第2章
就職活動、五十連敗。
俺は、公園のベンチで死んだ魚のような目をしていた。
安物のリクルートスーツは六月の湿気と冷や汗でじっとりと肌に張り付き、結び目が歪んだネクタイが、まるで首を吊るための縄のように思えてくる。
スマホの画面を惰性でスワイプする。
キラキラした一般企業の求人情報が、俺の心を抉る。
その時だった。
『ジェネシス・イノベーションズ社 第二特殊コンテンツ事業部 急募』
目に飛び込んできたのは、ひどく簡素で、それでいてどこか蠱惑的な求人広告だった。
「ジェネシス……イノベーションズ……? 『ジェネシス』? まさか、あの悪の組織のジェネシスか!? いや、でも会社名に『イノベーションズ』なんて横文字がついてるし……ただの偶然か? でも待てよ、『第二特殊コンテンツ事業部』……? 怪人とか、そういうことか!? だとしたら……だとしたら、これは千載一遇のチャンスじゃないのか!? 合法的に、いや、給料をもらいながらリリィちゃんに会える……敵として!」
俺の心臓が、ドクドクと警鐘を鳴らす。
このチャンスを逃せば、俺は一生、モニターの中からリリィちゃんを応援するだけの人生だ。
俺は覚悟を決め、震える指で「応募する」のボタンをタップした。
そして数日後。
俺は、天まで届きそうな超高層ビルの、殺風景な会議室にいた。
磨き上げられた黒いテーブル。窓の外に広がる、まるでミニチュアのような都会の景色。
俺が今まで生きてきた薄汚い世界とは、何もかもが違う。
場違い感で死にそうだ。
「お待たせいたしました、黒崎マコト様ですね」
凛とした、鈴が鳴るような声。
顔を上げると、そこに今回の面接官が座っていた。
俺は息を呑んだ。
完璧に切りそろえられた、艶やかな黒髪のボブ。
理知的な光を宿す切れ長の瞳は、シャープな銀縁メガネの奥で、俺という存在を値踏みするように細められている。
泣きぼくろが、その白い肌の上で官能的なアクセントになっていた。
身体のラインを寸分の狂いもなく拾い上げる、タイトな黒のパンツスーツ。
きつく締められたウエストとは対照的に、白いブラウスの胸元は、その奥にあるであろう豊かな双丘の存在感を、暴力的なまでに主張している。
組まれた脚は、どこまで続いているんだと問い詰めたくなるほど長く、しなやかだ。
氷のようにクールで、それでいて溶岩のように熱い何かを内に秘めた美女。
「面接官の氷室サヤカです」
「…………は、はい!黒崎です!」
裏返った声が出た。もうダメだ。終わった。
案の定、当たり障りのない質問に、俺はしどろもどろに答えることしかできない。
彼女の興味が、1ミリ、また1ミリと俺から削り取られていくのが肌で感じられた。
ああ、五十一連敗か…………。
「では、最後の質問です」
諦めかけた俺に、サヤカさんが初めて、ほんの少しだけ身を乗り出してきた。
「これは仮定の話ですが……もしあなたが、当社の競合である、とある大人気コンテンツを無力化する任務を与えられたとします。そのコンテンツ名は……そうね、『魔法少女マジカル・リリィ』としましょうか」
――キタ。
俺の脳細胞が、一斉に歓喜の声を上げた。
これはテストだ。
俺の「愛」が試されている。
俺は椅子から立ち上がり、バンッ!と机に手をついて身を乗り出した。
「猫です!もふもふの子猫軍団です!」
「…………猫?」
サヤカさんの眉が、ぴくりと動く。
「はい! 想像してください! リリィちゃんの前に現れる、百匹の可愛い子猫たち! 『にゃーん』『ごろごろ』って、愛らしい声で彼女を取り囲むんです! 正義の味方であるリリィちゃんが、無抵抗な子猫を攻撃できるはずがない! まずここで、彼女の攻撃手段を完全に封じます!」
俺の口から、妄想が滝のように溢れ出す。もう誰にも止められない。
「子猫たちは彼女の足にスリスリして、体温と毛皮の感触で彼女の闘争本能を強制的に解除! そしてとどめは! 軍団の頂点に君臨する、ひときわ大きくてもふもふなボス猫! その首輪には『またたび爆弾』が仕込まれているんです!」
「またたび…………爆弾…………?」
「はい! 至近距離で炸裂した超高濃度またたびの霧に、リリィちゃんは抗う術がありません! 理性の中枢は麻痺し、身体は快感に支配される! 『にゃ、にゃはぁ〜…………もう、戦えないにゃぁ〜…………』って、全身をふにゃふにゃにして、その場に座り込んじゃうんです! 瞳は潤んで、頬は上気して、口元からはキラキラしたよだれが垂れちゃったりして! 最高じゃないですか!? 完璧な無力化です!」
ハァ、ハァ、ハァ…………。
我に返った時、俺は肩で息をしながら、目の前の美女にドン引きされているであろう己の姿を自覚した。
終わった。今度こそ本当に終わった。社会的に抹殺された。
長い、長い沈黙。
時が止まったかのような会議室に、やがて、くぐもった声が響いた。
「くっ…………くくく…………」
サヤカさんが、肩を震わせている。
やがて耐えきれなくなったように、口元に手を当てて、しかし隠しきれない笑い声を漏らした。
「ふふっ…………あはははは! またたび爆弾! 最高だわ! あなたの頭の中、どうなってるの!?」
彼女は涙を拭うと、俺を射抜くような、熱っぽい視線で見つめた。
「その情熱…………その常軌を逸した発想力…………そして、何よりも楽しそうなその顔。気に入ったわ」
サヤカさんはすっと立ち上がると、俺の前に来て、完璧に手入れされた美しい手を差し出した。
「ようこそ、ジェネシスへ。黒崎マコト君。君の『煩悩』、我が社が有効活用してあげる」
その微笑みは、女神のようでもあり、悪魔のようでもあった。