第2話 翔子3
次の日の朝、普段通り早起きして朝食を作っていると、燈子が二階から降りてきた。
「燈子、大丈夫なの?」
「ええ、おかげさまでかなりよくなったわ」
燈子の顔色はまだあまりよくなかったが足取りはしっかりしていて、体力がかなり戻っていることがうかがえる。
「それはよかった」
「これであんたと翔子の邪魔にならずに済みそうね……」
「邪魔だなんて……。そんなこと全然思ってないから」
辰也がそう言うと、燈子は笑った。
「安心なさい。あんたがそういう風に考えるやつだって、私はわかってるわよ」
その後翔子も起きてきて三人で朝食を食べ、燈子は再び寝室に戻った。辰也と翔子も昨日と同様家事を済ませる。
今日は買い物に行く必要がないので、時間に余裕がある。辰也は家事を終わらせた後、二時間ほど机に向かった。
一日中家にいると時間が流れるのが早い。あっという間に昼食の時間となり、辰也はまた台所に向かう。三食三人分作るのは結構面倒だが、やりがいはある。燈子もよくなっているみたいなので焼き魚をメインに和食を作り、燈子と翔子に振る舞った。
昨日と同じく昼食の後、翔子は後片付けを手伝おうとするが、辰也は止めた。翔子がとても眠そうにしていて、危なっかしかったからである。食事の途中からずっとうとうとしていて、とても働けるようには見えなかった。
「いいから昼寝してきなよ」
辰也は目を擦りながらふらつく翔子を、ベッドまで連れて行かなければならなかった。
翔子を寝かしつけた後、ようやく辰也は昼食の後片付けに取りかかる。食器を洗って今日はついでに水回りの掃除もやってしまおうと、スポンジを手に取ったところで辰也は階段の方で音がすることに気付いた。誰かがゆっくり足音を立てないように階段を降りている。
辰也はスポンジを置いて、様子を見に行く。なんとなく、嫌な予感がしたのだ。また燈子と翔子のどちらかが無理をしているのかもしれない。
辰也がキッチンから出ると、廊下にいたのは燈子だった。燈子は大きめのバッグを肩から下げ、玄関へと向かっていた。辰也は燈子の背後から声を掛ける。
「どこへ行くの?」
「た、辰也……!」
燈子は驚き振り返る。辰也はさらに尋ねた。
「まだ万全じゃないんでしょ? いったいどこへ行く気なの?」
辰也の問い掛けに燈子は多少落ち着きを取り戻したのか、何でもない調子で答えた。
「決まってるでしょ。帰るのよ」
「帰るって……どこに?」
「私んち」
「何か家に用事があるなら僕と翔子で行ってくるけど……?」
「違うわよ。あんたの家から出ていくの。もうこっちには帰ってこない」
三人での生活が長くなっているが、燈子にだって帰る家はある。しかし、何もハルマンが襲来し、燈子自身の体調も優れない今、帰ることはないのではないか。辰也は理由を訊く。
「なんで……? まだ体も治ってないのに?」
「まだちょっとだるいけどあんたのおかげで大分よくなったわ。ありがとう」
にこりともせず燈子は言った。辰也は燈子を引き止めるべく次々と思いついたことを口にするが、片っ端から論破される。
「ハルマンが来てて危ないじゃないか!」
「あのクラスの魔族は私なんか相手にしないわよ。危ないのはあんただけど、今の私があんたにできることはないわ」
「でも、ハルマンが君を人質にしようと襲ってくる可能性も……」
「ハルマンくらいの魔族はね、人間のことなんて鼠くらいにしか思ってないのよ。あんたのことは多少警戒しても、そんなまどろっこしいことはしないわ」
「燈子がいないと魔族の気配がわからないよ」
「嘘よ。辰也、ハルマンの気配がわかるんでしょう? 他の魔族も感知できるようになっているわ」
「燈子、料理できないのに帰ったら困るんじゃないの?」
「スーパーでお総菜でも買うわよ。そもそもそんなことどうでもいいでしょ」
「……」
言うことがなくなって、辰也は沈黙する。こうして歩けている以上、燈子が辰也の家に留まる理由はもうないのだ。そのことに気付いて辰也は愕然とする。
「もういいかしら? 私、行くわよ」
燈子は辰也に背を向ける。辰也は思わず、「待って!」と燈子を引き止めた。
「まだ何かあるの?」
「えっと、その……」
「言いたいことがあるなら、ちゃんと言いなさいよ」
辰也は口籠もってしまうが、燈子は待ってくれた。辰也は自分の気持ちに混乱したまま、言った。
「燈子に行ってほしくないんだ」
「え……?」
燈子はキョトンとするが、辰也は思ったままを口にする。
「あの、その、……燈子に家にいてほしい」
「あんた、自分が何言ってるかわかってるの?」
「わかってるよ! でも、燈子と離れたくない……。燈子と一緒にいたい……」
辰也は自分の気持ちを正直に吐露した。この気持ちが何なのかわからない。でも、燈子に帰ってほしくない。
「あんたにそんなこと言われたら私……身を引けないじゃない。私、翔子の邪魔になっちゃいけないのに……」
辰也の言葉を聞いて燈子は複雑な表情を浮かべ、顔を伏せた。
「邪魔だなんて……。翔子だって、絶対燈子にいてほしいと思ってるよ」
辰也がそう言うと燈子は激しく首を振る。
「だめよ……。私はきっと、翔子を裏切ってしまう」
「裏切るって、どうして……」
燈子の様子に、辰也も動揺を隠せない。燈子も悲愴な表情で押し黙る。燈子が伝えようとしていること、もしかしてそれは……
「やっぱりそうだったんですね、姉さん。それに……辰也さんも」
突然の声に、辰也も燈子も固まる。後ろに翔子が立っていた。
「ち、違うの。違うのよ、翔子……」
辰也が言葉を失っている傍らで、声を絞り出すようにして燈子は言う。翔子は首を振った。
「何が違うんですか? 何も違っていませんよ……。私が思ったとおりです」
翔子はつかつかと辰也に近づいてくる。
「何……?」
思わず辰也は身構えてしまうが、翔子は歩調をさらに早めて突っ込んできた。辰也は目を瞑るが、何も起きない。辰也は目を開けておろおろと周囲を見回すが、翔子の姿はなかった。
「もしかして……僕の中に入ったの?」
「そうみたい……」
燈子の答えを聞き、辰也は自分の中に呼びかける。しかし翔子からの返答はなかった。
「中に行ってみる」
翔子は辰也の中の部屋にいるはずだ。辰也は目を閉じて体の力を抜き、自分の精神を内面に潜行させる。「翔子を頼むわよ」と燈子の声がした。
以前はドラコがバーのように改装していた辰也の中の部屋は、殺風景で閑散とした寂しい部屋に変わっていた。ドラコがここを去る際に持ち込んだ家具その他一式を持っていってしまったからだ。翔子はこの部屋に、何も持ち込もうとしなかった。今この部屋にあるのは外に出るための扉と、辰也の体に取り憑くための大鏡だけだ。
真っ白な部屋の真ん中に、見慣れた高校生の姿の翔子が佇んでいた。辰也は翔子に近づき、声を掛ける。
「翔子……」
言葉が続かない。翔子と何を話せばいいのかわからなかった。辰也は翔子の名前を呼んだきり黙り込み、途方に暮れる。そんな辰也に翔子は手を伸ばし、頬をそっと撫でる。翔子の手はひんやりと冷たかった。
「辰也さん……私、辰也さんのことが好きです」
辰也の頬から手を離し、翔子は言った。一瞬翔子が何を言っているのかわからず、辰也は茫然とする。
「翔子、何を言って……」
「ずっと、あなたのことが好きだったんです。辰也さんのためなら私、なんでもできます」
翔子は自分の服に手を掛けた。制服のボタンをはずして一気に脱ぎ去り、スカートもはずしてストンと下に落とす。
「しょ、翔子! 何考えてんの!」
辰也は必死に翔子から目を逸らす。翔子は真っ白な下着姿をさらしていた。綺麗だとは思う。でも、辰也が見ていいものではない。
「私は辰也さんのために全てを捧げる覚悟です……。だめ、ですか?」
翔子は辰也の胸に寄り掛かる。翔子の絹のようにすべすべした肌が辰也に触れ、甘い吐息が辰也の耳を濡らした。辰也は翔子を引き剥がそうとするが、翔子はぴったりとくっついて離れない。辰也は叫んだ。
「全てなんて……だめに決まってるだろ! 僕は、僕には……!」
そんな価値はない。そう言おうとしたところで、遮るように翔子は言った。
「そうですよね。辰也さんには、姉さんがいますものね」
翔子の言葉に辰也は戸惑い、訊き返す。
「なんでそこで燈子が出てくるんだよ……!?」
辰也の問いに翔子は目から涙を溢れさせ、顔をくしゃりと歪めて叫んだ。
「だって、辰也さんは姉さんのことが好きじゃないですか!」
「いや、僕は……!」
翔子は反論を許さない。
「辰也さんは、自分で自分の気持ちに気付いていない……いや、自分の気持ちから目を背けようとしているだけです! 誰が見ても、辰也さんは姉さんを好きになっている! そして、姉さんはその気持ちに応えようとしている!」
翔子の指摘に、辰也は頭が真っ白になった。
僕が……燈子のことを好き?
燈子も、僕のことが好き?
辰也もできの悪い脳みそのどこかで、多分わかっていた。燈子と一緒にいるとわけもなく楽しくて、燈子のことを大切にしたいと思える。燈子とならずっと一緒にいたい。この辰也の燈子に対する思いは、恋だ。
辰也だって年頃の少年なのだ。何もおかしなことはない。しかし、なかなか辰也はその事実を認めたくなかった。
さらに踏み込めば、燈子は辰也の気持ちを憎からず思っていてくれている。これも多分、事実だ。そうでなければ昨日階段から落ちたときに、しばらく密着したままでいてくれたことに説明がつかない。きっと、燈子は辰也だから許してくれたのだ。
焦点の定まらない目で翔子を見る。翔子は辰也から視線をはずさず、ポロポロと涙をこぼしていた。辰也はずっと、翔子を傷つけていたのだ。
「翔子……僕は……」
辰也は翔子に掛ける言葉が見つからない。謝ればいいのではないし、開き直ればいいのでもない。辰也は本当にどうしたらいいのかわからなかった。からからの空気が喉をひゅーひゅーと流れた。
「姉さんと……幸せになってください!」
とっさに対応できなかった。翔子は辰也の体を、鏡ではなく扉の方に押し込む。ガタンと音を立てて扉は開き、辰也は暗闇に落ちていった。
扉越しに見えた翔子は、泣きながら笑っていた。
「うわあああっ!」
辰也は地面に叩きつけられていた。体の痛みに耐えながら辰也は立ち上がり、おかしいことに気付く。自分が、のっそりと自分を見下ろしていた。
「え……? 辰也……!?」
燈子が困惑の声を上げる。おかしい。自分はちゃんと立っているのに、燈子に見下ろされている。
「さよなら……!」
目の前に立っているもう一人の自分が走り出す。もう一人の自分はそのまま外へ出て、小さくなっていった。辰也は茫然とその様子を見送る。
「た、辰也! いったいどういうことなの? なんであんた、小さくなってるの?」
「へ?」
靴箱の内鏡に映った辰也の姿は、小学一年生くらいだった。
○
走りながら、涙が溢れてきた。もう辰也のところにも、姉のところにも戻れない。こうして辰也の体を奪って逃げた以上、翔子は二人の敵だ。このままハルマンを倒して、自分は消える。翔子は強く決意していた。
翔子は人目につかない路地に入って左手に『魔王の心臓』の外部デバイスを浮かび上がらせ、カードを取り出す。翔子はカードを使って辰也の体を自身の姿に変えた。
『Form up!』
まばゆい光が収まる頃には翔子は細身のレイピアを携え、『竜の瞳』を発動させていた。『竜の瞳』は周囲を走査し、ハルマンの居場所を翔子に教える。翔子は背中に魔力を込めて巨大な翼を広げ、ハルマンの元へと一直線に向かった。
狙うはハルマンの首のみだ。ハルマンさえ倒せば、辰也も燈子もしばらく安全になる。感情の昂ぶりを抑えながら、翔子は飛行し続けた。
「ほう……そちらから来るとは、どういう風の吹き回しだ? 大人しく私に『魔王の心臓』を引き渡す気になったのか?」
場所は町外れの廃工場、時刻は午後二時前といったところだった。がらんとした廃工場は隅にドラム缶やら木材が積まれているばかりで、人がいた痕跡はほとんどなく、積もった埃がこの場所が打ち捨てられて久しいことを示していた。薄暗い内部には屋根の隙間から陽光が差し込み、光の筋の中を埃が舞っている。
ハルマンは廃工場の中央でドラム缶の上に座り、獲物を見つけた獣の目でこちらを見ていた。翔子は冷静に返答する。
「まさか……。私はあなたを倒しに来たんですよ。今なら見逃してあげますから、『魔王の心臓』を諦めてここから出て行ってくれませんか?」
「笑止! ならば力ずくで奪わせてもらおう!」
ハルマンは立ち上がり、翼を広げる。その瞬間、空は暗くなり雷鳴が轟いた。激しい雨が廃工場の屋根を叩き、狂った旋律を奏でる。ハルマンの巨大な魔力が、天候にまで影響を与えているのだ。
「だとしても、私は負けるわけにはいかないんです……!」
ハルマンを中心に放出された魔力が弾け、工場の建屋が吹き飛ぶ。翔子は背中の翼を展開して爆発を凌ぎ、腰のレイピア──『黒翼天』でハルマンに突き掛かった。ハルマンは例によって大剣を取り出し、翔子の攻撃を受け止める。
「フン、下等な人間風情がァっ!」
お互いの限界を試す魔術戦が、今始まった。
○
辰也は自分の体をぺたぺたと触り、絶望的な現状を把握した。今、辰也の体は魂だけの状態で小さくなっている。眷族が小さな体で辰也の中から出るための扉。もし辰也が使えばどうなるのか少し気になってはいたが、結果は深刻だ。辰也の顔からは血の気が引いていた。動揺の中で必死に辰也は頭を回し、燈子に尋ねる。
「と、燈子! 翔子がどこに行ったのかわかる!?」
「え、ええ。……今、飛んでる? いや……これは……! 翔子はハルマンの方に向かってるわ!」
翔子の霊力を探した燈子は焦りの声を上げた。翔子はきっと一人でハルマンを倒しに行く気なのだ。
「どうしよう、燈子……? 翔子を追う……?」
情けないことに、一人では決断できなかった。燈子も苦しげな表情を見せる。
「そうね……。そうすべきなんでしょうけど……」
燈子の言いたいことが痛いほど辰也の胸に突き刺さる。それは辰也たちに翔子を追いかける資格があるのかという命題だ。
「……翔子一人でハルマンに勝てるかな?」
「どうだろう……。火力不足ではあるけど『竜の瞳』で未来を読み続ければあるいは……」
燈子は言葉を濁すが、翔子の勝利は難しい。いくら『竜の瞳』で常に相手の行動が読めても、相手がこちらの限界を超えれば当然負けてしまう。とてつもない回復力を誇るハルマンに翔子が競い負ける可能性は高かった。
翔子を助けに行くべきではある。翔子が負けて辰也の体を失えば、いずれ辰也も消えてしまうのだ。しかし、今辰也が翔子のところに行くのは翔子の思いを踏みにじるのと同義なのではないかとどうしても頭の中にもやもやが残って、体が動かないのだった。
「行かなきゃいけないよね……」
重い体に鞭を入れるべく辰也は口にする。しかし燈子は動かなかった。
「待って、誰か来るわ」
燈子の言葉通り、向こうから誰かが走ってくる。やってきたのはドラコを従えた優だった。
「小野寺君! ドラコ!」
「辰也、大変なことになっているみたいだね」
まるで緊張感のない笑顔を浮かべ、優は言った。
「辰也殿、燈子殿、まずは落ち着いてください。策を講じましょう」
ドラコに声を掛けられて辰也と燈子は幾分か平静を取り戻す。燈子は優に尋ねた。
「……なんとかできる?」
燈子の質問に、元魔王はさわやかな笑みで答えた。
「ハルマンを倒すのは無理だよ」
「そんな……じゃあ翔子は……」
「彼女と君の体を諦めるなら、君だけは助けてあげられるよ」
優がにっこりと笑う。
「僕のところに来ればいいのさ。僕の『魔王の心臓』のレプリカなら、魂だけの君を生かし続けることができる」
「いや、そんな……」
優のあまりにも無遠慮な提案に辰也はあ然とする。この状態で辰也だけ残って、何の意味があるのだろう。
そんな辰也の心情を察したのか、ドラコが発言する。
「勝ち目がないのなら降伏するのも手段の一つですぞ」
「……」
ドラコの言うことももっともだった。前回辰也は燈子とともにカード消費の必殺技を二発ハルマンに撃ち込んでも、勝つことができなかった。辰也と翔子だけでは、どのみちハルマンの力に及ばない。
かといって翔子を見捨てるのも憚られる。優は絶望に打ちひしがれる辰也の顔を見て別の提案をした。
「嫌なら、ハルマンと交渉してみるかい?」
「交渉って……?」
「降伏交渉だよ。『魔王の心臓』を引き渡す代わりに君と翔子の命を助けてもらう交渉さ」
「……辰也も翔子もあんたの中で生きろっていうこと?」
燈子が尋ねる。優は首を振った。
「違う違う。前に言っただろう? 僕の策には時間が掛かるって。やっと完成したんだよ。『魔王の心臓』のレプリカがね。突貫工事だけど間に合ってよかった」
「『魔王の心臓』のレプリカ……? まさか、あんた……!」
燈子は何かに思い当たったように、ハッとした顔をする。
「レプリカさえ埋め込めば、辰也は『魔王の心臓』を取り出しても死なない。ハルマンに『魔王の心臓』を引き渡して降伏することができる」
優の悪魔の提案に、辰也は目を見開いた。
○
ハルマンの攻撃パターンは剣、魔法、翼の三つで構成される。翔子の『竜の瞳』は次の手がどれか正確に読み切って翔子はその攻撃を捌くのだが、攻撃が速すぎて反撃に移れない。完全に防戦一方となっていた。
「ハハハ、所詮人間だな! そろそろ限界であろう!」
「まだまだ……!」
ハルマンの氷の呪文を風の呪文で払い、剣は『黒翼天』で受け止める。雷の呪文なら背中の翼で弾き、ハルマンが翼を伸ばしてくればこちらも翼で打ち払う。一つ一つの動作は単純でも、これらがフェイントを交えて連続で来る。幸い翔子には『竜の瞳』があるのでフェイントに惑わされることはないが、反撃もできない。
お互いに魔力は十分にあるので、先に集中力が切れるのはどちらか、という勝負になっていた。いつかはカード消費の必殺技を出して勝負を決めなければならないが、その機会は当分先になりそうだ。
翔子にとって一番痛いのは、ハルマンの魔力で天候が変わり嵐になったことだった。雷雨と暴風の中では危険すぎて、風の魔力を持つ翔子も飛ぶことができない。攻撃力では負けていても飛行能力では勝っていただけに、飛ぶという選択肢が封じられたのはきつい。
また、日が出ている間なら魔族の力は減じられるはずなのに、これだけ暗くなると無関係だ。100パーセントのハルマンの相手をしなくてはならない。翔子は飛行能力と日の光という、勝機となるはずだった二つの要素を失ってしまった。
燈子のフランベルジェ『黒息火』なら逆にハルマンの剣を破壊できるかもしれないし、辰也の刀『黒鱗丸』ならその耐久性と魔術を打ち消す特殊能力でハルマン相手にも十分立ち回れる。
しかし翔子の『黒翼天』はレイピアだ。辰也の『黒鱗丸』のような耐久力が備わっているわけでもないため、ハルマンの大型の西洋剣と打ち合うには華奢すぎ、まともに打ち合うのはためらわれる。
もちろんその分翔子には燈子や辰也にはない俊敏さを備えている。飛行できない今でも燈子や辰也よりずっと素早く動けるし、本来の用途には使えなくても背中の翼はハルマンがそうするように、攻撃や防御に活用できるはずだ。だが武器を失いかねないプレッシャーと、ハルマンの一撃への恐怖心は翔子から完全に余裕を奪っていた。
かくなる上は精神力で勝つしかない。しかし精神的には、攻撃し続けるハルマンより攻撃を受け続ける翔子の方が不利なのは明らかだった。
一秒が永遠にも感じられる攻防が延々と続いた。多分、まだ十分と経っていないはずだ。それでも一瞬の気も抜けない戦闘で、翔子の精神は急速に摩耗していった。戦っている最中なのに、他のことが頭をもたげる。戦いに集中できなくなっていく。
そもそも、翔子はこの戦いに勝利する必要はあるのだろうか。この戦いが終わったら死ぬと、心に決めているのに。今負けて殺されても死期がわずかに早まるだけではないか。
(……いけない! 私が負けたら、辰也さんも死んでしまう!)
今翔子が使っているのは辰也の体だ。辰也のこの体を失うのは、辰也の死とも同義である。勝手に辰也の体を使って負けてしまうのは、いくらなんでも酷すぎる。
(でも……)
辰也の死まで考えても、翔子の中のわだかまりは消えなかった。いざとなったら辰也の体も元魔王である優がどうにかしてしまうのではないか。そんな都合のいい考えさえ浮かんでくる。ハルマンを倒して無傷で辰也に体を返すのが一番のはずなのに、一番でなくてもいいのではないかと自分の中の悪魔がささやく。翔子は耳を塞いで叫びたい気分だった。
当然だ。辰也は自分を選ばなかった男でもあるのだ。
(そう、私はずっと、辰也さんのことが……)
一年生のときに同じクラスになって二週間、辰也のことが気になり始めたのは、それくらいのときだったように思う。
当時すでに翔子は『竜の瞳』を身に宿していて、他人の悪意が丸見えという状態だった。おまけに片目を塞ぐ眼帯のおかげで、周囲からは奇異の目で見られていた。そのため自然と他人とは距離をとるようになり、元々の内向的な性格も相まってほとんど誰とも話さない日々が続いていた。
特に何も起きていないはずなのに、周囲の人々が争う様子がひっきりなしに見える。目を塞いでも耳を塞いでも、人間の醜さを見せつけられているようだった。こんな人間を守るために、翔子は燈子とともに日夜戦っている。魔族も凶暴さでは大概だが、人と違って表面を取り繕ったりはしない。翔子には自分を囲む世界が全て嘘のように思えて、全く近づける気がしなかった。
そんな中で翔子の隣の席の男の子が、翔子の忌まわしい『竜の瞳』からも全くそういった争いに参加していないことに気付いた。その男の子こそが辰也だった。
辰也は物静かで大人しいという印象の男の子だった。最初は『竜の瞳』に何も映らなかったことで、かえって魔に関わっている怪しい人物なのではないかと疑ったが、すぐにそうではないとわかった。辰也は誰よりも優しい人物だったのだ。
だから翔子は、自分から辰也に近づいた。といっても、話しかけてみただけである。彼は非常に驚き、怖がりながらも翔子と会話してくれた。翔子の容姿ではなく行動を怖がった辰也が、とても可笑しかったことを覚えている。
彼が翔子に慣れるのに、二週間以上は掛かったと思う。徐々に辰也は翔子を受け入れてくれて、笑い合える仲になっていった。
翔子は辰也が隣にいるだけで、話して、笑顔を見せてくれるだけで満足だった。そのときの翔子には、そこから先は考えられなかったのだ。
翔子は魔に関わる者で、一般人を巻き込むわけにはいかない。また、いずれ翔子も家を守るため、適当な霊能力者と結婚しなければならない。友達以上にならないことが、翔子の線引きだった。
それから一年、辰也が『魔王の心臓』の持ち主だと発覚する。実をいうと、翔子は辰也が「こちら側」に関わっている者だと知って、嬉しかった。これで気兼ねなく辰也と仲良くできる。辰也と友達以上の関係になれる。もう我慢する必要はない。
しかし、翔子の目論見はもろくも崩れ去った。翔子と辰也の間に台風のように燈子が現れて、辰也の心を奪ってしまったのだ。先に辰也を好きになったのは翔子だったのに、燈子は辰也と相思相愛になってしまった。
もちろん、燈子が今まで翔子に気を使ってくれていたことには感謝している。人間不信に苛まれる翔子をずっと支えてくれていたのは、燈子だ。姉のことを嫌いにはなれない。だがそれとこれとは話が別だ。
(どうして姉さんは……いや、辰也さんは……)
正直、燈子は自分から身を引くだろうという打算もあった。だからはっきりとは言わないまでも、翔子は辰也が好きであるというそぶりは見せ続けたし、姉から訊かれれば辰也が好きとちゃんと答えた。多分、翔子がここまで自己主張したことは他にはないと思う。実際、燈子は先程翔子に遠慮して家から出ようとしていた。燈子は辰也と、距離感をとろうと試みていた。
付き合った時間なら翔子の方が燈子よりずっと長かった。最初は翔子がリードしていたはずなのだ。なのにいつの間にか、辰也の心を占拠していたのは燈子だった。
(そっか……あの人は私だけじゃなくて、誰にでも優しかったんだ……)
理由がふっと、翔子の頭に浮かぶ。つまるところ、そういうことなのだろう。たまたま辰也の優しさに触れられたのが燈子と翔子の姉妹だったというだけ。辰也にとって翔子は、最初から特別でもなんでもなかったのだ。まず翔子がリードしていたという前提が間違っていたのである。
だとしたら、翔子が選ばれなかったのは当然ではないか。辰也と肩を並べて戦うこともできず、せいぜい家事を受け持っていた翔子に、辰也が何の魅力を感じるというのだろう。その間に燈子は眷族として辰也とともに血を流し、自分が消えそうになっているのも構わず辰也を助けようともしていたのだ。
そして今、翔子はせっかく辰也の眷族となったのに、自暴自棄になってその役目を放棄しようとしている。姉が身を引くだろうという期待に甘えて、辰也のことをちっともわかっていなくて。「人間は醜い」なんて他人を嫌っていたくせに、何のことはない、一番醜いのは自分自身である。
(ああ、なんだ……)
全部私が悪いんだ。
そう感じた瞬間、翔子の体から戦う気力が抜けた。ハルマンの一撃で『黒翼天』を弾き飛ばされ、翔子は雨に濡れた地面をバシャバシャと転がる。翔子は泥まみれのまま雨に打たれ、立ち上がることもできない。体全体が泥水を吸ったスポンジのように重たかった。体温が冷たい泥濘に吸い取られていく。
「……限界のようだな」
静かにハルマンが近づいてくる。もう指の一本を動かす気力もない。翔子にできるのは、わずかに口を動かすことだけだった。
「姉さん……辰也さん……ごめんなさい……」
ハルマンの影が翔子を見下ろす。翔子は目を閉じた。
「では死んでもらおう……!」
「翔子ぉーッ!」
ハルマンが剣を振り上げたまさにそのときだった。一人の人影が地面に横たわる翔子を跳び越えて、ハルマンに体当たりする。ハルマンがわずかに下がった隙に、翔子は何者かによって助け出される。
「間に合いましたな」
「よかった……!」
ハルマンを下がらせたのは燈子で、翔子を救出したのはドラコが憑依した優だった。後ろからついてきていた幼い姿の辰也は翔子の姿を見て安堵する。ドラコは駆け寄ってきた辰也に翔子を預け、燈子と入れ替わりにハルマンに向かっていく。
「どう、して……?」
翔子は掠れた声で辰也に尋ねた。
○
「降伏は……しない」
優の降伏の提案に、一呼吸置いて辰也は答えた。
「へぇ……? どうしてだい?」
優に理由を訊かれる。辰也は言った。
「本当は君だってハルマンに『魔王の心臓』をとられるのは困るでしょう……?」
魔族の手に『魔王の心臓』が渡ってもいいなら、優はわざわざ辰也に『魔王の心臓』を渡さず誰か適当な魔族に投げてしまったはずだった。人間である辰也に『魔王の心臓』を渡したことには意味がある。
「そうだね。でも、辰也の決断なら僕は何も言わないよ」
「決断ならとっくの昔にしてなきゃいけなかったんだ。……『魔王の心臓』を受け取った時点で」
いざ『魔王の心臓』を失うかどうかの瀬戸際になって、ようやく辰也は初心を思い出していた。変わりたいという辰也の願いと、巻き込んでしまった燈子と翔子を平和な日常へ戻す責任。『魔王の心臓』を手放すのは逃げだ。もう辰也は『魔王の心臓』を得る前の、燈子を眷族とする前の情けない自分には戻りたくない。降伏はありえない。
「翔子を助けに行く資格がないとか……そんなことを考える資格も僕にはないんだ。たとえ一人でも僕は行くよ」
第一、ハルマンが降伏を認めるかどうかわからない。降伏が認められても『魔王の心臓』を引き渡した後に反故にされ、殺されるかもしれないのだ。どうせ賭けなのなら、戦うべきである。
「……私も行くわ」
それまで黙っていた燈子も意を決して口を開く。「いいの?」と辰也は尋ねる。燈子は気力の戻った声で力強く答えた。
「当たり前じゃない! 翔子は私の妹なんだからね!」
いつしか嵐になっていた。大粒の雨が屋根を叩き、雲の向こうで雷が光る。
「勝ち目はあるのかい?」
優は尋ねる。辰也としては勝ち目がなくても行くつもりだったが、燈子は答えた。
「私に任せて。辰也も翔子も、絶対に死なせないから」
燈子の目には光が戻っていた。腹の決まった二人を見て、優もうなずく。
「僕も微力ながら手伝わせてもらうよ。ドラコ!」
優の呼びかけに応じ、ドラコが優の体に取り憑く。優の体に入ったドラコは言った。
「辰也殿、燈子殿、時間稼ぎは私にお任せください。急ぎましょう」
「うん!」
辰也の返事を合図に、三人は翔子の元へと駆け出した。
辰也たちが現場に着いたのは、まさに翔子がハルマンに殺されようとしていたときだった。
「翔子ぉーッ!」
燈子が前に飛び出してハルマンに突進し、その隙にドラコが翔子を助け出す。
「間に合いましたな」
「よかった……!」
翔子には目立った怪我もなく、無事のようだった。辰也はほっと息をつく。ドラコは辰也に翔子を預けると、燈子と交代でハルマンと戦いに出向く。
「どう、して……」
そう呟く翔子に辰也は何も言わず、今は翔子が使っている自分の体に戻った。
辰也はまず自分の体の中の部屋に出る。真っ白な何もない部屋の中で、辰也は壁に設置された大鏡の中に腕を突っ込む。水面のそれのように鏡の表面に波紋が広がり、辰也は翔子を鏡の中から引き揚げた。
「どうして来てくれたんですか……?」
辰也に体を預け、翔子が弱々しく尋ねる。辰也は微笑んだ。
「そうだね、一ヶ月前の僕だったら逃げ出してたかもしれないけど……。僕も少しは変われたんだと思う」
「姉さんのおかげで、ですか……?」
翔子の質問に、辰也は首を振った。
「燈子だけじゃないよ。翔子だって、ドラコだって、小野寺君だって……僕を助けてくれた」
「でも辰也さんは、姉さんを選ぶんでしょう……?」
「……確かに僕は、燈子に惹かれ始めていると思う」
辰也は穏やかに肯定した。もう自分を偽るのも、自分を嫌うのもやめよう。それは多分、誰のためにもならないのだ。自分の傍にいてくれる人たちと、真摯に向き合いたい。それが辰也の変革だ。
「なら、私なんか放っておいて、姉さんと幸せになればいいじゃないですか……」
拗ねたように言う翔子を、辰也は笑った。
「僕と燈子だけじゃ、幸せになんてなれないよ。翔子、君もいてくれないと」
「でも、私……」
「僕に自分の気持ちを気付かせてくれたのは、翔子だから。燈子と翔子のどちらが欠けていても、きっと僕は変われなかった。自分勝手なことを言っているのはわかってるんだけど、許してほしい。僕にとって君も、大切な人であることに変わりはないよ」
「……はい」
翔子は笑っていた。辰也は翔子をそっと床に横たえ、鏡に向かう。決着をつけなければならない。辰也は自分の体に戻った。
辰也は変身を解き、燈子と向かい合う。ドラコが優の体でハルマンと戦い続けてくれているが、長くは保たない。早く辰也も加勢する必要がある。
「辰也、わかってるわよね」
「うん……。君の力を貸してほしい」
辰也は燈子の目をまっすぐ見据えて言った。カード消費の必殺技を二回入れても倒せなかったハルマンに勝つには、三発目を入れるしかない。そのためには、燈子を眷族にする他ない。
「ええ」
「燈子、僕はその、君のことが……」
「私もよ、辰也」
辰也が言い終わる前に、燈子はそう言って微笑んだ。
「遠慮はいらないわ。私の魂を、あなたのものにして」
燈子は辰也の手から白紙のカードを取り上げ、自分の胸に当てる。辰也は詠唱を始めた。
「……我が心臓に宿りし古の竜の覇王よ、この者を我が血肉とし、我が刃とする。この者を受け入れよ。この者こそ我が選ばれし運命の眷族なり」
デバイスが反応して燈子の胸のカードが赤く染まる。
『Take up,spirit of fire!』
燈子が辰也の中に取り込まれようとしたまさにその瞬間、燈子は辰也に取りついて唇を重ねた。甘い臭いが鼻孔をくすぐり、柔らかい感触が唇を覆う。
「続きは、私たちが人間に戻ってからね……」
辰也はうなずき、かき消えるように燈子は姿を消して辰也の中に取り込まれた。
辰也は新しいカードを取り出して、額に当てる。黒い鱗の紋様が浮かび上がったカードを辰也は左手にはめ込み、剣の名を呼ぶ。
「『黒鱗丸』!」
『Form up!』
辰也は鱗のコートと一振りの刀を携え、ハルマンに向かっていく。辰也が来たのを見てボロボロのドラコは後ろへ下がる。下がり際に、ドラコはポツリと漏らす。
「辰也殿、成長しましたな……」
辰也は唇の端で少しだけ笑って、ハルマンに斬りかかる。ハルマンは辰也の斬撃を剣で受けた。
「ハッ! 人間を何人眷族にしようと同じ事よ!」
「燈子も翔子も……僕にとって『ただの眷族』じゃないんだよ!」
激しい風雨の中で、刀と剣がぶつかり合う音が響いた。辰也はハルマンと鍔迫り合いをするが、ハルマンの腕力に押される。辰也の力では普通にやっていてはハルマンに勝てない。辰也は燈子か翔子との交代を考え始める。
(ここは……!)
この嵐だと燈子の炎の力は減衰しそうだ。三人の中で最も攻撃力のある燈子は後にとっておきたい。翔子の風の力は空を飛ぶ以外は問題ない。翔子も間があいて落ち着きを取り戻しているだろう。翔子に交代だ。
(でもその前に……!)
ハルマンの攻撃を捌きながら辰也は考える。ハルマンの攻撃が剣だけを使った単調なものになっている。これは辰也に先に仕掛けさせようとするハルマンの罠だろうか?
辰也は攻勢には出ず、ハルマンを慎重に観察する。
「どうした? 終わりか、人間!」
ハルマンは辰也だけしか見えていないかのように一心不乱に攻撃を続け、挑発的な言動を繰り返している。どうも罠の可能性は低そうだ。
おそらくハルマンは翔子との戦いで消耗しているのだ。体ではなく、心が。先に根負けしたのは翔子だったが、翔子の戦いは無駄ではなかった。この分なら、確実にカード消費の必殺技をハルマンに当てられる。
燈子も翔子も嵐という条件下では本来の実力は発揮できない。ここでまず嵐の影響を受けない辰也がハルマンに一撃を加えておかなければならない。
辰也は押されているふりをして打ち合いを続け、後退する。ハルマンの攻撃はますます激しく、単調になっていく。
タイミングを見計らって辰也は今まで『黒鱗丸』で受けていた剣を避け、空ぶらせる。ここが勝負所だ。
辰也は『黒鱗丸』を地面に突き刺してデバイスにカードを押し当てて引き、読み込ませる。鱗の絵柄が輝き、巨大な魔力を捻り出す。
『Charge up!』
「何ッ!?」
辰也はすばやく『黒鱗丸』を地面から引き抜き、ハルマンに斬りかかった。魔力が集中した『黒鱗丸』の刀身は慌てて防御しようとしたハルマンの剣を砕き、袈裟懸けにハルマンの体を切り裂く。
「今だ! 翔子! 来てくれッ!」
○
「翔子」
「姉さん」
辰也が行ってしまった後、光とともに現れたのは燈子だった。燈子はもう一度辰也と契約して、眷族となったのである。
「ごめんなさい、姉さん、私……」
翔子が謝ろうとすると、燈子は優しく翔子の肩を抱いた。
「いいのよ、翔子。あんたから逃げようとしたのは、私の方だもの……」
「姉さん、許してくれるの……?」
翔子は顔を上げる。そこには、聖母のような笑みを浮かべた燈子がいた。
「許すも何もないってこと。謝らなきゃならないのは、私の方だわ。先に辰也を好きになったのはあんただったのに、私……」
燈子は顔を曇らせる。翔子は言った。
「辰也さんは、そんなこと気にする人じゃないから……」
逆に言えば、翔子がきちんと意思表示すれば翔子のことも真剣に考えてくれるということだ。そういう男だから、翔子も燈子も辰也を好きになった。
「そうね……辰也はそういうやつだものね……」
燈子は困ったように笑う。翔子は続けた。
「姉さんが気に止む必要なんてないの……。私は堂々と姉さんと勝負して、辰也さんの隣に立ちたい」
姉の影に隠れ、姉に守られているだけでは絶対に辰也は振り向いてくれない。辰也の心を掴むには、翔子が変わる必要がある。
「わかった……。受けて立つわ。恨みっこ無しで、勝負しましょう」
燈子は嬉しそうだった。きっと、翔子の変化を認めてくれているのだと思う。
「姉さん、私負けないから」
翔子がそう宣言したとき、鏡から声が響く。辰也が呼んでいる。翔子は即座に鏡に飛び込んだ。
翔子は辰也の体に乗り移り、変身した。金色の『竜の瞳』が、嵐の中で輝く。こうしている間にもハルマンは再生し続けている。一刻も早くとどめをささなくてはならない。
「人間がぁ! 調子に乗るなぁ!」
口から炎が来る。『竜の瞳』の予測に従い、翔子は風の魔法を前面に展開して炎を防ぐ。次は腕から雷撃。背中から翼を出して盾とし、凌ぐ。
一人で戦っていたときと同じ展開になりつつあるが、翔子に焦りはない。翔子の後ろには、まだ燈子が控えていてくれるからである。翔子は『竜の瞳』を駆使してハルマンに隙ができるのを待つ。
体が羽根のように軽い。『黒翼天』の本来の力を発揮させられる。翔子はその身軽さを最大の武器に、ハルマンの攻撃を捌き続けた。
ハルマンは右手の砕けた剣と左手の魔法で交互に攻撃を仕掛けてくる。一見隙のない攻撃だが、『竜の瞳』はハルマンの左手の反応がわずかに遅れていることを見抜いていた。先程の辰也の斬撃から、回復しきっていないのだ。翔子は風の魔法を装備しているレイピア──『黒翼天』の刀身に展開する。防御のためと見せかけて、これは攻撃のための準備だ。翔子は攻撃がスイッチする一瞬の隙を突いて仕掛けた。
「ぐふっ……!」
ハルマンの呻き声とともにハルマンの左腕が切り落とされる。『黒翼天』はレイピアなので斬ることには不向きだが、魔力で竜巻を刀身に発生させることで補ったのである。一人で戦っているときには、精神的にも物理的にもこんな小細工をする余裕はなかった。辰也が翔子を落ち着かせ、ハルマンにダメージを与えて突破口を開いてくれたのである。
翔子を大切だと思ってくれている二人を、これ以上裏切るわけにはいかない。ハルマンを倒して、正々堂々辰也を巡って燈子と勝負すると約束したのだ。こんなところで立ち止まってはいられない。
翔子は『黒翼天』を手にしたままカードと『魔王の心臓』の外部デバイスを操作して、ハルマンを倒しに掛かる。カードの中の翼が羽ばたき、『黒翼天』に魔力を送り込む。『黒翼天』は巨大な竜巻を発生させ、翔子は竜巻をハルマンに撃ち込んだ。
「ぐっ、ぐおおおおっ!」
竜巻がハルマンを巻き込み、ハルマンの身を切り裂く。翼は破れ、全身血まみれになって、ハルマンは膝をついた。
しかし、まだ死んではいない。苦悶に表情を歪ませながらもハルマンの目はぎらぎらと輝き、こちらを睨んでいた。燈子の力が必要だ。
「姉さん!」
(任せなさい!)
燈子が力強く言って、翔子と入れ替わる。勝利までもう一歩だ。
○
『Form up!』
辰也の体を掌握した燈子は早速カードを取り出し、変身する。真っ赤なドレスに身を包んだ燈子は地面に突き刺さったフランベルジェ──『黒息火』を引き抜き、ハルマンと対峙した。雨のせいで『黒息火』の刀身から湧き上がる炎が不安定に揺れ、ぶすぶすと黒い煙を発する。高熱で『黒息火』の刀身は真っ赤に輝いていた。
「これで勝ったと思うなよ、人間……!」
みるみるうちにハルマンの体は再生する。前回のように逃走するのかと思いきや、ハルマンは立ち上がり、最後の魔力を振り絞って辰也に砕かれた剣を再生する。
「あら、今日は逃げないの?」
「フン……私も後には引けぬのだ」
ハルマンは今回、天候が変わるほどの魔力を放出した。これは他の魔族や人間の魔術師に居場所を知られてしまったということであり、もう逃走に使う魔力が残っていないということでもある。いくらこの場を逃げ延びても、他の魔族や魔術師に殺されるだけなのだ。ハルマンほどの魔族なら、その首には億単位の賞金がついている。ハルマンは『魔王の心臓』を手に入れるしか生き延びる方法はない。
燈子とハルマンはほぼ同時に剣を振り上げ、ぶつかり合う。ハルマンにはもう魔術を使う魔力が無く、燈子の炎の魔術はこの雨で射程がかなり落ちる。今の燈子は『黒息火』でハルマンの剣を破壊できるほどの熱量を出すのは無理だ。よって、剣と剣で決着をつける他ない。右腕だけのハルマンと、燈子は激しい剣戟を交わす。
剣がぶつかり合うたびに燈子の雨水を吸って重くなったドレスがひらめき、お互いの剣が削られる。幸い『黒息火』はハルマンの剣に負けず劣らず大きく質量があり、燈子の体にも『黒息火』を使うのが前提なため、ハルマンに打ち負けないだけのパワーが備わっている。正面からの剣の勝負でもそうそう負けはしない。あとはどう膠着状態を打破するかだ。
「神泉燈子! 左目に魔力を注ぎ込むんだ!」
後ろで優が叫んだ。燈子は反射的に優の言葉を実行する。
「これは……!」
燈子の左の瞳が淡く、金色に輝く。ハルマンの次の動きが見える。
「『竜の瞳』も改良したんだよ。妹のそれに近い君の魂なら、起動させられるはずだ!」
「やってくれるじゃない!」
口元から笑みがこぼれる。頭に360度全ての次の動きが映った。翔子が使っているときほど広い範囲を映すことはできないようだが、目の前のハルマンの行動を予測するには十分である。
燈子の後ろで優は安堵したように笑っていた。きっと優も、燈子に無責任だと罵られて胸に突き刺さるものがあったのだろう。『竜の瞳』の改良、『魔王の心臓』のレプリカの作成と、辰也のために手を尽くしてくれた。後で赦してあげなければなるまい。
燈子の動きが変わったのをハルマンも察して、フェイントを掛けたりいきなり狙いを変えてみたりと、戦い方を変えてくる。しかし燈子はその全てに完璧に対応した。
「何を使っているのかは知らんが、本来の力が増幅するわけではあるまい! それでは私には勝てぬ!」
「……負けるはずがないわ」
燈子は呟くように言った。ハルマンは燈子の目を見る。
「何……?」
「辰也の『魔王の心臓』と、翔子の『竜の瞳』を借りているこの私が、負けるはずがない!」
燈子はハルマンが振り降ろした剣を避け、ハルマンの右手を切断した。ハルマンは苦痛と驚愕で後退り、燈子は『魔王の心臓』の外部デバイスに差し込まれていた赤のカードを引き抜いた。『竜の瞳』ではハルマンは動揺のあまり攻撃してこない。今がチャンスだ。
「これで決める!」
赤のカードを『魔王の心臓』に読み込ませる。赤い竜の絵柄が火を吹いた後カードは光になって消滅し、『黒息火』に巨大な魔力が送り込まれる。
『Charge up!』
「ぐっ、糞ぉぉぉぉ!」
『黒息火』から上がった火柱がハルマンを包み、ハルマンは怨嗟の断末魔をあげる。燈子はさらに炎上するハルマンに斬りかかり、その心臓を両断した。『竜の瞳』が消滅するハルマンを映す。これで本当の終わりだ。
ハルマンの体が魔力の暴走で爆発、四散する。同時に、燈子の変身が解けて辰也の姿に戻った。
○
いつしか雨は止んでいた。ハルマンを倒し、辰也の中から燈子と翔子が出てくる。
「終わったわね!」
「ええ……」
燈子は十歳くらい、翔子は七歳くらいだった。顔はそっくりで、こうして二人とも小さくなって身長差が出るとますます姉妹らしく見える。
「辰也、お疲れ様」
「小野寺君こそありがとう」
「そうね、あんたはよくやってくれたわ」
意外にも燈子が優を褒めた。優は軽く笑って「がんばったのは君らだよ」と返した。
「しかし大変なのはこれからですぞ。ゆめゆめ油断なさらぬように」
ドラコが忠告する。辰也はうなずいた。
「わかってる。二人が人間に戻る方法も探すよ」
ハルマンがこの町で討ち取られたことはすぐに広まるに違いない。かといって辰也にも生活があるので、町から出るわけにはいかない。もう逃げ出す他なくなるまで、辰也はこの町で魔族や魔術師と戦うことになるだろう。
「辰也、私たちが人間に戻れるまで、その……」
燈子が口籠もる。辰也は笑って言った。
「わかってる。燈子と翔子が人間に戻るまで、僕は全部胸の中にしまっておく」
辰也の言葉に、翔子も身を乗り出す。
「わ、私! まだ諦めてませんから!」
「それも含めて、全部保留するよ」
翔子はほっとしたような表情を見せて、言った。
「姉さん、私負けませんから」
「あら、私も負ける気はないわよ」
姉妹は顔を見合わせて笑い、辰也はその光景を暖かく見守る。三人を祝福するかのように、空には雨上がりの虹が架かっていた。