船旅1
翌日の早朝。
まだ空の藍色が濃く、海から吹き付ける風に乗って流れて来る海霧によってランドフリアの里の港は薄く煙るような様子を見せていた。
辺りに立ち込める湿った海霧の靄の中を、目の前に停泊する帆船リーブベルタ号の船員であろう男達が出航の準備に忙しなく動き回っている。
そんな中で若干興奮気味というか、旅立ち前の高揚感を感じているのは自分とチヨメの二人だけのようで、アリアンとポンタの一人と一匹は寝惚け眼を擦りながら欠伸を噛み殺していた。
「まさか建物内に物を載せて昇降する仕掛けがあるとは思いませんでした。確かにあれならば地上と地下の港での物資の搬入が楽ですね」
チヨメは背後に聳える港湾施設の建物内で働く人々に目を向けながら感心した声を漏らす。
彼女の指摘したその昇降設備は、背後に聳える地上と地下を繋ぐ港湾施設の建物内にあった代物で、現代的な名前で言えばエレベーターとかリフトなどと呼ばれる物だ。
しかしその原理は機械式的なそれではなく、魔法的な作用によって動いているようで、その様はちょっとしたSFのような設備だった。
「エルフ族の里は便利な物が実に多いな」
「……そう? それは良かったわ……ね」
自分もチヨメのその意見に賛同して頷くのを、隣に立つアリアンは気の無い相槌で返してきた。
白く長い髪が潮風に煽られ、彼女は薄紫色の肌が覗く胸元を押さえてぶるりと身震いする。
そんな寝不足気味な姿を見せるアリアンの横を、紫色の肌を持つダークエルフ族の男達が囃し立てる様に口笛を吹きながら通り過ぎて行く。
出航前の港の慌ただしい様子の中で、ララトイアの里ではあまり見かけなかったアリアンの同族であるダークエルフ族の姿が多く見受けれるのは、やはり単純に力仕事である船乗りの適性がエルフ族より高い為だろうか。
南の大陸出身であろう獣人系の種族達も概ね体格の優れた者達が多いように見える。
そんな屈強な船員達の中をかき分けて、此方に大股で近づいて来た一人の男が太い笑みのまま大声で挨拶をしてきた。
ダークエルフ族の男なのだろう、日によく焼けた肌はアリアンの様に綺麗な薄紫色の肌というよりは灰色味を帯びた紫色で、より”ダークエルフ族”という印象が強い。
肉体を取り戻した自分の褐色肌のダークエルフ族と少し印象が近いかも知れないな。
「あんたらが長老の言ってた客人か? オレはこのリーブベルタ号の船長を務めている。もうすぐ出航だからさっさと乗り込んでてくれ! 甲板に居てもいいが、出航作業は邪魔せんでくれ!」
と、目の前に停泊する巨大交易戦艦の船長を名乗ったダークエルフ族の大男はそれだけを言うと、もう用事は済んだとばかりに踵を返して大股で歩み去って行く。
しかし途中で何かを思い出しように振り返り、こちらを指差して船内の行動に警告をしてきた。
「あまり細かい事を言うつもりはないが、下層後方にある船倉には近づかんでくれよ! 大人しく船旅気分でいれば明日の朝には向こうのプリマスに着いてる! じゃあなっ!」
今度は本当に用は済んだのだろう、周りの船員達に向かって指示を飛ばす様に声を張りながら、交易戦艦リーブベルタへと乗り込んで行く。
それに従うようにアリアンも一度大きく伸びをしてから、その後を追う様にして歩き出し、チヨメもそれに倣って背負った荷物を担ぎ直して小走りに付いて行く。
だが自分は船長が去り際に言った言葉に気を取られて、思わずその場で固まってしまっていた。
「ちょっと、早く乗らないと置いていかれるわよ、アーク?」
そんな此方の行動を訝しむように、アリアンが振り返ってそんな声を掛けて来る。
しかし自分は先程聞いた衝撃の言葉に、彼女の質問には答えず質問で返していた。
「アリアン殿、先程船長が言った事は誠か!?」
自分のやや要領を得ないその問いに、アリアンがますます首を傾げて頭に疑問符を浮かべる。
「いや、先程船長が明日の朝に向こうの港に着くと言っていたように思うのだが!?」
自分が船長から聞いた予想だにしなかった事──それは期待していた船旅がたったの一日で終わるという事実だったのだが、その事をアリアンに言うと彼女は不思議そうな顔でチヨメを見た。
「早く着くに越した事ないじゃない? 足の着かない海の上で何日も船で過ごさないで済むんだから、むしろ喜ばしい事よねぇ、チヨメちゃん?」
そのアリアンの同意を求める言葉に、チヨメも小さく頷きを返して賛同を示す。
「確かに不安定な足元である海上にいる日数が少なくて済むのは正直有り難いですね。ただボクが驚いたとすれば、南の大陸までの距離が意外に近かった事でしょうか?」
チヨメのそんな素直な驚きに対して、アリアンは港に停泊するリーブベルタ号を仰ぎ見て注釈を付け加える様に口を開いた。
「ここから南の大陸までの日数が一日で済むのは、乗る船がこのリーブベルタだからよ。人族の持つ様な普通の船なら四日は掛かるって話よ?」
何やら少し得意げに語るアリアンの話を聞きながら、自分も停泊する交易戦艦を見上げた。
彼女の話が本当ならば、この船は人族の帆船より単純計算で四倍の速度が出るという事だ。
赤い彗星どころではない……。
しかしそんな会話している最中に、リーブベルタの船上から高い鐘の音が掻き鳴らされた。
その音に反応して、アリアンが慌てた様に荷物を担ぎ直して船へと小走りになる。
「アーク、出航前の鐘よ! 早くしないと本当に置いてかれるわよ! 急いでっ!」
「! 了解した!」「きゅん!」
彼女のその言葉に、自分も慌てて返事をして荷物を背負い直してから船へと急ぐ。
自分達が甲板へと乗り込むと、すぐに舷側に掛けられていた橋が下されて甲板の上を船員達が慌ただしく動き回り始めた。
そして一際高い鐘が大きく間を空けて打ち鳴らされるのを合図として、ゆっくりと巨大な交易戦艦リーブベルタが岸壁から離れ始める。
自分達は船員の邪魔にならないように、船首付近の甲板から眼下の飛沫を上げる海を見下ろしていた。
港の桟橋にいる人達が、船上に姿を見せる船員達に手を振るなどしている姿を眺めなら、船上の後方を少し見上げるような形で視線を向け、その違和感に首を捻った。
「アリアン殿、……この帆船、帆を張らずに進んでいるのだが?」
その違和感の正体をそのまま口にして、思わずその自分の言っている意味に気付いて驚いた。
「リーブベルタは魔道船よ。地下の方の港は風が吹かないから、沖に出るまでは魔道力の方で進むんじゃない?」
チヨメもその風を使わずに進む帆船の挙動に、驚きの眼差しで船上のマスト上にある畳まれた帆を見上げているが、アリアンは事も無げにそう言って舷側の縁に腰を凭れさせた。
つまりはこの交易戦艦には動力が積まれており、推進機関が存在するという事だ。
すると出航前に船長が立ち入りの警告してきた、下層後方にある船倉というのは恐らく機関室にあたる場所なのだろう。
人族に魔道船の技術が普及していない所を踏まえると、立ち入り禁止は機密保持の側面もあるという事だろうか。
「アリアン殿はこの船が動く仕組みを把握しているのであるか?」
何となく好奇心でリーブベルタの動力の仕組みをアリアンに尋ねてみると、彼女は凭れかけていた縁に体重を乗せて背筋を反らせ、海面に上半身を投げ出して気の無い返事をする。
「知らなーい。あたしは技術者じゃないんだから、詳しい仕組みなんて分からないわよ」
仰向けに空を眺めながら答えるアリアンの反らされた身体の上で、彼女の大きな胸が波間に揺れる船に合わせて同じように揺れる。
その豊満な胸の揺れを横目に顎を擦った。
彼女の言う通り、技術者でもない者が動力の仕組みを聞かれても詳しく説明は出来ないか。
車がエンジンで動く事を知っていても、エンジンがどういった仕組みで動くのかを説明出来る人間は少ないという事だ。
推進機関を搭載した帆船ならば、人族の船の四倍の速度も頷ける。
期待していた船旅がたった一日で終わるというのは残念でもあるが、新天地である南の大陸にそれだけ早く渡れると考えればそれも悪くない話だ。
そう自分に言い聞かせて首肯する。
すると船尾の方から風に乗って「帆を張れぇ!!」という微かな声と共に、規則正しい鐘の音が鳴ると、三本の帆柱の畳まれた帆が順次張られ始めた。
どうやら魔道船リーブベルタ号はいつの間にか港から大きく離れて、幾つか小島や岩礁が浮かぶ沖の方へと進んでいたようだ。
船はゆるゆるとその速度を上げて、波を切るようにしてその地帯を抜けようとしていた。
しかし次の瞬間、船上にけたたましい音で早鐘が打ち鳴らされて船上が少し慌ただしくなる。
その音にアリアンが身を起こして、船の斜め後方に視線を向けた。
「海賊船かもね……」
吹き付ける潮風に白い髪を靡かせ、アリアンの金の双眸が眇められる。
彼女の見据える先──そこには今まさに沖合に浮かぶ小島の影から姿を現した二隻の船の姿が、船首部の甲板である自分達の位置からも確認出来た。
「海賊などが出るのか……」
ここはランドフリアの港を出てからまだ然程遠くない場所だ。そんな場所での海賊の襲撃に驚きはしたが、同時に海賊の正気の方を疑ってしまった。
こちらの船に並走するように航行する海賊船は、リーブベルタの全長の半分もないような船だ。
おまけにリーブベルタ号は竜の甲鱗を用いた装甲艦だが、相手の海賊船はどう見ても普通の木造帆船でしかない。
しかも明らかに船速がこちらの船より遅いのが見ていて分かる。
意気揚々と待ち伏せから姿を現しはしたが、徐々に互いの船の距離が離れ始めていた。
「エルフ族の船の技術を狙う、人族の国が海賊を装ってるって話だけど……。あの様子だと放って置いても大丈夫そうね」
アリアンも海賊の話は聞いた事があるだけのようだったが、彼我の差が明らかなのを見ると力を抜いた様に肩を竦めて見せた。
確かにこれだけの造船技術ならどこの国でも欲しがるだろう。海賊の船はエルフ族の船とは比べるべくもないが、それでも一海賊程度が所有するには些か度の越えた代物である事は、ランドバルトの港街で停泊していた多数の船からある程度類推する事が出来る。
と、そんな事を思考していると、いきなり二発の轟音が船上に響き渡った。
見れば甲板の中央付近に備えられていた片舷の大砲二門が海賊船に向けて発射されていた。
リーブベルタ号が波を切る音の上に、何処か遠ざかる様な風切り音が響いて、次の瞬間──相手の海賊船近くで爆発が起きた。
一発は相手の近くの海上で水柱が立ち上がり、もう一発は見事相手の船の帆柱を中程から圧し折る事に成功し、相手の混乱する声が遠くに聞こえて来る。
海上戦闘において、金属製の砲弾を撃ち出すだけの大砲戦は波などの影響もあって殊の外命中させる事が難しいと聞いた事がある。しかし、撃ち出す弾が炸薬系ならば多少狙いが外れても爆発の範囲で命中させる事は可能だ。
あの砲弾はホーバンの内乱時にも使用された『魔晶爆玉』と似たような代物なのだろう。
あっという間に航行能力を失った一隻に、もう一隻が救助の為か速度を落として回頭していく。
そんな二隻の海賊船を置き去りに、速度を上げ始めたリーブベルタ号はその距離を広げ始める。
「人族の海賊船相手に片舷十門もの”魔大砲”は過剰戦力であるな……」
そんな様子を眺めながら呟いた独り言に、アリアンが答えを返してきた。
「あれはそもそも魔獣迎撃用であって、海賊船を沈める為の物じゃないわよ」
「なんと、そうであったか」
その彼女の言葉を聞いて、海にも魔獣が存在する事にこの時ようやく思い至った。
広がる蒼い海原は昇り始めた朝日に照らされ、白く光り輝く波が此方の視界を狭めてくる。
自らの手で庇を作り、目を細める様にして先に広がる海と空を眺め回す。
しかしその広大な大海原の波間には、これといってリーブベルタ号の脅威となるような存在を確認する事が出来ない。
陸などではグランドドラゴンや龍王のような存在がいたが、海には交易用の帆船を戦艦に換装する必要がある程の魔獣が存在するという事だ。
やはり海で一番有名な怪物と言えば──やはりあれだろうか?
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