第6章
その日の夜。
初仕事を無事に(?)終えた俺は、興奮冷めやらぬまま、会社の近くにあるお洒落なカフェのテラス席で一人、祝杯をあげていた。
祝杯といっても、目の前にあるのはキャラメルマキアート一杯だけだが。
今までなら絶対に頼まないような、ホイップクリームが雪山のようにそびえ立つ甘ったるいコーヒーを、俺は自分へのご褒美として許した。
ガラス張りの向こう、店内では静かなジャズが流れ、カップルや意識の高そうなビジネスマンが談笑している。
だが、俺の心はここにあらず。
(ああ……完璧だった……完璧すぎる……)
俺はカップを片手に、脳内で今日の勝利を繰り返し再生していた。
もちろん、俺の脳内再生機能は、そこらの動画サイトとはわけが違う。
リリィちゃんの肌のキメ、汗の粒、そして吐息の温度まで完全に再現可能だ。
特に、ぬめり侯爵の触手が、彼女の華奢な足首に初めて絡みついた、あの瞬間の表情……!
聖女のように気高い瞳に浮かんだ驚きと嫌悪。
それがやがて、未知の感覚への戸惑いに変わり、最後は抗いがたい快感に蕩けていく……!
あの完璧な感情のグラデーション!
「……へへっ、あへへへ……ぐふっ……」
あまりの素晴らしさに、俺の口元から締まりのない、我ながら最高に気持ち悪い笑い声が漏れる。
いかんいかん、ここは公共の場だ。
俺は慌てて口元を押さえた。
「…………きっしょ」
不意に、すぐ隣のテーブルから、心の底から軽蔑しきったような、しかし透き通るような少女の呟きが聞こえた。
声のした方へ視線を向けると、そこに一人の少女が座っていた。
近所のお嬢様学校として有名な白百合女学園の制服に身を包んだ、赤髪のポニーテールの少女。
長い脚を組んで、目の前の皿に乗ったモンブランを、まるで親の仇みたいにフォークでぐさぐさと突き刺している。
(うわ、めちゃくちゃ美少女……)
切れ長の金色の瞳。
すっと通った鼻筋。その完璧に整った顔立ちは、不満そうにへの字に曲げられた唇のせいで、周囲に「話しかけるな」オーラをまき散らしていた。
どうやら俺の締まりのない笑顔が、彼女の視界の端に入ってしまったらしい。
気まずい。非常に気まずい。
彼女は店員を呼びつけると、「ここのモンブラン、栗の味が薄すぎるんだけど。作り直して」と、なかなかに横暴な態度だ。
だが、その声すらも鈴が鳴るようで、俺の耳には心地よかった。
俺が彼女の横顔の造形美に見とれていると、テーブルの上の会社用スマホが、ブブッ、と短く震えた。
表示された通知画面には、俺の上司、氷室サヤカさんの名前が表示されている。
助かった!この気まずい状況から逃げられる!
俺はすぐさまスマホに集中する。
『件名:次期プロジェクト対象の件』
『本文:本日の成果は素晴らしいものでした。あなたのプレゼン通り、対象は心身ともに『開花』したようです。その独創性は、我が社の至宝です。早速ですが、次はこちらの対象の無力化プランを作成してください。期待しています』
サヤカさんからの甘美な言葉に、俺のやる気と煩悩は天元突破だ。
「我が社の至宝」! 最高の響きじゃないか!
俺は、隣のテーブルの美少女が、新しいモンブランにまだ文句を言っているのを横目に、意気揚々と添付ファイルを開いた。
『Target_Data_02_Vulcan.pdf』
「ヴァルカン、ね……」
確か、炎を操る攻撃的な戦闘スタイルが特徴の魔法少女だ。
リリィちゃんのような受け身のタイプとは違う。
より能動的で、苛烈なアプローチが必要になるだろう。
どんな風に彼女を「教育」してやろうか……。
俺の口元が、またしても自然と欲望に歪んでいく。
PDFファイルが開く。
そこに表示されていたのは、燃えるような赤と漆黒の、攻撃的で露出度の高い戦闘服に身を包んだ魔法少女の姿だった。
金色の瞳は挑戦的に輝き、その口元は好戦的な笑みを浮かべている。
引き締まった腹筋、豊かな胸、そして何より、力強く大地を踏みしめる太もものラインが、彼女の戦闘能力の高さを物語っていた。
その顔は――。
「……………………え?」
俺は、固まった。
スプーンからこぼれ落ちたホイップクリームが、ズボンに染みを作っていくのも気づかない。
全身の血の気が、サーッと引いていくのがわかった。
心臓が、まるで巨大な手に鷲掴みにされたかのように、ドクン、と嫌な音を立てた。
手にしたスマホが、カタカタと震え始める。
間違いない。
モニターの中で、不敵な笑みを浮かべているその魔法少女は。
今、俺の隣で、新しいモンブランを一口食べて「まあ、さっきよりはマシね」と偉そうに呟いている、この制服姿の女子高生。
俺は、壊れたブリキの人形のように、スマホの画面と隣の席の彼女の横顔を、何度も、何度も、ぎこちなく見比べた。
髪の色、同じ。
瞳の色、同じ。
気の強そうな眉の形、同じ。
不機嫌そうな口元、完全に一致。
「…………だから何よ、さっきからジロジロ見て」
ついに痺れを切らしたのか、リオが忌々しそうに俺を睨みつけた。
「さっきからニヤニヤしたり、幽霊みたいな顔したり、今度は穴が開くほど見てきたり……。あんた、相当ヤバいヤツでしょ」
「ひっ……! い、いえ、滅相もございません! その、あまりにも美しい方がいらっしゃったので、つい芸術鑑賞のような気持ちで……!」
俺は、人生で最も引きつったであろう笑みを浮かべることしかできなかった。
俺の、輝かしい悪の幹部ライフは、始まってわずか一日で、ターゲットに素顔をガン見され、次の作戦内容を考えなければならないという、最大級の危機を迎えていた。