第1話 燈子3
次の日、辰也はいつものように早朝に目を覚ます。昨日慣れない戦闘をしたせいで体のあちこちが悲鳴を上げていた。戦っている間は気にならなかったかすり傷がやたら痛み、全身が筋肉痛で気だるい。辰也は顔をしかめて体を起こす。
「……おはよう、ドラコ」
「おはようございます、辰也殿。体の調子はどうですか?」
ドラコが胸から出てきて尋ねる。
「あんまりよくないけど、死ぬほどじゃないよ」
答えながら辰也はベッドから降り、キッチンに向かう。辰也はキッチンで買い置きの食パンを二枚トースターに入れて冷蔵庫から食材を取り出す。今日から同居人が一人増えた。朝食も二人分だ。
「燈子はまだ寝てるのかな……」
辰也は鍋のスープをおたまでかき混ぜながらポツリと呟く。燈子は辰也の中ではなく、両親の寝室で寝てもらっていた。ドラコは竜なのでべつにどこでも平気なのだが、燈子は人間である。辰也の眷族になったとはいえ、ちゃんと辰也の外で寝て食事もした方が精神衛生上良い。
自分以外の料理を作るのは、おじさんが帰ってきたとき以来だ。一人でも一応ちゃんと作るが、やはり料理は人に食べてもらわないと作りでがない。いつもより丁寧に、そして量も多めに辰也は調理を進めていく。
すぐに朝食はできあがった。食器によそおう前に、辰也は燈子を起こすため二階に上がる。
「……燈子、起きてる?」
辰也は部屋をノックする。反応はない。辰也は再度ドアをノックした後、そっとドアを開けて部屋に入る。
燈子はベッドの上で大の字になりすうすうと寝息を立てて眠っていた。どうやら燈子は相当寝相が悪いらしい。布団をはね飛ばし、パジャマがめくれて白いお腹が丸出しになっている。
なんというか、平和な光景だ。つい昨晩魔族と血みどろの殺し合いをやっていたとは思えない。辰也はへそまで見えている燈子のパジャマの裾をそっと直し、苦笑を浮かべた。
「……ニヤニヤしちゃって、あんたロリコンなの?」
「うわあっ!」
気付けば燈子が首だけ起こし、眠そうな目でこちらを見ていた。慌てた辰也は後ろにひっくり返る。辰也は起き上がりながらうらめしげに言った。
「起きてるなら起きてるって言ってよ!」
「うるさいわね~。ちょっとロリコンにサービスしてやっただけよ」
「ロリコンじゃないよ……。朝ごはんできたから、呼びに来ただけだよ」
燈子は目を擦りながらベッドから降り、立ち上がる。
「そういうことにしておいてあげるわ。早く案内なさい」
「はいはい……」
辰也は嘆息しながらダイニングキッチンに燈子を連れて行き、配膳する。燈子はテーブルに並べられた料理を見て、目を丸くした。
「辰也、あんた料理得意だったのね……」
「いや、そんなでもないよ……」
メニューはトーストにサラダ、ベーコン、スクランブルエッグ、野菜スープ、コーヒーである。確かに一人暮らしの男の朝食にしては手が込んでいるかもしれないが、大したことはない。
「そう? うちも両親いないけど朝からこんなにちゃんと料理しないわよ。あ~、でもごめんなさい。多分全部は食べられないわ。……体小さくなっちゃったし」
そこまでは気が回らなかった。辰也は頭を掻きながら言う。
「あ……ごめん。いいよ、残ったら僕が食べるから」
「悪いわね」
辰也と燈子はテーブルに向かい合って座り、食事を始める。燈子はトーストを半切れとスープを飲んだところで満腹になったらしく、残りの皿を辰也の方に押しやった。辰也は時間を気にしながら朝食をかきこむ。
「あんたも男の子なのね。そんなに食べられるなんて」
「これくらいはなんとかね」
実は結構無理しているのだが、そんなことは言えない。残した燈子を責める形になるし、何よりかっこ悪い。少しくらいは見栄を張ってもいいだろう。
「ねぇ、辰也。あんた、翔子のことをどう思ってる?」
辰也は口の中のものを噴き出しそうになる。
「と、突然どうしたの?」
「なんで翔子と同じ反応するのよ……。あんたって翔子とやけに仲がいいから、そういう関係なのかと思って」
「そんなわけないじゃないか……」
コーヒーをすすりつつ、辰也は言った。仲がいいなどといっても、顔を合わせたときにちょくちょく話をする程度である。
「でも翔子が私以外で一番話をするのはあなたよ?」
「関係ないでしょ。僕はきっと、そういう対象じゃないよ……」
辰也も男だ。ひょっとして翔子が自分を好きなのだろうか、などと思ったことがないわけではない。しかし冷静に考えて、ありえないだろう。他人より優れたところが全くといっていいほどない辰也が、誰に好きになってもらえるというのだ。
(うん、やっぱりありえない……。期待しちゃいけない……)
辰也は中学時代のことを思い出す。あの頃は、本当に地獄だった。班行動などで常に仲間はずれにされ続け、ときおり追い回されては集団で殴られた。モノがなくなることなど日常茶飯事で、カツアゲされたことも多々あった。
一度だけ、靴箱の中にラブレターが入っていて呼び出されたことがある。気になって行ってはみたものの、やはりいたずらだった。指定された場所には数人が隠れていて、辰也は笑い物にされた。
煮えたぎった釜で茹で上げられていたような中学のときに比べれば、今の生活は気に入っている。波風を立てるようなことはしたくないし、ましてや翔子に迷惑が掛かるかもしれないのだ。辰也がそういう感情を抱くことは許されない。
「翔子があんたをどう思ってるのかを訊いているんじゃないのよ? あんたが翔子をどう思っているのかを訊いているの」
「どうって言われても……。友達だよ」
「そう……。まぁいいわ。あなたにはお願いがあるの」
「何?」
訊き返しながら、ちらりと辰也は時計を見た。まだ登校時間には余裕がある。
「私の代わりに、翔子のことを気に掛けてあげてほしいの」
「別にそれはいいけど……」
双子の姉妹とはいえ、高校生にもなってそれでいいのだろうか。辰也はわずかに眉をひそめる。だがまぁ、辰也がとやかく言うことではない。
辰也の心情を察したのか、燈子が神妙な顔をして口を開く。
「……翔子には大変なものを背負わせちゃったから。本当は、『竜の瞳』を継承するのは私のはずだったの」
「どういうこと?」
『竜の瞳』といえば翔子が眼帯の下に隠している左目だ。明らかに人外の目で戦闘中に金色に光っているのは見たが、具体的にどんな力があるのか辰也は知らない。
「翔子の魔力じゃ『竜の瞳』を制御しきれないの。……翔子は『竜の瞳』で他人の敵意が全部見えてしまう」
『竜の瞳』は未来を見せる一子相伝の邪眼だ。戦闘中に敵の攻撃を読むことができる。基本的に常時発動型で、魔力がある限り所持者に半径数百メートルに渡る範囲の未来を見せ続ける。
なんでも神泉家の先祖が遙か昔に竜と戦い、その善戦ぶりに感心した竜に譲られたマジックアイテムが『竜の瞳』なのだそうだ。以来神泉家ではこの『竜の瞳』を継承し続けている。未来を見せる『竜の瞳』は魔と戦い続ける神泉家の主戦力といっていいアイテムだった。
ここで勘違いしてはいけないのは、『竜の瞳』は本当に時間を超えて未来を見せているわけではないということだ。『竜の瞳』は周囲の思考や魔力の流れを読み、行動を予測しているに過ぎない。初見でも敵の攻撃方法を見抜いてくれるのは便利だが、敵の判別はかなりザルである。少しでも周りに敵意を持った人がいれば、『竜の瞳』は反応して攻撃のビジョンを見せる。
つまり翔子は近くにちょっとでも誰かにむかついたりした人がいれば、その人がむかついた相手に攻撃を加えるビジョンが見えてしまうのだ。どんなに仲良くしていても相手のささいなことにいらつくこともあるし、ましてや周囲が仲良しばかりとは限らないのだ。人間そういうものだとわかっていても、翔子は燈子以外から距離を置くようになった。
「三年前、魔族と戦って私のお母さんが死んだとき、私もその場にいて、大怪我した。そのせいで私は『竜の瞳』を継承できずに、代わりに翔子が継承した。……あの子を苦しめてるのは、私なのよ」
「……考え過ぎじゃないかな? そんな風に責任を感じる必要はないと思うけど……。きっと翔子はそんなに気にしてないと思うよ」
辰也は率直な感想を伝えたが、燈子は首を振った。
「翔子がどう思ってるかは関係ない。……私に原因があるんだから、私が翔子のことを気に掛けるのは当然よ。今はこうやってあんたに頼むしかできないのがもどかしいけど……」
燈子は口を尖らせて横を向く。なんとなく舞い上がって、朝食作りくらいで浮かれていた自分が恥ずかしい。子どもの姿をしているのに、燈子の方が辰也よりずっと大人なのだと感じた。
「わかった……。僕にできる限りは気を遣わせてもらうよ」
元々、強く拒否する気はさらさらなかった。燈子が翔子の世話を焼くことができなくなったのも、辰也に原因があるのだ。辰也は燈子の希望をできるだけ聞く義務がある。
「よろしい! じゃ、学校に行きましょうか」
顔が幼くなったせいか燈子は天真爛漫といった感じで、辰也もぎこちなく笑ってうなずいた。
「そうだね」
辰也は後片付けをして、燈子とともに家を出る。途中までは燈子も辰也の体の外で、一緒に歩くことにした。二人は並んで通学路を歩く。ドラコも辰也の中から出て、辰也の隣を飛ぶ。
「それにしても不便ね~。あんたから離れすぎるとすぐに魔力が尽きて、死んじゃうなんて」
「ごめんね……学校に付き合わせることになっちゃって」
「ま、どっちにしろ私があんたのそばにいないと危ないし、別にいいわ。ところであんた、魔族の気配とかわかる?」
「いや、全然……。あ、ドラコならわかるんじゃない?」
思い出したように辰也は言う。結界さえ張られていなければ、ドラコは魔族を感知できる。今まで魔族に遭いそうになっても難を逃れてこられたのは、ドラコのおかげだった。
「しかし私が魔族を見つけられるのは外に出ているときだけですよ」
ドラコがのんびりした口調で答え、燈子は腕を組んで考え込む。十歳児くらいの燈子が真剣な顔をしているのは、なんだか滑稽だった。
「それはちょっと厳しいわね……。もしかして私もそうなってるの?」
「そうですな。辰也殿の中にいるときは、基本的に魔力は使えませんので」
さらに言えば、辰也の外に出ても幼い体では使える魔力はかなり限定される。本格的に魔術を使いたければ、辰也の体を借りねばならなかった。
「……翔子との連携を強化する必要があるわね」
翔子の『竜の瞳』なら魔族を見つけるのはたやすい。できるだけ一緒にいた方がいいかもしれない。
「……そうね、夜も翔子に一緒にいてもらった方がいいかも」
「ふうん。僕が君らの家に泊まればいいのかな」
燈子たちも保護者がおらず二人暮らしなので、辰也が行くには特に問題はない。よくわからないが、燈子と翔子の家なら対魔族用の武器なども揃っていてやりやすいのではないだろうか。
辰也の言葉を聞いて燈子が半眼になって辰也を見上げる。
「……あんたやっぱり翔子狙いなの?」
「え、いや、そんなつもりは……」
「いきなり女の子の家に泊まりたいとか言うのに、他にどんなつもりだったのよ!」
燈子に勢いよく足を蹴飛ばされて、辰也は悲鳴を上げた。
学校へ続く坂道が見えてきたところで、辰也は燈子に言った。
「そろそろ僕の中に入った方がいいんじゃないかな?」
ドラコは人通りが多くなってきたところですでに辰也の中に入っていた。どう見ても十歳くらいにしか見えない燈子を学校まで連れて入るのは少し無理がある。きりのいいところで姿を隠してもらう必要があった。
「待って。……翔子?」
燈子が駆け出した先の電柱には、翔子が隠れていた。翔子はそわそわした様子で電柱から顔を出し、辰也にちょこんと頭を下げる。
「あの、ここで待ってれば辰也さんと姉さん、来ると思って」
「……? 何かあったの?」
辰也は一瞬、なぜ翔子が辰也の通学路を知っているのかと疑問に思ったが、すぐに頭を切り換えて尋ねる。こんな朝早くから辰也を待ち伏せるなんてよほどの重大事に違いない。
「……! 翔子、眼帯はずして見せなさい!」
何かに気がついたらしい燈子が叫ぶ。翔子は言われるがまま、おずおずと眼帯をはずした。翔子の目を見て、燈子は息を飲む。
「あんた、それ、どうしたの!?」
翔子の目は『竜の瞳』などではなく、普通の目になっていた。姉の燈子にそっくりな、茶の色彩の強い凛とした目である。わずかだが、翔子の方がたれ目で、優しそうな目だった。
「わからない……。昨日から回復、しなくて……」
そう言って翔子はうなだれる。燈子も苦々しい表情をして、翔子にさらに尋ねる。
「魔族の探知はできそう?」
「一応、できなくはないと思う……」
『竜の瞳』は魔力が少しでもあれば常時発動する。『竜の瞳』が使えないということは翔子にほとんど魔力がないということだ。そして、『竜の瞳』なしで魔族の気配を察するのにも魔力は必要である。
「あんたからは本当に全然魔力を感じない。魔族探知ができるかできないかくらいね。戦闘は絶対無理」
「辰也さん、姉さん、ごめんなさい……。私、『竜の瞳』がないと役に立てないのに……」
「翔子、そんな……」
悪いことをしたわけでもないのにしゅんとしている翔子を目の前にして、辰也は絶句する。悪いのは誰だ? もちろん戦った相手であるハルマンが第一であるが、その次は自分だった。
「いいのよ、あんたが気にする必要はないわ。あんたの分は、こいつががんばってくれるから大丈夫!」
燈子が辰也の尻をバシンと叩く。辰也はハッと正気に戻り、
「え、ああ、うん……」
とはっきりしない返事をするのだった。
辰也は燈子を自分の中に収容し、翔子と一緒に登校する。終始翔子は元気が無くて、辰也も何を話せばいいのかわからず沈黙が続いた。
教室に入り、二人は無言で席に着く。辰也は翔子の方を見ることさえできなかった。
「辰也、おはよう。……どうしたの?」
前の席の小野寺優も二人の様子を見て、怪訝な顔をする。辰也は事情を話すわけにもいかず、
「……ちょっとね」とだけ言った。
「燈子さんが来てないのと関係ある?」
「はは……そうかもね」
そこに着目する優はなかなかあなどれない。辰也は適当にはぐらかし、翔子の方を向く。
燈子は翔子の魔力が回復しないのは、昨晩魔力を使いすぎたせいだろうと言っていた。無理をし過ぎると、しばらく魔力の回復にも支障をきたしてしまうのである。最悪の場合、一生魔力が戻らない可能性もある。
燈子は翔子の体からわずかながら魔力を感じるのでそのうち回復するだろうとは言っていたが、辰也の罪が赦されるわけではない。燈子の言う通り、辰也ががんばって翔子の分まで戦うのが責任をとるということだろう。そして辰也は、燈子の役目も代行しなければならない。
「えっと、その、翔子」
翔子に気を遣うと燈子に約束したのに、いきなり破るわけにはいかない。辰也は迷いながらも翔子に話しかけた。
「なんでしょう、辰也さん」
翔子がしずしずと顔を上げる。翔子はいつになく暗い顔をしていて、ショックの大きさがうかがえる。魔術師にとって、魔力は当然あるものだ。普通の人からすると、手足が使えないというくらいのストレスなのかもしれない。
声を掛けたはいいものの、後が続かない。井戸の中に釣瓶を落としても底には水がなくて、乾いた音が響くだけだった。語るべき自分の言葉が、見つからない。
「元気、出しなよ。きっと燈子も、翔子が元気ないと辛いよ」
結局辰也は、燈子の名前を借りた。空虚な自分が情けない。辰也の言葉を聞き、翔子は寂しく笑う。
「そうですよね……。ただでさえ役に立たないのに、私が落ち込んでちゃ、姉さんも困りますよね……」
「いや、翔子、何言って……」
翔子のもの言いに、辰也は困惑する。
「『目』のない私なんて足手まといですから……。いつも姉さんに気を遣わせてばかりなのに、辰也さんにまで……。迷惑ですよね、私って……」
「そんな……。僕は迷惑だなんて思ったことはないよ」
迷惑などと言ったら、辰也はどうなるのだ。勇んで戦いに参加して、燈子を死なせてしまった。もはや断罪されるべきレベルである。
いつも、班分けなどをすると自分だけ余った。周りが困っているのは、辰也自身も感じているが、それでも辰也は何もできない。本当に迷惑なのは、翔子より辰也自身だった。
「辰也さんは優しいんですね……。でも、私が役に立たないのは私が一番よく知ってますから……」
翔子がここまで言っているのに、辰也の中の燈子は沈黙を保っていた。どこかで燈子が助けてくれるのを期待している自分が悲しかった。
「……これだけは信じて。僕は翔子を迷惑と思ったことは一度もないよ。いつもみたいに、翔子が笑ってくれている方が嬉しいって思う、それだけだから」
辰也を信じて何になるのか。誰よりも役立たずで、迷惑な辰也を。頭の片隅にそんな考えが浮かんだが、辰也は押し殺して言った。翔子は曇った笑みのまま、首を振るばかりだった。
いたたまれなくなった辰也は教室を出て屋上への階段を昇り、誰もいない踊り場で燈子に謝る。
「ごめん……。やっぱり僕じゃだめみたいだ。翔子を元気づけるどころか、傷つけて……」
燈子は辰也の体から出てくることなく、返事をする。頭の中に直接声が響いた。
(馬鹿ね、あんたはよくやったわ。合格よ)
「え……?」
燈子の言葉が信じられず、辰也は訊き返す。翔子を落ち込ませたまま出てきたばかりではないか。
(あの子、素直じゃないからああいう態度だったけど、ちょっとだけ笑ってたでしょ? あれは喜んでるサインよ)
「そ、そうなの……? とても信じられないんだけど……」
(姉の私が言ってるんだから間違いないわ。だいたいね、あんたも翔子も卑屈すぎるのよ。もっと自分に自信を持ちなさい)
辰也はその場に座り込む。声の調子から、燈子が辰也を慰めようと嘘を言っているわけではないということはわかった。しかし、全く実感が湧かない。
(ほら、立ちなさいよ! あんたがそんな顔してたらまた翔子が不安になるでしょ!)
「ごめん……」
(すぐに謝るんじゃないわよ! 私があんたにお礼を言わなきゃならないくらいなんだから)
そこまで言って燈子は一拍呼吸を置く。一瞬の沈黙の後、少し小さな声が頭の中に響いた。
「辰也……ありがとうね」
どういうわけか燈子の言葉は、頭の中に残って消えなかった。
教室に戻ると翔子はまだ元気がない様子だったが、挙動は落ち着いていて冷静になったようだった。辰也と翔子が会話することはなかったが、辰也から見ても翔子は多少平静に戻っていると思う。辰也は燈子が言ったことが嘘ではないと悟ってほっとし、普通に授業を受けた。
二時間目は数学だったので、文系理系で別になる。辰也は荷物を用意して教室を移動した。優も翔子も理系で、辰也は文系なため辰也は一人になる。辰也は騒がしい教室の中できっちりと授業準備を整え、チャイムが鳴るのを待った。
朝、食べ過ぎたせいか少し眠い。しかし眠ってしまうと授業についていけなくなるため、真面目に授業を受けなければならない。辰也は頭を軽く振って眠気を覚まし、前を見続ける。鈍く頭が痛んだ。
(ん……? あれ……?)
眠気を覚ましていると一瞬、下腹部に痛みが走った。すぐに痛みは引き、ほとんど同時にチャイムが鳴って先生が来る。
(気のせいかな……?)
しかし、十数分後には気のせいではないと判明する。授業が始まってしばらくすると、ぎゅるぎゅると辰也のお腹が鳴り、下腹部を鈍痛が覆った。朝の食べ過ぎで腹を壊したのである。
(やばい……。トイレ行きたい……)
辰也は青い顔で前の時計を見上げる。授業時間はまだ三十分以上あり、辰也は愕然とする。顔には脂汗が滲んだ。
手を挙げて退出するのは恥ずかしい。淡々と平常運行で授業が進んでいく中、辰也はどうしても手を挙げることができなかった。そもそも、学校のトイレで大をするということ自体、辰也には抵抗がある。小学校の時に馬鹿にされたり、上から水を掛けられたりしたのがトラウマになっているのだ。さすがに高校生にもなって幼稚なことはしないとは思うが、それでも不安感が拭えない。
辰也が悶々と葛藤している間に腹痛は治まり、汗も引いてくる。辰也は安堵の息をつき、再び黒板に集中した。
(この分なら帰るまで保つかな……)
トラウマが刺激されるし、辰也に限っては嫌がらせもあり得るので、できれば学校でトイレには行きたくない。辰也は家まで我慢することを考え始めていた。
しかし腹痛というのは波があるものだ。十分も経たないうちに、再び激しい腹痛が辰也を襲う。辰也は顔をしかめてお腹を押さえるが、痛みは引いてくれない。なんとかこの苦しみから逃れようと、辰也は必死に考える。さっさと先生に申し出てトイレに行くのが一番だとはわかっていたが、それはどうしてもできなかった。
(うう……あと二十分)
辰也は慎重に尻の力を抜き、ガスを放出しようとする。音を立てても、中身が飛び出してもだめだ。緊張の一瞬の後、腸内に溜まったガスがスゥーっと肛門から抜けていき、少しだけ楽になる。辰也は周囲に気付かれていないかと辺りを見回すが、授業を受けている生徒たちに、変わった様子はない。どうやら杞憂だったようだ。
しかし、ガスを抜いたのは所詮気休めに過ぎない。すぐにまた腹痛がひどくなってきて、辰也は椅子に座ったまま悶える。もうだめかもしれない。そう思ったとき、頭の中に半ば悲鳴のような声が響いた。
(ちょっと辰也! 何考えてんのよ!)
(燈子? 何……? 今、やばいんだけど……)
(んなことわかってるわよ! あんたと私は感覚繋がってるんだから!)
○
辰也の中は、まるでバーのようになっていた。カウンターの奥に棚があって、色とりどりの酒瓶が並んでいる。部屋の大きさは燈子たちの通っている高校の教室くらいで、隅にはクローゼットやチェストが置いてある。カウンターの反対側には観音式の大きな扉と、全身を移せる鏡が置いてあった。そして、カウンターに立っている赤いジャケットを着たバーテンダー風のおじさんがドラコなのだった。
最初にここに来たときは面食らったが、一日経った今となっては慣れたものである。辰也の中に入ってから燈子はカウンター席に座り、くつろいでいた。
「それにしても退屈ね~。ここに本とか持ち込めるかしら?」
燈子はドラコに尋ねる。朝、辰也が翔子と話していたときはかなりやきもきしたが、授業が始まると暇でしょうがない。
「もちろんできますよ。この部屋も、私がいろいろと持ち込んでこうしたのでございます」
この部屋では小綺麗なおじさんといった風体のドラコが、微笑みを浮かべて答えた。本来なら成竜の姿になるが、邪魔になるので変身しているということだった。
「ふうん、お酒が好きなんだ。私はよくわからないけど」
「昔、人間によく貢ぎ物として送られたものですから」
「ということはドラコは格が高い竜なの?」
今は気さくなおじさんにしか見えないが、貢ぎ物を受け取り、人間への変身もこなせるということは、ドラコはかなり強力な竜のはずである。
「はは、どうでしょうか」
「本来ならどれくらいの大きさになるの?」
「そうですねぇ、人間の単位で十五メートルといったところでしょうか」
「伝説になるクラスじゃない!」
それほどの大きさの竜であれば、天候さえも操れる。どこかに神様として伝承が残っていてもおかしくない。
「ま、今はしがないバーのおじさんでございます。燈子殿にも飲める年齢になったら振る舞いましょう」
ドラコはグラスを慣れた手つきで拭きながら言った。人間ではないのに法律は守るらしい。
「そう。楽しみにしてるわ。……まだ二時間目かぁ。昼休みには外に出ようかしら」
燈子はちらりと背後の鏡を覗いて、息をつく。鏡には移動で騒がしい教室の風景が映っていた。外の様子は壁際に設置された鏡に映るのである。
「授業が終わってから辰也殿に差し入れを頼んではいかがですか? どうぞ、これでも飲んでお待ちください」
「あら? 気が利くじゃない」
ドラコはグラスに琥珀色の液体を注ぎ、燈子に差し出す。グラスが綺麗なのでカクテルのように見えるが、ただのリンゴジュースである。燈子はグラスを傾け、優雅にジュースを飲み干した。
「ごちそうさま。ん……?」
下腹部に違和感を感じ、燈子は首を傾げる。今少し痛かったような……。
「どうなさいましたか?」
「いや、なんでもないわ」
魂だけの存在である燈子が、腹痛など起こすわけがない。きっと気のせいだと燈子は深く考えず、ドラコととりとめのない話を続けた。
おかしいことにようやく気付いたのはしばらく経ってからである。猛烈な腹痛に燈子はお腹をさすりながら、カウンターに突っ伏する。今にも漏れそうだ。トイレに行きたい。
「ドラコ……トイレって……ある?」
燈子は息も絶え絶えに尋ねる。ドラコは困ったように答えた。
「ここは辰也殿の中なのでありませんぞ。調子が悪いのですか?」
「どういうことなの……? 私たちは魂だけなんだから、お腹痛くなるわけないはずでしょう……?」
燈子もドラコも幽霊のようなものなのだ。トイレに出る幽霊はともかく、トイレに行く幽霊など聞いたことがない。
「燈子殿は辰也殿の眷族ですので辰也殿と感覚がリンクしております。辰也殿が体調を崩しているのでしょう」
ドラコは辰也の眷族ではないので感覚は共有されない。
ドラコの説明を聞いて、燈子は背後の鏡を振り返る。お腹を押さえて苦悶の表情を浮かべる辰也が映っていた。
「じゃあ辰也がトイレに行くまで私も道連れってこと!?」
「そういうことになりますな」
授業が終わるまでまだかなり時間があることに気付き、燈子は顔をひきつらせた。
「まさか授業終わるまで我慢する気?」
引っ込み思案の辰也の性格ならありえるが、この苦痛にあと三十分以上耐えろというのはほとんど拷問に等しい。しかし授業中に辰也に話しかけるのも迷惑のような気がする。本当に耐えられなくなったら辰也も退席してトイレに行くだろう。そう考えた燈子はしばらく耐えることにした。
いくら辰也でも我慢できなくなったら先生に断ってトイレに向かうだろうという燈子の考えは、全くもって辰也に当てはまっていなかった。辰也は限界を超えて我慢し続けている。確かに辰也の勝手だが、巻き込まれる燈子はたまったものではない。耐えに耐えて数十分、ついに燈子は音を上げた。燈子は荒れ狂う腹を押さえながら、鏡に向かって怒鳴った。
「ちょっと辰也! 何考えてんのよ!」
(燈子? 何……? 今、やばいんだけど……)
気だるそうな声が部屋に響いた。燈子は青い顔で震えながら鏡に怒鳴り返す。
「んなことわかってるわよ! あんたと私は感覚繋がってるんだから!」
(わかってるんだったら今話しかけないで……! ほんとにやばい……!)
「さっさとトイレに行けばいいじゃない! 何の拷問よ!?」
(いや……だって学校で大って恥ずかしいし)
燈子は絶叫した。
「あんたは小学生か!」
(いや、そんなこと言われても。燈子は女子だから男子の気持ちがわからないんだよ……。う……)
「あ……」
破滅の音が響き、びちゃびちゃした感覚が尻に広がる。思わず燈子はパンツに手を突っ込んで確かめてしまった。共有しているのは感覚だけなので燈子がパンツを汚すことはないのだが、不快極まりない。腸が暴れ狂う感覚も健在だ。鏡を覗けば辰也は口を半開きにしてぷるぷる震えていた。もう限界だ。耐えられない。燈子は宣言した。
「もう! 私に変わりなさい!」
言うが早いか燈子は鏡に飛び込む。辰也の体に乗り移りたいときは鏡で、小さな体で外に出たいときは扉の方である。すぐに視界が辰也のものとなり、先生が辰也の様子に全く気付かず板書している中、周りの席の生徒がちらちらとこちらを見るという状況を把握する。一刻の猶予もない。燈子は勢いよく手を挙げ、早口でまくしたてた。
「先生! お腹が痛いのでトイレに行ってきます!」
先生は振り返って困惑の表情を浮かべたが、すぐに「いいぞ、行ってこい」と許可を出し、同時に燈子in辰也はダッシュする。先ほどの漏出の被害は最小限だ。本流が来る前にトイレに辿り着かなくては。今にも決壊しそうな尻の穴に力を入れつつ、燈子は最寄りのトイレに駆け込む。
(ちょ……! こっちは女子トイレ……!)
辰也の声が頭に響いたがもはや燈子は聞いていなかった。バタンと音を立てて個室のドアを閉め、ズボンを脱ぐ。ベルトがなかなかはずれずガチャガチャと耳障りな音を立てた。
ズボンとパンツを一緒に降ろし、勢いよく洋式便器に座る。同時にドババババッと腸の内容物が肛門を駆け抜け、燈子は一息つく。
「ふぅ……。なんとか間に合ったわね。……パンツも汚れてないみたい。よかったわね、辰也」
少し教室で出てしまったのも微量だったため、下着には付着していなかった。これなら着替えなくてよさそうである。
(もうだめだ……。人生終わりだ……)
辰也が頭の中で何やらぶつぶつ言っていた。何をそんなに深刻になっているのだろう。学校でウンコして馬鹿にされるのは小学生までだろうに。便器に座って安堵していると、チャイムが鳴った。授業も終わりらしい。燈子は後始末をして個室から出て、出口で手を洗う。
「……でね、成恵が……」
談笑しながらトイレに入ってきた女子たちが燈子を見て固まる。燈子は無論辰也の姿のままだ。ようやく燈子は自分が何をしでかしたか気付いた。
「あら、間違えちゃったわ、ごめんなさい」
ホホホ、と燈子は作り笑いを浮かべてその場を立ち去る。その後辰也が女子トイレに侵入して見つかり、おかま言葉でごまかそうとしたという噂が流れたのであった。
○
「げ、元気出しなさいよ。ちょっと間違えただけじゃない!」
「いや……、ちょっとってレベルじゃないから……」
逃げるように学校を早退した帰り道、辰也は燈子と並んでとぼとぼ歩いていた。燈子は隣を歩きながら小さな手で辰也の尻を叩いたりして、慰めようとしてくれるが、まるっきり変質者である。明日からどんな顔をして学校に行けばいいのだろう。
「いや、その、私だって悪かったと思ってるのよ……?」
燈子がうなだれる。小学四年生くらいの体でそれをやられると、叱られた子どもにしか見えない。
「本当にごめんなさいね。でも、あのときは本当にギリギリだったから……」
シュンとしている燈子を見ていると、辰也が小さい子をいじめているようで罪悪感が込み上がってくる。せめて誰かを傷つけないように静かに生きてきたつもりの辰也は、あまり他人を責めた経験がない。逆に責められるのは経験豊富なのだが、謝られるのには慣れていなかった。
よくよく考えれば無理な我慢をして燈子を苦しめたのは辰也である。燈子が授業中トイレに立つという汚れ役をやってくれたからこそ辰也は教室で漏らさずに済んだのではないだろうか。だんだん申し訳なく思えてきた辰也は、ため息をついて言った。
「いいよ、僕も悪かったし。だから燈子は気にしないで」
「許してくれるの!? じゃ、この件はこれで終わりね! 翔子には私から言っておくから心配は無用よ!」
「なんでそこで翔子が出てくるんだよ……」
「だって好きな人が変態だったらショックじゃない?」
燈子はニヤニヤしながら肘で辰也の脇腹を小突く。翔子に限らず、辰也が誰かに好かれることなどありえないだろう。辰也は「はいはい」と軽く流した。
辰也はスーパーの前まで来たところで燈子に尋ねる。
「寄ってもいい?」
そういえば冷蔵庫の食料が心許なくなってきていた。補充ついでに昼ご飯を買っていきたい。隣の燈子を見ると、燈子は何やら険しい顔で腕組みしていた。
「……待って。魔族の気配がする……!」
「ま、まさか昨日の……!」
辰也は即座に昨晩戦った吸血鬼、ハルマンを思い浮かべる。燈子の力で勝てたとはいえ、相手は分身だった。分身であれほどの力だということを考えると、本体が来たら勝てるかどうか非常に危うい。
「いや、ハルマンではないわね。反応が小さすぎる。行くわよ、辰也。こっち!」
「え、ちょ、待って……」
駆け出した燈子を、辰也は慌てて追いかける。
燈子が向かった先はスーパーの裏手の、狭い路地だった。子どもの体の燈子は雑然と置かれたゴミ箱やらビールケースやらをするりと避けて路地を進んでいくが、辰也はそうはいかない。あちこちに体をぶつけながらなんとか燈子についていく。路地を抜ける頃には、制服がところどころ薄汚れているという有様だった。
「いた!」
燈子が前方を指さして叫ぶ。燈子が指した方向には耕作放棄された田んぼが広がっていて、その真ん中に何やら緑色の気味の悪い生物が立っていた。
「……何あれ」
「カッパよ、カッパ!」
「カッパ……?」
辰也は目の前の生物を凝視する。確かに全身が緑色でぬめぬめとてかっていて甲羅を背負い、頭に皿を乗っけているが、あまりにずんぐりむっくりすぎる。坂道でそのまま転がりそうなくらいに丸い。
「えっと……どうしても倒さないといけないの?」
「基本的には山奥に住んでて無害なんだけど、人里に出てきたやつは子どもさらったりするのよ。この町に侵入した魔族を倒すのは私と翔子の仕事! 体借りるわよ、辰也!」
この町で魔族の被害がないのは、燈子と翔子が日常的に町に入った魔族を倒していたためだ。翔子が戦えず、燈子も単独では無力な今、町の平和は辰也の双肩にかかっている。
「う、うん! わかった!」
辰也はうなずき、同時に燈子が辰也の中に入る。辰也は体の力を抜いて、燈子に体をゆだねた。
○
燈子は辰也の体の中に戻り、鏡の中に飛び込んで体のコントロールを得た。魔力を左手に注ぎ込むと、竜の頭の形をした『魔王の心臓』の外部デバイスが浮き上がってくる。燈子は外部デバイスの底の蓋を開けて真っ白なカードを取り出し、ふわりと右側頭部に当てる。カードは赤く変化し、ブレスを吐き出す竜の絵が浮かび上がる。燈子は赤のカードを外部デバイスに挿入した。
「来なさい、『黒息火』!」
『Form up!』
辰也の体は燈子の姿に変わり、地面に突き刺さっているフランベルジェ──『黒息火』を抜く。
「そろそろ使い方もわかってきてるのよね!」
燈子は全身に魔力を迸らせた。学校の制服が光に包まれ、真紅のドレスに変化する。
(……これって意味あるの?)
「あら、綺麗じゃない」
辰也の質問に燈子はいたずらっぽく笑って応える。魔力の無駄のようにも思えるが、魔力を存分に引き出すためには精神面の高揚が欠かせない。服装を自分好みにするというのは意外と効果的なのだ。
「さぁ、行かせてもらうわよ!」
燈子は『黒息火』を振りかぶり、正面からカッパに突っ込んでいく。カッパも鋭い爪を燈子に向けて威嚇しつつ、飛び込もうとタイミングを取る。カッパは存外にすばやい生き物なので油断は禁物だ。燈子はカッパの動きに合わせて、『黒息火』を振り降ろした。鋭い爪が燈子に届く前に、カッパは頭を叩き潰されて沈黙していた。速度は要注意だが、所詮は知能が低い。燈子が正直にまっすぐ行ったことで相手もその気になり、まともに突っ込んだのだった。
「炎を使うまでもなかったわ。ざっとこんなもんね」
(……さすが本職だね)
「フフフ、もっと褒めなさい! ……あら?」
かすかな違和感を感じ、燈子は少しだけ眉間に皺を寄せる。
(どうしたの?)
「なんでもないわ、きっと気のせいね」
燈子は辰也に体を返し、また外に出た。