気付かないで。
ことが終わって、彼が上着を翻しそこに腕を通したときキラリと輝くそれがことりと控えめに音を立てたように思えた。落ちてしまったそれに彼は気づいていないようだった。
ベッドの上に両手をついて足は出して床にのせて背中を見つめていた時だった。どうしてこんな時に。幸せな空気にに浸ることさえも許してもらえないのだろうかと焦れる。まだこちらを向くことはないが、今この思いを顔に出してしまえばこのやわらかな空気をめちゃくちゃに壊してしまいそうな気がして、先程までの間抜けな顔を崩さないように、悟られないように顔を固めた。ああ、きっとひどい顔をしている。
彼に気づかれまいとゆっくり音を立てないようにベッドから降りた。こそこそと彼の足元に近づく。なんだか悪いことでもしている気分だ。少し笑みが戻ってきてそろりそろりすり足で近づいた。だけどじめじめとした空気にはっとする。私は何をとぼけたことを言っているのだろう。締め切ったはずの窓の外では女の甲高い媚びたような声が、部屋の中ではエアコンの音がやけに大きく聞こえた。
悪いことをしている。
そう気づいてしまえば雨降る日のホテルの中で乾いた笑いが今にも漏れ出しそうだった。私は同じような女を知っている。
「悪いことをしているなんて百も承知よ。わかっている上で行動に出ているの。それをどうしてあなたが止めようとするの?」
そう言い切った大学で知り合いだった彼女。どうして自分にそれほど自信持てるのかと、相手に申し訳ないと思わないのかと問い正したいほどだった。だって自分の行動ひとつで相手の相手、奥さんのことをぐちゃぐちゃにしてしまう。それどころか相手のことも壊してしまうのに。
ひたすらに理解することができなかった。そうなれば彼女に対しての評価が変わるのなんて一瞬で、簡単に嫌悪すら生まれてしまうのだ。
あの時は。
あの時は、と付け足した時点で私はあれほど見下した彼女と同じものに成り下がっている。もしかしたらそれ以下かもしれない。今現在こうして彼と会っているのは私だ。彼女はもう、やめてしまっているかもしれない。彼女と会うことはもうなくなったし、それももう分からないけど。
落ちた指輪をさっと奪って早歩きで彼と反対の方向に歩いた。
「どうしたの?」
柔らかな彼の声が痛かった。先程まで酷く心地よかった少し低い声はぐずぐずと腐りかけた私の心を更にえぐっていくのだ。
こんな格好じゃポケットすらなくて、さっき拾った指輪を手のひらに爪が食い込んでしまうほどきつく握り締めた。悟られてはダメだ、こんなことをしていることを、彼女のことを思い出したことを、こんな気持ちになっていることを、この手の中に彼の指輪があることを。決して悟られてはダメだ。
「ちょっとお花摘んでくるのよ」
ニッと今までいったことのないセリフを言って、なんにもなかったように今まで通りの仮面を被った。彼はそんなセリフに吹き出す。
「なんだそれ、なに急に乙女ぶってんの」
いってらっしゃい、とくつくつ笑いながら言った。
自分でも笑えるほどだった。歩けばぺたぺた間抜けな音がなるのとは反対に私の笑いは乾き切ったものだった。
トイレの小さな空間に収まって、便器の上に膝を立てて座って、天井を見上げた。宝石はついていないけどキラキラした彼の指輪を自分の左薬指にはめるとやっぱりぶかぶかで、急に罪悪感に苛まれる。彼が酷く遠く感じてしまって、涙が垂れた。太陽に当てるみたいに手を電気に向けて、そうやって自分を傷を自分で抉る。一層指輪が眩しくて目が眩む。
「ばかみたいだ」
これからも私はこんなばかみないな事を続けていくのだろうか。彼に気付かれぬよう、声を潜めようと泣くけれど、嗚咽が漏れて小さい空間で大きく響いていく。彼を愛しているって、本当にそうだったのかしら。私はただ愛しているという言葉に酔っていただけかもしれない。わからなくなる。
だから今はただ、私がないている事に気付かないで。気付かないふりをして。
「即興小説トレーニング」にて書いたものに加筆。
不倫なんて虚しいだけじゃないかと思う。