第2話 翔子2
次の日の朝、辰也が目を覚まして一階に下りると、まだ誰も起きていなかった。燈子は朝が苦手な上に体調が悪いし、いつもは辰也より早く起きている翔子も、今は子どもの体だ。時間通りに起きられなくても仕方ない。
辰也は朝食の準備をする。
「確か昨日のご飯が残ってたかな……」
燈子はほとんど病人なので、配慮する必要があるだろう。少しの間思案し、辰也は昨日の残り物のご飯で、雑炊を作ることにした。本当はお粥の方がいいのだろうが、新たに米を炊くには時間が掛かる。雑炊なら炊飯器に残っているご飯で手早く作れて、食べやすいだろう。ちょうど冷蔵庫の食材も使い切れる。
雑炊なんて普通は鍋の閉めにやるもので、一人暮らしで鍋などほとんどしなかった辰也には作った経験があまりない。病気もほとんどしたことがなかったので病人食も初挑戦だ。辰也は慎重に味を調整しながら出汁を作り、ご飯を投入する。どれくらい煮ればいいだろうか、と鍋を眺めていると翔子が降りてくる。
「翔子、おはよう」
「おはようございます、辰也さん。ごめんなさい、私、寝坊しちゃって……」
「別にいいよ。それより雑炊作ってみてるんだけど、味を見てくれないかな? 燈子の口に合うかどうか」
「姉さんに、ですか……?」
得心がいかないといった表情で翔子は辰也を見上げる。辰也は付け加えた。
「うん。まだ体力が戻ってないだろうから、食べやすいかどうか見てほしいんだ」
「はぁ……そういうことなら」
気のない表情で翔子は頷く。まだ寝起きなので、覚醒しきっていないのだろうか。辰也は小皿におたまで出汁を少量すくい取って翔子に渡す。翔子は湯気のたつ出汁を口に含んだ。
「……いいんじゃないでしょうか」
「そっか。よかった」
どことなく投げやりにも感じられる答えだったが、辰也は胸を撫で下ろす。翔子のことなので嘘は言っていないだろう。再度辰也は翔子に尋ねる。
「そろそろ煮えたと思うんだけど、どうだろ? 燈子のこと考えると、もっと軟らかい方がいいかな?」
「いえ……これで十分だと思いますよ」
翔子は背伸びして鍋を覗き込み、言った。
「じゃあ燈子を呼んできてくれる?」
「わかりました」
翔子がぱたぱたと足音を立てて二階に上がる。辰也は用意していた溶き卵を雑炊に加えて一煮立ちした後、火を消す。これで完成だ。
辰也は鍋をテーブルまで持っていく。ちょうど燈子と翔子も降りてきた。
「……おはよう。いい臭いね」
燈子は眠たそうに目を擦りながら、湯気の立つ鍋を見る。
「おはよう、燈子。朝ご飯できたから座って」
辰也はお椀に雑炊をよそおい燈子に、ついで翔子に差し出す。二人は「いただきます」と手を合わせてから、雑炊に箸をつける。
「うん、なかなかいけるわね」
「……辰也さんは料理が上手ですね」
二人は異口同音に辰也を褒め、辰也は照れ笑いを見せて話を変える。
「はは……大したことないよ。それより燈子、体の調子はどう?」
「そうね……一晩寝たら大分よくなったわ」
「学校はどうする?」
辰也がそう尋ねると、燈子はとんでもないといった風に首を振った。
「だめに決まってるでしょ! いつハルマンが来るかわからないのに! 学校でみんなを巻き込むかもしれないのよ!? あんたわかってて言ってるの!?」
「ごめん、そこまで考えてなかった……」
「全く、あんたは本当にぼぉっとしてるんだから……」
燈子は嘆息し、辰也はある事実に気付く。
「あ……もう冷蔵庫に食材がないや……」
本来なら家でハルマンの襲来に備えるのがベストなのだろうが、辰也たちも生活しないといけない。絶対に買い物に出る必要がある。
「それならお昼の間に買い物に出ることね。昼間なら、魔族は力が弱まるから普通は出てこないわ」
学校に行けば必然的に夕方までいることになって危険だが、昼間少し外出するだけなら危険性は低い。学校を休んで買い物は昼間に済ませるというのは妥当なところだ。
「わかった。そうする」
「当たり前だけど、翔子も連れて行くのよ? あんた一人じゃ、万が一ハルマンに襲われたときにどうしようもないから」
「わかってるよ」
こうして今後の予定はまとまり、辰也たちは午前中を思い思いに過ごすことになった。体調の戻っていない燈子は大人しく寝て過ごし、辰也が掃除、洗濯をする。幼稚園児ほどの大きさになってしまった翔子のために、小さい食器を探さなければならない。食器棚の整理が午前中の課題となった。
翔子も一生懸命手伝ってくれたが、やはり小さな体では限界があった。食器棚など、そもそも手が届かないのだ。食器を運んでもらうのも取り落としそうで危なっかしい。結局ほとんど辰也が一人でやっているのと変わらない。
「無理しなくていいんだよ」
翔子が大きな皿やお椀を運ぼうとする度に、辰也は食器を取り上げに行かなければならなかった。翔子は不満げだったが、食器を割るだけならまだしも、破片で怪我でもされると事である。辰也は翔子に「買い物の時に手伝って」と言って仕事から遠ざけた。
一通り家事を終えて、辰也はしばらく自室で机に向かう。十一時を回ったところで辰也は勉強を切り上げ、買い物に行くことにした。
翔子を誘い、燈子に声を掛けてから出発することにする。燈子の部屋をノックし、ドアを開けて入る。燈子はベッドで伏せっていたが、目はぱっちりと開いていて、眠ってはいなかった。
「燈子、これから買い物に行ってくるよ。何か食べたいものとかある?」
燈子はだるそうに体を起こし、
「なんでもいいわよ」
とだけ答える。
「そう。じゃあ翔子、何か希望ある?」
辰也は次は翔子に尋ねる。
「……いえ、私も別に」
若干間があったのは気になるが、翔子もリクエストはないようだった。
「じゃ、行ってくるから留守番よろしくね」
辰也は燈子にそう言い残し、部屋を出た。
翔子とともにスーパーに入り、買い物をする。約束したとおり、買い物は翔子に手伝ってもらわなくてはならない。辰也は翔子に菓子類を取りに行くよう指示して、自分は野菜を見て回る。
(昼はうどんにでもするとして……夕食はどうしようかな)
燈子は体調が悪いし、翔子も子どもの体なのであまり重いものにはしない方がよさそうだ。また魚でもメインにしようかと考えつつ、辰也は買い物籠に野菜を放り込んでいく。
肉売り場に移動したところで、辰也は足を止めた。魔族の気配だ。かなり強い。
「辰也さん!」
翔子がこちらに駆けてくる。翔子も魔族の気配を感じたらしい。辰也は買い物籠を置いてスーパーから出て、気配のする方に向かう。
辰也は翔子に中に入ってもらい、辰也は全力で走る。魔力の気配を辿って出たのは、前にカッパと戦った放棄田地だった。田んぼの真ん中には、ハルマンが立っていた。
「少し遊んでやろう」
ハルマンは翼を開き、剣を構える。
「翔子……これは……!」
(間違いありません。分身です)
昼間ということで実力を発揮しきれない本体は来ず、分身を出してきたらしい。大方こちらを消耗させる意図があるのだろう。
(辰也さん、私にやらせてください)
「……わかった」
翔子も契約したてなので、燈子のように消耗する危険もあるが、一度くらいは試しておかないといざというときに役に立たない。ハルマンの分身が相手ならテストマッチとしては申し分ないだろう。
辰也は翔子に体のコントロールを任せて引っ込んだ。
○
辰也の体に憑依した翔子は『魔王の心臓』の外部デバイスから白紙のカードを一枚取り出し、祈るようにカードを自分の額に当てる。カードは明るい緑色になり、二枚の大きな翼の模様が浮かび上がる。翔子は『魔王の心臓』の外部デバイスにカードをはめた。
『Form up!』
閃光とともに辰也の体は変質して、翔子の体になる。翔子は腰のレイピアを抜き、その名を呼んだ。
「『黒翼天』……!」
翔子は『黒翼天』を顔の前で構える。『黒翼天』の刀身は幅が狭く、全長も一メートルほどとそこまで大きくはない。柄には竜の翼をかたどったような装飾がされていた。燈子の『黒息火』に比べれば随分貧弱そうだが、その分軽くて扱いやすい。もちろん『竜の瞳』も発動していて、翔子の左目は金色に輝いていた。
(無理はしないでね。いつでも交代できるから……)
胸の中で辰也が言った。翔子は緊張を声色に滲ませながら返す。
「大丈夫……やって見せます……」
ハルマンが大剣を振りかぶり、突っ込んでくる。翔子にはハルマンの動きが全て見えていた。
翔子は『黒翼天』の細身の刀身でハルマンの剣をいなして距離をとり、『黒翼天』から風の呪文を放つ。ハルマンはコウモリのような黒い翼を閉じて翔子の旋風をガードするが、翼で口元を隠して呪文を唱えていた。雷の呪文を、翔子の攻撃が途切れると同時に放つつもりだ。先程から左目にハルマンが雷を放つビジョンが繰り返し映っていた。『竜の瞳』のおかげでハルマンの作戦が手に取るようにわかる。
翔子は旋風の呪文を立て続けに放ってから、背中に魔力を込める。翔子の背中からハルマンのものよりずっと大きな、黒い竜の翼が現れて、『竜の瞳』の予測通り放たれたハルマンの雷を弾く。
「やれる……! この姿なら、私も……!」
人間だった頃は『竜の瞳』を発動させるだけで精一杯だったが、今は違う。
『竜の瞳』の予測の根拠がわかる。『竜の瞳』を使いながら無尽蔵の魔力で攻撃、回避、防御を一辺にこなせる。
もう『竜の瞳』の予測に振り回されて、姉の足を引っ張るだけの自分ではないのだ。自分が姉に代わって辰也の力になれると思うと、翔子の心は歓喜に打ち震えた。
翔子は翼をはばたかせて飛翔し、ハルマンに斬りかかる。ハルマンも飛行能力があるが、翔子は『竜の瞳』でハルマンの離陸のタイミングが読める。ハルマンが飛ぼうとした瞬間に『黒翼天』から風の刃を放ち、決して空へと上がらせない。ハルマンは地上から雷や炎を放って応戦するが、『竜の瞳』が先回りして教えてくれる。ハルマンの攻撃を翔子は全て回避した。
そのうち、ハルマンの動きが目に見えて鈍ってきた。呪文の連発で魔力を消耗したのである。この機を逃さず、翔子はカードを『魔王の心臓』外部デバイスに読み込ませる。
『Charge up!』
カードの絵柄の翼が大きくはばたき、『黒翼天』に魔力が集中した。巨大な竜巻が『黒翼天』を中心に発生し、翔子は竜巻をハルマンにぶつける。
「ぐっ……ぐあああっ!」
ハルマンは翼で防御しようとするが竜巻はハルマンの翼をずたずたに切り裂き、ハルマンを吹き飛ばす。ハルマンは体内の魔力が暴走して爆散し、戦いは終わった。
○
戦いは終わり、辰也の胸から翔子が出てくる。辰也は翔子の身長をチェックして、ほっと息をついた。大丈夫、縮んでいない。
「心配ないですよ。私は姉さんと違って……ちゃんと辰也さんの眷族ですから」
そう言って翔子は微笑む。翔子も初めての戦闘を無事終えられて安堵しているのだろうか。
「じゃあ買い物に戻ろうか」
辰也と翔子はスーパーに戻って買い物の続きをして、帰宅した。
帰ってからさっそく、辰也は燈子に戦いのことを報告する。燈子は辰也の話を聞き終えて、表情を緩めた。
「じゃあ翔子は『魔王の心臓』に適応できているのね。なら一安心だわ」
「そうだね。当面は凌げそう」
ハルマンがわざわざ分身を出してきたのも、翔子の『魔王の心臓』への適応をチェックするためのはずだ。適応に問題がないなら、ハルマンは分身で翔子が消えるまでチクチクと何度も攻めるという手が使えないため、辰也たちが有利になる。
「でも、今日中にもう一回来る可能性もあるから、油断はしないようにね」
「わかってる」
必殺技を撃ったため翔子はしばらく変身できない。「ま、いざとなれば私が契約すればいいし……」と燈子は言ったが、辰也として許容できない。
「お昼、すぐにうどんできるから、早めに来てね」
辰也は燈子に伝えて、キッチンに降りた。
市販の出汁を使ったので、ほとんどお湯を沸かすだけでうどんはできた。辰也は二人を呼んで食べてもらう。体が小さくなっている翔子には小さな丼を使い、燈子のも少なめにする。一応辰也は「足りないならおかわり作るよ」と言ったが、二人とも満腹のようで断られた。ちょうどよかったようである。
軽めの昼食を終えた後、辰也は燈子に尋ねる。
「りんごあるけど食べる?」
果物なら栄養もあって体調を崩している燈子でも食べやすい。そう思った辰也は先程のスーパーでりんごを買ってきたのだった。
「少しもらおうかしら」
辰也は燈子の返事を聞いて冷蔵庫からりんごを取り出し、皮を剥いて切る。辰也は皿をに切ったりんごを並べてテーブルに出した。
「じゃ、頂くわね」
「待って」
りんごに手をつけようとする燈子を、辰也は制止する。まだ仕上げが終わっていないのだ。
辰也が食器棚から出したのは、プラスチック製のおろし金の下を箱で覆ったりんごのすりおろし機だった。午前中に食器棚を整理しているときに見つけたのである。
「すりおろしりんごにした方が食べやすいでしょ?」
「あんまり変わらないと思うけど……あんたがしたいならすれば?」
そっけない様子で燈子は言った。燈子の言葉を受けて、辰也はりんごをすり始める。一心不乱にりんごをする辰也だが、ふいに顔を上げた。
「翔子もいる?」
「……いえ、私はいいです」
翔子が物欲しそうな顔をしていたような気がしたのだが、気のせいだったのだろうか。
りんごを食べ終えた後、燈子は再び二階の寝室に向かう。まだ燈子は階段を昇るのが辛そうだったので、辰也は燈子についていく。
「別に一人でも大丈夫よ?」
燈子はそう言ったが、手すりに掴まっていないと今にも転げそうなくらいにふらついている。ついていないと心配だ。
辰也は燈子の意見を尊重して、肩などは貸さずに後ろからついていくだけにする。階段を三分の一ほど昇ったところで、燈子は足を踏み外してバランスを崩し、後ろに転ける。辰也は燈子の体を受け止めるが踏ん張りきれず、二人は階段から転げ落ちた。
「ててっ……。大丈夫?」
辰也はがっしりと燈子を受け止め、背中から落ちていた。体は痛むが怪我はない。ここのところずっと鍛えていた成果かもしれない。
「大丈夫……あんたこそ怪我はないの?」
燈子が顔を上げて言った。燈子も無事のようだ。
「僕は『魔王の心臓』のおかげで体が強くなってるから……。ほら……最初に燈子が僕に魔術を見せたときも、僕は怪我してなかったでしょ?」
あのときも二人で階段から転げ落ちて、その原因は辰也が腰を抜かして燈子のスカートを掴んでしまったことだった。あのときはスカートが破れ、そして……
「わ、忘れてって言ったでしょ!」
辰也が何を考えているのかわかったのか、燈子は顔を赤らめて声を上げた。
「う、あ、ごめん……」
「まあ、別にいいけど……。あんたもあの頃に比べると変わったわね」
燈子は辰也の顔をまじまじと眺めて言った。辰也は首を傾げる。
「そうかな?」
「ほら、腕とか太くなってるし」
燈子が辰也の腕を撫でる。確かに連日のトレーニングで、辰也の筋肉は増えていた。
「あんたががんばったってことね」
「いや、『魔王の心臓』のおかげだよ」
いくら鍛錬に励んでも、普通は短期間でここまで筋肉はつかない。変質した体は、もう辰也が人間でないという証しだった。
「謙遜しなくていいのよ。私はあんたがどれだけ努力したか、知ってるんだから……」
辰也の腕の中で、燈子が微笑む。辰也は顔を真っ赤にする。
「強くなったわね、辰也……」
「と、燈子……」
辰也は思わず燈子の目を見る。その目は優しかった。
「……何をしているんですか?」
ふいに冷たい声が浴びせられ、辰也は我に返る。燈子も慌てて辰也の上からどいた。声の主は、翔子だった。階段での音に気付いて様子を見に来たのだろう。
「えっと、燈子が階段から落ちちゃって……」
「そうそう。でも二人とも怪我はないから安心して」
辰也も燈子も、なぜか早口になっていた。そんな二人に翔子は無表情で口を開いた。
「……気をつけてくださいね」
燈子はなぜか引きつった笑みを浮かべながら、辰也に申し出る。
「ちょっと無理しちゃったみたいね、ごめんなさい。辰也、やっぱり肩を貸して」
「う、うん。僕も油断してたから……」
辰也は燈子に肩を貸して二階へ連れて行った。
辰也は燈子をベッドに寝かせる。辰也が部屋を出ようとすると、燈子は言った。
「ねぇ辰也……私たち、これでいいのかしら」
辰也は振り向きもせずに言った。
「よくはないでしょ。翔子を人間に戻さないと」
「うん、そうね……。でも今の生活は悪くないと思わない?」
「それはそうだけど……でも、このままではいられないよ。変わらなきゃ、いけないんだ」
握り込んだ拳の中で、掌に食い込んだ爪がやけに痛い。無論、燈子と翔子のいる生活は楽しい。誰かといるのが楽しいという感覚は、両親の圧迫に萎縮していた辰也にとって初めてのものだった。
しかしそれだけに、辰也は燈子と翔子を失いたくないという気持ちが強い。辰也は燈子や翔子に見放されることを恐れているのだ。燈子と翔子を引き留めるために、辰也は変わり続けなければならない。生き残るため、翔子を人間に戻すため本気で戦い続けなければ、二人は去ってしまうという強迫観念があった。
「そうね……あんたが正しいわ。私も今のままじゃいけない……。そう、翔子のためにも……」
つぶやくように言った燈子の言葉を聞き、辰也は部屋を出た。
辰也は昼食の後片付けをするため一階に戻る。キッチンに入ると翔子がいた。辰也は食器を流しに下げ、洗い始める。
翔子は辰也を手伝うこともなく、ただ辰也の後ろに立っていた。多分辰也を手伝いたくてもできることがないのだろう。
少しの間翔子は黙って立っていたが、翔子は出し抜けに辰也に尋ねた。
「辰也さんって、姉さんのことが好きなんですか?」
「はぁ!?」
辰也は洗っていた皿を思わず取り落としそうになる。辰也は振り向いて翔子の顔を見るが、翔子はうつむいて黙ったままだ。
「……それってどういう意味?」
辰也は翔子の真意を問いただすべく、訊いた。翔子は一言で返す。
「そのままの意味です」
そのまま、というからには多分恋愛的に好きかどうかと訊いているのだろう。翔子の言うことだから、ふざけて言っているわけではないはずだ。辰也は戸惑いながら答える。
「そういうのじゃないと思う……」
正直なところ、好きかどうかと訊かれてもピンとこない。自分みたいな人間に、誰かを好きになる資格なんてないとしか思えないのだ。燈子も翔子も、辰也が命を奪ったようなものである。幸い燈子は人間に戻れたが、代わりに翔子と契約してしまった。もしハルマンに勝てれば翔子を元に戻す方法を本気で探そうと、辰也は心に決めていた。
「そうですか……」
翔子はわずかに顔を上げ、キッチンから出て行った。あの答えで、よかったのだろうか。もやもやを振り払うかのように辰也は洗い物に没頭した。
結局、続けてのハルマンの襲来はなかった。分身を出したのは翔子が消耗するか確認するためであり、翔子が『魔王の心臓』に適応しているとわかれば無理して連続で攻めてくる必要はない。分身を出すのにもそれなりに魔力は必要なのだ。ハルマンは回復に専念しているのだろう。
他の魔族が出てくることもなかった。ハルマンの分身級の魔力の持ち主が襲来したなら他の魔族も活発化しても、ハルマンの本体級となると恐れをなして逆に出てこなくなる。しばらくは平和が続きそうだった。
辰也は午後を勉強と鍛錬に費やし、気付けば夜になっていた。辰也は夕食を用意し、燈子と翔子に食べてもらう。燈子は夕食を食べ終わると早々に寝てしまい、翔子もどこかへ行ってしまった。辰也は一人キッチンで後片付けをする。
ちょうど片付けが終わったところで翔子がやってきた。また何かギリギリなことを訊くのかと辰也は身構えるが、様子がおかしい。なにやらもじもじとしていて、恥ずかしそうに視線を彷徨わせている。
「どうしたの?」
「あの……辰也さん……私と一緒にお風呂に入ってくれませんか?」
「ええっ!」
辰也は驚きのあまり目を見開く。ご乱心としか思えない。
「その……この小さい体だと今にも溺れそうで一人でお風呂に入るのが怖くて……。だめ……ですか?」
「と、燈子に頼めないの?」
「姉さんもう寝ちゃったじゃないですか……」
燈子は体調が悪いとすぐに寝てしまったのだった。病人を今から起こすわけにもいかない。
「わかった……」
辰也は仕方なくうなずいた。
辰也と翔子は二人で脱衣所に入る。辰也は翔子に背を向けて服を脱いだ。下着を脱ぐときはさすがに躊躇したが、脱がないと始まらない。辰也はタオルを腰に巻き、そろりと下着を降ろした。いくらなんでも翔子に見せつけるような蛮行はしない。
辰也がためらいがちに振り向くと、翔子は体をタオルで隠して待っていた。バスタオルが大きすぎて使えなかったのだ。タオルの脇からチラチラと白い肌が覗き、辰也は目を回しそうになる。
「あの……あんまり見ないでください……」
赤面して翔子は言った。慌てて辰也は目を逸らす。
「ご、ごめん……」
「入りましょうか」
翔子はスタスタと辰也の脇を抜けて、浴室のドアを開ける。タオルで前を隠しているだけなので、後ろは丸見えだ。小ぶりで丸みを帯びたかわいらしいお尻が一瞬視界に入り、辰也は目を白黒させた。
いざ浴室に入ると、翔子は前を隠していたタオルさえ取ってしまった。辰也は動揺する。
「え……でもタオルを浴槽に入れるのは行儀が悪いですよ」
残念ながらここは二次元ではないので、湯気は仕事をしてくれない。こちらを向いた翔子のすべすべした、丸みを帯びた体が露わになり、辰也は目を伏せる。
「もしかして興奮してるんですか?」
翔子がクスっと笑って言った。辰也は顔を引きつらせながら否定する。
「いや……恥ずかしいだけだよ」
辰也はロリコンというわけではない……はずだ。翔子だと思うから意識してしまう。親戚の子をお風呂に入れているとでも思えばどうということはない……と思う。
翔子は浴槽の前で立ち止まり、辰也を待っていた。翔子の身長では、浴槽に入るのも骨のようだ。辰也は心を落ち着かせつつ、翔子を持ち上げて浴槽に入れ、自分も入る。さすがに腰のタオルをとる勇気はなかった。
湯船に浸かって一息つくと、辰也も冷静になってくる。そう、幼女の裸を見たからといって、気にする必要はないのだ。その証拠に、翔子もなんでもないかのように振る舞っているではないか。
頭の冷えた辰也はバスタイムを満喫することにする。目の前には全裸の翔子が座っているが、何も考える必要はない。ゆっくりと体を伸ばし、疲労を湯船に流していく。二人はしばらく浴槽に浸かっていたが、そのうち翔子が立ち上がった。
「体を洗うので出してくれませんか?」
「いいよ」
辰也は翔子の脇の下に手を入れて抱き上げ、翔子を風呂から出す。翔子は石鹸で体を洗い始め、辰也は今しばらくお湯に浸かってのんびりする。
翔子は丁寧に体を洗い、シャワーで流した。翔子は辰也の方を向き、辰也はもう一度浴槽に入りたいのかと思ったが、様子がおかしい。内股を抑え、何やらそわそわしている。
辰也は風呂に入ったまま尋ねた。
「どうしたの?」
「えっと……その……急にもよおしてしまって……。どうしよう……間に合わないかも……」
おろおろしながら翔子は言った。眷族でも辰也の体の外に出ている間は普通に生理現象にみまわれる。体が幼くなったことで、トイレの我慢が利かなくなっているのかもしれない。
辰也は笑って言った。
「その辺でしちゃっていいよ」
「え、でも……」
「シャワーで流せばいいから」
あまりお行儀はよくないが、何せ小さい子どもなのだ。このくらいは構わないだろう。
「わ、わかりました。み、見ないでくださいね!」
意を決したように翔子は排水溝の前にしゃがみ込む。翔子の顔は羞恥で赤くなっていた。
「わかってるよ」
辰也はすでに興味を失っていたので、翔子から視線をはずしてしまう。今一度肩までゆったりと湯船にひたり、「ふぅ~」っとおっさん臭い息を吐いた。思ったより自分は疲れているのかもしれない。
チョロチョロと、翔子の股間からせせらぎが聞こえる。控えめな音で、これはこれで風情があるのかもしれないなどと馬鹿なことを考えつつ、辰也は束の間の休息を楽しんだ。