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リリカ

 平常心を取り戻せないのは、それは絶対あの娘のせいだ。

 ちらちら挑発的に見せびらかした胸元には、紫色の蝶々が二羽、三羽。誰の歯形かって聞いたって、絶対に答えやしない、ふわふわと笑うだけだもの。

 僕のリリカ、可愛いリリカ、僕の知らない歌ばかり歌う、彼女はリリカ、僕の歌姫。

「やめて頂戴、束縛しないで、わたしはあなたのモノじゃないもの」

 薄汚れた地下バーで、彼女が歌うのは水曜と土曜、それ以外の日は何をしているのって尋ねたって、彼女は答えた試しがないんだ。いつものように艶やかに笑って、そして毎回の言葉を繰り返す。

「わたしの歌だけ聴いて頂戴、本当のわたしはこの歌声だけよ」

 僕は飲めないビールを一生懸命に平然とした顔で傾けるばかり。

 リリカ、僕の歌姫、けれども同時に何十人もの男達の、彼女は歌姫、けして僕のモノにならない。

 夏のどうしようもなく寝苦しい夜、知り合いに連れてこられたこのバーで、僕は初めてリリカを見た。彼女の歌声は完璧だった、枯れかけた花を救う、恵みの雨のような声。白いワンピースは胸先までばっくりと口を開き、彼女の果実は零れんばかりで、僕を随分どぎまぎさせた。あっという間に彼女の虜になった僕は、彼女の歌う日には必ず花束を抱え、彼女のふっくらとした唇がお礼の形を作るのを、ただただ幸せに見つめるばかり。

「……一度でいいから連れ出したい、」

「駄目よ、そういうのは出来ないの、わたしの売り物は身体じゃないの、わたしの売り物はこの声だけなの」

 まつげの長い、大きな瞳。赤い唇、彼女が笑うと星が落ちる。

「花束は嬉しいけれど、わたしを見ないで、わたしの声だけを聞いて、わたしの歌に欲情してね、わたし本体はだってただのお飾りなんだもの」

「お飾り」

「そうよ」

 唇をきゅっと持ち上げて、彼女は魅惑的に笑う。どうしてその笑顔に、僕が恋に落ちないでいられよう。

 リリカ、と名前を呼んでみるけれども、彼女は静かに微笑んで、僕の視線から顔を逸らす。彼女の横顔は美しいのにとても疲れて見えて、僕はとても悲しくなってしまう。


「この身体、気がつくといつも若い女になってる」

「随分昔に死んだ記憶があるのだけれども、ね、それは何度も何度も」

「この声だけが変わらないの、でもそれも、覚えているのはわたしだけだから、ただの思い込みかもしれない」

「死ねないのよ、蘇ってしまうの」」

「わたしの身体はどうなっているのかしら」

「わたしは化け物?」

「こんなに美しいのに、わたしはわたしの顔をいつも他人の物としてしか認識できない」

「わたしは誰?」

「わたしは、歌姫」

「昔々、ワガママな王様に捕らえられて、一生を歌い続けていた女」

「そう、それが一番最初の記憶」

「喉を裂かれても、わたしの血は美しいメロディを奏でて流れた」

「わたしはリリカ」

「その名前は、父様がつけてくれたの」

「リリカの花のように美しく咲きなさいと」

「死ねないわたしは、いつでも美しく咲き続けるでしょう」

「でも、それが幸せだと感じた事は一度もないの」

「いつもいつも」

「若い身で死んでゆくわたしは、すぐに次の肉体を手に入れて再生される。それが神の企まれた事だというのなら」

「なんて残酷なのかしら」

「いつから死ねなくなったのかしら」

「わたしは」

「わたしは」

「わたしは」

「わたしは、リリカ、誰のものにもなれない歌姫」

「でもね」

「本当は、恋をしているの」

「いつもわたしに花束を持ってきてくれる、あのメガネの男の人」

「細長い身体をいつも窮屈そうにちぢこめている、あのはにかんで笑う、可愛い人」

「震える声でわたしを誘ってくれるのに」

「わたしはそれに答えられない」

「だって」

「この身はわたしの身体ではないんですもの、わたしですらわたしと思えない顔を愛してもらっても」

「困るの」

「だって、本物のわたしはこの声だけなんだもの」

「本当は嬉しいのだけれど」

「この身体がいつ果ててしまうのか分からないんだもの」

「だって、」

「この身体」

「心臓の音がしないんだもの」

「もうすでに」

「死に果てているのだもの」


 リリカが消えた。

 僕が逢瀬に誘った、次の週だった。

「それがこっちも分からないんですよ、急にふいといなくなってしまいまして」

 オーダーのついでに彼女の名前を口にしてみれば、店員は困った顔を作ってそう言う。

「いなく、なった?」

 それでは、この花束は、今日だけでなくその次も次も無駄になってしまうという事だろうか。

 薄暗い店内で、歌姫不在のバック達だけが、各々の楽器で音を立てている。騒がしくなればなるほど際立つ、リリカの欠落。僕は混乱して、いつもはけして頼みもしない、恐ろしく度の高い酒を注文してしまう。リリカの不在。それはあまりにも僕を打ちのめした。

「……もう、会えないって事だろうか」

 ひらひらと右手を優雅に揺らし、誰ともなく笑いかけるリリカの、不在。甘い歌声はもう聞けないのか。

「新しい歌い手がもうじきに入るんですよ、いなくなった女の事は忘れて、また、よろしくお願いしますよ」

 そんな事を言われても。

「いなく……なった……」

 姿を消してしまうなんて、姿を消して、しまうなんて、姿を、消して、しまう、なんて。

 リリカ。

「嘘だろう……」

 そんな事は上手に想像できない。僕の恋は終ってしまったのだろうか。まだこの胸に、彼女は大輪を咲き誇らせているのに。リリカ、僕の歌姫。いっそ、死んだと聞かされる方が幾分マシなのに。それならまだ、心の整理がつくものを。

 僕は小さなグラスに入った、色のない液体を喉へと流し込む。

 それはちりちりと僕の肉を焼いて、悲しみを増長させる。


「崩れる」

「崩れる、腐り、落ちる」

「もうこの身体は駄目だわ」

「骨が」

「肉が」

「溶ける」

「ゆっくりと崩壊するの」

「さようならを告げる間もなかった」

「眠る前のあの暗さより、もっと完璧な黒に」

「意識が」

「支配される、ああ、さようならも言えなかったのに、わたしはもうわたしでなくなってしまう」

「ずるりと」

「髪が抜け落ちる、眼球が、もう何も映さなくなる」

「さようなら、この身体」

「もう手が挙がらない」

「わたしはただの肉塊に成り果てる、そして腐食される、土に溶けて」

「この意識は、次にどんな身体を拾うのかしら」

「リリカ」

「わたしの、名前」

「あの人に、最期にあの人に一度だけ呼んで欲しかった」

「この身体の『リリカ』を愛したあの人に」

「ああ、あの人は本当に分かってくれないままだったかしら」

「わたしの声だけを愛して、と」

「あの言葉の意味を」

「いいえ、分かるはずもないわ」

「わたしはわたしではなく、意識は意識でしかなく」

「あの花束は、次にどんな女の子が差し出されることになるのかしら」

「ああ、もう幾つもの身体で」

「わたしは泣いたりしなかったのに」

「わたしは泣いたりしなかったのに」

「わたしは泣いたり、しなかったのに」

「わたしは、泣いたり……」


 友人がふと足を止めた。

 僕もワンテンポ遅れて、革靴の底を両方とも地面にぴったりとくっつける。

「どうしたの、」

「いや、ほらあのさ、昔ここに地下バーがあっただろう」

 彼の視線の先を辿ると、古びれたビルの、地下へと向かう階段が見えた。しかし、その途中には黄色いロープが張ってある。壁に埋め込まれていたはずの看板ももう姿を消し、そこには無意味で中途半端な穴だけが空いていた。

「ほら、お前が好きだった、歌い手がいた」

「……ああ、」

 名前はもう思い出せないけどさ、と友人が言う。もちろん僕は覚えていた。リリカだ。僕の歌姫、胸元に蝶を見せ付けて、優雅に甘い声で歌う、あの子の名前は忘れようもない。

「そうだね、いたね」

 そんな事もあったね、と笑うと、友人は少し複雑そうな笑顔を返した。

「よく立ち直ったよな」

「僕?」

「うん」

 やめようよ、あの日々はもう忘れたよ、と僕の笑みは苦笑に変わる。

 リリカがいなくなってから、僕は恐ろしく壊れた。自分を無くしてしまって、あっという間に廃人になりかけた。彼女のいない日々なんて、彼女の声を拾わない耳なんて、彼女の姿を映さない瞳なんて、ぜんぶ、そんなもの要らないと思った。僕は死にたいと何度も思って、けれども僕が死んでしまえば、僕の記憶の中にいるリリカまで殺してしまうことになり、僕はどうしようも出来なかった。一歩も動けなかった。リリカ、と僕は彼女の名を呼ぶ。僕のモノになんてならなくてもいいから、戻ってきてよ、リリカ、リリカ。

 しかし、いつの日か、僕は彼女の名を呼ぶ事をやめてしまった。秋が三回、巡ってきたからだ。それ以上彼女に執着していても、何の意味もないことは、もう分かりきっていた。

 そして、それからさらに、二度目の秋を迎える。

「寒いな、今年は夏からいきなり冬になりそうだな」

「誕生日が秋だし、季節では一番秋が好きなんだけどねぇ」

 もう、五年、か。

 僕はゆっくりと深呼吸をする。名残惜しそうな友人とは反対に、大股で再び歩き出しながら。


「……めて、」

「……目覚めて」

「ここは、」

「どれぐらいの、」

「月日が経ったのかしら」

「わたしは、」

「わたしはリリカ」

「わたしの身体は、」

「どうなっているのかしら」

「ああ、それとも今まで、」

「長い長い夢を見ていたのかしら」

「長い、長い、切なくて甘い夢……」


 大通りの隅にある公園で、僕の足が動かなくなった。

 耳が、なんだか馴染みのある声を拾ってしまったのだ。

「……おい、どうした?」

「ああ、うん、なんでもないんだ、いや、なんでも……あれ、」

「おい?」

「ちょっと、忘れ物をしたような気分……いや、忘れ物をしたみたいだ、ちょっと会社に引き返すよ」

 明日にすればいいのに、と言う友人に笑ってみせ、先に帰れと僕は彼を促す。会社まで付き合う、と、彼は言わなかった。僕もついて来て欲しい訳でもなかったし、どちらかといえば一人でいたかった。

 なんだ、まだ。

 僕はリリカの事が引っかかっているんじゃないか。

 自嘲的に笑うと、僕は会社に忘れ物があるなんて、咄嗟についた嘘を持て余す。だいたい、なんでこんな所で足を止めたのだろう。

 公園で休んでいこうか、と思った時だった。

 歌声が。

 その公園から響いてきた。

「この寒いのに……」

 元気な人もいるものだ、と僕は思う。思ったはずだった。

 ちくり、と。

 胸に何かが刺さる。

 胸に、何かが。

 この声。

 この歌声は。

『――わたしの歌声にだけ欲情してね、』

 僕は声の主を見ようと必死になったけれど、やがてその姿を目に捉えると、小さく落胆した。そこにいたのは、あの妖艶なまでの身体で優雅に誘う、リリカではなかった。ただの、小さくて薄汚れた感じの、貧相な女の子だった。

「何を期待して……」

 僕は笑う。

 笑った、はずなのに。


「もうそろそろ消滅してみたいわ」

「生き返るのなんてうんざりだわ」

「あの人は元気かしら」

「あの人に会いたいわ」

「でももうわたしなんて忘れられているのでしょうね」

「死にたい」

「死んでみたい」

「死の、あの黒い腕に抱かれて、もう二度と目覚めないでいたい」

「わたしの歌声を、今更誰が聞くのかしら」

「もう生き返りたくない」

「もう、消滅してみたい」

「幸せな夢に閉じ込められたい」

「胸が痛むのは、どうしてかしら……」


 笑ったはず、なのに。

 僕の笑顔は途中で引きつった。

『――わたしの歌声にだけ欲情してね』

 声だけが本物だと、身体はただのお飾りだと、彼女は言っていた。

 あの声は、彼女のものだ。

 リリカのものだ。

 そうだろう、あれがリリカの声でなければ、僕は何を信じれば良いというのだ。

 それとも僕はもう、悲しい幻影を見ているのだろうか。

 僕の頭はおかしいのだろうか。

 僕は一歩ずつ女の子に近づく。少しずつ、少しずつ。

 心臓の音が、比例して大きくなってゆく。

 僕は馬鹿になってしまったのだろうか。

 でもあれは。

 でもあれは、あの声は。

 そう、あの声は、あれは絶対に。

「リリカ!」

 僕は駆け出した。女の子はびっくりしたように歌うのを止め、けれどもやがてゆるゆると静かに微笑んだ。ほら、間違いじゃなかった。姿はなぜか知らないけれど、別のモノになっているね。けれども、ああ、リリカ。

「リリカ、リリカ!」

 僕は間違っていないだろう。

 だって、本当に、魂の隅から隅までを全部使って、君のことをずっと好きだったのだから。

『わたしの歌声にだけ――』

 僕は走り出す。君がなんであってもいいや、と思いながら。 

 両手は広げておこう、抱きしめるために、ああ、リリカ。

 僕は多分泣いていた。

 これが幸せな幻想なら、それでいいと思っていた。

 リリカ、僕の歌姫。

 こんなに幸せな幻想なら、リリカのいない現実より、よっぽど真実味があって、暖かいと、僕は感じていた。


「神様、」

「神様はわたしに意地悪ばかりをするのかと思っていました」

「違うのですか」

「あれは、彼なのでしょうか」

「わたしの歌声を」

「ああ、神様」

「わたしは、」

「わたしはリリカ」

「あの人がわたしの名を呼ぶ」

「あれはあの人でしょう」

「わたしは信じられないくらい幸せな夢を見ているのかしら」

「神様……」


 僕は声を上げる。

 君の名を呼び続ける。

 この再会が幸せへの直通階段でなくて構わない、ただ今はリリカが目の前にいる、そのすべてに感謝して。

 僕は手を広げる。

 彼女が泣き出しそうな顔で、表情を柔らかく崩すのを、幸せな気分で瞳に映しながら。

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