第1章 はじまりの夜に
第一章 はじまりの夜に
都心から電車で一時間ほど離れた場所に、八坂市という町がある。
八坂市は意図的に作られた円形に近い形をした町で、北に山、南に海、東に川と変化に富んだ地形を有し、首都圏に向かう人々のベッドタウンとしても、人口も五万世帯十万人を数え、いまだ発展を続けている。
もっとも、発展を続けているのは、八坂駅前の私立病院や庁舎などが施設された市の中心街や南に広がる新興住宅地など、市の東部から中心部、南西部にかけての話ではある。
中心街の北西に位置する元町地区と呼ばれる旧市街などは、太平洋戦争時に軍事施設の多かった隣町と違って、空襲の被害も少なく、車一台通るのがやっとの路地が走り、大きな洋館や古民家が点在する古い町並みを今に残している。
さらにその幾つかは県や市の有形文化財に指定されているため、八坂市の中心部に近接しながらも、ここ何十年と町並みを変えていないし、これからも大きくは変わりそうにない。
そんな時代に取り残された様な町並みは、洋館や和風のお屋敷などの明治・大正期に乱立された建物には一貫性が無く、一部の研究家やマニアを除くと、どうにも観光客受けはよくないようで、長い歴史が鎮座するこの一帯を散策する人間はそう多くない。
そんな元町地区の西側には広く大きな田園が広がっていて、田園を取り囲むように仄白いアスファルトの市道が張り巡らされ、広大な田園の中には軽トラックが走れるもの未舗装の道路とヒト一人がようやく通れる程度のあぜ道が交差しながら延びていた。
そんな田園の中を走るあぜ道には電柱が無く、電灯も自動販売機も無い。
夜ともなれば、中心街からの明かりも届かない上に、田園の周囲の家は年配者が多く早く休む家がほとんどで、電灯すらない夜の田園は人工の灯りからはほとんど隔離されてしまう。
人工の光が無いといっても、真っ暗闇になるというわけではなく、その日の月あかりの加減や雲の具合によっては驚くほど明るい日もある。
それこそ、快晴ともなれば、どこかの高原で見上げるような天体の祭典とまではいかないにしても、十分に見応えのある星空を望む事ができる。
そんな美しい星空も、住人たちは見慣れてしまっているし、近くに有名な観光スポットもないお陰で誰に騒がれることもなく、夜の田園はひっそりと静かに時を刻んでいた。
そんな静かな田園に奇妙な出会いが訪れたのは、厚い雪雲が空を覆う、満月の輝きもどこか朧気なとても寒い夜だった。
雲の中に隠れていた月が顔を出して、わずかに明るさを取り戻したのは、ちょうど日付が変わる頃で、すっかり冷え切ってしまった真冬の田園には人はおろか動物の姿も無かった。
そんな生き物の気配の無かった田園の東側、元町の方から不意に一人の小柄な人物が、ゆっくりとした足取りで姿を現した。
膝丈の紺のコートに身を包み、ベージュのマフラーが顔半分を覆うように巻かれていて、外気にさらされた栗色の髪は肩にかかる程度の長さで揃えられ、外側に向けて少し跳ねている。
少し色の落ちたデニム地のズボンを履いた足元では、手入れのされた少し古めの型のスニーカーが軽いテンポで歩を刻んでいる。
小柄な人物は、時折立ち止まっては、すっと満月を見上げる。
満月を映す褐色の瞳は大きく、見上げた拍子にマフラーから出る顔は、肌も白く線も細い、少年とも少女とも即座には判断がつかない。
中性的というよりは性別の特徴が出ていないという感じで、年齢で行くと十代前半か中ごろくらいにしか見えないほど幼い。
夜遅くに一人で出歩くには少々問題がありそうな外見だが、あと一ヶ月ほどで高校を卒業する彼、小林司は十八歳になったばかりのれっきとした少年である。
幼い頃から女の子に間違われるほど愛らしい顔立ちをしていたお陰で、普通の少年とは違った経験を多くしてきた小林司には奇妙な特技があった。
相手の考えを投影する能力とも言うべきだろうか、意識すること無く相手の自分に対する想像の姿を、自然に演じることができるのである。
はじめは相手が自分を女の子として扱ったら女の子として、男の子として扱ったら男の子として振舞うというだけのことだったが、物心がついた頃から続けてきた習慣は恐ろしいもので、ちょっとした年齢の幅がつけられるようになった頃から急激な進化が始まり、今では思考や発想の仕方まで違う完璧な別人格として振舞える特異な処世術として、司に溶け込んでいた。
さらに、司の相手に合わせる技術は、演じる力に長けているだけではなく、相手の考えや思いを読み解くことにも優れていて、周囲の人間の変調も敏感に察知することが出来た。
もともと司は世話焼きな性格で、困っている人には手を差し伸べずにはいられないのだが、察知する能力のお陰でお節介が過ぎる前にとめることも出来る司の介助は絶妙な加減で、感謝する人間はいても、恨みや面倒に思うものはいなかった。
司にとって、周囲の信頼や期待に見返りを求めることなく、全力で応えることは至極当然だったし、そんな生き方に誇りと使命感の様なものを感じていた。
司がそんな風に考えるようになったのは、人に優しく出来る人間が一番尊いと教えてくれた父親の影響だった。
幼い頃に病気で母親を亡くした司を男手一つで懸命に育ててくれた父は、親戚との縁が薄かった人のようで、祖父母や親戚とは顔を合わせた記憶が司にはなかった。
頼る親戚も無い二人きりの生活は、幼い司には少し寂しかったが、仕事に追われる忙しい毎日を送りながらも、常に優しく暖かく接してくれた父は、司にとってこの世で一番尊敬できる憧れの人だった。
司の父は自分が無理をしてでも誰かの為に生きるような人だったから、その背中を見て育った司が、同じような生き方を無意識に歩んでいるのも当然なのかもしれない。
そして、そんな父が病気や老衰ではなく、子供を助けようとして命を落としたことを、司はとても自然なことのように感じていた。
その日はその夏の最高気温を記録したとても暑い日だった。
夏休みの登校日で、司は友人たちと数日振りに対面して、終わってしまった夏休みの前半戦を嘆きながら語り合っていた。
担任が教室にやってきて始まった形式だけのホームルームが終わりかけた頃だったろうか、突然、教室の扉が開き、先程まで体育館で式の進行をしていた教頭が息を切らして教室の中に飛び込んできた。
荒い呼吸で教頭が告げたのが、司の父が交通事故で亡くなったという訃報だった。
教頭からの予想すらしなかった報告に、教室は一瞬ざわめき、すぐに声を失った。
静まり返った教室には窓の外からセミの鳴き声だけが響き渡り、生徒も教師も報告を受けた時のままの姿勢で動きを止めていた。
その時の止まった教室の中で、司は何度も言葉を反芻しながら、意味を理解しようとするが、うまくできずに、報告に来た教頭をただじっと見つめていた。
普段なら、次の行動を瞬時にはじき出して、司に行動を起こさせる頭が何の反応も示さない。
固まる司より先に、我に返った生徒たちが恐る恐る司の名を呼びながら視線を向け始めた。
その視線を受け始めた瞬間、真っ白だった司の頭は急速に動き出した。
そうして、司の頭の中に『泣かなければいけない』という指示が駆け巡った次の瞬間、司は大粒の涙をこぼしていた。
普段明るく辛い顔を見せたことのない司の涙は、それだけで周囲の同情を引く力があった。
女生徒のほとんどはつられて泣いてしまっていたし、男子生徒も心配そうなあるいはつらそうな表情を浮かべ、言葉も無く肩をたたくものもいた。
司のその『泣かなければいけない』という行為の選択はとても相応しいものだった。
だが、それが逆に司の心の中に小さなしこりを残すことになった。
小さな疑問、それを深く考えるまもなく教頭とともに教室を出た司は、そのまま八坂警察署に向かうことになった。
警察で父を確認し、そこからどうなったかは気が動転していたせいか、あれから一年半も過ぎた今となってはすっかり思い出すことも出来なくなってしまっていた。
それからしばらくして、あの日のこと思い返すと、あの時、本当の自分は何も考えていなくて、ただ同情の視線を受けたから泣いたのではないかという疑念が、誇りだった生き方にも影を落とすようになった。
冷静に自分を見つめ直す度に、そのことに気づかない振りをしていただけで、本当は随分前から知っていたような気がして、その度に司は滅入る様になった。
自分は父の様に優しくて穏やかな人間ではなくて、プログラムされた最良の手段を選択して実行するだけの機械的で打算的な存在ではないかという思いが、司の中でどす黒い渦を巻きながら日に日に大きくなっていた。
それでも、困った人を放置できない性格は、気づけば司に人助けをさせているが、どうにも感情が伴っていない気がして、以前のような晴れやかな気持ちにならなくなっていたし、自分の行動が結局は偽善でしかないのではという思いが、司の苦悩を深め続けていた。
そんな悩みを抱える日々の中で、ふと見上げた月がなぜか司の心のしこりを溶かしてくれた。
はじめは、なぜか気分が晴れるという程度の認識だったが、いつの間にか静かに月を見上げられる場所を探すようになって、人もいない、人工の灯りもないこの田園を見つけた。
それから、夜中にこうして月を眺めながら田園を歩くのが司の日課になって、この晩でかれこれ一年が過ぎようとしていた。
月見が目的の司にとって、散歩自体の目的地はないのだが、一応、夜中に徘徊しているというのも職務質問などを受けたときの説明に困るので、試験勉強の息抜きと称してコンビニまで飲み物を買いに行くことにして、ルートもそれに沿ったものにしていた。
別段やましい事はないが、お巡りさんに変な手間をかけさせるのも悪いという思いがあってそうしているのだが、芽生えてしまったしこりのせいで、本当は打算的な計算ではないか、という疑念の種になってしまう。
しこりと自分への疑念を抱き始めた頃から、無意識に人との関わりを避けるようになった司は、父の遺してくれたお金で金銭的余裕が出来たことからアルバイトを止めてしまい、今では学校以外の場所での会話が極端に少なくなってしまっている。
司のアパートの周囲に住む人々も、父子の仲の良さを知っていて、気遣いから一時的に距離をとるようにしていたのも、司の孤立に拍車をかけていた。
人との関わりが希薄になったことで、一人で過ごし悩む時間が極端に増えた事は、司の精神をじわりじわりと追い詰めていくだけでしかなかった。
そんな孤独と苦悩に囲まれてしまった司にとって、自然の美しさはとても安らぎを与えてくれる存在だったが、それよりも全く別の世界へ誘ってくれそうな危うい神秘さが、司の心を強く惹きつけて離さなかった。
それはこの日々の苦悩から逃げ出したいという司の願望の現われだったのかもしれない。
田園地帯を西へ抜けて少し行くと、上下二車線ずつの八坂市では比較的広めの道路へと出る。
以前は、東西を結ぶ大動脈の一部を担っていた国道だが、最近北にある山間に整備された高速道路によって、軒並み交通量を減らしている。
当時の通り沿いは深夜でも営業をする飲食店やガソリンスタンドで埋め尽くされていたが、今ではその数も減り始め、司の通うコンビニの周囲に明かりの灯る店はない。
一番近い元町の住宅地でも少々距離がある国道の周辺は、住民よりも国道の利用者向けに出店されていた店ばかりで、利用者が減れば店も減るのは当然の流れだった。
住人にとって便利なのは、どちらかといえば駅前の店なので、司も夜の田園を散歩する趣味でもなければ、わざわざ来ないだろう場所だった。
実際に、ほぼ毎日通っているが、この道で人とすれ違った記憶はないし、動物もたまに猫や犬の鳴き声が聞こえる程度で、数百メートル離れた田園からでも国道の橙色のライトがよく見える程、さえぎる明かりも建物もない。
司は通いなれた道ながら、誰もいない世界を歩んでいるようでわくわくする自分を見つけては、子供っぽいなと何度か苦笑したこともあった。
辿り着いたコンビニは、暖房が効いていて、寒さで引き締まった体の緊張がふっと緩む。
軽く身震いをしてから買い物籠を手に店内を進むと、いつもの若い男性店員と目が会った。
アルバイトをしながら学費を自分で稼ぐ彼は、この近くの大学に通っているらしい。
一度「すごいですね」と尊敬の念を示したら「留年して仕送りを打ち切られた」と恥ずかしそうに告白してくれたなかなか人のよさそうな人だと司は認識している。
彼は以前から司のことを少女と思っているらしく、受け答えや態度が丁寧で優しいので、司にとってもお気に入りの店員だった。
よくよく考えてみると、学校外で一番よく話す人物かもしれないと司は思っている。
さらに、本格的受験シーズンを迎えて、登校がほとんどなくなった今となっては、唯一の存在かもしれないと思い直したところで、なぜか彼と話すときは楽しいことに気がついて、散歩の一環だからだろうかと首を傾げた。
そんなことを考えながら店内を軽くぶらついて、缶入りの温かい飲み物をいくつか買い物籠に放り込むと、司は店員に軽く会釈をして商品かごをレジに置いた。
買い物籠の中の商品を取り出しながら黙々とバーコードを読み取っていく店員に、鼻から下をマフラーの中にうずめたままで、司は柔らかな声色で話しかけた。
「寒い・・・ですね」
小首を傾げる様な仕草に、声を上ずらせながら店員は答える。
「そ、そうですね」
少し引きつった笑顔を見せた店員に、司はなぜか嬉しくなって店の外を指差してみせる。
司の行動に不思議そうな顔を浮かべながらその指先を追う店員の目に、空に浮かんだ美しい満月が飛び込んできた。
「今晩は満月ですから、お月様がとても綺麗ですね」
嬉しそうに弾んだ声で言う司に、店員は軽く口をあけながら固まってしまっていた。
目の前の司の可愛いらしさも、月の美しさも店員の動きを止めるには十分な効果があった。
左手にバーコードリーダーを握り締めたまま呆然とする店員は、目の前でひらひらと振られた司の手でようやく我に返ると、目の前で微笑む司と視線がぶつかった。
「私もお月様好きだから見とれちゃうこともあるけど・・・」
そういいながら司は店員の顔の前で振っていた手で商品籠を指差す。
「お会計お願いします」
いかにも年頃の少女が浮かべそうな悪戯っぽい笑顔で、ぺこりと店員に向かって頭を下げる。
「ああ、ご、ごめん・・・なさい」
司の仕草にどぎまぎしながら店員は慌ててバーコードを読み取り終えると、すばやくビニール袋に商品を詰めていく。
「え、えーと、ぜ、ぜんぶで」
動揺で店中に響きわたりそうな大声になりながらも、どうにか合計金額を言い切った店員に、司は小さく「はい」と返事をすると、コートのポケット小さな小銭入れを取り出す。
無言で掴んだ店員の手の平の上に、司は一枚一枚小銭を並べて行き、金額ちょうどになったところで手を離す。
自分の手に載せられた小銭を数え終えると、鼻息荒く店員は口を開いた。
「ちょ、ちょうどで、あります」
そのあまりに素っ頓狂な店員の声に、つい司は声を上げて笑ってしまった。
レシートを差し出しながら恥ずかしそうに頭を掻く店員に、ひとしきり笑い終えた司は、レシートを受け取りながら、うっすら浮かんだ涙を拭いつつ軽く敬礼をしてみせた。
「それではまたであります、面白い店員さん」
そういって商品の詰まったビニール袋を手にした司の後姿を見送りながら店員は頭を下げた。
「ありがとうございました」
どこか嬉しそうな店員の声に見送られてコンビニの外に出た司を追いかけるように、一拍遅れてドアの開閉を告げるチャイムが聞こえる。
耳の片隅にチャイムの音を聞きながら見上げた司の視線の先には、煌々と輝く満月が浮かんでいて、それを確認するだけで司の気持ちは晴れやかで楽しい気分になった。
買い物袋を提げて、来た道を戻る司の目に一台の黒塗りの高級車が止まった。
司自身、車に詳しいわけではないが、大分値の張る車だというのはよくわかる。
少なくとも電柱も電灯もない農道には、ひどく不似合いな車であることは間違いなかった。
このあたりの人のことは顔見知りが多いのでよく知っているが、間違っても高級車を乗り回すような人物はいなかったし、路上駐車をするのにしてもわざわざ国道から数百メートルも入ってきて止めはしないので、ますますもって疑問を掻き立てる存在だった。
コンビニに向かう時には見なかったので、買い物をして戻るわずかな間に来て止まったということになるのだろうが、運転手の姿も付近には見えない。
司が軽く見渡した限りでは、明かりが灯っている家は無くどの家も寝静まっているようで、運転手は雲のように掻き消えたということになるのではないだろうかと、探偵小説の一節にでもありそうな妄想を浮かべながら、司は自分のアパートへと向けて再び歩き出した。
ふと、満月の夜は月の魔力でおかしくなるとか何かの本かテレビ番組で見たようなあいまいな記憶を思い出しながら、司は来たときと同じように、時折月を見上げて立ち止まっては、名残を惜しむようにゆっくりとした足取りで歩いていく。
司が高級車を離れ、田園地帯を戻り始めてしばらくたった頃、再び広がり始めた雪雲が煌々と輝いていた満月を完全に覆ってしまった。
真っ暗とまではいかないまでも、暗闇に包まれた田園は身を刺すような寒さを漂わせ始めた。
田園の中心付近に一人いるせいか、遠くに見える人工の明かりが物悲しく心細い。
そんな心細さを抱かせる人工の明かりを見つめるうちに、司の頭に『はやくかえらなければ』という言葉が繰り返し響き始めた。
それがあまりにも父の亡くなった日の出来事に似ていて、司は咄嗟にここに留まろうと、今にも歩き出そうとしていた足を無理矢理に止めた。
頭の警告が仮に本能によるものだとすれば、それに逆らうことは明らかに危険には違いなかったが、こんなひと気の無い場所で何かが起こるとは到底思えなかったし、たとえ何かに巻き込まれたとしても、今を脱却できるのならそれもいいかと司は心を決めた。
あの夏の日から引きずってきたしこりを消し去ることの方が、この時の司には重大で重要なことだった。
そうして、鼻息を荒くしながら心の葛藤を始めた司の眼前に、不意に一片の小さな白い雪がふわりと舞い落ちた。
宙を漂う雪を無意識に目で追いかけ始めた司の心が突然ふっと解けた。
司がそのことに気がついたときには、頭に繰り返し響いていたはずの命令の言葉は消え、激しい葛藤で引き止めていたはずの足の自由も取り戻していた。
自身の心境の急変に驚いた司が呆然としている間にも、雪は一片、一片と、徐々に舞い落ちる数を増やし続け、足を速め始めた雪は司の心の葛藤を埋め隠す様に、心に大地に静かに降り積もっていく。
そうして葛藤が薄まっていくのを実感しながら、司は雪が振り落ちる空を見上げた。
うっすらと満月の明かりが漏れる雪雲と舞い散る雪はとても美しくきらめいていて、それを見上げる司の表情はとても穏やかだった。
時を忘れて空を見上げる司の綺麗に澄んだ褐色の瞳は、舞い落ちる雪と雲からわずかにこぼれ落ちる月明かりをただ静かに受け止めていた。
しばらく空を見上げていたせいで、司の肩をところどころ白い雪が覆っている。
雪で冷やされた体が無意識に軽く身震いをさせたことで、ようやく我に返った司が家へ帰ろうとアパートの方角へ足を向けたところでその異変に気がついた。
体を動かしたその瞬間、不意に背後から人の気配がしたのだ。
瞬時に頭を駆け巡った先ほどの警戒の言葉に緊張しながら、咄嗟に身構えて振り向くものの、司の目線の高さには誰もいない。
気のせいかと胸を撫で下ろしながらわずかに視線を下げたところで、無言で立つ一人の少女の姿に気がついた。
司は悲鳴を上げかけて、そのまま突如現れた謎の少女の姿を見入ってしまった。
誰が立っていても驚くような状況で、悲鳴が止まってしまうほど、司の目の前に立つ少女は美しかった。
少女は小学生くらいの幼さで、厚手の白い着物に身を包み、黒い髪は腰にかかるほど長く、前髪だけを眉毛にかかる程度で切りそろえている。
まるでよく手入れのされた日本人形を思わせる少女の硝子玉の様によく澄んだ瞳は、わずかに青みがかった鈍色をしていて、桃色の唇は薄く、透き通るような白い肌によく映えている。
着物には藤色の帯が締められ、赤い帯締めと桜色の帯上げが少女らしさを際立たせている。
足元には純白の足袋と赤い鼻緒のぽっくりの様な背の高い黒漆の下駄を履いているのだが、それでも身長は司よりも一段と低い。
少女は無言のまま唇を固く結んで、自分を見つめる司を静かに見つめ返していた。
口から時折漏れる呼気は白く、いつからそこに立っていたのか、髪にはわずかに雪が積もっているが、コートもストールも羽織らずに着物だけで立つ少女は身震い一つしていない。
現実離れした様子と美しさを纏う白い少女は、本来であれば恐怖すら掻き立たせるような存在だったが、司の心は恐怖よりも強い好奇心に満たされていた。
そんな司にとってそれは至極当然の行動だったのかもしれない。
「君は・・・?」
司はなんの躊躇も警戒もせずに、無意識に少女へと声をかけていた。
声をかけてからその事実に気づくほど、それはあまりにも無意識で、司自身をひどく驚愕させるものだった。
そもそも相手に合わせて自分を変える生き方をしてきた司にとって、自ら声をかけることそのものが異常事態である。
人と話すときは大抵受身である司には、警戒感からか頭の片隅に必ず一歩引いてみている自分を感じていたにも拘らず、到底普通とは思えない少女に対して、まったく何の警戒もしていなかったことも司にとっては大きな衝撃だった。
そうして想定外の自分の行動に戸惑いながら固まっている司に、声をかけられた少女は、それまでの無表情さが嘘の様ににんまりと笑みを浮かべて口を開いた。
「わらわの名はこのはじゃ、九の葉と書いて、九葉」
まるで勝ち誇ったように少し胸を反らして、自分の名前を告げた九葉の仕種はあまりに微笑ましくて、司の胸の内を支配していた驚愕など一気に吹き飛んでしまった。
少女の微笑ましい仕種につられて笑顔を浮かべた司が、自分も自己紹介をしようと口を開きかけると、それよりも一拍早く九葉がおかしなことを口走った。
「知っておる」
一瞬言葉の意味を取れなかった司は瞬きをしながら間の抜けた声を上げていた。
「へ?」
司の驚いた顔を満足そうに見つめると、九葉は更に笑顔で言葉を続けた。
「小林司、戸籍上は男、女に間違われることのほうが多い・・・じゃろ?」
九葉はにんまりと悪戯っぽい笑みを浮かべ、からかう様な口調で言い放った。
その内容は想像すらしなかったものだったが、九葉が自分のことを知っていることは、司は何の引っかかりも無く理解できた。
理解すると同時に司の全身を震えが駆け巡り始めた。
しかし、それは恐怖や戦慄といった類のものではなく、むしろ感動に近かった。
そんな司の心情すら完全に読み取っているのか、少し残念そうな表情で九葉はぼやいた。
「少しは気味悪がるものじゃぞ?」
どこか恨みがましい視線を九葉に向けられた司は、慌てて頭をフル回転させてフォローの言葉を探したが、普段は滑らかに言葉を紡ぐ口はまったく動こうとしない。
慌てふためくだけで何もできない自身に司は心底腹が立ったが、その様子を眺める九葉には案外好評だったようで、曇った表情は完全に晴れてしまっていた。
「まあ、わらわは普通の人間とは勝手が違うからのう、無理に言葉を口にせんでよいぞ」
すっと目を細め幼い少女とは到底思えないほど大人びた横顔を見せたかと思うと、顔を上げて司を見つめた瞬間には、年相応にみえる無邪気な笑顔を浮かべていた。
司がそんな九葉の百面相に目を奪われているうちに、九葉はその隙をついて司の提げるコンビニの買い物袋から、嬉しそうにペットボトル入りのお茶を取り出した。
「あ・・・」
突然の行動にようやく声をあげた司に、九葉はにやりと笑みを浮かべながら、司の眼前に手にしたペットボトルを差し出した。
「一本くれぬか?」
不意の言葉に司は驚きながらも何とか首を縦に振って同意の言葉を口にする。
「あ、うん、いいよ」
九葉は司の同意を受けてもなおペットボトルを差し出したままでピクリとも動かない。
そうして、しばらくペットボトルを差し出したままの九葉だったが、腕が疲れたのか、軽くため息をついて腕を下ろすと、先程見せたばかりの勝ち誇った表情を浮かべる。
「こうしていれば、蓋を開けて欲しいことくらいわかるじゃろう?」
そういいながらヤレヤレと頭を振る九葉に、司は言葉もなく見入っている。
「おぬしの能力などその程度じゃ、機械のほうがよっぽどいい仕事をするわ。第一、動揺したり、感動したり、猫の瞳のようにコロコロと変わるようなお主の心が、打算的とは到底思えぬぞ・・・」
ペットボトルの蓋を自分自身で捻りながら、九葉は司を見ることなく言葉を続ける。
「くだらぬ、悩みなど抱える前に・・・・・・手伝うのじゃ」
懸命に捻ろうとしていた九葉だったが、どうにも握力は弱いらしく、徐々に声を小さくしながら再びペットボトルを差し出した。
恥ずかしそうに顔を背けた九葉の言葉を頭で繰り返しながら司はペットボトルを受け取った。
ペットボトルを渡した九葉は顔を背けたまま、こっそりと視線を司に向けて様子を伺う。
ぼんやりと頭の中で考えを巡らしながら司がペットボトルの蓋を捻ると、カチリと音を立てて難なく開いた。
蓋の開く音を耳にした司は、視線を落として手元のペットボトルを確認してから、飛び切りの笑顔を浮かべてそれを差し出した。
「ありがとう、九葉ちゃん」
司の満面の笑みに、九葉は一瞬躊躇して動きを止めたが、すぐさま両手を伸ばしてペットボトルを受け取ると、一口だけ口に含んでこくりと飲み込んだ。
「・・・それにじゃ、そんなに綺麗な笑みが心のないやつに出来るわけがなかろう」
再び司から視線をはずしながら、九葉はぼそぼそとつぶやくように言い捨てて、今度は間を置かずクピクピと喉を潤していく。
そっぽを向いてお茶を飲む九葉を見つめながら、先ほどの九葉の言葉が自らの気持ちを晴らしていくのを自覚して、司はにこにこと微笑んでみせた。
そんな司の視線を感じた九葉は目を細めつつわずかに振り返って胸をそらして口を開く。
「お茶を振舞ってもらうくらいのことはしたのじゃ、別段・・・」
そう言って偉そうな振る舞いで話し出した九葉の言葉が急に止まった。
動きを止めた九葉の頭を嬉しそうに撫でる司は、楽しげに感謝の言葉を口にした。
「ありがとう、九葉ちゃん。やっぱり馬鹿馬鹿しいことだったのかも」
ぱくぱくと声も無く口をぱくつかせながら、司の手を追って視線を上げた九葉は、司に撫でられていると気づいて頬を赤らめると、慌てて司の手を振り払った。
上擦った声で司の手を払いのけた九葉は、肩で息をしながら吼える。
「や、やめぬか!」
突然の九葉の反応に驚く司だったが、柔らかい表情のまま、ぺこりと頭を下げた。
「ごめん、驚かせた?」
再び上げた司は不安そうな顔で、九葉の様子を伺っていた。
「驚いたわけではない、私は男に触られるわけにはいかんだけじゃ」
九葉は足元にペットボトルを置きながら、僅かに乱れた着物を直しつつ言い放った。
「それは・・・」
どういうことか聞こうとしたが、いけない事のような気がして司は口を閉じる。
そのことに気がついた九葉は、地面に置いたペットボトルを拾い上げながら首を振った。
「ちと話しにくい理由じゃ」
九葉は司に視線を向けずに短く言い捨てると、すっと立ち上がる。
「さて、馳走になったのう、司、もう夜も遅い、はよう帰るのじゃ」
立ち上がりながら司に背を向けて言う九葉の言葉はどこか冷たい響きが含まれていた。
その冷たさに何ともいえない不安を掻き立てられた司は、九葉に慌てて声をかける。
「あ、あの、送っていくよ、夜も遅いし・・・」
懸命に言葉を捜しながら差し伸べた司の手を、わずかに振り返って確認した九葉は、司のほうに歩み寄りながら舞うような流麗な体捌きで避けて見せた。
「気遣いはありがたいが、その必要は無いのじゃ」
司の手を避けながら言い捨てられた九葉の言葉にも、態度にも拒絶の色が混じっている。
突如、態度を硬くしてしまった九葉に、司は後悔の念を深くしながら、それでも修復の糸口を求めて懸命に頭を働かせる。
それでも拾える情報は、拒絶と立ち去ることを望まれているという事実ばかりで、打開策など一つも浮かんでは来ない。
それでも司には九葉と今は離れたくない、離れてはいけないという思いが強く心の中心に座っていて、どうすることもできなかった。
そうして、その思いの源泉が九葉を頼る気持ちではないかと気づいた司は愕然とした。
愕然としながらも、長く悩まされたあの黒い感情に引き込まれるのが嫌で、出会ったばかりの幼い少女に必死にすがりつこうとしている自らの姿に、己の弱さと不甲斐無さを痛感した司は、涙をこぼしそうになっていた。
しかし、それでも司はこの場を立ち去ることができずに、頭は留まる理由を考え続けている。
九葉はそんな司の態度に困った表情を浮かべて、諭すように頼み込んだ。
「司、また会うことは出来る、今宵は聞き分けてくれぬかのう?」
感情のこもった言葉で頼み込まれ、九葉から向けられていた拒絶感が、薄れたように感じとった司の気持ちは、驚くほど一気に明るくなった。
気持ちが明るくなると余裕が出るもので、あれほど頑なに留まる理由を考えていた司は、会う約束を取り付けて九葉の意思に従おうと口を開きかけたところで、急に背後からコートの襟首を思い切り引っ張られて、同意の言葉はバランスとともに崩れて短い悲鳴に変わった。
「ぐえ!」
間の抜けた声を上げながら、その場に倒れこんだ司が見上げた先には、コートの襟首を無造作につかむスーツ姿の女性が立っていた。
襟首を握る女性は、襟の大きな白のブラウスとダークブラウンのパンツスーツに身を包み、明るい茶の髪を頭の上できつく結い上げる二十代後半くらいの女性で、目鼻立ちのしっかりとした精悍な顔立ちの美女である。
「九葉様、お怪我はありませんか?」
スーツの女性はきりっとした表情を浮かべ、掴んだ襟首を力任せに引っ張って九葉から司を引き離すと、静かに九葉に歩み寄った。
司を引き離す間も歩み寄るときも、まるで司など存在していないかのようにスーツの女性の視線は、まっすぐと九葉だけに向けられていた。
「ちょ・・・あの・・・」
襟首を掴む女性の手を振りほどけない司は、手を離してもらおうとスーツの女性に声をかけるが、まったく反応を示さない。
仕方なく助けを求めようと司が九葉に視線を向けた瞬間、その表情が一気に険しくなった。
「華菜、来るぞ」
険しい表情で周囲に目をやる九葉は、華菜と呼ばれたスーツの女性にも司にも視線を向けることなく短く言い放った。
華菜は九葉の言葉に頷いくと、司に歩み寄って声を抑えて耳打ちをする。
「仕方ありません、君は余計な事をせずに、ここでじっとしていなさい」
状況をうまく飲み込めない司だったが、華菜の言葉に反射的に頷いてみせた。
華菜は司の同意を視線の端で確認すると、襟首を離し周囲へ視線を向け始めた。
「一体何が・・・」
ただならぬ様子の二人の気配に飲まれかけながら、どうにか独り言のような疑問を口にした司に、華菜は軽く首を振って答える。
「質問は後に」
華菜は短くそれだけ言うと、司を自らの背に隠すように腕を引き、口を真一文字に結ぶ。
三人を包む空気は重く引き締まり、それに合わせるように雪も激しくなった。
九葉と華菜の様子を伺いながら、それに習うように周囲に目を向けた司の視線の先、田んぼの真ん中あたりで、突如としてゆらりと何かが動いた。
その動くものは陽炎のように纏った闇を揺らしながら、ゆっくりと移動をしていた。
見間違いなどではなく、明らかにそこに存在している『何か』を、自然現象でも生物でも、それを指すのに相応しい名前を司は知らない。
「あれ?」
司は知りもしないはずの視界に捉えた謎の存在を不意に知っているような気がして、驚きの声を漏らしていた。
そんな司の驚きの声を耳にした九葉と華菜は、同時に司の視線を追って顔を向ける。
「・・・ほう」
「いきます」
九葉が感嘆を漏らすと、華菜は身構えて短く告げると、揺らめく闇へと突進していった。
司も見極めようと身を乗り出すが、九葉がその前に立ちはだかって庇う様に手を広げた。
冬は乾燥しているとはいえ、走るのにはまったく向かない田んぼの中を、華菜はまるで陸上用のトラックでも駆け抜けるように、あっという間に揺らめく闇に目掛けて駆け寄っていく。
九葉の着物の隙間から様子を見つめていた司が、揺らめく闇が四足の動物のような姿であることに気づく頃には、華菜は上着から何かを取り出して、目前に迫った四足の闇へと投げつけようとしていた。
華菜は体を回転させながら遠心力と突進してきた勢いで、四足に向けて素早く鈍く輝く細長い金属のようなものを放つ。
驚くほどの速度で放たれたそれを、四足は素早く後ろにはねて交わす。
華菜はそれに驚くでもなく次の一撃を放とうと、さらに一回転しながら腰に下がっていた警棒を伸ばして真横に振りぬく。
四足は後ろに着地した状態から、警棒が振り抜かれる刹那に、大きく上へと跳躍してかわすが、そこへ警棒を捨てた華菜の左拳が四足の腹部らしき場所目掛けて放たれていた。
「終わりです!」
討ち取った確信の言葉とともにすさまじい勢いで放たれた華菜の拳が四足の体を捉えた瞬間、捉えたはずの四足が華菜の拳の前から掻き消えた。
確実に捉えたはずの華菜の拳は宙を切り、避けられた事を悟った表情が驚きに変わる。
四足の行方を見失った司と華菜が視線を巡らす中、ジャリっと音を立てて九葉の下駄が砂利をかむ音が司の耳に届いた。
その音に反応して司が視線を向けた先、九葉の左後方に、姿を見失っていた四足が突如姿を見せた。
至近距離に近づいたことで、四足が揺らぐ闇を身にまとった黒い犬のような外見で、目が僅かに赤い光を放っていることも、九葉や華菜が退治しようとしていることも、何よりも危険な存在だということを感じ取ってはいたが、その姿を観察し状況を理解するだけの余裕がありながら、司の体は重くほとんど動かない。
逃げるために後ろへ飛ぼうとする動きは恐ろしいほど鈍重で、視界の端に捕らえている黒犬の真っ黒な牙のほうが先に司の体を捕らえるのは間違いなかった。
何も分からぬままやられてしまった方があるいは楽だったかもしれないが、司の体は周囲の時間を遅くして、自らに迫り来る得体の知れない牙の動きを残酷なほどはっきりと捉えていた。
迫る牙に体を丸め、歯を食いしばり、司は覚悟を決めて身を強張らせる。
それにあわせて目を閉じようとするが、司の気持ちに反してその動きはひどく遅い。
ようやく目を閉ざして体中を緊張させた司は、続けざまに来るであろう痛みに備えたが、時の流れを遅く感じているせいか、想像していた苦痛は一向に訪れない。
痛みに怯えるひどく長い一瞬は、地面に倒れこんだ背中の感覚と胸にのしかかる重さで終わりを告げた。
首筋を暖かい液体が零れ落ちていく感触が、司の心を戦慄させたが何故か痛みは無い。
あまりの激痛に痛覚が麻痺しているのかと考えながら恐る恐る開いた司の目には、白い着物を赤く染めながらも、自分に覆い被さる九葉の苦しそうな笑顔があった。
「大丈夫かの?」
息も絶え絶えになりながら、苦痛を隠して微笑む九葉の額には大粒の汗が浮かんでいた。
慌てて起き上がった司の胸に寄りかかる九葉は、右の肩を真っ赤に染め上げながら苦しげに息をしている。
九葉の右肩に回した司の左手はぬるりとした生暖かい血液を掴み、その感触で叫びそうになる自分を抑えながら、司は鬼気迫る表情で周囲に視線を走らせた。
司が視線を向けた先には、九葉と司から遠ざけようと大振りの攻撃を放つ華菜と、その一撃を掻い潜りながら少しずつ華菜に傷を与える黒犬の姿があった。
その様子を見た九葉は、時折顔をしかめながらそれでも必死に立ち上がろうとする。
「だ、だめだ、九葉ちゃん」
ぶらりと右腕を揺らして、左手で司の右肩にすがりながら、懸命に立ち上がろうとする九葉を、司は立たせまいと抱きしめて止めようとする。
その司を振りほどいてでも行こうとする九葉は、司に向かって苦しげな表情で訴える。
「司、華菜を助けねばならぬ。あのままでは・・・」
まるで諭すような口ぶりでそういって微笑んだ九葉の表情は、とても幼い少女には見えず、司は知らず手の力を緩めてしまった。
司から解放され、すっと立ち上がり、肩で息をしながらも懸命に歩き出そうとする九葉の姿を呆然と見上げていた司は、ふと我に返り慌てて立ち上がる。
司は立ち上がった勢いで、九葉を後ろから抱き締めて、その耳元で口を開いた。
「九葉ちゃんはじっとしてて、あの人も九葉ちゃんも僕が守るよ」
司の視線は真っ直ぐ華菜と黒犬を捕らえ、そこに込められた意思は深く強い。
司自身、得体の知れない存在を相手に勝ち目も戦い方すら思い浮かばなかったが、それでも立ち向かう意思に揺るぎは無かったし、何とかなるような妙な自信があった。
何の裏づけも無いまま、湧き上がる勇気だけで戦いの場へ飛び出そうとする司を、九葉は自由な左腕で袖をつかんで引き止める。
引き止められた司が振り向くと、ふわりと髪を宙に舞わせながら、九葉は苦痛など無かったかのように涼しい顔でまっすぐ司に視線を向けて言い放った。
「よかろう。小林司、汝を我が護人として血の盟約を結ぶ」
九葉がそう言い切った瞬間、司の服や腕についた九葉の血が輝き始めて、九葉に吸い寄せられるように綺麗に引いていく。
九葉の肩から流された血が光を放ちながら肩の傷口へと吸い寄せられ、肩の光が消えた後には、引き裂かれた着物の袖から傷一つ無い真っ白な肌が覗いていた。
治癒しきってしまった九葉の傷に、驚きの表情を浮かべて司は完全に立ち止まっていた。
驚きで動きを止める司の耳に、絶叫のような九葉を呼ぶ華菜の声が届く。
「九葉様!」
叫び声に我に返った司が再び華菜に視線を戻すと、黒犬の攻撃を全身に喰らい続けながらも避ける事もせずにただ九葉を見つめている。
華菜の視線にたじろいで視線をそらしながら咳払いをすると、九葉は司に向かって命を下す。
「司、華菜を護るのじゃ!」
サンドバックのように仁王立ちのまま、黒犬の突進を受け続ける華菜は、服を切り裂かれ体中にあざを作りながらも動じない。
それが無言の抗議であることを感じ取って、九葉はばつの悪そうな表情を浮かべる。
一方で、九葉の命に従い沸き立つ興奮のままに駆け出した司は、華菜と黒犬へと走りよりながら先程華菜が放った細長い金属を地面から引き抜いた。
地面に突き刺さっていたそれは、刃先から柄までが一つの金属で形成されたメスのような刃物で、初めて触れたはずの司の手になぜか驚くほど馴染んでいる。
司は手に吸い付く感触に戸惑いながらも手の中でくるりと回転させて刃先を黒犬に向ける。
先程、一方的に打ち倒され、九葉に傷を負わせた黒犬を見据える司の表情には、もはや一片の恐れも浮かんでいない。
司は手にした刃物を振りかざしながら華菜に体当たりを続ける黒犬の前に躍り出る。
興奮しながらも司の頭はひどく冷静で、黒犬が自らの手に持つ刃物を警戒して距離をとったのを確認して、華菜を背にするようにゆっくりと足を運んでいく。
「大丈夫ですか?」
完全に華菜を背にしたところで、黒犬を見据えながら大事がないか確認する司の首に、突然後ろから華菜の腕が回された。
「なんということを!」
本気で締め落とそうとしているとしか思えない力で、首に回した腕に力を込める華菜に、司は苦しそうにもがきながら、刃物を落としてその腕を必死にタップする。
「よ、よりにもよって」
もはや怒りに支配された華菜の暴走は止まる気配も無く、どんどんと司の首を絞める腕の力は強まっていく。
もがく度に薄れていく意識のせいで、視界が霞み始める司だったが、その視界の端に自分たちから離れ九葉に迫る黒犬の姿を捉えた瞬間、一気に鮮明さを取り戻し、次の瞬間黒犬を追って駆け出していた。
どうやって華菜の締めから逃れたのか理解できてはいなかったが、そんなことは問題でないほど、司の意識は危機の迫る九葉に全力で向けられていた。
華菜は水か何かのように、するりと腕をすり抜けた司の後姿を呆然と見つめ、九葉も自らに迫る黒犬ではなくその後ろに迫る司を見つめていた。
司を見つめ、逃げようとも身を庇おうともしない九葉の直前まで迫った黒犬は、大きく跳躍をして牙をむく。
黒犬に追いつけないまま、それでも司は必死に九葉への攻撃を止めようと、言葉すら通じないであろう存在へ向けて大声を張り上げる。
『イヌぅぅぅぅ! とまれええええええええええ!』
どうしてそう叫んだのか、司自身はっきりとは分からなかったが、それでも何故かそう叫ぶのが正しいという揺ぎ無い確信が司の中にはあった。
そして、その確信が結果を伴って現実へと具現していく。
大きく喉を震わせて放たれた司の声が、黒犬の元に届いた瞬間、九葉に飛び掛った姿勢のまま、ひどく不自然な姿勢で空中に静止していたのだった。
頭に浮かんだままを怒鳴っただけの司には、何が起きたのかを正確に理解することはできなかったが、視線の先で九葉に飛びかかろうとした姿勢のまま、空中に留まる黒犬の姿に、脅威が去ったことと九葉を守れたことだけは認識できた。
空中に静止する黒犬を避けながら、満面の笑みを浮かべて、パタパタと駆け寄ってくる九葉の姿を見て気の抜けた司はその場に両手、両膝をついて跪いた。
ほっと一息をついてから視線を華菜に向けた司は、その腕が司の首を絞めたときと同じ形のままでそこにあることに驚き動きを止める。
「あ・・・れ?」
華菜が司の離れた状態で、その姿勢を再びとる理由は考えられなかった。
それは、司が黒犬に向かって駆け出した瞬間から、その姿勢と考えるのが自然だった。
司はそこまで考えを巡らせたところで、自分がどうやって華菜の締めを抜け出したのかという疑問に辿り着いた。
黒犬の静止や華菜の腕をすり抜けたことへの疑問が、司の中で答えもでないまま、徐々に膨らんで大きくなっていくが、妙な焦りと不安感が募るだけで答えを見出せそうには無かった。
「司、よくやったの」
思考の迷宮に陥ってしまっていた司の意識を現実に引き戻したのは明るい九葉の声だった。
「こ、九葉ちゃん・・・」
呆然とした表情で九葉を見つめながら、混乱が覚めない司はパクパクと口を動かした。
「司は想像以上にこちらに相性がいいようじゃのう、まさか言霊とは・・・」
空中に静止した黒犬を見つめながら、九葉は感嘆の声を漏らした。
「こと・・・だま?」
混乱から立ち直りつつある司は、混乱の原因など忘れ去ったかのように、九葉の言葉に興味を示した。
「うむ、簡単に言えば、逆らえない命令を下す術、詳しくはいずれ教えるが、つまり、司がこの『イヌ』に『止まれ』と命じたので、こやつはこういう状態で静止しとるということじゃ」
空中に静止した黒犬を指差したまま、九葉は司に向かって答えてみせた。
「め、命令? 僕が?」
驚きの表情で、自分がやったことをいまひとつ理解できない司は、素っ頓狂な声を上げる。
九葉はにっこりと微笑んだままで、司の言葉に頷いてみせた。
「このイヌみたいなものが何かも知らないし、ましてや、僕の命令を聞くなんて・・・」
司が再びの混乱の中で発した言葉に、微笑んでいた九葉の表情が一瞬真剣なものに変わる。
その表情に変化に気がついた司は、そのまま言葉を詰まらせてしまった。
「・・・司、お主はどうやらあれを『イヌ』という名で縛って従えたようじゃ」
真剣そのものの表情で、九葉は己の中の結論を司に伝えた。
司にはその言葉の意味するところを完全に理解することはできなかったが、九葉が浮かべた表情と語調は、それが並々ならぬことだと裏付けていた。
「あの・・・それって・・・」
どういうことかの説明を求めようとした司だったが、九葉は再びにっこり微笑んで、すっと右手を上げてそれを制してみせた。
「まずはわらわの屋敷へ参ろう、話はそれからじゃ」
そういって九葉は司の横を抜け華菜の元へと近づいていく。
華菜の傍らまで来ると、九葉は未だ組まれたままの華菜の腕をちょんちょんと突く。
「華菜、終わったぞ」
九葉の言葉で我に返った華菜は、腕を解きつつ顔を真っ赤にして鬼の様な形相を浮かべる。
いざ吼えんとばかりに大きな口をあけた華菜を、九葉が小さな右手を差し出して静止する。
「雪も強くなってきた、話は戻ってからじゃ」
怒りの表情を浮かべながらも、華菜が九葉の言葉に従って見上げた空からは、勢いを増した雪が舞い落ちてきていた。
怒鳴る勢いを削がれて、舞い落ちる雪をひとしきり見つめていた華菜は、がっくりと肩を落として仕方なさそうに九葉に向かって頷いて見せる。
それから座り込んでいる司に向き直ると、華菜はため息混じりに抱き起こして引きずるように連れて歩き始める。
後に残った九葉が空中に固まったままの黒犬に近づいて何事か呟くと、その言葉に反応して大きく揺らめいてから、黒犬はふっと幻のように消えてしまった。
九葉はざっと周りの様子を見渡して、地面に転がる刃物と警棒を拾い上げ、置き去りになっている司の買い物袋も手に持つと、重そうにぶら下げながら先を行く司と華菜の後を追った。
華菜に連れられてきたのは、先ほど疑問に思っていた黒塗りの高級車の前だった。
車に積もった雪の量を見るに、思いのほか長い時間が経っているようだった。
時間の経過に驚く司をよそに、華菜はズボンのポケットから取り出した鍵でトランクを開け、九葉から受け取った買い物袋を手早く詰め込み、手馴れた仕種でそのままドアを開ける。
ドアの鍵が開くと同時に、九葉は後部座席のシートへと飛び込み、そのまま反対のドアまでシートの上を這って移動すると、着物の裾を手早く直してちょこんと腰掛けてから、ちょいちょいと司を手招きしてみせる。
手招きをする九葉の様子に溜息をつきながらも、華菜は司を後部座席へと誘う。
華菜に誘われるままに、司はゆっくりとした動作で九葉の横に腰を降ろす。
司が座ったのを確認した華菜が力いっぱい扉を閉めたせいで、押し込められた空気の振るえを感じて、司は反射的に背筋を伸ばした。
司の前にある運転席に座りながら振り返りもせずドスの利いた低い声で華菜は釘をさす。
「九葉様には絶対に触れないでください」
そういう華菜の手元で何かが光ったような気がして、司はびくりと身を正す。
「は、はい」
背筋を正してこくこくと頷く司がつぼに入ったらしく、九葉は足をばたつかせて笑い転げているし、華菜は睨みを利かせたままでシートベルトをつけている。
三人を乗せた車は、田園地帯を離れ、車は国道を八坂市の北へ向かって走り始めた。
バックミラーで監視され続けているようでどうにも落ち着かない司が、ふと視線を向けた流れる車窓には、光の灯っていない店も多く、国道が廃れているのを改めて実感させられる。
司を少し寂しい気持ちにさせながら国道を走る車は、不意に斜線を右側に変えて、右折すると車一台が走れる程度の両側が木で覆われた細めの山道に入っていく。
山道を少し上っていくと、大きなレンガ積みの門柱と鋼鉄製の重くて頑強そうな扉が三人の乗った車を出迎えた。
華菜はそこで一旦車を止めると、素早い動作で車を降りて、門柱まで歩み寄っていくと、門柱に設置されたインターホンに向かって何事か話し始める。
窓に顔を押し付けて華菜の様子を見ていた司と、車に戻ろうと振り返った華菜の視線がぶつかり、別段、どうという事は無いのに、司は反射的に身をすくめてしまう。
その様子を見ていた九葉は噴き出して、またころころと笑い転げる。
車中の九葉の様子とどこか卑屈な態度の司にあきれた表情を浮かべながら、華菜は運転席に戻るとシートベルトを締める。
それと時を同じくして電動機の機械音が響いて、重厚な鋼鉄製の門が鈍い音を立ててゆっくりと横にスライドしていった。
車が十分に通れそうなほどスライドしたのを確認してから華菜は車を発進させる。
司は華菜に見つからないようにこっそりと窓から顔を出しながら、すごいお屋敷だなと思いつつ門柱にかけられた金属製のプレートに目をやる。
「姫乃森・・・学園?」
プレートに記された名前を呟くように読んでいた司の声が突然裏返る。
「お静かに」
突然の司の声に、心底うんざりしたような華菜が叱りつける。
その様子も可笑しくて仕方ないのだろう九葉は右へ左へと転がりながら笑っている。
「怯えすぎじゃぞ、司」
薄っすらと目元に浮かんだ涙を拭いながら、九葉はお腹を押さえて司に声をかけた。
あまりに笑われた司は耳まで真っ赤にしながら押し黙ってしまう。
司が押し黙ってからも、しばらく笑っていた九葉は、不意にぴたりと笑うのをやめ、シートに深く座りなおしてまっすぐ前を向いたまま、囁くような声で司に問いかけた。
「どうじゃ、司、自分の感情を実感できた感想は?」
司は不意に発せられた想像もしていない九葉の問いに言葉を失う。
九葉は押し黙る司をまったく気にした素振りも見せずに平然と言葉を続ける。
「華菜とわらわを助けてくれてありがとうのう」
その言葉は車の音に隠れて聞き取りにくいほど小さかったが、司には九葉の言葉の中でも、一番よく聞こえたような気がした。
その感謝の言葉はじわりじわりと司の中に広がっていき、今まで感じたことの無い充実感が、体の隅々まで染み入っていく。
そんな心地よい充実感に満たされたはずの司の右の頬を一筋の涙が伝って落ちた。
「あれ?」
司は一筋だけこぼれたその涙のわけが分からずに戸惑いの声を上げる。
九葉が司の声に反応して視線を向けたが、乾いた左頬はただ驚く表情が浮かんでいるだけで、それ以上特別興味も示さずに視線を戻した。
司は視線だけを動かして九葉も華菜も自分を見ていないことを確認すると、ばれないように慌ててコートの袖で涙の筋を拭う。
雪に濡れた厚手の生地が少し気持ち悪かったが、それでも、司は泣いているのを見られるよりは幾分ましだとそのまま平静を装う。
石畳の上をゆっくりとしたスピードで走っていた車が音を変えて砂利道の上を走り始めた。
そのまましばらく行った所で、車の前方に和風の建物が見えてきた。
屋敷の前に綺麗に砂利の敷かれた広場の一角に車を滑り込ませると、華菜は運転席から降りて、わき目も振らず九葉の座る左後部座席の前に立ってドアを開く。
ドアを開けられた九葉は車から降りると、まるで高級料亭のような平屋の荘厳な純和風のお屋敷へと歩を進めていく。
華菜は九葉が降りるとドアを勢いよく閉めて後に続く、車内に残された司はドアの閉まる音に慌てて車を降りると二人の後を追った。
屋敷の方へ半分ほど行ったところでくるりと振り返った九葉が、両手を後ろで組んで小首をかしげながら司と華菜を待つ仕種はとても可愛らしかった。
九葉に見とれて足を止めたところで、司はいつの間にか雪が止んでいる事に気付く。
雪雲の切れ間から再び姿を現した満月が、屋敷の玄関脇に聳えるように立つ大きな松を照らし出して、雪がちらほらと覆う砂利の上に大きな影を作っている。
「我が屋敷にようこそ、司、不本意かも知れぬが、これから・・・」
そういって、にやりと笑みを浮かべて司を見つめる九葉の髪を風が揺らす。
舞う髪の毛を片手で押さえながら九葉は言葉を続ける。
「これから運命の選択をしてもらう・・・信じておるぞ」
そう言い放ってから再び笑みを作った九葉の所作に合わすように、ふっと風が一陣駆け抜けて積もったばかりの雪を舞い上げた。
花吹雪のように舞う雪を纏い、月に照らされた九葉の姿に見とれながら、司は告げられた『運命の選択』の意味について考えていたが、結局材料不足で答えもまとまらなかったので、あきらめて二人に駆け寄ることにした。