感しながら恥ずかしさで気を遠くしていた。


 早朝の出来事から数時間、正午を前に昨日の広間の横にある六畳敷きの控えの間で、司は華菜と二人きりで無言のまま顔を合わせていた。

 覚悟を決めた以上、華菜の承諾を得なければならないと九葉に言われてこうして二人でいるのだが、お互いに言葉も無く黙り込んだままでかなりの時間がたってしまっている。

 長年の受身体質とはいえ、さすがに痺れを切らせた司が、おずおずと話しかけた。

「僕はやっぱり、九葉ちゃんを傷つけることはできません! ですから・・・」

 真っ直ぐ華菜を見つめ、そこまでは勢いよく訴えていた司だったが、鋭い視線を向けられた途端に意気消沈して、声が小さく弱々しくなってしまう。

 押し黙ってしまった司の言葉を反復して聞き返す華菜の声は低い。

「ですから?」

 威圧的な視線にごくりと息を飲み込みながらも、心に決めた思いを伝えるべく、覚悟を決めて再び口を開く。

「僕は、九葉ちゃんのそばにいるために女性になろうと思います」

 しっかりとした眼差しで華菜を見つめながら言い切った司の言葉には、本気以外の何者も介在していない。

 はっきりと意思を示された華菜は小さく溜息をついてから司に短く問いかける。

「それはどのようにしてですか?」

 華菜の言葉は決してからかう様ではなかったが、低く見ている風は多分に含んでいる。

 試されているような感覚を感じた司は、華菜の言葉に全て答えきるつもりで、覚悟を秘めた言葉を口にする。

「女装とかぐらいで済むといいんですけど・・・」

 ちらりちらりと華菜の反応を確認しながら言葉を進めていく司だったが、華菜の反応は薄くどこか肩透かしを食らったような印象すら感じた。

「こ、この際、手術とかも・・・」

 真剣な表情で思い立った事を確認しながら更に続けようとしたところで、ついに華菜が溜息を深くついて反応を示した。

「そのどちらの方法も必要ありません」

 きっぱりと言い切った華菜は、司にやれやれといった顔を浮かべて説明を始めた。

「そもそも、上辺だけの変化では何の意味も示さないのです」

 その言葉の意味を図りかねて瞬きをする司に、華菜は真剣な表情を浮かべて更に続ける。

「この世の中のあらゆるものを、陰と陽の二つに分類する考え方をご存知ですか?」

 華菜の問いに、司は首を横に振って答えると、華菜は頷きながら更に説明を続けていく。

「人で言えばこの陰陽は、陰が女性を示し、陽が男性を示すのですが、普通のヒトとは違う存在である九葉様はより陰の力が強い存在なのです」

 自らの説明に理解が追いついているのか、時折司を見ながら華菜は淡々と話している。

「それこそ、昨日あなたが見た魔物の方がその性質としては九葉様には近いほどです」

「あれに・・・九葉ちゃんが?」

 表情を曇らせながら呟く司だったが、華菜は話を遮る類のものではないと判断して続ける。

「そんな九葉様にとって、天敵とも大敵ともいえるのが陽の力なのです」

「陽の・・・」

 華菜の言葉を反芻しながら懸命に理解しようと司は頭を動かしていた。

 その様子に頷きながら、司の反応を確かめつつ、華菜は慎重に話を進めていく。

「本来は陰と陽がある程度バランスよく存在しているものなのですが、九葉様は特に陰の力を強くお持ちのために、陽の存在の干渉を受けるとその存在自体が揺るいでしまうのです」

 存在が揺るぐという説明に、九葉の消えかけた右手が司の脳裏に浮かび上がる。

 瞬間、司はそのことを口に出して聞いてしまっていた。

「そ、それじゃあ、やっぱり、陽の・・・つまり、男が触れ続けていたら、九葉ちゃんは消えてしまう?」

 自身の常識という枠からはすでに大きく逸脱した話ではあったが、朝のことや今の話を経て司の脳内で組みあがった理解が正しいことを華菜の頷きが証明した。

「西洋の吸血鬼のように灰になってしまうわけではありませんが、太陽の光を浴びることや、昼間に動くこともお体がお辛いはずです」

 華菜の言葉に、日陰で自分が起きるのを待っていてくれた九葉の顔を合わせた瞬間の笑顔が思い起こされ、司の胸は熱くなって、聞かずにはいられなくなっていた。

「華菜さん、どうしたら女になれるんですか、方法があるんでしょう、薬とか、何とか・・・」

 突然詰め寄ってきた司を見つめながら、華菜は押し黙ってしまったが、しばらくの間にらみ合いを続けたところで、華菜が重い口を開いた。

「万象変化」

 華菜のいうその言葉の意味はわからなかったが、昨日、一葉が言っていた言葉だということはすぐに思い出せた。

 一葉の言っていたその言葉の意味を聞き出そうと開いた司の口の中に赤い珠が放り込まれた。

「黙って飲み込みなさい」

 舌の感触で辛うじて球体であることを感じ取った司はそれが何なのか考えるよりも先に、華菜の言葉に従って一気に飲み下した。

 飲み込むにはやや大きめの珠が食道を行く感触と口に残る僅かに塩分を含んだ鉄の味が、司の表情を曇らせた。

「これは・・・」

 困惑する心をそのまま表情に出しながら問いかける司が、華菜を見つめた瞬間、突如華菜の姿がぶれ始めた。

 そして視界のぶれは華菜だけでなくその周囲にも広がり、それとともに突如体が震え出す。

 正座を保っていられずにその場に崩れ落ちるようにしてうずくまる司を見つめながら、華菜は静かに立ち上がり見下ろすようにして司の様子を眺め始めた。

「血珠、貴方の体を再構築するある種の呪いであり、秘術であり、秘道具です」

 司の耳に届いている筈の淡々と続く華菜の言葉が徐々に遠ざかっていく。

 体を覆う皮の内側で燃え上がった炎が暴れるように全身の感触を麻痺させながら、体全体を熱く発熱させていく。

「万象変化は九葉様との盟約によってもたらされる力、自己の認識や想像力で肉体を別の生物に、植物に、あるいは金属に変容させることのできる能力です」

 あまりの苦痛と熱に目を閉じた司の脳裏には肉体の変容が克明に映し出されていた。

 筋力を失っていく全身の変化も、丸みを帯び始めた胸も、伸びる髪の毛も、直接見ていなくとも、その変化が司には完全に把握できていた。

 全身が変化していく感覚を克明に認識しながらも、苦痛と熱に侵され続けている司に掛けられる華菜の説明の言葉は未だ続けられていた。

「その気になれば、背中に羽を生やして飛ばすことも、腕を銃器に変えることも出来る力です。そして、血珠はその力を利用して、気の性質の根幹、陰陽の理を反転させること、つまり、ヒトであれば、性別を転換させる力があるのです」

 遠くに聞こえる華菜の説明で強く意識したせいか、司は自分の変化の速度が上がったことを感じ取っていた。

 司は説明の中にあった認識や想像力が、言葉どおり変化に影響を与えることを実感する。

 自らの体で万象変化の能力を理解しながら、体の中心から外へ向かって発せられていた流れのようなものが、変化とともに留まり、やがて体の中心へと集まるような流れにかわったのを感じ取ることで、陽が発散する外向きの力、陰が内側に集約される内向きの力であることも、司は自然と感じ取っていた。

 司は陰陽の理と万象変化の根幹を漠然とだが、感覚で理解し始めていたのである。

 そうして意識の中に揺らぎ、現実とかい離し始めた司の耳に、不意に華菜の声が届く。

「司君、私は九葉様を・・・いえ、誰も傷つけたくはありません」

 華菜の声が突然大きくなった気がして、司は苦痛を感じながらもゆっくりと目を開く。

 華菜の顔を見ようと動かした頭に合わせて、髪の毛が畳の上を滑りながら立てる音が、髪が伸びたことが現実であることを裏付けている。

 自分の変化を実感しながら、司が見上げた華菜の顔は、どこか悲しみめいていて今にも泣きだしそうだった。

「今のうちに、短刀で九葉様を刺し、盟約を破棄しなさい」

 そういいながら華菜はその手を司の肩に置く。

 手と皮膚の間にまるで何枚もの壁があるように、遠くに華菜の手の感触を感じたが、その手に込められた優しさが強く感じられた気がして、司を大いに混乱させる。

「き、傷つけたく・・・ない・・・のに、どう・・・して?」

 声を震わせながら、司はやっとのことで疑問を口にすると、華菜は逡巡して僅かに間を置いてから、意を決してゆっくりと口を動かしたが、その時には華菜の声はあまりに遠ざかっていて、司には聞き取ることが出来なかった。


 司が次に意識をはっきりとさせた時には、全身の熱さも視界のぶれも無くなっていた。

 朝と同様に布団に寝かされていて、状況を確認しようと起きかけたところで首を思いっきり後ろに引っ張られて、首と同時に頭皮に激痛が走った。

 声にならない悲鳴を上げて布団に引き戻された司は、自分が伸びた髪の毛を自分の体で踏みつけていたことに気がついた。

 服装もさっきまでの洋服から白い襦袢のような浴衣に変わっていて、襟が綺麗に合わせられ桃色の腰紐で結わえられている。

 一通り体を触って状況を確認したところで、今度は髪の毛に気をつけて起き上がる。

 立ち上がった司は、朝と同じ部屋のはずの間取りに、妙な違和感を掻きたてられた。

 その正体に悩むより先に、司は自分に起こった変化を目でも確かめるべく、両手で襟をつかむと、胸と腹を覗き込んだ。

 そこにあるはずの慣れ親しんだ胸板は柔らかそうな曲線を描き、腹筋は完全に姿を消していて、なだらかで美しい真っ白な肌に変わっている。

「むう・・・」

 自分の変化を確認したところで、溜息混じりのあきらめが無意識に司の口から漏れる。

 現実離れした話の連続だったが、こうして変化を体感してしまった以上、それは現実であるし受け入れる他はない。

 司は深く深呼吸をして気持ちを落ち着けると、ふと華菜の言っていた意識と想像力で自らを変化させることのできるという万象変化のことを思い出した。

「万象・・・変化」

 自分自身の体をこうして簡単に作り変えてしまうほどの力に興味が無いといえば嘘になる。

 できることなら今すぐに試したい気持ちがあるのは事実だったし、もしその方法を知っていたらこの場ですぐに試していたかもしれなかったが、幸いにというべきか、残念ながらというべきか、まだ司はその方法を知らなかった。

 司が自分の手をしげしげと見つめながら、そんなことを考えていると、がらりと音を立てて襖を開けた華菜が部屋に入ってきた。

 部屋に入ってきた華菜が急激に身長を伸ばしていたので、司は思わず後ずさってしまうが、司の様子を別段気にした風でもなく、華菜は静かに宣言をしてみせる。

「起きたのなら話の続きをします」

 わずかに身構えて、警戒の色を示す司に、華菜は見下ろしながら言い放つ。

「貴方が縮んだのです」

 司は華菜の一言によって、ようやく先ほどの違和感もいつの間にか見上げながらでないと華奈の顔が見えなくなっていた理由も理解できた。

「お座りなさい」

 部屋の中央で先に腰を降ろした華奈は、座布団を差し出して司にも座るよう促す。

 司が素直に差し出された座布団の上に腰を降ろすと、華奈は静かに口を開いた。

「実際に経験をして分かっていると思いますが、それが盟約によって得た力の一端です」

 華奈の言葉に司は頷いて応える。

「盟約自体は姫とその守護者である護の間に交わされる主従の契りのことです」

「主従の・・・契り」

 華奈の言葉を確かめるように反芻する司に今度は華奈が頷く。

「貴方はもう一つの力、不生不死の力によって肉体的な死はなくなり、文字通りその身を投げ打って九葉様を守ることを勤めとする『姫護(ひめもり)』となったのです」

 華菜はじっと反応を確かめるように司を見つめて一旦口を閉じた。

 問いかけようか考えあぐねていた司は、華菜の待ちの姿勢に応えて口を開く。

「肉体的な死がない?」

 華菜の説明での一番の疑問点を口にすると華菜は頷きながら説明を再開する。

「不生不死とは文字通り生きも死にもしていない状態になるということです」

「それは・・・」

 どういうことかと聞き返すよりも先に華菜は言葉を続けていた。

「どれだけ大きな損傷を受けようと瞬時に再生することが出来るのが不死の力、ちょうど、昨日の戦いの中で九葉様の傷が一瞬で回復したのがそれです」

 華菜の言葉に九葉が負った傷や流した血が輝き。その光が消える頃には消えてしまっていた不思議を司は鮮明に思い出す。

 同時に司は、九葉に傷を負わせたことも、命がけで庇わせてしまったことも思い出して不甲斐無さに表情を曇らせるが、華菜は気にした様子も見せず説明を続ける。

「そして、不生とは髪や爪が伸びなかったり、身長や体重が変化しなかったり、生物であれば必ず起こる肉体的な変化が起こらないということです。もちろん、人と暮らす中では不都合がありますから、万象変化で身長、髪や爪を伸ばすことでフォローしなければなりませんが、そうしなければ何年でも同じ姿でいられるということです。そういう意味では、不老とも言えるかもしれません」

 司は華菜の言葉を聞いて、自分の手の爪を見つめ、長く伸びた髪の毛を指でいじってみる。

 そんな司をじっと見つめながら、一拍ためて華菜は表情を険しくして続ける。

「これだけの力を与えられるのは、我々の戦うべき敵がそれだけ超常の存在であることの現われだということです」

 すっと視線を細くした華菜に頷きながら、司は確認の言葉を口にする。

「昨日のような?」

「そうです。我々の敵、この世にあるものが著しくその特性を失うかまたは増長させた存在、我々はそれを『キワミ』と呼んでいます」

「『キワミ』・・・」

 反復した司の脳裏に浮かぶ揺らめく闇をまとった黒犬は、確かに普通の生き物では無かった。

 そして、あれこそがこの華菜も九葉も敵として相対していた存在なのだと認識した司は、無意識に握りこんだ拳を震わせていた。

「いずれ、司君にも修行を修めて『キワミ』と戦うときが来るかもしれませんが・・・」

 華菜はそこまで言うと視線を落として正座する司の膝を見つめながら言い放つ。

「その前に九葉様との盟約を破棄しなさい、姫護でなくとも九葉様を守れます」

 未知なる存在との戦いに身震いをしていた司に、抑揚を抑えた華菜の言葉が水を注した。

「な・・・」

 唖然とした表情を浮かべる司に、華菜はなおも言葉を続ける。

「貴方はいずれ後悔する事になり、九葉様も傷つくでしょう。ですから・・・」

 華菜の顔も声も感情が読み取れないほど無表情だったが、司に訴えかける言葉はとても悲しげにひどく辛そうに聞こえた。

 嫌がらせや嫌悪感ではない感情を内側に含んでいるのを感じながら、相手の気持ちを尊重し自分を殺して生きてきた司が、初めて心の指し示すままに力強い声で華菜の言葉を否定した。

「僕は九葉ちゃんを傷つけませんし、何があっても後悔しません!」

 司にはこんなにはっきりと面と向かって誰かの言葉を拒絶したことは無かった。

 自分の感情の存在を強く自覚して、そのままに訴えることは司には大冒険だった。

 緊張からか恐怖からか体は震えるし、華菜の言葉を拒絶した罪悪感も多少なりとある。

 だが、それでも心の内に大きな感動と歓喜も渦巻いていた。

「それは九葉様を無視した自己満足ではないのですか?」

 華菜の問いは司の心を大きく揺さぶったが、司はそれでも崩れる事無く意思を示す。

「自己満足かもしれません。でも僕は九葉ちゃんを守ります。身も心も」

 真っ直ぐに自分を見つめる司をしっかりと見つめ返しながら、考えを巡らせていた華菜の表情がふっと緩んだ。

「仕方ありませんね」

 目を閉じてため息をつきながらヤレヤレといった表情で言う華菜の声は柔らかかった。 

「もし後悔してしまいそうな壁にぶつかったら、ちゃんと相談するのですよ?」

 それまでの厳しい姿が幻だったように、司に囁いた華菜は優しかった。

「華菜さん・・・」

「それから、先程の続きですが、肉体的に死ぬことは確かにありませんが、精神的に死んでしまうことはあります。自らの死を自覚してしまった場合、二度と目覚めないことがあるのです。それ以外にも肉体がその姿を保てなくなってしまう場合があります。それはおいおい説明しますが、まずはその体に慣れてもらいましょうか・・・」

 華菜は不意に立ち上がると、そのまま司をたたせて浴衣を脱がせ始めたので、司は驚きのあまり変な声を上げてしまった。

「ふえ・・・!」

「驚いている場合ではありません。司君には十二年分の女の子としての経験を、一ヶ月ほどで蓄積して、立ち振る舞いを会得してもらわなければいけませんから」

「え、ええ?」

 一方的に告げられた宣告とともに、華菜の手で服を脱がされていく司には、意味をなさない驚きの声を上げる以外になす術は無かった。


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