第3章
数日後、俺は天を突くような超高層ビルの前に立っていた。
ガラス張りの壁面が、六月の気だるい太陽を反射してきらめいている。
昨日なけなしの金で買った、ペラペラの新品スーツが急にみすぼらしく感じて、俺は無意識に襟元を正した。
「お待ちしておりました」
自動ドアの先、大理石の床がどこまでも続く広大なエントランスで、完璧な笑顔を浮かべた受付嬢に深々と頭を下げられる。
人生で初めての経験に、俺の挙動は完全に不審者をそれのソレだ。
案内されるままエレベーターに乗り、最上階に近いフロアへと昇っていく。
耳がキーンとする。これは気圧のせいか、それとも緊張のせいか。
チーン、と軽やかな電子音が鳴り、扉が開く。
そこに立っていたのは、先日の担当面接官、氷室サヤカさんだった。
「ようこそ、ジェネシス・イノベーションズへ」
今日の彼女は、タイトなネイビーストライプのスカートスーツに身を包んでいる。
きゅっとくびれたウエストから、腰、そして丸みを帯びた尻へのラインが、もはや暴力的なまでにエロい。
知的で冷たい印象の銀縁メガネの奥で、彼女の瞳が楽しそうに細められた。
「さあ、君の新しい職場を案内してあげる」
サヤカさんに連れられて足を踏み入れたオフィスは、驚くほど普通だった。
いや、普通以上にオシャレな、今どきのITベンチャーといった風情だ。
広々としたオープンフロア、窓際にはカラフルなビーズクッションが並ぶリフレッシュスペース、そして無料で提供されるスナックとドリンクバー。
俺が戸惑っていると、サヤカさんがガラス張りの会議室を指し示した。
ドアプレートには、こう書かれている。
【第一会議室:絶望の間】
「…………え?」
隣の会議室は【第二会議室:慟哭の間】。
その隣は【第三会議室:阿鼻叫喚の間】だ。
俺の脳がバグり始める。
サヤカさんは俺を給湯室へと誘う。
そこには最新式のコーヒーメーカーや、高級そうな紅茶のティーバッグが並んでいた。
おお、福利厚生がしっかりしてる……。
「ちなみに、体力仕事の社員にはこちらも人気よ」
彼女が指さした先には、業務用の巨大なミキサーと、明らかにヤバい雰囲気を醸し出す黒い寸胴が置かれていた。
寸胴のラベルには、禍々しいフォントでこう書かれている。
【怪人強化用ハイパープロテイン(濃厚ストロベリー味)】
ですよねー!
俺が内心で絶叫していると、近くを通りかかった社員たちの会話が耳に飛び込んできた。
「例の粘液怪人、粘度がまだ足りないらしいぞ」
「えー、昨日ラード10キロ追加したのに?」
「もっとこう、まとわりつくような……官能的なテクスチャが欲しいって、上が……」
間違いない。
ここは、俺が夢見た職場だ。
「さあ、最後に君の同僚を紹介するわ」
サヤカさんが俺を連れて行ったのは、オフィスの隅にある、ひときわパーソナルスペースが広いデスクだった。
そこに、一人の少女が座っていた。
漆黒の闇をそのままドレスにしたような、フリルとレースが幾重にも重なるゴシックロリータ。
きっちりと切りそろえられた姫カットの黒髪は、人形のように整いすぎていて、逆にこの世の者とは思えない。
その人形が、ゆっくりと顔を上げた。
病的なまでに白い肌。血の気の失せた唇。
そして、その顔の印象を決定づけているのは、感情というものが一切抜け落ちた、大きく虚ろな双眸だった。
目の下には深い隈が刻まれ、彼女がまともな生活を送っていないことを物語っている。
灰咲シノ。
それが彼女の名前だった。
「シノさん、新しい仲間よ。黒崎マコト君」
サヤカさんが俺を紹介する。
シノは無言のまま、その虚ろな瞳で俺の頭のてっぺんから靴の先までを、まるでスキャンするように見つめた。
そして、くん、と小さく鼻を鳴らしたかと思うと、心底汚物を見るような目で、こう吐き捨てた。
「…………臭い」
「…………へ?」
「思春期の男子中学生みたいな、安っぽくてじっとりした煩悩の匂いがする。吐き気がするわ」
その声は、真夏の夜に聞く怪談話のように、静かで、冷たくて、背筋をゾッとさせた。
な、なんだとぉ!?
俺の黄金の煩悩が、安っぽいだと!?
俺が何か言い返そうとする前に、シノはふいと俺から興味を失い、視線を落としてしまった。
「くすくす……」
サヤカさんが、楽しそうに笑う。
「シノさんは、相手の魂の本質を『匂い』として感じ取る才能があるの。仲良くしてあげてちょうだい」
いや、無理だろ!
初対面で「お前、臭い」って言ってくるやつとどうやって仲良くしろってんだ!
目の前には、俺の存在そのものを否定してくる、虚ろな瞳のゴスロリ少女。
背後には、俺たちの不協和音を楽しんでいる、妖艶な美女上司。
俺の社会人生活は、初日から前途多難を極めていた。