人たる者、人ならざる者
「ニーナ!? どうしたのじゃ!? ニーナ!」
倒れた女性、恐らく騎士なのだろう。立派な装具を身に纏った女性は極度の緊張が解けて気が緩んだのか、意識を失ったようだ。
しかしそんな様子を見守っていた小さな女の子の方は、返事をしない女性の容態を心配して縋り付くように名前を呼んで涙を流していた。
倒れた女性騎士の胸が僅かに上下しているので問題ないだろう。
「心配はいらぬ、気を失っただけだ。傷はもう治癒魔法で塞いだが、少し傷口から血を流しすぎたのもあるだろう。少し安静にさせておいた方が良い」
そう言うと、倒れた女性騎士──ニーナと呼ばれていた彼女に縋り付いていた女の子が、顔を上げて此方の顔を見上げてきた。
それに頷いて返してやると、女の子は安堵したようにその場で座り込んでしまう。
よく見れば、その彼女もあちこちに打撲や擦過傷をつくって、綺麗な服を着ていたのだろう姿が今や泥と血に塗れて薄汚れてしまっている。
それでも彼女は微かな笑みを浮かべて、倒れた女性騎士の顔を覗き込んでいた。
立派な装備に身を固めた集団、そしてその中でただ一人、年端もいかぬ少女という構成に加え、先程の女性騎士ニーナの“リィル姫様”という言葉から見ても、彼らの主人──それもかなり身分の高い者なのだろう。
「しばしじっとしておれ……」
リィル姫様と呼ばれていた少女の傷だらけの小さな身体に向けて手を翳し、魔法を発動させる。
「【治癒】」
柔らかな光が生まれ、その光がリィルの身体についた傷や打ち身に吸い込まれていくようにして消えると、彼女の肌には今までの傷が嘘のように消えていた。
「おぉ……すごいのじゃ!」
リィルは自身の腕や足に付いた傷のあった場所を確かめるようにしながら、その大きな瞳を丸くして驚きの声を上げる。
無邪気にはしゃぐ彼女の横で、先程まで怒りを露わにしていた大柄の男は言葉を失ったように此方と倒れて気を失っているニーナとの間を往復するようにその視線を彷徨わせていた。
そんな彼の態度にリィルが気付くと、口を尖らせてそれを指摘する。
「なんじゃ、ザハル。何を呆けておる。わらわ達の恩人に礼を言わねばならぬぞ!」
そう言って彼女は、少し目元に残った涙の痕をゴシゴシとおよそ貴人とは思えない乱暴な仕草で拭うと、悪戯っぽく笑って見せた。
彼女のそんな態度に、ザハルと呼ばれた騎士はようやく意識をその場に戻して片膝を突いた格好をとって頭を下げた。それに倣って、後ろに控えていた者達も同じようにその場で跪く。
「此度の助勢、誠に感謝する。我々は──」
ザハルはそこまで言ってはたと口を噤んで、何やら言葉を探すように視線を彷徨わせる。
そんな彼の言葉を継ぐように、隣で座り込んでいたリィルが勢い込んで立ち上がると、まだ女性としての成長の見られない胸を張って口を開いた。
「わらわの名はリィル・ノーザン・ソウリア。故あっての旅路だったのじゃが、追手に迫られて難儀をしておったのじゃが、其方らの活躍でこの命を繋ぐ事が出来た。わらわからも重ねての感謝をするのじゃ」
そう堂々と言ってのけたリィルの姿は、なかなかどうして、僅か十頃の少女であるにも拘わらず堂に入った物言いからは上位者の矜持ともとれる凄みが感じられた。
そして彼女が名乗った“ノーザン”という名には聞き覚えがある。
ローデン王国のランドバルト領、そこの領では隣国であるノーザン王国との交易が盛んだった。
彼女がその“ノーザン”を冠した名前を名乗り、多数の配下を従えている事から推察するに、目の前の小さな少女は彼の王国の王族──またそれに準ずる身分に在る者だという事だ。
しかしそんな彼女の堂々とした名乗りに、隣で跪いていた騎士のザハルが驚愕と焦燥の顔を交互に変えるという実に高度な表情を作っていた。
彼の後ろに控えていた者達からも少なからずざわめきが立った事から、恐らく名乗ってはいけない状況──機密か何かだったのだろう。
“ノーザン”を名乗る彼女らが今居る場所、ルアンの森を抜けて入る最初の人族の領域であるここは、確かサルマ王国の領内だった筈だ。
それが王族らしき彼女が護衛とは言え、極少数しか連れずに隣国の地にいる。
隣国のサルマ王国に使者として来たのか、はたまた亡命か。
しかもリィルはもう一つ気になる事を発言していた。
先程倒した化け物、あの蜘蛛人を“追手”と言ったのだ。
彼女達の進路を阻み害そうとする存在が後ろに居る──という事だろうか。
自分が思考の海に埋没する中、隣へとやってきたアリアンやチヨメもその事実に触れて何やら思案顔を浮かべている。
ただ一匹、ポンタは暢気に後ろ足で耳の後ろ掻いて気持ちよさげに目を細めていた。
一方で騎士ザハルを始めとした護衛集団の彼らは、どう取り繕えばいいか考えあぐねてなのか所々から唸り声が漏れ聞こえてくる。
だがそんな周りの反応など一顧だにしていないリィルはといえば、大きな瞳を輝かせて此方を真っ直ぐに見上げてきた。
「お主らは、皆相当な強者じゃな? いったい何者なのじゃ?」
そんな純粋な興味を示すリィルの質問に、自分とアリアン、チヨメと視線を交わし合い、アリアンが此方に無言で頷いて返した。
「我が名はアーク・ララトイア、我らも故あって今旅の途にあるのだ」
そう言って名乗ると、脇に控えていたアリアンやチヨメもそれぞれ手短に名乗りを上げた。
「アリアン・グレニス・ララトイア」
「チヨメです」
ともすれば王族と思しき者への名乗りとしては、些か礼儀の欠いたものであったが、当のリィルはそんな事で不快な表情など微塵も見せず、しきりに頷いて関心を示していた。
その彼女の後ろで、ザハルは驚いた顔をして此方に視線を向けてくる。
何か特別、驚愕に値する言葉を発した覚えはないが、名乗りにエルフ族の里の名を語った事でこちらの素性を察したのだろうか?
此方のそんな疑問にも構わず、リィルは身を乗り出してきた。
「旅の者か! 其方らの目的が急ぎでないならば、是非ともわらわ達の護衛を頼まれて欲しいのじゃが、駄目か? 報酬ならなんとか言い値を都合つけるのじゃ」
「!? お待ち下さい、姫様!」
リィルのその唐突な提案に、一番驚いたのは自分達ではなく、彼女の後ろに控えていたザハルら護衛の者達の方だった。
慌てた様子のザハルから制止の声が上がる。
確かに彼ら護衛の任を任されている者達の前で、他者の──しかも先程顔を合わせたばかりの素性の知れない者を雇い入れようなど、沽券に関わる問題だろう。
しかしそんな彼の制止の言葉を、リィルは自らの小さな手で制した。
「わらわ達は何としてもこのサルマ王国領を抜けて、ディモ伯爵領へと入らねばならぬのじゃ。命が惜しい訳ではないのじゃ、わらわが伯爵に会って嘆願せねば、あの忌まわしい化け物共に王都の民らが殺されてしまうのじゃ……だから!」
そこまで言うと、彼女は自らの小さな手を握り込んだ。
まだ少女の姿をしているリィルだが、その真剣な眼差しと紡がれる真摯な言葉は、これが王族の矜持なのかと、場違いながらも感心を覚えてしまう程だ。
そんなリィルの姿を見て、後ろに控えていたザハル達は沈痛な面持ちで言葉を噤んだ。
どうやら彼女達はサルマ王国の領内に無断で入っていたという事らしい。
まぁ自分達も他人の事を言えた義理でもないし、そもそも明確な国境線の引かれていないこの世界では纏まった兵などを動かすなど以外には、多少の危険は承知で割と他国の領内を横断したりするものなのかも知れないが。
ディモ伯爵の元へ行って嘆願する事が目的のようだが、それはサルマ王国の領内を横断してでも成し遂げなければならないといった気概がリィルにはある。彼女の先程の話からして、恐らくは王都への援軍要請といったところだろうか。
そうなるとディモ伯爵とは何者か──という疑問が生まれる。
横目でチヨメを確認すると、彼女はその視線の意味に理解の色を見せたが、応えは首を小さく横に振る動作だった。チヨメもディモ伯爵が何者であるか知らないらしい。
しかし、王都の民が化け物に因って殺されるという話は随分と穏やかではないな。
化け物とは、先程倒した異形の不死者の蜘蛛人だろう。
どうやら本格的に不死者を手駒にして動かしている勢力があるらしい。
その第一候補が、ヒルク教国になる訳か──。
そこまで思考してから、僅かに逡巡するようにアリアンに視線を向けると、彼女はあからさまな溜め息を吐いて肩を竦めた。
灰色の外套の奥から覗く金色の瞳が語るそれは、いつもの通り呆れたといった所だろうか。
チヨメの方は何かを思案すると此方に寄って耳打ちしてきた。
「ふむ」
彼女の意見を聞いてから、自分は徐に被っていた兜を脱いでその姿をリィル達の前に晒した。
「なんと、エルフなのじゃ!?」
「エルフ!? ルアンの森の者か!?」
此方が晒した素顔、黒髪に褐色肌、深紅の瞳と長く尖った特徴的な耳の形状を見て、ザハルは自分がルアンの森のエルフ族であると判断したようだ。
蜘蛛人と対峙する際に、先に龍冠樹の霊泉を飲んでいたのはこういった事態になる事を予想して──ではない。
ここ最近、グレニスやアリアンと肉体を持った状態での戦闘訓練をしており、それの成果を試す実践になると踏んでの行動だった。
中身が骸骨の姿の場合、戦闘での恐怖という感情などが抑制されて大胆に行動出来るが、霊泉に依って肉体が戻ると、同じように感情の揺らぎが戻り、戦闘に慣れていない自分では恐怖などの感情で身体が強張るなどの弊害が出ていたのだ。
しかし先の戦闘では、短いながらもグレニスらの徹底的な鍛錬の成果が出ていた。
まだ長時間の緊張には耐えられないが、短い戦闘ならそれなりの動きが出来るようになったいう事実は、これからもあの鍛錬を続けて行く上で重要な糧となる。
脳裏に浮かぶグレニスとアリアンによる鍛錬を思い出し、ぶるりと頭を振ってその思考を振り払った。
自分の今の特徴は、この世界での本来のエルフ族でもアリアンのようなダークエルフ族でもないのだが、エルフ族自体を見る事が稀な人族の社会では長い耳、尖った耳を持つ者はだいたいエルフ族という認識のようだ。
自分もそこを敢えて指摘したりはしないし、事情を説明する気もないが一つ訂正しなければならない事実がある。
「いや──我らはルアンの森の者ではない。我らはカナダ大森林の里に所属している」
そう言うと、隣のアリアンも徐に灰色の外套を脱いで、その特徴的な薄紫色の肌を人の目に晒して、金色の瞳でザハルらを睨み据えた。
「きゅん! きゅん!」
アリアンの一睨みでザハルや護衛の兵らから息を飲む音が聞こえた気がするが、そんな彼女の足元で何やら自己主張をするポンタの影響で変な雰囲気になっている。
「カナダ……エルフ族の一大勢力、それが何故こんな場所に……」
ザハルはカナダの事を知っていたようだが、リィルの方はといえば、何やら小さな首を傾げて後ろを振り返り、ザハルに「カナダとはなんじゃ?」と直接疑問をぶつけていた。
「我らは見ての通り、人族ではない。それでも我らを雇う気はあるか? であるならば、我らは報酬にある情報を求める。返答は如何様に?」
自分のその問いに、ザハルら護衛達の視線が一斉に主人であるリィルに向かう。
一瞬の間があり、護衛の中での取り纏め役となっているザハルが口を開こうとした機先を制するように、リィルが一歩前に踏み出して先に答えを出した。
「わらわが答えられる情報ならお主らが気の済むまで答えるのじゃ! それでこの旅路の安全が買えるなら安い買い物なのじゃ!」
そう言い切って胸を張るリィルの姿勢に、自分は横目でチヨメの姿を映す。
自分の視線に気付いたチヨメは、一度頷いてリィルの前に進み出ると、自らの被っていた大きな帽子を脱いで目の前の少女にその透き通るような蒼い瞳を向けた。
「聞きたいのは一つです……」
チヨメの静かな、それでいて有無を言わせない迫力のある声が、目の前のリィルや背後に控えるザハルらの間に響き渡る。
だが彼女が帽子を脱いで露わになった獣耳の存在に、にわかにその場がざわつく。
「……獣人」
誰かの小さな声がチヨメの耳に届き、彼女の片耳がピクリと揺れる。
だが同席する自分やアリアンのようなエルフ族の存在がある為か、両種族の関係性を知る由もない彼らの中に、あからさまに侮ったような態度を示す者はいない。
やはり北大陸でのカナダ勢の影響力というのはかなり大きいようだ。
「ボクが聞きたいのはここ最近のノーザン王国での同胞の動きです。何か表立った動きや事件、そのようなものがあれば教えて欲しいのですが」
そう言って言葉を締めると、彼女は視線をゆっくりと動かして全員の反応を窺う。
目の前で相対するリィルは、後ろを振り返ってザハルに何かあったかと目だけで問い掛けるが、当のザハルも特にこれと言って思い当たるような出来事もないのか、首を捻っていた。
空振りだったか──そう思いながら溜め息を吐くと、それに護衛の兵らの何人かがビクリと反応を示して互いに目配せし合うと、一人がザハルに耳打ちをする。
それを聞いたザハルは何かを思い出したような顔をして一度大きく咳払いをし、少しその視線を彷徨わせてから徐に口を開いた。
「……少し前に王宮で宝物庫に賊が侵入したのだが、その侵入した賊がその……獣人だったという話を聞いている。厳重な警備を掻い潜っての所業で当時は大きな騒ぎになったのだが、後に調べたところでは何も盗られた物は無かったと判明した。賊は今もって発見された報告はない」
言い難そうに報告する彼のこちらの反応を窺う様な視線を、チヨメは気にする事無く思案するような表情を浮かべた。
自分もその情報は少し気になる。
王宮の宝物庫がどれ程の警戒態勢を敷いているのかは不明だが、それでも一国の重要施設であるならばそれなりの警備だった筈だ、
それを掻い潜って侵入する能力は並大抵の実力ではない。さらには侵入を果たしておいて何も盗らずに、しかも捕まらずに脱出しているところがますます普通ではない。
チヨメのような“山野の民”と呼ばれる獣人族は、南大陸と違ってこの北大陸では人族から隠れ暮らしており、生活など決して楽なものではない。
宝物庫から僅かな金品も盗らずに脱出するような者は、獣人族にもましてや人族にもそうそういるものではないだろう。
そう考えながら、横目でチラリとチヨメの表情を探る。
彼女はザハルの話に出て来た賊をサスケだと推察しているのだろうか。
アリアンは足元でウロウロしていたポンタを抱え上げて、こちらのやり取りを静観している。
そんな中で、ザハルがさらに言い難そうな表情を作って言葉を続けた。
「それと、これは教国に接する三国とも似た状況だと思うが、連中が抱える神殿騎士がこの辺り一帯に潜む獣人達をほとんど狩ったと聞く。何でも教国は労働力を求めているとかで、我が国も他国も同様だろうが、獣人の対処を教国に依頼する形をとっていたのだ」
その言葉にチヨメの蒼い瞳が鋭くなって、ザハルを見返した。
威圧の籠るようなその視線だったが、ザハルもそれなりに場数を踏んできたのだろう──居心地の悪そうな顔を作りはするが、怯む様子は見せなかった。
「ふむ、しかしお主らの国はその教国とやらの神殿騎士、軍隊が自領に入る事を許したのか?」
そんな自分のふとした疑問を口にすると、ザハル以下の護衛兵らから剣呑な雰囲気が漏れ出した。
だがそれをザハルは手で制して静めると、真っ直ぐに此方に視線を返してきた。
「むろん、普通なら承服しかねる行為だ。それが例え教義に沿った人族の理想の社会の構築だとしてもだ。だが教国の抱える武力は正直、その規模からして桁違いで周辺各国とも断る力など持ち合わせてはいない筈だ……」
ザハルのそんな言葉に、今まで黙って聞いていたリィルは愕然とした表情で、その視線をザハルとチヨメの両者に注いで拳を握り締めていた。
どうやら彼女には知らされていない話の類だったようだ。
国を取り纏める立場にあって誇り高いリィルにとっては、自国が抗う事も許されずに唯々諾々と他国の干渉に甘んじていたという事実はなかなかに堪えがたい物だったのかも知れない。
それにしてもまたしてもヒルク教国の影がちらつくとは。
だが今はあまりこんな場所で時間を潰している暇はないだろう。
軽く指を唇に当てて口笛を鳴らすと、少し離れた場所で草を食んでいた紫電が顔を上げて此方へと駆け寄って来た。
「とりあえず我らは情報の対価は払おう。またぞろあの化け物が姿を現すか分からぬ。リィル殿らが向かうというそのディモ伯爵領、そこへ同道致そう。話は馬上でも構わぬだろう」
自分の提案に、ようやく頭を切り替えたリィルが頷いて返した。
「勿論なのじゃ! そうじゃ、わらわが今やらねばならん事をするまでなのじゃ」
自身に言い聞かせるように呟くリィルに、背後のザハルが改めて礼の姿勢を構える。
そうした後に、倒れ伏したままだった女性騎士のニーナをその大柄な体格の肩に抱えると、自らの馬へと歩み去って行った。
まずはディモ伯爵領へと向かうとするか──と考えながら傍に寄って来た紫電の首筋を撫でて、視線を周囲に巡らせて辺りを窺う。
さて、自分はいったいどの方角から来たのだったか。
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