忍者と少女
幼いころ、手裏剣を拾った。子供の手にはずっしりと重く、にぶく光る先端に恐ろしさを感じた。
それはすぐ前を歩く人が落としたものだった。声をかけようと顔をあげると、スーツ姿の男性が振りかえってわたしを見ていた。あの人はいくつくらいだったのだろう。子供の目では年上の人間の年齢はよくわからなかった。
「はい」
手渡そうとするわたしの声はふるえていたんじゃないかと思う。
「これはかたじけない」
しゃがみこんだ彼はうやうやしく手裏剣を受けとり、手のひらで握りこんだ。怪我をするんじゃないかと思ったけど、次に手をひらくと手裏剣は消えていた。驚いて彼の顔を見た。彼は真剣な表情で語りかけてきた。
「拙者が忍者であることは黙っていてくだされ。まだ修行中の身ゆえ、知られるわけにはいかんのでござる。それに大事な道具を落としたことがばれたら師匠に殺されるでござるよ」
忍者って本当にいたんだ! 物語の中でしか知らない存在にはじめて会い、胸がときめいた。
「お礼といってはなんでござるが、困ったときは拙者を呼んでくだされ。すぐに駆けつけるでござる。呼びかたは――」
もちろんいまなら冗談だとわかる。わたしはかつがれたんだ。あの人は趣味で持ちあるいていて、たまたま落としてしまった。子供に拾われたからユーモアのセンスを発揮したというわけ。いっときでも夢を見れたんだから、わたしとしても文句を言うつもりもない。ただの笑い話。
でも、その冗談にもうちょっと付きあってもいいかなと思うくらいに、いまのわたしは追いつめられていた。だれの手でもいいから借りたかった。
これがうまくいかなかったら――いくはずもないのだが――どうなってしまうのだろう。
わたしは彼から聞いた名前を紙に書き、まわりに星のかたちをえがいた。小さくたたみ、庭を掘り、土にうめた。そして呪文を唱える。
……ほら、なにも起こらない。
目に涙がにじんだ。信じてないはずだったのに。期待してないはずだったのに。
帰りかけたわたしのうしろから、ぼこっと音がした。ごろごろと石のころがる音がした。どさどさと土のくずれる音がした。あわててふりむいた。土まみれの大きな影があった。
「およびとあらば、即参上――でござる」
黒い忍者装束の男が立っていた。わたしは言葉を失った。目から涙がぼろぼろこぼれおちた。
「便秘、でござるか?」
わたしはうんうんとうなずいた。
「いわゆる大便の出ない状態が長くつづくという――」
「そうそう、それそれ!」
「そんなことで拙者を呼びだしたでござるか?」
「女の子にとっては一大事なのよ!」
恥ずかしさで顔が熱くなった。
「体内のツボを知ってるゆえ、その程度すぐに解消できるでござるが……」
「すっごーい、さすが忍者!」
「そんなことで感心されるとは、拙者の修行の日々はなんだったのでござろう……もっとすごいこともできるのでござるよ? にっくき相手を斬り殺したり、呪い殺したり、毒殺したり。そういうのはいかがでござる?」
「いいよ、そんなの。だいたい犯罪でしょ! そういうのからは足を洗ったほうがいいんじゃないかな」
「忍者の存在意義が……」
彼はうなだれていた。
「ほらほら、わたしちょっと本気で悩んでるの。だから早く――」
「仕方あるまい! 受けた任務は必ずこなす! それが忍者の仕事でござるからな!」
どうやらやる気をだしてくれたようだ。彼は手で印を切り、わたしの体を指で突いた。
「うわっ、心の準備が」
「早くといったのは貴殿にござるよー!」
彼は叫びながら体のいろんな場所を突きつづけた。指が半分以上めりこんでいるのに痛みは感じない。
「死ねやあっ!」
最後に深く突きいれ動きをとめた。そしてゆっくりと引きぬく。どうやら終わったようだ。というか死ぬのか、わたし?
最初に感じたのはちょっとした違和感だった。むずむずと――なにか来る。来る。来る。来たっ! あっという間にもよおしてきた。もちろん便意だ。我慢できない。トイレに駆けこむ余裕もない。強力すぎだっての。忍者パワーおそるべし!
漏らすわけにはいかない。わたしは決断した。泣きたいけど、決断した。泣いてる時間が命とり。
「あっち向いてて!」
わたしはいそいで下着をおろし、しゃがみこんだ。幸い、庭は塀で囲まれている。外からは見えない。
「紙はあるでござるか?」
のんびりとした彼の声がうしろで聞こえた。
「取ってきて!」
「ふう、いい仕事をしたでござる」
彼は汗をぬぐい、満足そうにつぶやいた。
「どうすんのよ、これ!」
自分が出したとはとても信じられないほどの便が、庭に山盛りになっていた。
「拙者にはどうすることも……では、さらば!」
ゆらゆらと空気がゆらめいたかと思うと彼の姿は消えていた。残ったのは大量の便と臭気。
おいおい、ちょっと待てよ。
わたしは彼の名前を紙に書き、もう一度儀式をくりかえした。いそいで逃げだしたわたしのうしろから、もこもことなにかがふくれる音がした。
もちろん紙をうめたのは土ではなく――
「ぎゃー! くそったれー!」
男の叫びが高らかに響いた。
そびえたつクソのようだ。