5ショートストーリーズ1 その2【冬の金魚】
5つの物語のその2です。タイトルは「冬の金魚」。朋子は毎朝、亭主から冷たい言葉を聞かされていたが…
「…でね、遅くなるから今日は夕飯いらないよ。おいって! 聞い
てるの?」
スクランブルエッグを作りながらぼんやりと金魚鉢を眺めていた
朋子は、亭主のこの言葉で我に返った。
「え? ごめんなさい、何て言ったの?」
亭主はネクタイを結び直しながら舌打ちをしたけれど、もう一度
同じ言葉を繰り返す。
「だからね、今度俺、係長になれるかも知れないんだ。それで今夜
は課長に飲みに連れて行ってもらう予定だから。でね、遅くなるか
ら夕飯はいらないよ。分った?」
ああ、今日も一日が始まる。亭主の、今日は夕飯いらないよ、と
いう言葉で。
朋子はスクランブルエッグが焦げないように手早く掻き回しなが
ら、頭の中でいつものこの言葉を繰り返す。今日は夕飯いらないよ。
キョウモユウハンイラナイヨ。
「でさぁ、軍資金が足りないと困るから、あ、勿論課長が奢ってく
れるんだろうけど、もしもって事もあるからね。一枚頂戴」
亭主は朋子の顔色を伺うようにしながら手を差し出す。
朋子はスクランブルエッグをお皿に取るとテーブルに置き、財布
の中から一万円を取り出すと亭主に手渡す。
「じゃ、ちょっと早いけど出かけるわ。ああ、ご飯はもういいや。
じゃ、行って来るから」
いってらっしゃい、の声をかける間も無く、亭主は足早に出かけ
てゆく。こんな風なら、飯は朝も夜もいらない。小遣いだけくれと
初めから言えばいいのに。なのに亭主は毎朝何かの理由を作っては
この言葉を繰り返す。今日は夕飯いらないよ。キョウモユウハンイ
ラナイヨ。
亭主はそれが形だけでも私に対する優しさだと思い込んでいるん
だ。本当は私に対する一番の侮辱だとはまるで気づかないで…いい
え、もしかしたら亭主は知っていてわざと…
いつからだろう、こんな風な朝を迎えるようになったのは? ア
レは確か…
朋子はそれが始まったのはいつからだろうと思い出そうとしたけ
れど、いくら考えてもそれを思い出す事は出来なかった。
点けっ放しのテレビの画面には、いつものアナウンサーの作り笑
顔が、下げたばかりのお皿にくっついているスクランブルエッグの
欠片の様に、張り付いている。
このアナウンサーは多分、自分の本当の顔と、作り笑いの顔との
区別すら出来なくなっているんだわ…朋子は再びぼんやりとこんな
事を考えながら、ガス台の上の出窓に置いてある金魚鉢を眺める。
そう、今ちょっと何かを思い出しそうになった。アレは確か…
金魚鉢の中では一昨年の夏に買った二匹の金魚が、底の方でじっ
と佇んでいる。一匹は真っ赤な和金。もう片方は頭と尾が赤く、残
りは白いこれも和金だ。
この金魚を買ったのは、確かに一昨年の夏だった。亭主と二人で
出かけた夏祭りの夜に、亭主が買おうと言ったのだ。結婚記念日の
記念に、と言ったのか、それともこの金魚僕達みたいだね、と言っ
たのかは定かではないけれど、そう、今となってはどうでも良い事
なのだけれど、確かに亭主が買おうと言ったのだ。
あれから随分と経った様な気もするし、つい昨日の事の様な気も
する。朋子は金魚鉢の中の金魚がちっとも動かない事にふと気づい
たけれど、すぐに今は冬なのだからと、自分自身を納得させる様に
思い直した。
金魚鉢の中では空気を送るポンプの音が、まるで金魚たちの鼓動
の様に響いている。
そうだわ、たまには餌をあげなくっちゃ。この前餌をあげたのは
いつだったかしら? そうだわ、あれは確か…土曜日だったわ。こ
の前のだったかしら? それともその前のだったかしら? とにか
く、土曜日だったのは間違いないわ。亭主が思い出した様にやって
いたのを見かけた様な気がするから。
朋子は金魚が餌をねだらない事、餌をやらなくてもなかなか死な
ない事をなぜなんだろうかと考えながら、餌であるミジンコの粉末
を、金魚鉢の上からパラパラと撒いた。
始めは金魚鉢の底の方にへばり付いている様な金魚たちだったが、
真っ赤な和金がそれに気づき、水面へと向かって漂い始めた。頭と
尾が赤い和金も、それに習ったかの様に水面へと漂う。水面へとた
どり着いた二匹は、浮かんでいるミジンコの粉末を体に取り込もう
と口をパクパクさせ始める。
まるでスイッチを入れた機械の様だわ、と朋子は思った。
真っ赤な和金が、頭と尾が赤い和金を押しのけるようにしてミジ
ンコの粉末を食べ尽くしてしまった事に気づいた朋子は、再び水面
に向かって粉末を撒く。
「ほらほら、あんたばっかり食べちゃダメでしょ? ほら、アンタ
も食べなさい。そうそう、やれば出来るじゃない。でもあんた達ふ
たりだけで食べないで、もうひとりのコにもとっておいてあげなく
っちゃ。あら? もうひとりのコはどこに?」
自分のこの言葉にはっと気づいた朋子は、思わず声を上げそうに
なった。そうだわ、もうひとりのコは、昨年の冬に死んだのだ。二
匹だけじゃ淋しいからと、二人でわざわざ金魚を売ってる店を探し
て買った、真っ白い和金だった。買ってから僅か二日目に、白い腹
を水面に向けて浮いていたのは、確かにあの真っ白い和金だった。
死んだのは…死んだのは確かに真っ白い和金だったわ。でも
それだけだったかしら? 今大変な事を思い出しそうになった。あ
れは確か…
朋子は寝室へと向かって駆け出した。寝室のドアを開けると、プ
ンとクレゾールの匂いが鼻を突いたが、それにかまわずベッドサイ
ドに立てかけてあるフォトスタンドを手に取った。そこには亭主と
朋子が、にこやかに笑っているのが写っていた。朋子の腕には、真
っ白い産着を着た赤ん坊が抱きかかえられている。
そうだわ、あの時死んだのは真っ白い和金だけじゃなく、私たち
の大切な赤ん坊も…
朋子は大きな声を上げて泣いた。フォトスタンドを壁に叩きつけ
て、駄々をこねる子供の様に、大きな声で泣いた。
*
「冬野さん、病院からお電話です」
会社のデスクに座って書類に目を通し始めた冬野は、同僚に頭を
下げると自分の電話に手を伸ばした。
「あ、もしもし、冬野さんですか? 私、奥さんの担当医の、ええ、
精神科の吉田ですが…今奥さんが、たった今なんですが、現実を認
めた様なんです。この分なら上手くいけば退院出来る日も近いかも
しれませんよ? はい、そうです、認めたんですよ。お子さんが亡
くなった事を。ええ、ここが病院だと言う事にも気づかれたようで
す。ええ、もう無い筈のテレビを観たり、料理を作る様な振りをす
る事もありません。これも冬野さんが毎朝、病院にお見舞いに来ら
れた成果なんでしょう。ええ。ただ、今度来る時には白い金魚を買
って来てくれと奥さんが言われてるんです。ええ、白い金魚だそう
です…」
人の心は、辛い思い出を消してしまおうとする傾向があるようです。それが過ぎると…