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第1話 燈子1

 凱胴辰也の朝は早い。べつに深刻な理由があるわけではなく、一人暮らしなので朝食の準備、洗濯その他雑務を一通り自分でやらなければならないため、早めに起きているというだけである。必然的に遅刻をしないようになるし、健康にもいい。

 しかし高校生の身分で二階建ての一軒家に一人暮らしというのも、深刻といえば深刻だろう。辰也には両親がいなかった。

 だが辰也はそれを深刻だと思ったことはあまりない。一年前に両親が交通事故で他界したとの報を受けたときは、さすがにこれからどうなることかと不安に駆られたが、逆に困ったのはそのときくらいだった。

 両親の遺産が親戚たちの間で分割された後、辰也は自称冒険家とかいう叔父に引き取られた。自称冒険家だけあって年一回帰ってくるか帰ってこないかの叔父は、煩雑な手続きをさっさと済ませて辰也が今まで通り学校に通えるように計らい、再びどこかへ行ってしまった。両親の遺産が十分だったため、辰也も当面生活に支障はない。こうして辰也は気楽に一人暮らしできる環境を手に入れたというわけだ。

 辰也は眠い目を擦りつつベッドから起き上がり、カーテンを開ける。春の強すぎない日差しが部屋を照らし、心なしか体が温まっている気さえする。今日も快晴、洗濯物は外に干してもいいだろう。

 ほどよく眠気から覚めた辰也は、まず同居人に挨拶する。同居人といっても、この家に一緒に住んでいるという意味ではない。辰也の体を共有している同居人だ。

 辰也は自分の胸に向かって声を掛ける。

「おはよう、ドラコ」

「おはようございます、辰也殿」

 落ち着いた声とともに辰也の胸から幽霊のようにスッと出てきたのは、ちょっとしたぬいぐるみサイズの小さな黒い竜だった。竜は小さな体に相応のかわいらしい翼をはためかせ、部屋を出てキッチンに降りる辰也についてくる。

「う~ん、いつ見ても君の姿には慣れないなぁ。本当の本当に僕の中に住んでるの?」

「さようでございます。もっとも、正式な契約はしておりませんので辰也殿の体を使うことはできませんが……。早く眷族の契約を結べる者を探すことですな。それまでは不肖私めが辰也殿のお世話をさせていただきます」

「ドラコはどうしても僕と契約できないの?」

 お世話などされた覚えはなく、せいぜい『魔王の心臓』の使い方を教えてくれた程度だがこの子竜は話し相手にはちょうどいい。進んで別れようとは思わなかった。

「契約には辰也殿に私の血肉を捧げなければなりませんので無理です。今の私は実体のない幽霊のようなものですので」

 辰也がキッチンに立ち、手早く朝食を作って食べる。

「辰也殿は今日からまた学校でしたね」

「うん、新学期。悪いけどドラコは僕の中でじっとしててね」

 ドラコはあまり辰也から離れられない。あまり離れすぎて『魔王の心臓』から供給される魔力が途絶えると、ドラコは霊体を維持できなくなるのだ。

「御意でございます。ゆめゆめ辰也殿が『魔王の心臓』の所有者だと露見することがなきように」

「わかってる。この心臓は、狙われているんでしょう?」

 『魔王の心臓』は、ドラコの話によるととても貴重なマジックアイテムらしい。『魔王の心臓』を受け取ってから約三ヶ月、襲撃されることはなかったが、用心に越したことはない。

 食器を片付けて制服に着替え、ゴミ袋を手に辰也は家を出る。


 辰也の通っている県立巽高校は巽市のほぼ中央、神泉山の麓にあった。辰也は校舎へと続く緩やかな坂道を一人、俯いたまま登っていく。始業十分前には教室に着くペースだ。通学路になっているこの道をそれなりの人数の生徒たちが騒ぎながら歩いている。周囲には見知った顔もあったが辰也が話しかけることも、話しかけられることもない。顔見知りだからといって友達であるとは限らないのだ。友達のほとんどいない辰也は特にそうである。

 校内に入るとクラス分けの掲示があった。掲示板の前の人混みをかき分け、辰也は自分のクラスを確認する。二年三組、凱胴辰也。クラスメイトの名を見て少しだけほっとする。辰也は靴箱で靴を履き替え、教室に向かった。


 教室にはすでに大多数の生徒が入っていて、新しいクラスメイト同士でさっそく親睦を深め合っていた。入り口付近で固まって話をする一団を伏し目がちに避けつつ教卓の座席表を覗き込み、辰也は自分の席を見つけ出す。

「やぁ辰也、また同じクラスだね」

 自分の席に着こうとすると、前の席の男子生徒が声を掛けてくる。数少ない辰也の話し相手、小野寺優だった。

「そうだね小野寺君。またよろしく頼むよ」

 辰也が挨拶を返すと、優は「ああ、一年間よろしくね」と中性的な顔に柔和な笑みを浮かべた。相変わらず女の子と見間違えてもおかしくない綺麗な顔をしている。そのため本人の温和な性格と相まって女子にも人気があった。「薄い」と一言で表されてしまう辰也とは大違いだ。

「辰也は春休みは何か変わったことはあったかい?」

「いや、特にはないよ。小野寺君はどうだった?」

 春休みもべつに普段と変わることなく、淡々と生活していただけだ。これまでと違うことといえば、話し相手にドラコがいたことくらいである。

「僕? 僕は京都で寺社巡りをしたくらいだよ」

「へぇ、そういえば行ってみたいって言ってたもんね」

 優は昨年秋にこの学校に転校するまで外国で暮らしていて、日本の寺社仏閣に興味があるのだった。冬は確か東京の明治神宮まで初詣に行ったと言っていた。

「うん。やっぱり京都は風情があっていいね。この辺りにもいい神社かお寺があればなぁ。毎日でも通うのに」

「この辺だと竜神泉神社くらいだね。神泉さんのところの神社」

 竜神泉神社は学校に延びる坂の途中にある。そこの神社の双子の娘がこの学校には通っていて、二人とも美人なこともあり名物になっていた。

「そこはやめておくよ。相性が悪いからね」

「?」

 優の言葉に辰也は首を傾げるが、深く追求することはなかった。隣の席に女の子が座り、声を掛けてきたからである。

「おはようございます、辰也さん」

「あ、神泉さん。おはよう」

 ちょうど話をしていた竜神泉神社の双子の妹の方、神泉翔子だった。この学校で双子の神泉姉妹を見間違える者はいない。顔自体はそっくりだが、翔子は左目を黒い眼帯で覆っているからである。

 最初はこの真っ黒な眼帯を怖がっていた辰也だが、禍々しい眼帯とは対照的に翔子自身はちょと大人しすぎるくらいの、普通の女の子だ。事故で失った左目を姉の選んだ眼帯で覆っているというだけで、痛いオタクというわけでもない。

「また同じクラスで、隣の席ですね」

 そう言って翔子は少し幼い、かわいらしい顔をほころばせて柔らかく笑う。白いリボンで纏められた翔子の長い髪がふわりと揺れた。心なしか、陶磁のような白い肌に少し赤みが差していた。

 辰也も「一年の最初のときと同じだね」と言って笑う。翔子は辰也がまともに話すほとんど唯一の女子である。去年の最初も同じクラスで隣の席だった縁で、話すようになったのだった。大人しい性格で他人とは滅多に喋らないような人なので、辰也としても話しやすい。優が転校してくるまではほとんど翔子としか喋らなかったくらいだ。

 しかし、妹が物静かで大人しいからといって姉までそうだとは限らない。辰也と翔子が笑い合っているところに、彼女は割って入った。

「翔子、こいつがあんたの言ってた凱胴?」

 腰に手を当てて、翔子にそっくりな顔をした少女が、辰也の前に毅然と立っていた。顔の作り自体は翔子と同じだが眼帯はつけておらず、両の目はまっすぐ辰也を見据えている。体格や体型も翔子と変わらず女子としてはやや大きいかなという程度。長い黒髪は纏めずに腰まですらりと降ろしていて、癖っけのない艶やかなストレートだった。

 窓から吹き込んだ風で黒髪がはらりと揺れる様が、眩しいくらいに綺麗だ。同時に柑橘類にも似た、女の子の香りが辰也の鼻をくすぐる。翔子とそっくりなのに、違うタイプの美しさを備えている。

 少女は不敵な笑みを浮かべ、辰也を値踏みするように眺める。

「辰也さん、私の姉さんです」

 翔子の紹介を受け、少女は名前を名乗る。

「はじめましてになるわね。私は神泉燈子。翔子の姉よ」

「え、えっと、初めまして、凱胴辰也です。よろしく……えっと、神泉さん」

 人見知りの激しい辰也はどもりながらも応答した。燈子は目を細めて言った。

「神泉さんって、それじゃ私なのか翔子なのかわかんないじゃない!」

 辰也は顔を引きつらせたまま言い直す。

「神泉さん……のお姉さん」

「あんたに姉さんって呼ばれる筋合いはない!」

 わりと楽しそうに、燈子は叫んだ。言ってみたい台詞だったらしい。

「そ、そんなこと言われても、じゃあ何て呼べば……」

「下の名前で呼びなさい。私は燈子、翔子は翔子って。ほら、呼んでみなさいよ」

「と、燈子さん」

 言われるがままに辰也は燈子の名を呼んだ。燈子はこめかみに皺を寄せて、

「違~う! 燈子! 『さん』はいらない! 『燈子さん』なんて呼ばれたらむず痒いでしょうが! 翔子だって『さん』はいらないでしょ!?」

 いきなり話をふられた翔子は、「え、ええ……」と小さく頷き、少し顔を右に傾けて目を逸らした。翔子の左目を覆う眼帯が邪魔して、翔子の表情は見えない。辰也はため息をついて、再度名を呼ぶ。

「燈子」

「よろしい。じゃあこっちは?」

 燈子が翔子の方を指す。辰也は少し照れながら、呼んだ。

「翔子」

 ほとんど面識がなかった燈子には平気だったのに、翔子相手だとなぜか気恥ずかしい。それは向こうも同じのようで、翔子は照れくさそうに頬を赤らめ、顔を伏せた。辰也も微妙な表情を浮かべてうつむく。なぜか燈子は翔子に向かって親指をぐっと立てて突き出していた。意味が分からない。

 ふと、燈子は何かに気付いたように辰也の顔を覗き込んでくる。

「あんた……」

「な、何……?」

 燈子はじっと辰也の目を見てくる。辰也は当惑して目を逸らすが、燈子は辰也の頭をがしっと掴んで正面を向かせ、離さない。

 やがて燈子は、辰也の頭を掴んだまま言った。

「あんた、何者?」

「えっ……?」

 辰也は言葉を失う。心当たりは一つしかない。もしかして、『魔王の心臓』を辰也が持っていることがばれたのだろうか。辰也は心の中でドラコに呼びかける。

(ド、ドラコ! どういうことなの? 力を使わなければばれないんじゃなかったの!?)

 辰也の中にいるドラコは、のんびりした口調で答えた。

(微弱ですが『魔王の心臓』自体は魔力を発していますからなぁ……。感づいたのかもしれません。しらを切り通すしかないでしょう)

「どうしたの? 黙り込んじゃって」

 ニヤニヤと笑いながら、燈子は辰也の瞳を覗き込んでくる。

「翔子、あんたはこいつから何も感じなかったの?」

「去年も同じクラスだったけど、辰也さんは本当に何もなかったよ……?」

 翔子も姉の突然の奇行に戸惑っているようだった。辰也がどう言えばいいのだろうと逡巡しているうちに、燈子は辰也の頭から手を離す。

「まぁいいわ。放課後、付き合ってもらうわよ。逃がさないからね」

 辰也を見下ろしてそんなことを言う燈子に、辰也はぎこちなくうなずいた。逃げたら余計疑われるだけだ。腹をくくって、ごまかしきるしかないだろう。


 学年始めということで、始業式のあと軽くホームルームを行い、すぐに解散の流れとなった。辰也も荷物をまとめて立ち上がるが、後ろから手を掴まれる。振り向くまでもない。燈子である。

「逃がさないって言ったでしょ? 翔子、ついてきなさい」

「辰也さん、すぐ済みますから」

 苦笑いして翔子は言った。何をされるのかと辰也は不安に駆られるが、従う他ない。燈子は辰也の手を引いて教室を出て、ぐんぐんと階段を昇り始める。

 着いた先は屋上の扉の前だった。屋上自体は鍵が掛かっていて入れないが、扉の前の踊り場でも人目にはつきづらい。

「さぁ、白状なさい。あんた、魔に関わっているでしょう?」

「魔? いったい、何のこと……?」

 生命の根源的な力である魔力を使うことができるのが、魔の者だ。魔力を十全に操れる種族を魔族といい、表だって一般人が関わることこそ少ないものの、彼らは世界の影で確実に生き続けていた。辰也に憑いているドラコも竜神族と呼ばれる魔族の一種だ。彼らは時として人間に害をなし、魔族の脅威から人間を守るのが例外的に魔力を持った人間──魔術師である。魔族と魔術師は古来より自らの存亡を賭けて、歴史の裏側で果てることのない争いを続けていた。

 辰也の持つ『魔王の心臓』の魔力を察知したからには、燈子は魔術師なのだろう。燈子に連れてこられている翔子も、そうである可能性が非常に高い。まさか、こんな近くに魔術師がいるとは思っても見なかった。まさに灯台もと暗しである。

「とぼけるんじゃないわよ。悪いようにはしないから、さっさと吐きなさい」

 魔術師であれば人間を守るのが仕事なので、教えてしまってもいいような気もするが、事はそう単純ではない。『魔王の心臓』は魔族の心臓を元に作られた生体デバイスであり、そんな代物と辰也は完全に融合している。つまり辰也は今、限りなく魔族に近い存在なのである。魔族と判定されて、魔術師の討伐を受けてもおかしくない存在なのだ。『魔王の心臓』をとられれば辰也は死んでしまうため、今さら普通の人間に戻ることもできない。

「と、燈子……何か勘違いしてるんじゃないかな……?」

 目を逸らし、堅い笑みを浮かべながら辰也は言った。燈子は目を三角にする。

「ふうん、そういう態度をとるわけね……? あんたが白状しないなら私にも考えがあるわ」

 燈子が懐から小刀を取り出し、鞘をはずす。白刃が光を反射してきらめいた。

「じょ、冗談だよね、神泉さん……?」

 顔を引きつらせ、辰也は尋ねる。パニックに陥るあまり、「燈子」と呼ぶべきところを名字で呼んでしまっていた。

「ね、姉さん……」

 さすがに翔子もまずいと思ったのか、姉を諫めようとする。しかし燈子はどこ吹く風で、辰也の喉元に小刀を突きつける。あまりの恐怖に、辰也はその場から動かずに身を震わせることしかできない。

「翔子、あんたの目からは何も見えない?」

 燈子に訊かれ、翔子は困った様子ながらはっきりと答えた。

「何も見えないよ、姉さん」

「そう……。封印状態では捉えきれないのかしら? 『竜の瞳』の封印を解きなさい、翔子」

 『竜の瞳』。耳慣れない単語を聞き、辰也は恐怖に塗りつぶされそうな脳の片隅で必死にドラコに呼びかける。

(ドラコ、『竜の瞳』って何……!?)

(一子相伝の邪眼の一種ですな……。辰也殿がこのまま大人しくしていれば問題ありませんよ)

 ドラコはやはり落ち着いた様子で答えた。大人しく、ということは能力を使うなということなのだろうか。辰也はカチカチとかみ合わない奥歯を鳴らしながら、ひたすらこの悪夢のような時間が過ぎ去ってしまうことを願う。

「翔子、聞こえなかったの? 早くなさい」

「え、でも……?」

 翔子は渋るが、燈子は押し切る。

「あんただって、友達がずっと疑われたままなのは嫌でしょう? 私もあんたの友達を疑いたくはないわ。だからあんたは、『竜の瞳』を使って。この一回切りで白黒つけましょう」

「……わかったわ」

 翔子はしばらく右目を宙にさまよわせるが、観念したように左目を覆う眼帯に手を掛けた。確か翔子は小さい頃に事故で左目を失ったため、義眼を入れて眼帯で隠しているという話だった。義眼を入れても眼帯がないと自然に見えないと翔子が話していたのを、辰也は覚えている。いったい眼帯をはずしてどうしようというのか。

 翔子は後頭部に手を回して眼帯を固定しているフックをはずす。顔の左上部のほとんどを覆っている眼帯は翔子の手の内に収まり、翔子の絹のように白い肌が露出した。まだ目は閉じたままだが、ちゃんと端正な顔立ちだ。全く不自然ということはない。辰也ははずされた眼帯の裏にびっちりと梵字が書かれているのに気付き、ハッと息を飲む。

 翔子がゆっくりと左目を開ける。眼球が、金色に鈍く光っていた。どう見ても義眼ではないが、明らかに人間のそれとは違う。辰也は怯えるが、喉元に小刀を突きつけられた状態では動くこともできない。

 翔子は金色の左目を辰也に向ける。はらわたに氷を突っ込まれるような、自分の深淵を覗き込まれる感覚を覚え、辰也は血の気を引かせた。確実に、辰也の奥の奥までを見通している。そのまま翔子は辰也を見つめ続ける。

「どう? 見えた?」

 小刀を突きつけたままわずかに微笑み、燈子は翔子に尋ねる。翔子は首を振った。

「何も見えないわ、姉さん」

「ふうん……? 私の見込み違いなのかしらね? わずかに魔力を感じるんだけど。もう少しだけ、試させて」

 翔子の言葉を受け、燈子は何やら早口で口走った。辰也は全く聞き取れなかったが呪文の一種であることは理解した。なぜなら、小刀の刀身が一瞬で炎に包まれたからである。

「魔族が対魔の炎に焼かれたらどうなるか、試してみる……?」

 熱に煽られ、階段を背に立っていた辰也は思わず後退って階段から転げ落ちそうになる。刀身が、熱でオレンジ色になっていた。こんなものに触れれば、人間だろうが魔族だろうがひとたまりもない。ここで燈子が「焼かれなければ人間」などと火を当てれば完全に中世の魔女裁判であるが、さすがに燈子もそこまではしなかった。その代わり、高圧的な声で翔子に尋ねる。

「ここまでやればどんな冷静なやつでも体が反応するでしょ。翔子、見えた?」

 辰也は緊張の面持ちで翔子を見る。翔子はやはり、静かに首を振った。

「姉さん、やっぱり何も見えない」

 燈子は真っ青になって震える辰也の喉元から刀を引き、息をつく。

「……どうやら私の勘違いだったみたいね。悪かったわね、辰……」

 そこまで言って燈子は驚いて目を見開く。目の前の辰也が足を踏み外し、今にも階段を転げ落ちようとしていたのだ。辰也は極度の緊張から解放されて腰が抜けてしまったのである。

 燈子は辰也に向かって手を伸ばしてくるが、辰也は燈子の手を掴めず空ぶってしまう。代わりに掴んだのは、燈子のスカートの裾だった。

「きゃあっ!」

 おかしなところを掴まれた燈子はバランスを崩し、重力に引かれる。辰也はスカートを離し、燈子は手すりに掴まろうとしたがもう遅い。燈子は足から、辰也は頭から、凄まじい勢いで階段を滑り落ちていく。辰也は後頭部を階段で繰り返し打ちながら、燈子を受け止めようと試みる。燈子の背中に足を回して燈子が頭を打たないようにし、燈子の腰を抱えるようにして辰也の胸に乗せる。なんとかなったと思った次の刹那、ものすごい音を立てて二人は床に叩きつけられた。

「痛っ……」

 『魔王の心臓』のおかげで多少体も頑丈になっているが、痛みが無くなるわけではない。全身の痛みに呻きながら、辰也は体に覆い被さる重みを感じていた。なんとか燈子を受け止めることには成功したらしい。目の前が真っ暗で、何も見えない。どうやら燈子の服か何かが辰也の顔を覆っているようだ。リノリウムの床の冷たい感触を背中に感じる。

 辰也は視界を遮っている黒い布切れをつまみあげる。ひらひらしたそれが何であるか気付き、辰也は目を剥く。それは本来下半身にあるべきもので、階段から落ちるときに辰也が掴んでしまったものだった。すなわち、スカートである。

 反射的に辰也は自分の上にいる燈子に目をやる。目に飛び込んできたのは、白だった。

 燈子は下半身を辰也の頭に向けて、辰也の上で仰向けに倒れていた。ここまではいい。問題は燈子が大股開きで股間を見せつけるような姿勢になっていて、しかもはずれたスカートに引きずられたのか、下着がずり下がっていたということである。

 幸い、燈子の大事なところはちょうどずり下がった白い下着の影になっていて見えなかった。しかし、燈子の下着が脱げてしまっているという事実には変わりない。辰也は目を白黒させて固まる。辰也の視界を遮る下着の上方から、何やら黒いものが見えるような……。もしかしてこれは……。

「ん……くっ……あれ……?」

 と、ようやく燈子が体を起こす。燈子は目をしぱしぱさせながら下を見て、辰也とばっちり目が合ってしまう。しばらく二人は見つめ合った。辰也は「ハハハ……」と作り笑いを浮かべる。

「ギャー!」

 燈子の拳が辰也の顔面に炸裂し、辰也は後頭部を床にしたたかに打ちつける。たまらず辰也は意識を失う。薄れゆく意識の中で、正直階段から落ちたのより痛いと辰也は思った。


 辰也が意識を取り戻したのは、保健室のベッドの上でだった。窓からは夕日が差し込んでいる。かなり長い間寝込んでいたらしい。頭の芯がずきずきと痛むのを押さえつつ、辰也はベッドの上で半身を起こした。傍らに座っていたのは、翔子だった。

「気がつきましたか……?」

「うん……」

 返事をしながら何があったかを思い出し、辰也は気まずい顔をした。翔子は辰也が考えていることを察したのか、辰也に気にしないように言う。

「辰也さん、姉さんもあれは事故だと言っていました。全部忘れてくださいと……」

「そう言ってくれるのは嬉しいけど、悪いのは僕だから……」

 辰也は苦笑いして、そう返した。辰也が腰を抜かしたりしなければ、腰を抜かしても燈子のスカートを掴んだりしなければああいうことにはなっていない。断じて故意ではなかったが、燈子には謝らなければなるまい。

「えっと辰也さん、今日のことは……」

 翔子が申し訳なさそうに切り出す。燈子が魔術師であることと、翔子の左目に何か特別なものが宿っていること。常識的に考えて、他言無用だろう。

「わかってる。誰にも言わないよ」

 翔子は意外そうな顔をする。

「訊かないんですか?」

「うん。よくわからないけど、僕が関わるべきじゃないよね?」

「そうしてくれれば助かりますけど……」

 翔子は辰也の瞳を見つめる。辰也が何を考えているのか計りかねている様子だった。

「……帰ろうか、神泉さん」

「あの、辰也さん、名前……」

 ためらいがちに翔子が指摘する。今日から名前で呼ぶように言われたのだった。

「ごめん、しょ、翔子……」

「いえ、気にしないでください……」

 やっぱり慣れないうちは恥ずかしい。お互い赤くなりながら、辰也と翔子は帰り支度をした。


 春になったとはいえ、日が暮れるのは早い。翔子を送った後の家路で、辰也はドラコに問い掛けた。

「……これでよかったんだよね?」

「ええ、これで今後二人に疑われることはないでしょう」

 ドラコがぱたぱたと翼をはばたかせながら辰也の胸から出てきて、こともなげに答える。

「……」

 黙り込んだ辰也を見て、ドラコは尋ねた。

「辰也殿は燈子様と翔子様と一緒に、魔術師の世界に入りたかったのですか?」

「ん、まぁ……そういう気持ちはあったかな。でも……二人が僕のことを受け入れてくれるとは限らないでしょう?」

「それはその通りでございます」

 辰也は人間と魔族の境界線に位置する存在だ。最悪の場合、辰也は燈子と翔子に殺されてしまう可能性さえあった。

「僕が死ぬと、ドラコも死ぬんだよね?」

「魔力が尽きる前に他の『魔王の心臓』の所有者のところに移れなければ、私の存在は消えることになりますな」

 『魔王の心臓』を持っているのは辰也だけではない。辰也の他にも数人の『魔王の心臓』の所有者がいて、やはり眷族を持っている。『魔王の心臓』には互換性があるため他の者の眷族でも、眷族としての力を行使することはできないが、魔力を供給して生かすだけなら可能なのである。そして、全ての『魔王の心臓』を集めた者は『魔王』と呼ばれるだけの力を手にできるといわれていた。

「ならやっぱり、危険は冒せないよ」

 辰也は目の前の小石を蹴飛ばす。『魔王の心臓』を受け取った後、辰也は魔術師らしき人物に接触を受けたこともあったし、魔族がこの近辺をうろつくのを見たこともある。しかし辰也はその度にごまかしたり、逃げ出したりして決して関わろうとしなかった。「人生を変えてみたくないかい?」。辰也はそう言われて『魔王の心臓』を受け取ったはずなのに、辰也の人生には何の変化もなかった。

「辰也殿は一つ勘違いをしておられる」

 ドラコはポツリと言った。

「……何?」

 辰也は続きを促す。

「私はすでに死んでおります。最初から肉体など無く、魂だけの存在です」

「だからって二回死にたくはないでしょ? 僕だって死ぬのは嫌だよ……」

 わかっている。いくら『魔王の心臓』を持っていても、それだけで何かあるはずがない。辰也自身が何もしないことには何も変わらないし、ましてやドラコに何もしない理由を求めるのは論外だ。

「……私は何であれ、辰也殿の決断を尊重します」

「ありがとう、ドラコ……」

 春の夜は寒い。白い息を吐きながら、辰也とドラコは帰り道を急いだ。

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