この世には王がいない
その国には、王がいなかった。
正確には、王がいないことになっていた。
城は残っている。王宮を囲む白い壁も、王の帰還を待ち続ける兵士たちも、広場に立つ歴代の王の石像も。
ただ、玉座だけが空だった。
「ねえ、どうして王様はいないの?」
少年が尋ねると、父は決まって同じことを言った。
「王様は、遠いところへ行ったんだ」
「いつ帰ってくるの?」
「さあな」
父はそこで話を終わらせた。
少年は、それ以上尋ねなかった。
この国では、王について尋ねることを好まない大人が多かったからだ。
ある日、少年は城壁の外れで、一人の老人と出会った。
老人は石像の前に座り、何かを数えていた。
「何を数えているの?」
少年が尋ねると、老人は顔を上げた。
「王様の数だよ」
少年は石像を見渡した。
全部で十二体。
「十二人いるよ」
「そうだな。ここには十二人いる」
老人は頷いた。
「では、この国には王様が何人いる?」
「十二人じゃないの?」
老人は笑わなかった。
「この国には、一度も王がいなかった」
少年は首を傾げた。
「でも、石像があるよ」
「ああ。王がいた証拠だ」
「じゃあ、王様はいたんじゃないか」
老人は、ひどく悲しそうな顔をした。
「……そう思えるうちは、まだ幸せだ」
その夜、少年は夢を見た。
誰もいない玉座の間。
長い階段。
そして、玉座の前に立つ一人の男。
男の顔は見えなかった。
ただ、その手には剣が握られていた。
男は少年に尋ねた。
――お前は、王になりたいか。
少年は答えなかった。
男はもう一度尋ねた。
――ならば、誰の上に立つ。
少年が口を開こうとした瞬間、男の首が落ちた。
床を転がった首が、少年を見つめた。
その顔は。
少年自身の顔だった。
目を覚ますと、夜が明けていた。
少年は父のもとへ駆け寄った。
「父さん。昔、この国に王様はいたの?」
父は、手にしていた食器を落とした。
割れた陶器が床に散らばった。
長い沈黙のあと、父は言った。
「……どうして、それを聞く」
「夢を見たんだ」
「忘れなさい」
「でも――」
「忘れろ!」
父が怒鳴ったのは、それが初めてだった。
少年は口を閉じた。
父は震える手で、床の破片を拾い始めた。
その背中は、ひどく小さく見えた。
少年は、父の手元に目を落とした。
破片の一つに、見覚えのない文字が刻まれていた。
古い食器の裏側。
普段なら、決して目に入らない場所。
そこには、こう記されていた。
第十三代国王、最後の命令。
少年は父を見た。
父は何も言わなかった。
ただ、破片を握る手から、赤い血が一滴落ちた。
その日から、少年は王のことを調べ始めた。
十二体の石像。
空の玉座。
誰も語ろうとしない歴史。
そして、十三代目の王。
調べれば調べるほど、不思議なことが増えていった。
古い記録には、王の名前だけが残されていなかった。
肖像画は、どれも顔の部分だけが削り取られていた。
王宮の地下には、十三人分の墓があるというのに、墓碑に刻まれている名前は十二人分しかなかった。
最後の墓には、名前の代わりに、短い一文が刻まれていた。
――王は、王を喰らった。
少年はその文字を指でなぞった。
その瞬間、背後から声がした。
「そこまでにしておけ」
振り返ると、あの老人が立っていた。
「どうして?」
「知れば、戻れなくなる」
「何が?」
老人は答えなかった。
少年は墓碑を見つめたまま、尋ねた。
「王様は、どうしていなくなったの?」
老人は長いあいだ黙っていた。
やがて、重い口を開いた。
「王がいなくなったんじゃない」
老人の目が、少年を捉えた。
「王という存在を、この世界から消したんだ」
「誰が?」
老人は答えた。
「王だよ」
少年は笑った。
意味がわからなかった。
王が王を消した?
そんなことがあるはずがない。
けれど、老人は笑わなかった。
「この世界には、かつて一人の王がいた。そいつは世界のすべてを手に入れた。国も、民も、歴史も、未来さえもな」
「それで?」
「最後に、そいつは気づいたんだ」
老人は墓碑に手を置いた。
「自分が王である限り、世界は永遠に自分のものだ。だが、自分が死ねば、世界は自分のものではなくなる」
「……だから?」
「だから、王は世界から王を消した」
老人は、少年の目を見た。
「自分がいなくなったあとも、世界が自分のものであり続けるように」
少年は何も言えなかった。
老人は墓の前を離れた。
去り際、彼は一度だけ振り返った。
「覚えておきなさい」
その声は、ひどく静かだった。
「王になるということは、すべてを手に入れることではない」
老人は言った。
「すべてを手に入れたあと、それを失うことさえ許されなくなるということだ」
老人が去ったあとも、少年は墓の前に立ち尽くしていた。
やがて、地下墓地の奥から鐘の音が聞こえた。
一度。
二度。
三度。
少年は顔を上げた。
壁に並ぶ十二人の王の肖像画。
削り取られた顔。
そのうち、一番奥の一枚だけが、いつの間にか変わっていた。
削られていたはずの顔が、はっきりと浮かび上がっている。
そこに描かれていたのは、老人だった。
そして、その隣。
まだ何も描かれていなかった十三枚目の肖像画に、ゆっくりと人影が浮かび始めた。
少年は、息を呑んだ。
そこに描かれていたのは――
自分だった。




