愛じゃなくて
みんなが言う、イケナイコトは。こんなにもあたしを満たしていく。
愛じゃなくて
彼の何が好きかと問われれば、一秒の間すら置くことなく、顔だよと答えるだろう。考え方とか、性格だとか。そんなものは必要ない。
机ひとつを挟んだ向こう側で、伏せられた睫毛の動きにさえも心が躍る。耳に少しだけかかったあの黒髪や、張りのある頬はどんな感触なんだろうか。そんなことばかり、考えている。
「南、手が動いてないぞ」
薄めの唇に見とれていると、それが動いてあたしの名を呼んだ。ハッと我に返る。その隙間から綺麗な歯を見せて、城川さんは、何見てんだよ、と茶化すように笑った。
ダメだ、やっぱり好き。その輪郭も、眉の太さや瞳の色までも。全てにおいて、あたしの理想を写しおこしたような顔。視界に入るだけで、胸が騒ぎ出す。
「別に見てなんかないです。城川さんこそ、手、止まってますよ?」
平然を装って、むしろ冷たさすら含ませながら視線を落として言った。はいはい、とあしらうように苦笑いしてから、彼はパソコンに向き直り、また長い睫毛を伏せていた。
器用にキーボードを叩く長い指が、再びあたしの心をかき回す。左薬指のリングが、オフィスの電灯に照らされて、心なしか眩しい。あれと対になったリングを持つ女性の前で、城川さんはどんな笑顔を見せるのだろう。
疲れた身体に溜め息を漏らしながら、玄関の扉に手をかけた。見慣れた大きなスニーカーがすぐさま目に映る。リビングの方から微かに聞こえるテレビの音と、香ばしい食欲を誘う香り。そうか、今日は金曜日だ。
「ただいま、来てたんだね」
頬が緩む感覚を自覚しながら、纏っていたコートを脱いで、キッチンに立つ広い背中に話しかける。テーブルにきちんと並べられた二人分の食器に、愛しさを隠せない。
「おかえり。菜々子、腹減ってる? ちなみに俺はぺこぺこだけど」
満面の笑みで振り返った潤に、同じように笑顔を向けて、あたしも、と返す。八重歯を見せながらさらに笑う潤の表情は、いつもながらあたしの疲れを癒してくれる。この二年間で、潤はすっかりあたしの安定剤のような存在になっていた。
潤が訪れる週末は、他には代えがたい安心をあたしにもたらしてくれる。飾らなくて良い、気を遣うことも無い。心地よくて、だけど少し物足りない。いつからか、週末を指折り数えて待つ事はしなくなっていた。
「そうだ、新しい上司どう? 嫌なやつじゃない?」
豪快な音をたてながら、味噌汁をすする潤が上目でこちらを見ている。
「ああ、城川さん? 別に、嫌な人じゃないよ。そんなに知らないけど。まだ一ヶ月しか経ってないしね」
潤に隠し事をするのは容易い。潤はあたしのことを、かいかぶっているからだ。
もちろん、やましいことなどひとつも無い。城川さんのそれと同じように、あたしの薬指にも潤と揃いのリングが輝いているし、このリングや潤を裏切ることは決してしていない。
「そっか。何か嫌な事あれば言えよ。殴りこみに行ってやるから」
自慢げに拳をつくって言った潤。もしも二年前なら、付き合い始めの頃なら、あたしは満足そうに笑ってお礼を言ったと思う。なのに今は、こんな無邪気な優しさが疎ましかったりする。
「殴りこみに来るんなら言わないよ。会社で問題起こされたら面倒」
そんな言葉に拗ねたのか、ちぇっと舌を鳴らして口を尖らせている。こういうところ、まだ子供だなと思うと、さらに不満が押し寄せてきた。
潤の何が好きかと問われれば、あたしは昔と変わらず、真っ直ぐで純粋なところだと胸を張って答えるだろう。自分がとうに見失ったそんな部分が、ひどく羨ましくて、それから、最近では窮屈だったりする。
「潤は? 大学の卒論進んでるの?」
胸にかかったもやを打ち消そうと、手軽な話題を探す。だけどそれは、どうやら失敗したようで。潤はやけに不服そうな表情を作り、ふてぶてしく首を横に振った。はっきり言って可愛くないし、あたしのもやはさらに濃くなってしまった。
「卒業できなくても知らないから」
「わかってるよ。何とかなるし」
その根拠のない自信はどこから来るのか。
溜め息を殺し、あたしは二人分の食器を片付けようと立ち上がった。俺も手伝う、と、未だふてくされたままの潤が隣に並び、やっと聞こえる程の声で小さく謝罪をもらしていた。
あたしはと言うと、この時も、潤の隣で眠りにつくときも、瞼の裏で城川さんの苦笑いを思い出していた。
月曜日、いつものように出社すると、城川さんが開口一番に言った。
「南、今日の夜空いてる?」
ああ、今日も相変わらず端正な顔だ。瞳いっぱいにこの顔を映すだけで、思考回路は停止してしまう。頬に、唇に、触れてみたい。その瞬間を、感触を、想像するだけで、息が詰まる。
「おい、南。朝っぱらからケンカ売ってんのかお前は」
腰を屈め、あたしと同じ視点の位置まで顔を持ってきて、眉間に薄くしわを作った城川さんに胸が音を立てる。幼い乙女にでもなった気分だ。ごくりと喉を鳴らし、息を吸い込んで、それらを隠すようにあたしは大人ぶる。
「売ってません。夜、何かあるんですか?」
彼の次の言葉に期待が湧き上がってくる。会社でなく、二人の空間でこの顔を眺めてしまったら、いよいよあたしは暴走してしまうかもしれない。
「少しでいいから、残業してくんない? もちろん俺も残るけど、明日までに仕上げてほしい事があるんだ」
期待外れだと、少々残念にも思ったけれど。いつもより長くこの人を眺めていられるのには違いない。
「はい、良いですよ」
ニコリと顔を作って、城川さんの脇をすり抜けた。
助かる! とあたしに投げかけた彼の言葉に小さく頷いて席に着く。
周りの誰にも知られたくはない。城川さんへ抱くこの気持ちに、あたしは答えなんて求めていないし、潤との関係や城川さんの生活を壊す気など、さらさらなかった。
ただあたしの中で、最近芽生えることのなかったこの初々しい感情を、誰かの非難や噂などのうっとおしい視線で汚されたくなかった。
残業という言葉を真に受けて、てっきりデスクワークだと思い込んでいたあたしは、両手にバケツと雑巾を持って笑う城川さんを見て、唖然としてしまった。
「大掃除でも始める気ですか」
「あたり。明日さ、偉いさんが来るんだよ。塵ひとつでも見付けたら煩い人だから、って部長が押し付けてくるもんだから。南、掃除得意だろ」
「何情報ですか」
脱力しきっているあたしのそばで、早速上着を脱ぎ、床に手をついて彼はせわしなく体を動かし始めた。ふわり、と彼の動きに合わせて微かに漂った深みのある香り。
「城川さん、香水つけてます?」
仕方なく雑巾に手を伸ばし腰をかがめつつ、横目でしっかり彼の姿を捉える。眉の形も、肌の張りも、髪の細さも。直接この手に触れて、確かめてみたい。
二人きりのオフィスは、最低限の音しか生まなくて。鼓動が聞こえてしまいそうだ。
「香水? ああ、つけてるよ。おっさんは匂いが気になる年頃なんだ」
「それ、笑えないですよ」
相変わらず可愛げのないあたしに、城川さんもまた、相変わらず苦笑いで眉をしかめていた。
潤なら、素直に落ち込んだかもしれない。ごめんごめん、とあたしがあやすまで、肩を落としていただろう。
「そういや南の彼氏、大学生なんだって? 他の女の子たちに聞いたけど。ちゃんと会えてる?」
腕まくりをした白いシャツの下から、逞しい筋肉が見え隠れする。潤とは太さも違うその腕は、どんなふうにあたしを包むだろうか。
「みんなおしゃべりだなぁ。どうでも良いことばっかり言いふらすんだから」
答えをはぐらかして、城川さんの仕草を真似るように腕まくりをする。できれば、潤の話はしたくなかった。恋人の不満を口にして、万が一、城川さんとの関係が何かに変わるのは嫌だった。そんな格好の悪い始まりはご免だ。
あたしが欲しいのは、慰めじゃない。不満を埋めてくれる、潤の代わりでもない。だからと言って、あたしを甘く包む、潤の温かい愛じゃなくて。懐かしい、あの感情。
「いや、俺から聞いたんだ。どうでも良いことじゃなくてね、俺にとっては」
試すような視線を送る城川さんに、妙な期待と、それを否定する言葉が脳内を支配して、すぐに言葉が出ない。
「南? ごめん、俺。ふざけすぎたか」
何も言わないあたしを覗き込み、伺うようにそう言ってから、彼は得意の苦笑いで、ジョーダンだよ、と足した。それがどこか残念そうに映って、誰の目も無いこの空間で、あたしの感情が暴れ出す。
もしかしたら、この人も同じ事を求めているのかもしれない。薬指のリングに守られ、縛られて。もしそうじゃなかったとしても、あたしは退くつもりなんて、毛頭、無い。
「いえ。謝らないでください」
今度は飾らずに微笑んでみる。城川さんの瞳が一瞬だけ、驚いたように揺れた。あたしはそれから、視線を預けたまま外さない。
「やけに素直だな」
先に城川さんが視線を落とした。もう既に光沢を放つ床を、とりあえず拭いている。そんなふうに見えた。
「城川さん」
蚊の鳴くような声でも、静かすぎるオフィスでは十分に彼に届いただろう。声色に含んだ、あたしの感情までも伝わったかもしれない。無言のまま彼は顔をあげ、初めて見せるような優しい表情であたしを見つめている。
箍が、外れてしまいそうだ。いや、外してしまいたい。
「恋と愛って、どう違うと思います?」
疼き出した衝動を、やっとの思いで抑え込む。
まどろっこしい言葉なんてなくても、手を伸ばせばきっと、簡単に届いたに違いない。だけど。まだ、まだだ。もう少し、この雰囲気に溺れていたい。
「答えを聞いて、どうしたいの?」
「どうもしないです。城川さんの答えを、聞きたいだけ」
「恋はときめきで、愛は安心、かな。って、これは俺が求めることだった」
微笑を解かないままの、城川さんの顔が近くなってくる気がする。本当に近づいているのか、それとも気のせいなのか。解らなくなるほど、ゆっくり、ゆっくり。
「あたしも、そう思う」
「ときめき不足?」
こくんと頷いたあたしを見て、静かに笑う彼を、飽きもせずに見つめた。瞬きの仕草さえ、あたしの鼓動を奪う。
深い香りが鼻先をかすめ、温かい吐息が髪に触れる。気づけばやっぱり、城川さんの顔はすぐ目の前にあった。
触れるか、触れないか。その距離に、理性やら常識やらがちらちら顔を出す。すぐ隣りあわせに、互いの欲望が確かに存在する。それが堪らないほどに、胸を鳴らす。
みんなが言う、イケナイコトは。こんなにもあたしを満たしていく。
城川さんの手が、優しく髪に触れた。同時に痛く締め付けて暴れだした鼓動と言い知れない満足感。その心地よさに目を閉じると、脳裏に潤の笑顔が浮かんで、鈍い痛みを残し、消えていった。
死ぬ程の後悔をすると、解っているのに。あたしは懐かしい胸の高鳴りに、嘘をつく素振りすらせずに、ひとしきり目を閉じて。深い香りの中へと堕ちて行った。
fin.
純愛支持派の方からは反感買いそうな内容ですが……。お読みいただきありがとうございました!