第1話 燈子2
始業式から、一週間が経った。辰也の周囲は、去年とほとんど変わりない。変わったことといえば、ちょくちょく燈子と会話するようになったくらいのものである。翔子とは対照的に活発な燈子はクラスの誰とでも話すがやはり一番仲がいいのは妹の翔子で、二人組を作るときは必ず翔子と組んでいた。
だが燈子と話すようになったからといって、辰也の空気のような存在感の薄さが変わることもない。辰也はいるのかいないのかわからないという陰口を受けながら、今日も変わり映えなく時間通りに学校に行くだけである。高校に入っていじめられなくなった分、中学の頃よりはマシだ。これも両親が天に召されたおかげだろう。不謹慎だが事実なので仕方ない。
辰也は中学時代、通っていた公立中学校でいじめを受けていた。辰也自身の引っ込み思案ではっきりしない性格が主因なのだろうが、「公立校にはろくなやつがいない」などと保護者の間で不遜な態度をとって顰蹙を買っていた両親も原因の一端を担っていた。辰也も同じ公立校に通っていたのに自己矛盾もいいところだが、事情は非常に単純である。辰也が受験した私立中学に全て落ちてしまっただけだ。
両親への反発もなくはなかったが、向上心を持ち続けろというのももっともな話だと思ったので友達もおらず暇だった辰也は中学時代を勉学に注ぎ込み、今の高校に受かった。最大限努力したつもりだが、やはり高校も地元の公立校にしか受からなかったのは辰也らしい。両親は不満げだったが辰也としては満足である。
しかし受験結果には納得していても、決して高校生活に満足しているわけではない。地元の高校ということで中学時代の辰也を知る者も多く、直接手出しこそされないものの無視はされ続けている。両親が死んだことで辰也が両親を殺したとか、不穏な噂も流された。だからこそ辰也は『魔王の心臓』を受け取ったのだ。とはいえ受け取った止まりで何もできないのが辰也でもある。
満ち足りない、学校に行くのが苦痛でもあるというのは残念ながら事実だ。いきなり変わることができなくても、気楽な一人暮らしなわけだし、まずは学校をサボる辺りからチャレンジするのが妥当なのかもしれない。だが辰也は、それさえできない。両親に「何事もちゃんとやれ、立ち止まるな」と細胞レベルで教え込まれてきたからである。
おかげでどんなに辛くても、体だけは真面目にやっているふりをするようになってしまった。足は学校と家を往復していても機械のようなルーチンワークで何も進歩がない。わりと真剣に自分の生きている意味がわからない辰也であった。
今日の辰也は放課後、教室の掃除当番が当たっていた。しかし高校生にもなると先生の監督があるわけでもなく、最低限をやれば何も言われないので手は抜き放題だった。一日くらい班ぐるみでさぼっても気付かれないに違いない。
きっと辰也以外もそう思ったのだろう、ホームルームが終わった後トイレに行ってから戻ってみると、教室には誰もいなかった。仕方なく辰也は一人でロッカーから箒を取り出し、掃除を始める。適当に掃いておけばとりあえずは何も言われないだろう。
教室を一人で掃除する。誰もいない教室は、殊更広く感じた。十分ほどで辰也は教室を掃き終わった。辰也はちりとりでゴミを集めようとするが思った以上にゴミの量が多く、柄の長い箒で一人でやっているのでなかなかうまくいかない。他に誰か一人でも残っていればすぐ終わるのにと、辰也は惨めな気分になった。
悪戦苦闘しつつもゴミをゴミ箱に入れ、辰也は愕然とする。ゴミ箱の中のゴミ袋は満杯な上に、中身の入ったゴミ袋がゴミ箱の横に二つほど放置されていた。ゴミ袋は一杯になり次第ゴミ捨て場に持っていく決まりなのに、なんとずぼらなクラスなのだろう。
辰也はため息をつき、ゴミ袋を三つ持って教室を出る。どのゴミ袋もギチギチに詰められているので結構きつい。息をつきながらゴミ袋を運んでいると、辰也は廊下の角で走ってきた人影にぶつかった。
「痛っ……ごめんなさい……って辰也?」
目の前で尻餅をついていたのは燈子だった。燈子は立ち上がりながら「あんた一人で何やってんの?」と辰也に尋ねる。
「掃除当番だからゴミ捨てに行こうと思って……。燈子こそこんな時間にどうしたの?」
さすがに一週間も経つと、下の名前で呼ぶのにも慣れた。最初のようにどもることなく辰也は訊き返す。
「ちょっと忘れ物してね。ったく、あんたは真面目ね~。ちょっと待ってなさい」
燈子は教室に駆け込んだかと思えば、小さなバッグを持ってすぐにこちらに戻ってきた。
「ほら、一つ寄越しなさい」
「え、あ、うん」
ほとんど分捕るように燈子は辰也のゴミ袋を一つ持つと、つかつかと歩き出した。辰也もおずおずと後に続く。
「その、ありがとう」
「……次からはちゃんと自分の班のメンバー引き止めなさいよ。自分で言わないと、ずっと掃除押しつけられるわよ」
「うん、わかってるよ……」
わかっていてもどうせ何も言えないだろうが、この場を取り繕うために辰也はそう言った。
やがて辰也たちは校舎裏のゴミ捨て場につき、ゴミ袋をフェンスの向こうに投げ入れる。ここで燈子とはお別れだ。
「じゃあね、辰也。また明日」
「また明日」
燈子は裏門から出て行き、辰也は教室へ向かうべく踵を返す。荷物を教室に置きっぱなしだったからである。
(ひょっとしてこれから一年、僕一人で掃除するはめになるのかな……)
去年も三学期はほとんど辰也一人で掃除をこなしていたが、今年は初っ端かららしい。正直、勘弁してほしい。
暗澹たる気分になったところで廊下の角にさしかかり、辰也は何かに足を滑らせて転ぶ。思いっきり床にぶつけた頭を押さえて辰也は体を起こし、足の下の四角い物体を拾う。
「誰だよ、こんなところに……」
辰也が踏みつけてしまったのは、クリーム色の小さな財布だった。しっかり辰也の上履きの足跡がついてしまっている。辰也は財布の表面をごしごしと擦りながら、中を開ける。
入っていたのは一万円札が五枚に小銭が少々、そして学生証だった。学生証の名前を読み上げ、辰也は納得する。
「神泉燈子……。そっか、あのとき……」
財布は燈子のものだった。おそらく辰也とぶつかったときに落としてしまったのだろう。しかし中に五万円も入っているとは、高校生が持つにしては額が大きすぎるのではないだろうか。詳しい事情は知らないが、確か神泉家も両親がいないと聞いたことがあるので、生活費か何かかもしれない。
「どうしよう……。職員室に持っていくか……」
(どうせ帰り道でしょう? 届けに行ってはいかがですか?)
突然ドラコが胸の中でそんなことを言う。燈子と翔子の住む竜神泉神社は学校を降る坂の途中にあった。これが生活費なら今頃燈子は困っているかもしれないが、もう外は暗くなっている。寄るのは容易だがこんな時間に女の子の家を訪ねるのは非常識ではないだろうか。
(ご安心を。あのお二人なら今の辰也殿くらいは瞬殺できますので)
「あの二人って、そんなに強いの……?」
燈子も翔子も魔術師だ。ある意味辰也の天敵といえるが、一応魔族としての戦闘力のある辰也が全く敵わない相手なのだろうか。
(私の見る限り燈子殿の魔力は人間としては最高クラスで、翔子殿の目はどんな魔族にも通じる切り札となります。眷族を持たぬ辰也殿では勝ち目がないでしょうな)
「そ、そうなんだ……」
全く、正体を見破られなくて助かった。顔を引きつらせながら、心底そう思う辰也だった。
(逆にお二人を眷族にすれば頼もしい限りでございます)
「えっと、眷族にしたい相手の体の一部が必要なんだっけ……?」
(その通りでございます)
ドラコはかしこまった様子で答えた。人間でも魔族でも、相手の体の一部さえあれば眷族にすることができる。相手の同意は必要ないが、敵意ある相手を取り込むのは体内に爆弾を抱え込むようなものなのであまりお勧めできない。使用する相手の体の一部に不純物が多すぎると契約に失敗するので、確実を期すため相手の体から直接調達するのが望ましい。
実はドラコも一向に眷族を作ろうとしない辰也に焦れているのかもしれない。しかし二人を眷族にしてしまえば、ドラコと同じ魂だけの存在になってしまう。
「……まぁいいや。勝手に眷族にするつもりはないけど、とにかく届けても大丈夫なんだね? 急ぐことにするよ」
額が額だし、燈子が財布を落とす原因を辰也が作ったという負い目もある。ちょっとしたことではあるが、たまには自分から積極的に動いてみるのもいいだろう。これで何かが変わるわけでもないだろうが、少しは何かした気になる。今から緊張しつつ、辰也は教室に歩き出した。
○
辰也はいつもは道なりに降りてしまう坂道の半ばで枝道に入り、双子の住む竜神泉神社へと向かった。竜神泉神社には辰也も何度か行った事がある。神社の敷地の脇に家があり、そこに二人は住んでいた。どういう風に話を切り出そうかと考えながら辰也は境内への階段を昇る。
辰也が異変に気付いたのは、境内に上がってからだった。一見暗闇が広がっているだけではあるが、虫の音さえ聞こえず、妙に静かだ。静かすぎる。
「……ドラコ!」
「人払いの結界が張られておりますな。魔族と戦っているのかもしれません」
辰也の呼びかけに応じて胸から小さな翼をはためかせてドラコが出てくる。ドラコはつぶらな瞳を前方に向け、辰也に解説した。
「僕はどうすれば……」
「それを決めるのは辰也殿です。結界の中に入らなければ中の状況はわかりませぬ」
戦っているとして、辰也が行って役に立つだろうか。しかしここで踵を返すのも二人を見捨てていくようで気が引ける。
少し逡巡して、辰也は結界に入ることにした。危機的状況でなければ、偶然を装えばいい。そうでない場合は、辰也も戦いに参加する。
体の震えを振り払うように辰也はずんずんと境内を進んでいった。戦闘は社殿の奥の森の方で行われているようだった。ここからでも宙を舞う炎と激しい剣戟の音を確認できる。辰也は慎重に戦いの現場に近づいてゆく。
現場に着いて辰也は足を止める。燈子と翔子が森の手前の開けたスペースで、コウモリのような羽を生やした黒服の男と戦っていたのだ。
「姉さん! 三時の方向、雷!」
「了解よ! 喰らいなさい!」
炎を纏った刀を振るう燈子が前衛となって、鈍く輝く左目を見開いた翔子の指示通りにコウモリ男を迎撃する。コウモリ男も右手には金で装飾の施された大きな剣を持っていて、剣から雷や氷を吐き出して燈子と戦っていた。羽が生えていることから人間でないことは自明だが、あんな大剣を片手で軽々と振り回すとはやはり男は魔族のようだった。
コウモリ男の狙いはどうやら翔子だった。どういう仕組みになっているのかはわからないが、翔子に仕掛けようとするコウモリ男の行動を先読みして翔子が燈子に指示を出し、燈子がコウモリ男を阻止するという図式である。辰也には燈子と翔子はコウモリ男と互角に戦っているように見えたが、ドラコの意見は違った。
「このままではまずいですな……」
「えっ……?」
「魔力が違いすぎます。燈子殿はすでに全力ですが、相手はまだ余力を残しています。このままではいずれお二人とも……。さすがは『闇夜の帝王』と称された吸血鬼、フリッツ・ハルマンです。分身でこれほどの力を持っているとは……」
ドラコによるとあのコウモリ男は相当やばい相手らしい。人間の最高クラスの魔術師が、三人がかりでようやく互角に戦える相手だということだった。辰也は震えながら、意を決してドラコに申し出た。
「ド、ドラコは僕の中に隠れて……!」
ドラコもすでに肉体はないとはいえ魔力による攻撃を受ければ魂を破壊され、消えてしまう。今は辰也の中が安全だ。
「……行かれるのですか?」
「うん……」
燈子も翔子も大切な友達だ。今動けなければ、『魔王の心臓』を受け取った意味がない。
ひょっとして自分が生きている意味などないのではないか。ずっと抱いていた疑念だった。今ここで戦えば、たとえ後で辰也が追われる身になったとしても、殺されてしまうとしても、燈子と翔子を助けられたという事実が残る。この一瞬のためだけに自分は生きてきたと言える。何もできず、霞のように消えていくより遙かにマシだ。
辰也は唾を無理矢理飲み下し、大きく息を吐く。ドラコは大人しく辰也の胸の中に入った。
(『魔王の心臓』の使い方、覚えていますか?)
「うん……。前に一回試したようにすればいいんだよね?」
(ええ……健闘を祈ります)
辰也は普段心臓に封印されている魔力を解き放ち、左手に注ぎ込む。左手首に、竜の頭をかたどったような、黒い鱗に覆われた、奇妙な固まりが浮かび上がる。これは『魔王の心臓』の外部デバイスだ。
辰也が外部デバイスの裏の蓋を開けるとプラスチックのような手触りの白いカードが数枚、パラパラと出てくる。辰也はカードを一枚取り出し、自分の額に当てた。白いカードが黒く染まり、有機的な質感のある菱形の模様が浮き出る。これは、竜の鱗の紋様だ。
辰也はカードを『魔王の心臓』外部デバイスの側面に刻まれている溝に当て、押し込んだ。
「『黒鱗丸』!」
辰也が刀の名を呼ぶ。外部デバイスの竜の目が赤く輝いた。獣の咆吼のような重低音と同時に、辰也の全身が光に包まれる。
『Form up!』
光りが止んだとき、辰也の服は膝の辺りまで丈のある黒いコートを纏い、腰には小振りな刀を差した姿に変化していた。辰也は腰の刀──『黒鱗丸』を抜き、戦っている燈子とコウモリ男の方に突っ込んでいく。
「た、辰也さん……!?」
戦っている最中の燈子とコウモリ男はともかく、翔子は辰也の様子に気付いていた。あまりに突然だったせいだろう、翔子は目を見開いておろおろしているばかりだった。辰也は燈子の前に出て、コウモリ男の大剣から放たれる雷撃を刀で弾く。辰也の使う『黒鱗丸』は魔力による攻撃を無効化する刀なのだ。
「辰也!? あんた、なんで……?」
「話は後! あいつを倒さなきゃいけないんだよね……?」
辰也はコウモリ男に刀を向け、尋ねた。『黒鱗丸』は魔力攻撃無効化の刀だし、身につけている燕尾の黒いコートは頑丈な竜の鱗のコートである。無効化とまではいかないものの、ある程度は敵の攻撃を防いでくれる。辰也が前に出て敵を引きつけ、その隙に燈子が攻撃すれば勝機はあるはずだ。
コウモリ男はゆっくりと着地し、辰也の方を向く。金髪をオールバックで固めた、吊り目の男だった。歳は三十~四十代くらいに見えるが、魔族なので本当の年齢はわからない。魔族は数百年くらいを普通に生きてしまうからである。
「フフフ……フハハハハ!」
突如コウモリ男は高笑いを始める。どう仕掛けてくるのかと身構えていた辰也は拍子抜けし、戸惑いの表情を浮かべながらコウモリ男に呼びかける。
「あ、あなたはいったい何者だ!」
「私か? 私はフリッツ・ハルマン。吸血鬼だ。ハハハッ、まさかこんなところで『魔王の心臓』を見つけるとはな! 人間よ、『魔王の心臓』を渡してもらおうか!」
ハルマンは簡潔に自己紹介し、要求を伝える。
「『魔王の心臓』!? あんた、そんなもんどこで……!」
燈子が素っ頓狂な声をあげる。答えている暇はない。
「『魔王の心臓』は渡せない。悪いけど、ここは引いてくれないかな?」
辰也は震える声で言った。ハルマンはそんな辰也を嗤う。
「人間よ、何を勘違いしている? 私は優しいのだ。苦しまぬように殺してやると言っているのだぞ? 受けぬのならば、苦しんで死ね! 私の魔王への道の礎となれ!」
ハルマンの目が充血して真っ赤になり、どういう仕組みか翼が一回り大きくなる。口元の牙も大きくせり出し、より吸血鬼らしくなる。
ハルマンはコウモリのような翼をバサリと広げ、大剣を振りかざし辰也に向けて突っ込んできた。魔力による攻撃が効かないため、接近戦で決着をつける腹積もりなのだろう。
もちろん辰也に剣の心得などない。一合目こそハルマンの剣を弾いて反撃しようと試みたが、役者が違った。辰也は振り下ろされた大剣を受け流しきれず、まともに刀で受けてしまう。
さすがに『黒鱗丸』は頑丈で、折れるようなことはなかったが、ハルマンの剣圧に辰也が耐えられなかった。上から潰される形になって辰也は尻餅をつき、二撃目が繰り出される直前に這って逃げ出す始末である。辰也は立ち上がるが、繰り出される剣戟をへっぴり腰で避け、なんとか刀で払うので精一杯になった。
その様子を見てようやく辰也が味方だと認識したのだろう、翔子が燈子に指示を出し始める。
「七時の方向、ここは呪文を!」
「了解!」
燈子も翔子の指示を聞きつつ、辰也を支援して横から後ろからハルマンに攻撃を仕掛ける。しかしハルマンは背中の翼で燈子を弾き飛ばしたり、剣からの雷や氷で牽制したりと燈子を寄せ付けない。翔子の指示は的確だが、ハルマンにも聞こえているため先回りされているのだ。そして翔子は燈子に指示するのに一杯一杯で、辰也に指示を送る余裕はない。
今さらながら辰也はつい数十分前のドラコの言葉を思い出していた。「燈子と翔子は今の辰也くらいなら瞬殺できる」。そんな燈子と翔子が全力で戦っても及ばない相手に対して、辰也が加わったところで何ができるというのか。思い上がりも甚だしい。とんだピエロだ。
戦闘に参加して、どれくらい経っただろう。慣れない戦闘で辰也は魔力はともかく、体力が心許なくなってきた。先ほどからうまく足がもつれ、うまく動いてくれない。立っていられるのが奇跡的だ。進退窮まった辰也はドラコに呼びかける。
(ドラコ、このままじゃ……! 何か手はない!?)
(……お二人のどちらかと眷族の契約をしてみてはいかがですか?)
(そんなこと言われても……)
二人の同意を得るには、状況がタイトすぎる。この長期戦で翔子も燈子も荒い息を吐き、立っているのがやっとの状態で戦いを続けている。燈子の刀の炎は最初より随分小さくなっているし、翔子の左目もだんだん輝きが無くなってきた。二人とも魔力が尽きかけているのだ。こんな状況で契約を持ちかけるのは、フェアではない。悪魔のささやきである。絶対にしてはだめだ。辰也の頭に絶望が広がる。
「! 辰也さん、危ない!」
「え……あ……」
切れていたのは魔力でも体力でもなく、集中力だった。気付けばハルマンは辰也の懐に潜り込み、今にも剣を振り降ろさんとしていた。辰也は慌てて刀で受けるが、もう遅い。ハルマンの強烈な一撃を『黒鱗丸』越しにまともに受けた辰也はたまらず後ろに弾き飛ばされる。辰也は地面を十メートルほど勢いよく転がり、背にしていた森の木に激突してようやく止まった。肺から空気が一気に吐き出され、背中が痛みで熱を持つ。辰也は呻いた。
「う、あ……」
立ち上がろうとするが足が立たない。起き上がろうとするだけで、全身に痺れるような痛みが走る。『黒鱗丸』は転がっている最中に手を離してしまったらしく、手元になかった。万事休すだ。
「辰也さん、しっかりしてください!」
「チッ……! まずいわね!」
辰也が飛ばされた場所はちょうど翔子の近くだった。翔子が辰也を抱え起こし、辰也と翔子をかばうように燈子がすぐ前に立つ。
「勝負ありだな。おまえの邪魔な肉体を切り刻んで、『魔王の心臓』を取り出すことにしよう」
ハルマンがこちらに剣を向け、呪文を唱え始める。魔族は詠唱なしでも呪文を使えるが、詠唱することでより呪文を強化できる。今の辰也など、一撃だろう。
「……あんたに『魔王の心臓』を渡すわけにはいかない!」
燈子がそう叫んで刀を構え、対抗呪文を唱える。次の瞬間、巨大な炎の竜巻がハルマンの剣から放たれ、燈子の呪文とぶつかって大爆発を引き起こす。炎と煙が辰也の視界を覆った。
「ゲホッ……。なんとか、生きてる……」
周囲の木々が吹き飛んで更地となり、焦げ臭い。辰也は爆弾でも落ちたかのような惨状の中、体を起こす。ダメージを受けすぎたのだろう、左手の外部デバイスにはめた黒いカードは消失していて、コートも刀も消え、辰也はただの人間に戻っていた。折り重なるようにして飛ばされたのか、誰かが辰也に寄り掛かっている。
「燈子、大丈夫……?」
髪型から、辰也は自分の上に乗っているのが燈子だと気付く。燈子の髪は血まみれで、体をぴくぴくと痙攣させていた。辰也は泣きそうになるのを堪えながら燈子を地面に横たえようとするが、燈子の体が妙に軽いことに気付く。
「え……?」
燈子の腰から下が、なかった。比喩などではなく、本当に。
血で真っ赤に染まった燈子の制服の裾からは赤い紐のようなものが垂れ下がり、数メートル向こうのやはり血まみれのスカートに繋がっている。燈子の、下半身だ。燈子の体は腰のところでちぎれ、ずたずたの腸がぶら下がっている状態なのだ。
つい先ほどまで燈子の一部として躍動していた燈子の下半身は、ただの肉と骨の固まりになってすぐ先の地面に転がっている。綺麗だった燈子の足が傷だらけになって、血で汚れたスカートから無造作に投げ出されていた。
「あ、あ、あ……」
思わず辰也は燈子を支えていた手を離した。燈子の上半身だけがどさりと地面に横たわる。燈子の顔はほとんど死人のように青白くて、熱をまともに受けてしまったのか顔の左半分は焼け崩れて赤い組織が露出していた。思わず辰也は燈子の顔から目を逸らし、後退りながらぽろぽろと涙をこぼす。
こんな状況でも燈子はまだ生きているのだろう、焼けた喉から声にならない呻きを漏らしながら、焦点の合わない右目で辰也の方を見てくる。辰也には燈子の唇が「逃げて」と言おうとしているように見えた。
辰也は動くことも、声を出すこともできず、涙を流し続ける。
(僕のせいだ。僕がのこのこ出てきたりしなければ、こんなことには……!)
手合わせした今ならわかる。燈子、翔子と戦っているとき、ハルマンは全く本気ではなかった。たまたま出会った魔術師に、ちょっかいをかけて遊んでいただけだったのだ。ハルマンを本気にさせたのは、『魔王の心臓』を携えた辰也がやって来たからだ。
もちろん、辰也が出ずに一通り遊び終えた後でも、ハルマンが燈子と翔子を無事に解放した保証などどこにもない。でも、冷静ぶってそんなことを考えてみてもただの言い訳としか思えず、頭の奥が焼け付くように痛んだ。
「辰也さん、逃げてください!」
熱風でほどけてしまったのだろうか、背中に垂れ下がった髪を振り乱しながら翔子は刀を持って、ハルマンに立ち向かう。髪を下ろした翔子は、まるで燈子のようだった。その左目には、もう金色の輝きは無い。魔力が限界を向かえているのだ。翔子の言葉を受けても、辰也は呆けたようにその場から動けない。
(辰也殿、落ち着いてください! 今ならまだ助けられます!)
胸の中でドラコが呼びかけてくる。辰也はショックで鈍化していく頭をぼんやりと動かして、思考する。
(そうだ……僕には、『魔王の心臓』……が、ある……)
考えることを拒絶するかのように、辰也は行動を始めた。左手の『魔王の心臓』の外部デバイスから真っ白なカードを取り出して、上半身だけの燈子の胸にカードを置く。辰也は続いて左手をカードの上にかざし、ドラコに教えられた通りの呪文を唱える。
「……我が心臓に宿りし古の竜の覇王よ、この者を我が血肉とし、我が刃とする。この者を受け入れよ。この者こそ我が選ばれし運命の眷族なり」
竜の頭型のデバイスが反応する。竜の目が赤く光り、燈子の胸の上のカードの色が変わっていく。
『Take up,spirit of fire!』
刹那、白かったカードは真っ赤に染まり、辰也の胸に吸収される。白い閃光が周囲を包んだ。
○
契約は完了したはずだ。しかし『魔王の心臓』はうんともすんとも言わない。もう動かなくなった燈子を前に、辰也は途方に暮れる。辰也が焦る中、ハルマンは翔子を一撃で気絶させ、ゆっくりと辰也の方へ歩いてきた。
「今ので死なぬとは、運がよかったな。いや、女が盾になったからか?」
「あ、うう……」
ハルマンは尻餅をついて後ずさりする辰也の首を掴み、むんずと持ち上げる。息ができず、体に力が入らない。
もうすぐ辰也は死ぬ。結局、辰也が生きていたことに何の意味もなかった。『魔王の心臓』があっても、辰也自身が変われないままではどうしようもない。
自分はいつもそうだ。失敗するのではないかと躊躇している間に、いつの間にか手遅れになっている。辰也は『魔王の心臓』をもらったその瞬間から頑張って人間でも魔族でもいいので、眷族としてやっていけるパートナーを探さなければならなかったのだ。辰也とやっていける者は世界のどこにもいないのではないかと恐れて何もしなかった末にこの体たらくで、挙げ句の果てに燈子と翔子を巻き添えにして死んでいく。最悪だ。
死ぬ間際になってさえやりたかったことも何も浮かばない。心残りといえばせいぜいハルマンが翔子を殺さずに見逃してくれるかどうかということだけである。きっと辰也が消えても、誰も気付かないだろう。半年遅れくらいで葬式に出されて、次の日には忘れ去られている。そんな図しか思い浮かばない。
抵抗する気概も気力もない。辰也はもうハルマンの為すに任せる。自分の胸にハルマンの手が伸びてくるのがスローモーションで見えた。終わりだ。辰也は思わず目を閉じた。
「汚い手で……触らないで!」
辰也の体がひとりでに動き、ハルマンの腕を払いのけて後ろに跳び、距離をとった。何が起きたか分からず、辰也は困惑したまま口に出す。
「え……? いったい何が……?」
「辰也、何びびってんのよ! 私を取り込んだのはあんたでしょうが!」
まるでコントのようだった。辰也が呟いた後間を置かずに勝手に口が動き、キンキンと叫んだのである。ようやく辰也は事態を飲み込む。
「燈子……?」
契約は成功した。辰也の体に燈子が憑依し、操っているのである。
「燈子……よかった……生きてるんだね……」
「辰也、ここは私に任せなさい。あんたが出てると私がやりづらいわ」
「わかった」
自分の体を預けるのは怖くもあるが、きっと燈子なら辰也なんかよりずっとうまくやってくれる。仮に燈子がハルマンに敗れ、辰也も一緒に殺されたとしても異存などない。辰也は体から力を抜き、全てを燈子に委ねた。
○
「ほう……人間を眷族にしたか。だが人間の眷族ごときではその力は知れている」
ハルマンが獰猛な笑みを浮かべる。
「なら試してみればいいんじゃない?」
辰也の体を借りた燈子はそうハルマンを挑発した。他人の体だけあってまだ違和感が拭えないが、魔力は本来の燈子の数倍だ。十分ハルマンと渡り合えるレベルにある。
燈子は左手の『魔王の心臓』外部デバイスからカードを出し、側頭部にちょこんと当てる。真っ白のカードは赤く染まった。カードの表に出てきたのは、火を吹く真っ赤な竜の絵柄。燈子は赤のカードを外部デバイスに挿入する。
「来なさい、『黒息火』!」
『Form up!』
赤い閃光とともに地面に全長一メートル半はあろうかという大剣が現れ、辰也の肉体が変化する。
「あら……?」
燈子の憑依していた男の体が、女の体に変わっていた。具体的には、辰也の体から燈子の体に。ご丁寧に服装までスカートにブラウスの制服姿になっている。燈子はニヤリと笑い、地面に突き刺さっている大剣『黒息火』を地面から引き抜いた。炎のように波打っている刀身が銀色にぎらりと輝く。湾曲した刃で肉をえぐって傷を治りにくくさせる剣、フランベルジェだ。
燈子としては慣れ親しんだ自分の体の方がやりやすい。辰也の体の方がわずかに身長が高く、男だけあって筋力もありそうだが体が硬くてたまらない。戦いが終わったら毎日柔軟をさせる必要があるだろう。こんなガチガチの体では剣だってうまく使えないに違いない。
「行くわよ!」
燈子は掛け声とともにフランベルジェを振りかぶり、斬りかかった。『黒息火』を掴むと、燈子の体は途端に力がみなぎってくる。『黒息火』は燈子の魔力を剣の形に具現化したものだ。大きく、重い剣だが自在に操れる。
ハルマンは剣の先から吹雪を放って迎撃した。吹雪の冷気に触れるだけでたちまち凍りついてしまう恐ろしい呪文だが、臆することなく燈子はそのまままっすぐ突撃する。『黒息火』の刀身から炎が湧き上がり、吹雪を払った。火は氷に強いというとても単純な話である。
「何だと!?」
驚きおののくハルマンに、そのまま燈子は『黒息火』を振り降ろす。
「魔力さえあれば、あのくらいの魔術を防ぐのは余裕なのよ!」
ハルマンは持っている剣で『黒息火』を受けた。燈子は構わず何度も『黒息火』を打ち降ろす。西洋剣は斬るというより重量で敵の鎧越しにダメージを与えることを主眼に作られている。両手持ちで一メートル半というサイズの『黒息火』ならなおさらだ。どんどんハルマンの剣がボロボロになっていく。
「馬鹿な! 人間のくせに!」
「たった一つとはいえ『魔王の心臓』を持ってんのよ! 人間でも、これくらいはやれるようになんのよ!」
自分の体では魔力を使ったとしても『黒息火』を振るうことさえできなかっただろう。しかし、ほとんど魔族と化したこの体ならそれができる。つまり、武器でも魔術でももうハルマンに劣る要素はない。
ハルマンの剣が刃こぼれして傷だらけになったのを見て、燈子は『黒息火』の刀身に魔力を込める。『黒息火』は炎に包まれ、銀に輝く刀身が赤熱化していく。ハルマンは後ろに跳んで距離をとろうとするが燈子はすかさず距離を詰め、真っ正面から『黒息火』を振り降ろす。
「クッ……!」
ハルマンは翼を前に回してガードするが、『黒息火』はハルマンの翼を両断し、さらに翼の中で構えていた剣まで叩き折る。ハルマンの翼は『黒息火』の波打つ刃でちぎられるように切られ、さらに『黒息火』が纏う炎で焼かれた。短くなった翼から火の粉を散らしつつ、ハルマンは逃げようとする。
「終わりよ!」
燈子は右手で『黒息火』を持ったまま左手の『魔王の心臓』の外部デバイスにはめられていた火を吐く竜が描かれた赤いカードを取り出す。今度はカードを押し込むのではなくカードリーダーに読み込ませる要領で外部デバイスの側面にある溝にカードを押し当て、すばやく引く。
『Charge up!』
カードの絵柄の竜が動き、首を突き出していっそう激しい炎を吐き出した。カードが消滅し、莫大な魔力が『黒息火』に集まっていき、刀身から数メートルにも及ぶ火柱が上がる。
「死ねぇぇぇぇぇぇ!」
燈子は『黒息火』で横に薙いだ。炎に巻き込まれたハルマンは炎上し、全身を燃え上がらせたままうつぶせに倒れる。
「グッ……! 人間、これで勝ったと思うなよ。必ず貴様を殺し、『魔王の心臓』を手に入れるッ……!」
捨て台詞を吐きながらガクリと首を落とし事切れるハルマンに、燈子は勝ち誇ったように言う。
「何度でも来なさいよ。その度に消し炭にしてやるから」
燈子の前で、ハルマンの体は残存魔力が暴走して爆発する。橙色の光が燈子を照らし、爆炎は空高く上がった。
○
燈子はすぐに体のコントロールを辰也に戻し、辰也の中に姿を消してしまう。女だった体は左手の『魔王の心臓』の外部デバイスが消えると同時に元に戻った。
辰也は立っていられずふらりと膝をついた。当たり前だが消耗した体力は回復しないのだ。しかし寝ている場合ではない。辰也は倒れっぱなしの翔子の元へ向かう。
いつの間にか燈子の体は消え、周囲はつい数分前まで戦いがあったとは思えないくらいに静まりかえっていた。契約成功していれば眷族の体が消えるとは聞いていたが、自分が気付かないうちに消えてしまっていたというのは不気味だ。
辰也は翔子の傍らに行き、翔子の体を揺する。目立った外傷はなく息はあるので、死んではいないはずだ。
「うぅ……辰也さん……?」
翔子が左目を押さえながら起き上がる。辰也が翔子のすぐ側にある眼帯を拾って渡すと、翔子はそれを着けた。辰也は手を貸し、翔子を立ち上がらせる。
「えっと辰也さん……姉さんは……?」
「燈子は、その……」
辰也はどう説明すればいいものかと口籠もる。翔子は辰也の様子から勘違いしたのだろう、今にも泣き出しそうな顔になる。
「やっぱり、姉さんは……」
「生きてるわよ」
何やら小さな影が、辰也の胸から飛び出してきた。その姿を見て、辰也は愕然とする。
「ま、まさか燈子なの?」
「そうに決まってるでしょ。何よ、珍獣でも見つけたような声出して」
辰也の目の前では十歳くらいの小さな女の子が腰に手を当てて頬を膨らませ、辰也を見上げていた。顔はずいぶん幼いものの確かに燈子の面影が残っており、後ろに流したストレートヘアと相まって言われてみれば燈子のような気もしてくる。
「姉さん……本当に姉さんなの?」
「だからそうだって言ってるじゃない! あれ、翔子ってそんなに身長高かったっけ……? まさか私が縮んでる!?」
「よかった、姉さん……」
「ちょ、翔子、痛いって……離してよ……」
首をひねる燈子に、翔子が抱きつく。あまりにぎゅっと抱きついたせいか、燈子は脱出しようともがくが、しばらくは放っておこう。辰也は胸の中に呼びかける。
「ドラコ、どういうこと?」
「通常状態の『魔王の心臓』では外に出たときに小さな体でなければ維持できないのですよ」
ドラコが胸から出てきて言った。翔子の腕から脱出した燈子がドラコを見て言う。
「あれ? ひょっとして『魔王の心臓』の中に居たおじさん?」
「え……おじさん?」
辰也は訊き返した。目の前のドラコは小さな竜で、竜の年齢など辰也にはわからないが、おじさんと呼ばれる年齢ではないということだけは確かである。どう見ても人間で言えば生後二~三ヶ月だ。
「よくわかりましたね。竜のドラコと申します。出身はヨーロッパです。以後、お見知りおきを」
ドラコは小さな手を胸にやり、ちょこんと首を下げてお辞儀した。
「ま、私も魔術師のはしくれだからね! ……って何よこの姿は!? 辰也、どういうこと!?」
騒ぎ出す燈子に辰也は額に手を当てる。今さらながら大変なことになってしまった。
「さっきドラコが言ったとおりだよ。君は僕の眷族になったから、『魔王の心臓』の魔力で体を維持してるんだ。普段の『魔王の心臓』が出せる魔力じゃその姿が限界みたい」
「眷族ぅ!? じゃあ私も魔族ってこと!? 人間に戻れないの!?」
「それは……」
辰也は押し黙る。燈子はすでに死んでいる。魂だけを『魔王の心臓』で維持しているにすぎない。眷族をやめ、人間に戻る方法など辰也は知らなかった。辰也は助けを求めるようにドラコの方を見る。
「体さえあれば元に戻れます」
「でも、姉さんの体は……」
翔子が目を伏せる。燈子の体はハルマンによって息があったのが不思議なくらいの傷を負った上に、どこかに消失してしまっていた。
「じゃあ私、ずっとこのままなんだ……」
唇を噛んで燈子はうつむく。辰也はかける言葉が見つからず、視線を宙にさまよわせた。辰也、燈子、翔子は月明かりの下で途方に暮れ、お互いの顔を見つめ合うばかりである。冷たい夜風に吹かれながら、場はしんと静まりかえる。
「あ~もう、今さら悩んだって仕方ないわ! とにかく、あの吸血鬼をぶっ飛ばせばいいってことよ!」
雰囲気に耐えられなくなったのだろう、突如燈子はそう叫んだ。思わず辰也は言った。
「いや、吸血鬼を倒しても人間には戻れないよ……?」
「んなことわかってるわよ! でも、あの吸血鬼があんたの『魔王の心臓』を狙ってくることは確実でしょう!? 私たち魔術師からしたら、魔王の復活を阻止することが第一よ。あんたの『魔王の心臓』を守りきれば、魔王の復活は阻止できるわ」
燈子はまくしたてる。全ての魔族を統べる存在とされる魔王は、この世界に三つあるという『魔王の心臓』を全て揃えることで復活する。その魔力は天候さえ操れるほどの大きさに達すると言われ、復活した魔王には魔術師が束になっても太刀打ちできない。魔王の復活を阻止することは、魔術師にとって最も重要な任務だった。
「姉さん、『協会』には報告しますか……?」
「しないわよ。この馬鹿が殺されちゃうでしょ。私だって二回死ぬのは嫌だし」
魔術師は寺社や血族といった単位で地域に土着しており、あまり大規模な組織行動はしないものだが、魔術師全体を統括する団体として『協会』がある。『協会』には少数ながら直属の魔術師がいて、『魔王の心臓』を辰也が保持していると報告すればすぐにでも『魔王の心臓』の回収に現れるだろう。辰也の扱いはよくて幽閉、悪ければ抹殺である。辰也とすればごめんこうむりたい話だった。
「というわけでよろしくね、辰也。しばらくはあんたのところで厄介になるわ」
あどけない顔をほころばせ、燈子は辰也にウインクした。