港街プリマス1
翌朝、狭い船室の固い床の上で鎧を纏ったまま寝落ちていると、不意に顔の辺りで大きな毛玉がもぞもぞと動き出した感触に目が覚めた。
どうやら胸元で丸まって寝ていたポンタが、波に揺れた拍子に頭の方へと転がってきたようだ。
何やら口をもごもごとさせて、幸せそうな顔で寝惚けるポンタの首筋を摘まんで脇へと避ける。
しかしそれで目を覚ましたのか、宙に投げ出されていた四肢をバタバタと動かした後、くるりと身を翻して自身を掴んでいた此方の腕に取りついた。
「きゅん!」
「む、起きたのか? ポンタ」
腕を伝って肩へと登って来るポンタに声を掛けながら狭い船室を見回す。
船内に備え付けられた丸い窓からは僅かに外からの光が漏れて、殺風景な船室内を薄っすらと浮かび上がらせている。
丁度余っていた船室だったのか、室内には自分とポンタ以外の人影はない──というよりも、鎧を着たままの姿で船室に入った時点でもはやあまりスペースがなかったと言った方が正しい。
寝ていてややずれた兜の位置を手で直しながら、頭をぶつけそうな扉を潜って船室を出た。
時折波で揺れる船内で転ばないように、壁に手を突きながら甲板へと上がり、帆がはためく甲板の上から空へと視線を向けると、白み始めた空が青い色を広げ始めていた。
その視線を転じて船の進行方向から右手の海へと移動させると、そこには夜の色がまだ濃く残る黒い陸地が壁の様にして続いているのが見えた。
陸地はまだ暗くはっきりとはその仔細を見る事は出来ないが、どうやら今見えている陸地は断崖絶壁のようで、船を着けて降りれそうな場所がないようだ。
「ほぉ、もう南大陸の傍まで来ていたのか……」
黒々と続くその大地を眺めながら、そんな独り言を漏らしていると一人の山野の民の男が傍へと寄って軽い口調で声を掛けて来た。
「船の上でまで鎧着けてるなんてあんた変わってるねぇ。それでお前さん、南の大陸にあるファブナッハは初めてかい?」
チヨメと同じ猫人族と思われるその男は、少し欠伸混じりに伸びをしてから、船の縁に肘を突いて此方を見上げてくる。
そんな問いに応えるように自分は静かに頷いてその男を見返した。
「山野の民が興したという国に興味があってな……。あとは南の大陸にあるという香辛料の類やトマトなどが今回の旅の主な目的だな」
そう言って返すと、その猫人族の男は不思議そうな顔を此方に向けて来た。
「山野の民……ってなんだ? ファブナッハ大王国を興したのはオレ達獣人族だぞ?」
その彼の言葉に今度は此方が不思議な顔をする番になった。
「? お主らの様な種族を北の方で獣人と呼ぶのは蔑称扱いなのだが、南では違うのか?」
以前チヨメから聞いた話では、彼らのような獣の耳や尻尾などを特徴に持つ種族を北の大陸では人族が蔑称として”獣人”として呼び、彼ら自身は”山野の民”を名乗っていると聞いた。
その事を話すと、猫人族の男は何やら思い出したような顔で手を打った。
「あぁ、そういや北の方では呼ばないんだったか。南の方では昔、それぞれの種族が別々に暮らしていたのをファブナッハの初代王が”獣人族”として纏めて国を作ったんだ」
そう語る男の口調は何処か誇らしげで、その呼び名に対して後ろ向きな感情は一切ない。
どうやら地域が──この場合は大陸だが、場所が違えば常識も変化してくるものなのだろう。
「それに南じゃ、人族を見た事がない奴が殆どだろうからな」
「ほぉ、そうなのか。南の大陸には獣人族ばかりで、人族はおらんのか?」
男に相槌を返しながら、さらに話を振るとその男は僅かに苦笑するような顔をして口を開いた。
「ファブナッハの西に広がる二大平原の先に人族が支配している土地ならあるぞ。まぁ、奴らが南の地に攻め寄せて来たから今のファブナッハがあるんだがな……」
そうやって語る猫人族の男の顔には、人族への敵愾心というものはあまり感じられない。
彼が語った事が事実ならば、個人差はあれど普通はもっと人族に対して思う所などがありそうなものだが。
そう思ってその事を彼に尋ねると、彼は笑って頭を振った。
「人族は平原の先の土地に壁を作って、そこから出てこないって話だ。それに、オレ達獣人族が築いたファブナッハの精鋭兵は人族の兵士なんぞに遅れはとらんからな!」
どうやら海を挟んだ南の地では、北とは逆に獣人達が土地の覇者であるようだ。
そう考えると、隠れ里の人々を南の地へ移住させた方が全て丸く収まるような気がするが、それこそ他者の自分が意見する事でもないのだろう。
彼らの話しぶりからは隠れ里はあの里一つだけではないようだし、チヨメ達”刃心一族”が活動しているのは人族の奴隷から解放する為で、それもまだ道半ばと言った所のようだ。
長い歴史の中での問題が一朝一夕で解決する訳もない。
これから向かう先、ファブナッハという山野の民達が築き上げた国をチヨメが見て、それをどういう風に里へと伝えるか──その為に彼女はここにいるのだろう。
そんな事を考えていると、不意に後ろからチヨメが声を掛けて来た。
「アーク殿、ここにおられたのですか。実は少し相談がありまして……」
振り返るとそこには、いつもの黒い忍装束に身を包んだチヨメが少し遠慮がちに此方を見やる姿が目に入った。その彼女の背中側では、普段あまり感情を顔に表さない彼女に代わって、長い黒い尻尾が落ち着かない様子で揺れている。
「おぉ、チヨメ殿か、おはよう。して、我に何用か?」
雑談を交わしてた猫人族の男に別れを言って、チヨメの傍へと寄る。
その彼女に自分への用向きを尋ねると、チヨメは意を決したようにして此方を見返した。
「昨晩アーク殿に振る舞って頂いたクラーケンの潮干し、お金を支払いますので幾つか譲って頂けないでしょうか?」
「きゅん? きゅん、きゅん!」
そのチヨメの予想外の言葉に、まじまじと彼女を見返した。
蒼く透き通る目は真剣な眼差しで、しかし普段ではあまり見られない頬を僅かに朱に染めた姿は何やら年相応の少女のようで、その姿に思わず此方の口角が上がる。
そしてそんなチヨメに賛同を示したのか、頭の上のポンタも一緒になって訴える眼差しで、此方の顔を覗き込むように頭の上からずり下がってきた。
そんな一人と一匹の態度に、昨晩、出来上がったばかりのクラーケンの潮干しを炙り焼きにして夕食の席で出した時の様子を思い返す。
もちろんアリアンにも勧めてみたが、彼女はすごい勢いで首を横に振って飛び退った。
それに対してチヨメとポンタは興味津々といった様子で、一口齧るや否や、手が止まらないといった様子で炙りクラーケンに齧り付いていた。
それは自分も同じで、火で炙った香ばしいクラーケンに噛り付きながら、本気で醤油と日本酒が飲みたくなってしまった程だ。
どうやら二人(?)ともいたくクラーケンの潮干しが気に入ったようだ。
「別に金などは必要ないが、それにしてもチヨメ殿は余程あれが気に入ったと見える」
そう言って少し笑うと、チヨメは此方から僅かに視線を逸らして頬を掻いた。
「は、はい。あれ程美味しい物はなかなか普段口に出来ないですから……。それにボクが気に入った味なら、兄もきっと気に入ると思うので、お土産にしたいと思いまして」
「ほぉ、チヨメ殿に兄上がおられるのか?」
今迄チヨメから家族の話を聞いた事が無かったので、意外に思って尋ね返す。
それに対して彼女は少し頭を振って口を開いた。
「いえ、兄と言っても兄弟子で、今は六忍の一人、サスケという名を拝命しています」
そう言って彼女は眉尻を下げ、少し遠い空を見通すようにして空を仰いだ。
その名には聞き覚えがあった。
確か、隠れ里を訪れた際、チヨメが二十二代目のハンゾウと言葉を交わしていた時だったか。
サスケの行方をチヨメが尋ねている姿を思い出して、顎を撫でた。
偶然耳に入った事で、彼女の方は特に事情を語る様子もない事から、あまり深く聞くのも憚られるかと思い、曖昧に相槌を打って流す。
「そうか、潮干しなら大量にある故、必要なだけ持ち帰るといい」
アリアンは食べる気は一切なさそうだし、個人で消費するにも限度がある。
あとは半干しになってる残り物は、叩いて薄くして乾燥させてからフライにして、クラーケンフライに加工しても美味そうかも知れない。
こっそり加工して黙ってアリアンに食べさせてみるのも一興かも知れないなと、そんな悪戯を思案していると、アリアンが寝癖ではねた頭髪を気にしながら甲板へ上がって来る姿が目に入った。
乗船した時からでもあるが、船上に女性の姿が少ない事もあってか、周囲の男達の視線が起き抜けの豊満な身体を有するアリアンへと集まっている。
そんな視線を知ってか知らずか、狭い船室で凝った身体を解すようにして彼女が身体を動かすと、それにつられてその女性らしい部分がゆさゆさと揺れて周りから視線が一層力を増していた。
「おはよう、アリアン殿」
「おはよう、アーク。船室の寝台って何であんなに寝づらいのかしら……、おかげで身体中が痛くてしょうがないわ」
そう言ってぼやきながらアリアンは腰を擦る仕草をして溜め息を吐く。
そんな彼女に声を掛けようとすると、俄かに船上がざわついて人々の視線が一方向へと向いた。
その視線を辿るようにして目を向けてみると、船首の右前方、朝日に煌く海の先の陸地に幾つもの建物が立ち並ぶ街が見えてきていた。
「プリマスに到着だな」
誰かのそんな声を耳にしながら、海岸沿いを埋め尽くす勢いで広がる巨大な街を見渡す。
この船の全長が百メートル程もある大きさでありながらも、その大きさを微塵も感じさせない程の巨大なその都市は、今迄見て来た人族のどの街よりも大きかった。
昨日出航したエルフ族のランドフリアの里もかなり発展した大きな街だったが、この目の前に広がるプリマスという港街はそれ以上だ。
エルフ族の里のような大樹の高層建築物こそ無いが、ローデン王国の王都で見た建築にも引けを取らない巨大な建築物などがなだらかな丘状の土地にひしめき合っているのが見える。
その景色に隣にいたチヨメも目を見開いて、驚きを露わにしていた。
「話には聞いた事があったけど、本当に大きな街ね。人族の街がなんだか田舎に思えるわね」
そんな言葉を口にして関心した様な溜め息を吐くアリアンに、自分も同意するように首肯する。
「確かに、この街の規模から見ると人口は軽く十万単位は超えそうだな……」
リーブベルタ号がプリマスの港街に近づくにつれて、周囲には他所から来た船や、港から出航してきたであろう船などが多く擦れ違うようになる。
乗員はいずれも獣人族の者達で、船を使って荷を運んでいるのだろう。
やがてリーブベルタ号がプリマスの港に設けられた桟橋の一つへと横づけすると、周囲から逞しい身体つきの獣人達が続々と駆けつけ、船の係留作業へと入った。
船上が俄かに騒然となって荷下しの作業が始まる中、船長に挨拶をしてから、自分達は船室から持ち出してきた荷物を担いで甲板に渡された木製の橋を渡って港へと下りた。
船を降りた先には軽鎧を纏って槍を携えた獣人族の衛兵達が待っており、乗員達は皆、彼らから簡易の荷物検査などを受けてようやく港を出る許可が下りる仕組みのようだった。
一応アリアンがランドフリアの里の長老から預かった手形のような代物を預かっており、検査自体は割と素通りのような状態だったので、自分達はそれ程待たされる事は無くプリマスの街へと入る事が出来た。
そのプリマスの港街は今迄訪れた街の中でも一番熱気に溢れていた。
行き交う人々は殆どが獣耳や尻尾を持つ獣人族達で、中にちらほらとエルフ族やリーブベルタ号で船員として多く働いていたダークエルフ族の姿も見受けられた。
港周辺は市場になっているのか、荷下ろしされた品物を並べる露店や屋台が軒を連ね、それを買い求める人々の波ですごい人だかりが出来ていた。
まるで祭りの人ごみに放り出された様な中で、全身鎧を身に着けている者は珍しいのか、周囲からの視線に晒されながら市場の中を歩く。
「それにしてもすごい人ね……。よそ見してたらはぐれそうね」
そんな人の波を掻き分ける役目を負った自分の後ろで、アリアンが周囲の人だかりに目を向けて少し疲れた様な言葉を口にする。
船旅自体も初めてで、このような人波に揉まれる事も今迄無かった事なのだろう。
都会の人ごみに慣れているつもりだった自分も、久しぶりにこれだけの人波の中に放り込まれると、若干こたえるものがあるくらいだ。
それは致し方のない事だろう。
しかし露店や屋台に並んだ様々な商品──香辛料や見た事も無い食物などが雑多に並ぶ様を眺めていると、それを忘れさせてくれた。
ポンタも市場の中で気になる物が多いのか、忙しなくその視線を巡らせて尻尾を振っている。
そんな色々と目に映る珍しい光景に、あちこちと足を運んでいると一つの露店で交わされる会話が不意に耳に届き、思わず足を止めてそちらに目を移した。
「なんだよ!? いつもよりなんでこんなに高いんだよ、おやっさん!?」
客の一人、狼人族らしき獣人の男が、露天商である店主の熊人族であろう年嵩の男に、手元に並べられた香辛料と思しき品の一つを示しながら食って掛かっている場面だった。
「仕方ねぇだろ? 西の虎人族の連中が最近めっきり姿を見せなくなってんだ。レッドネイルも手元にあるのはこれで最後だ、どうすんだ?」
店主である熊人族の男が、客の男を面倒臭そうに見返しながら片眉を上げて、買うか買わないかの返答を簡潔に迫る。
客の男はまだ何やらぶつくさと文句を言っていたが、手持ちの金が心許なかったのか、渋々といった形で諦めてその露店を後にした。
そのやりとりをしていた姿を少し離れた場所から見ていた自分は、二人が争点にしていた香辛料らしき姿を見て思わず足がその露店へと向いた。
「ちょっと、アーク!? トマトはあっちの方にあるわよ!?」
それを後ろから付いて来ていたアリアンが、この南の大陸へとやって来た目的の品を見つけ、明後日の方へと進んで行く自分の背中に声を掛けて来た。
しかし自分はそれを手で制して、熊人族の男が店主を務める露店へと足早に近づく。
そして間近から先程高値で揉めていたレッドネイルなる品に視線を落とした。
形は鉤爪状で、大きさは人差し指大程。色は鮮やかな赤色で、乾燥させてあるのか表面には皺が寄り、独特の凹凸が見て取れる。
それは見た事のある食物──香辛料だった。
「店主、これは辛いのか?」
自分は思わずそのレッドネイルと呼ばれる香辛料の一つを手に取って、記憶にある特徴を確認するように店主に迫った。
相手の店主の男は、いきなり現れた全身鎧の此方を見て少し面食らった様子だったが、そこは商売人なのだろう、聞かれた質問の意味を理解して頷いて応えた。
「あ、あぁ。そいつはここらじゃ物好きぐらいしか手を出さないが、その痛い程の辛さから”悪魔の爪”とか呼ばれてる代物だ」
その店主の答えに、手に持った香辛料の正体を確信した。
──レッドネイル、それはトウガラシと呼ばれる香辛料の一つだった。