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念話を終えてから数分、呼び出したツキヨミがいつ来るかと待っていた。
突然こんな場所に飛ばされて、安全かどうかもわからない。その不安に押しつぶされそうになる。
少しして、コンコン、と聖堂の扉が控えめにノックされた。ぱっと顔を上げてヒルヒメは扉に近付く。だが扉を開けようとして、はたと手が止まる。もし、このノックした人物が彼じゃなかったら? そんな不安が湧き上がったのだ。
『……姫、そこに居ますか』
ツキヨミの声だ。思わず扉を開く。
扉の前にいた人物はヒルヒメの思い描いていた通り、ツキヨミ。
身長は180後半くらい。すらりとしているがよくみるとそれなりに鍛えられた身体付き。漆黒の色合いのロングテールのタキシード姿――それが今のツキヨミだった。
「姫!」
「夜見さん!」
ヒルヒメは扉を開け放つと、そのまま彼の胸に勢いよく飛び込んだ。だが共倒れすることはなく、しっかりと受け止められる。そのしっかりした感触に涙が溢れ出した。
「怖かったよぉ」
極めて冷静でいたつもりだったが、やはり精神的には参っていたらしい。ヒルヒメはそれを自覚する。
「私としても、姫……ヒルヒメが居ると分かって安堵しました」
ヒルヒメを抱き止め、撫でるツキヨミの手付きは優しい。
〈エルダー・テイル〉には標準でボイス・チャット機能が搭載されている。ゲームをしながら、パソコンに接続されたマイクとスピーカーによって携帯電話のように仲間と会話が出来るのだ。もちろん音声による会話を嫌って文字によるチャットにこだわるユーザーも居たが、ヒルヒメとツキヨミはそうではない。
だから、ヒルヒメはツキヨミの声をよく知っているし、覚えている。
それに、その対象はツキヨミだけではない。ヒルヒメの所属しているギルド〈やおよろず〉のメンバー達ともボイス・チャットを行ったことは何度もあった。
だけれど、彼はオフラインで顔を合わせたこともある上に、リアルでの結婚相手でもある。だから、ヒルヒメにとってツキヨミというのは、最も安心できる存在なのだ。
「まあお互いが居るから安全、とはなりませんがね」
「不穏なこと言わないでよ」
ヒルヒメを地面に降ろしながら溜息混じりにツキヨミは呟く。だけれど、それは事実でしかない。
「それにしても、ヒルヒメ……。そのままですね」
「そっちこそ、そのまんまだよ」
お互いの姿を確認し合う。ヒルヒメ達の姿は基本的に〈エルダー・テイル〉のゲームキャラクターそのままだ。
もとはポリゴンで作られた、ただのアバターである。
実際、〈エルダー・テイル〉はパソコンのグラフィック機能を十分に生かした、かなり高精細なものではあった。けれど、それでも実写にはほど遠いグラフィックでしかなかったはずだ。
だが現在では、それらのポリゴンは完全に実在物として存在し、現実と同じだけの解像度や精細度を持って存在している。
しかしよくよく見ると、ただゲームを現実化しただけという訳でもなさそうだった。〈エルダー・テイル〉におけるもともとのモデルデータは、ゲームということもあって、男女ともにかなり美形にデザインされている。ゲームは誰も好きこのんで不細工をやりたがる人はいない。ネタだとか縛りプレイならともかく。とにかく、格好良いモデリングというのはユーザーの需要に応えた当然のマーケティングだ。
だがしかし、ツキヨミのいまの風貌は、〈エルダー・テイル〉の美形なポリゴンモデルを現実化したというだけではなく、実際に何度か顔を合わした時のままのツキヨミの面影を留めているようだった。
「うん。やっぱりツキヨミさんだけど、夜見さんの顔だ」
ゲームのプリセットデータを組み合わせたような、明らかな創造物の顔ではない。目の色、髪の色などはゲームデータに寄っているものの、涼しい目元に笑っていないその口元。この造形は間違いなくヒルヒメの知っている現実の夜見だった。
「貴女だってそうですよ、姫。人懐っこい甘ったれた顔で、簡単に人を騙せそうな平凡な顔付き。色はヒルヒメですが、見た目の細かい要素は昼姫そのものだ」
「なんかそれ酷くない?」
特徴のない顔、と知り合いには言われていた。けれど、いまではその特徴がこの身体にも現われているようだ。ツキヨミに何度もからかわれた内容を繰り返されて、ヒルヒメは頬を膨らませて抗議する。
これでもモテたことはあるんだぞ。女子にだけれど。
「平凡な顔に騙されて捕まったのはそっちでしょ」
「面目も無い」
軽く肩をすくめるが、反省の欠片もない声だった。
「というか。なんでその格好?」
「貴女だってウェディングドレスでしょうが」
ファンタジー系の世界観にあっているようなそうでもないような、テールの長いタキシードのような黒いスーツの上下と黒い半手袋。白いドレス姿のヒルヒメと対のような格好である。対のような、というか実際に対の格好なのだが。
「直前までやっていたでしょう、『結婚式』を」
「そうだったね」
新しいパッチが導入される1時間前まで、〈やおよろず〉のギルドのメンバーと共にそれをやっていた。正しくは、終わらせてその余韻に浸っていた、だけれど。
「とにかく。移動しませんか。街の状態をより詳しく知りたい」
「そうだね。それに他のギルドメンバー達にも会いたいかも」
そうして、二人は小さな聖堂から出てナカスの街を歩き出した。
街はヒルヒメが覚えている通りのナカスの街だった。
〈ナインテイル自治領〉におけるプレイヤーの本拠地にして、〈エルダー・テイル〉日本サーバの都市。
旧世紀の遺産らしい、崩れかけた廃ビルはコンクリートで造られている。だが、そこにこの世界の人々が継ぎ足した丸太作りの建物が張り付くように建て増しされていた。そして、それら全てが古代樹の懐に抱かれている不思議な光景。
周囲の廃ビルにはもう窓ガラスなどほとんど残っては居ない。ぽっかりと開いただけの隙間に小さな闇を湛えている。
それがふと怖くなり、ぎゅう、とツキヨミの腕に縋り付く。
ただ、ゲーム画面なんて目じゃないほどの高精細な印象で降り注ぐ光が二人を照らし出していた。
ナカスの街は未だに昏い。耳を澄ませば、周囲の騒ぎが聞こえてくる。「どうなっているんだこれは!」「家に帰してくれ」
大の大人が泣き叫んでいる。どうしようもない光景だった。
「……夢じゃない、んだよね?」
「ええ。そうでしょうね」
ヒルヒメの問いにツキヨミはごく冷静に答える。
「……」
「……」
まずは何を話そうか。二人は沈黙する。
二人はつい先ほどまで間違いなく〈エルダー・テイル〉をプレイしていた身であるので、きっと同じだけの情報を所持している。ただ、彼はかなり初期から〈エルダー・テイル〉をプレイしていた様子なので、二人の違いはプレイ年数程度だろう。だが、古い情報で今の状況を打破できるだろうか。
「どこに向かうの」
「〈やおよろず〉のギルドキャッスルですよ」
ヒルヒメの問いかけに当然のようにツキヨミは返答する。言われ、それもそうかと納得した。何もせずにぼんやりと過ごすよりは比較的有意義に時間を過ごせそうだと考えたからだ。きっと彼もそのつもりでギルドキャッスルへ向かおうとしている。
ギルドというのは〈エルダー・テイル〉におけるコミュニティの代表的な代物だ。複数のプレイヤーが所属するチームのことで、〈やおよろず〉もそれである。
ギルドに所属するプレイヤーはゲーム内銀行にギルド専用の共用口座が与えられ、貸金庫でアイテムも共用できる。その上、幾つかの便利なサービスも受けられる。ギルドのメンバー同士は連絡を取りやすいし、なにより冒険に出掛けるときに声をかけやすい。
だから〈エルダー・テイル〉のプレイヤーの多くはギルドに所属している。その方が便利で得なのだ。
そしてギルドキャッスルとは、文字通りギルドが購入し所持する根城である。このように購入されたゾーンは出入りに制限をかけることによって特定のプレイヤー以外は入れないようにするなど、ゾーンの設定を変更することができる。そのため、設定されたギルドホールはモンスターから得た戦利品や素材、生産したアイテムを貯蔵しておくことや、ギルドメンバー同士の会合のためのゾーンとして利用される。
大抵のギルドはギルド会館によって貸し出された空間を利用するのだが、ギルドホールの大きさだけでも3部屋、7部屋、15部屋、31部屋といったランク(A~D)がある。ヒルヒメとツキヨミの所属する〈やおよろず〉は50人程度のギルドなので、Dランクではやや手狭だった。そのため、フィールド内の土地を購入してそこを根城としているのだ。
別に城じゃないのだが、ギルマスが「なんかかっこいいから」とギルドキャッスルと呼ぶよう指定されている。城ではないが和風の邸宅ではある。
「きっと、他のメンバー達も集まるでしょうから。恐らく何の情報も集まらないでしょうが、『これから』どうしていくかくらいの話し合いは出来るはずです。彼らはその程度の賢さは持っています」
「う、うん」
ちら、と周囲で虚脱した者達に一瞬だけ視線を配って吐かれた棘のある台詞に、背筋が少し寒くなる。『動かない奴は馬鹿だ』とあからさまに告げたので、聞いていた誰かが急に殴り込みに来ないかと懸念したのだ。
ツキヨミ以外のメンバーといえば……と思考し、彼らと会えるだろうことを、不謹慎ながらも楽しみに思った。
「……楽しかったね、『結婚式』」
「ああ、そうですね。――まあ、真似事でしたけれど」
「それは言っちゃいけないよ」
リアル世界で結婚している二人にとっては、結婚式は実際にもう挙げたものであり、〈エルダー・テイル〉内で行ったセレモニーは所詮『真似事』でしかない。
結婚衣装を見にまとい、結婚指輪を交換する――まあ、ただそれだけである。『結婚式』を行う際に作られたケーキ類は当然食べられるものではないし、飾り付けだって本物じゃない。
ギルドメンバーは居ても両親などは居ない。役職に書類を届け戸籍上の姓に変更があった訳でも、法的にも結びつく訳でもない。
だから、それをツキヨミは『真似事』だなんて冷たい言葉で片付けてしまう。
けれど。
「わたしは嬉しかったよ。みんなが一生懸命考えて、用意してくれたんだから」
そう、反論する。例え『真似事』でもそれを嬉しく感じたヒルヒメの気持ちは偽りではない、と。
「そうですか」
「お優しい事で」と、どこか皮肉めいた冷ややかな言い方だったが、「貴女がそう思ったならそうなのでしょう」と、ツキヨミは引き下がった。
「でもさ。その後こんなことになるなんて思いもしなかった。異世界に転移した……っていうのかな。ゲームの世界が現実化してるなんて」
「そうですねぇ。正直に言うとこのような巻き込まれなど、一体どのような仕掛けが……」
何もわからないので詳しい話は出来ない。
だけれど、会話を続けながら、少し懐かしい気持ちになるのだった。
ヒルヒメとツキヨミの出会いは5年前に遡る。
当時のヒルヒメはまだ新人プレイヤーだった。その上、高校生で女性。その事を隠すことなく(だからと言って大っぴらにしていた訳でもないが)プレイしていたので、変な輩に声を掛けられやすかった。
チャットで何かを誘ってきたり二人きりになろうとされたり。一方的に念話を掛けられたこともある。ヒルヒメはただ普通にゲームをプレイしたいだけだったので、そう言う輩とは距離を取ったりなるべく集団のパーティに参加するように努めていた。
そんな中でヒルヒメはギルド〈やおよろず〉に入る。丁度そのギルドのサブマスターである黄泉津という女性に誘われたからだ。ギルドにこだわりはなかったので、せっかくだからとそこに決めた。
そこで出会ったツキヨミは妙に絡むことはなく、ただ淡々と事務的に対応してくれる相手だった。〈やおよろず〉は50人程度のギルドではあったが、20名程度は碌にログインもしない事が多い。なのでギルドで大規模戦闘などに挑戦すると自然とパーティを組む事が多かった。それに、普段はレベル上げの手伝いもしてくれた。
変な輩に絡まれた時にも守ってくれたり、キャラビルドや育成の助言をしてくれたり、とそんなツキヨミにヒルヒメが気持ちを寄せるのは時間の問題だった。
ただ、「オンラインゲームの相手だしな」と遠慮をしていたのだが、オフ会で直接顔を合わせた際に「この人がいい」と強く思ったのだ。
それから連絡先を交換したり、色々と相談してみたりして会話や直接会う機会を重ねてとうとう結婚にまでこぎつけたのだった。
「とにかく、ギルドキャッスルまで行ってみんなの無事を確認しなきゃだね」
「どうせ無事ですよ。今まで見かけた者の中で手足が欠損した状態の者が居ました? 状況を考えると、むしろ現実より健康体になった者の方が多いと思いますよ」
「そんなこと言わないの!」
仮にそれが事実だとしても口に出して良い事悪い事がある。そういう事を口に出して良いのは本当に健康体になった者だけだ(と思う)。
だがツキヨミの告げた通り、周囲のプレイヤーと思わしき人間達に欠損は見られなかった。それはきっと〈エルダー・テイル〉内のプレイヤーキャラクター達が五体満足の健康体だからだろう。
そう考えると、この世界に居るであろう〈やおよろず〉のメンバー達は皆、健康体で五体満足。つまりは無事であろう事は容易に想像できた。
〈エルダー・テイル〉は剣と魔法の中世風ファンタジーだ。そしてこの世界は現実の地球の数千年後の世界なのだろうと、プレイヤーの間ではほとんど公式設定であるかのように話されていた。
〈エルダー・テイル〉の世界内の伝承によれば、何らかの巨大な争いが起こり、この世界は砕け散る。そして神々の奇跡によって再構築されたらしい。
ファンタジーゲームにありがちな創世神話だ。
そこにはオークやゴブリン、トロールにジャイアント、キメラやドラゴンなどの定番のモンスターも山ほど出てくる。
だけれどここは『日本風』なのである。
いや、少々語弊があった。この『ナカスの街』が存在する日本サーバー内は色々と日本風なのだ。
〈エルダー・テイル〉はかなり初期の頃からオンラインゲームの中では一種別格の地位を持っていた。歯ごたえのある本場のゲームがしたければ〈エルダー・テイル〉をやれ。ゲーマーの中ではそう評価されるほどのゲームだった。
なぜなら、この〈エルダー・テイル〉には『ハーフガイアプロジェクト』などという希有壮大な目標があったからだ。冗談のような話だが、1/2サイズの地球を作るプロジェクトである。
日本サーバーでプレイしているプレイヤーの初期開始地点、アキバの街は日本列島の東京の位置にあった。北米サーバはビッグアップルとサウスエンジェルが初期の開始地点だという。
その中で『ナカスの街』は日本サーバーの『アキバの街』『ミナミの街』『ススキノの街』に次ぐ第4の都市である。後に続く『シブヤの街』はアキバの街に集中しすぎた人口を緩和するためにデザインされた。そのためにアキバの街からほど近く、ポータル都市としてデザインされているので都市として大きくはない。
実際、日本サーバ、北米サーバなどという呼称は便宜的なものだ。互いに接続された複数のサーバによる有機的なネットワークは、理論的にはゲーム世界内を旅して別の大陸にでも世界の果てにでも行ける。つまり他のサーバにでも移住できると〈エルダー・テイル〉では発表されていた。
ただ『ハーフガイアプロジェクト』というのは、ゆくゆくの目標であり、現状ではこのゲーム内〈ガイア〉は、現実の地球の全てが再現されている訳ではなかった。
たとえば広大なフィールドゾーン『フジ樹海』のように凶悪なモンスターが出現する場所もあるし、『シンジュク駅ビル廃墟』のようなダンジョンや、『アキバの街』や『ナカスの街』のように非戦闘地帯の市街もある。
このように、フィールドゾーン名が明らかに日本の地名風なのである。日本をモチーフにした日本サーバー内だから当然の話でもあるが。
とどのつまり。完結にいえば、この〈エルダー・テイル〉の日本サーバー内には和装の戦士が居る、という事だ。
結婚衣装に着替える前のヒルヒメとツキヨミも和装だった。職業は日本サーバー固有の戦士職〈武士〉や回復職〈神祓師〉ではなかったけれど、ヒルヒメは〈符術師〉ツキヨミは〈星詠み〉をサブ職業としている。そのサブ職業のおかげで二人は〈吟遊詩人〉と〈暗殺者〉であったが和装になれたのだ。
現在はどこからどうみても新郎新婦的装いのヒルヒメとツキヨミは、安全に着替える場所もないのでそのままの格好でナカスの街を歩く。
「元の世界に、帰れるのかな……」
ぽつり、ヒルヒメは呟いた。
この世界に取り残された無数のプレイヤーのほとんどが一様に考えてる疑問だろう。現に、うずくまっていたり騒ぎ立てていたりするプレイヤーの何名かがそれに準じる言葉を口にしていた。
「私はヒルヒメさえ居れば他はまあ、どうでも良いのですがね」
「そんなこと言わないの。わたしは帰れるなら帰りたいよ。会いたい人がいっぱい居るんだから」
家族だとか〈エルダー・テイル〉をプレイしていないリアルの友人だとか。突然この世界に放り出されて二度と会えないなどとんでもない話だ。
「さて。……現実的な話をすると、帰還するのは当分諦めた方が良いでしょうね」
「方法が解らないのですから」と彼は無常に告げる。だが、彼はそう言うだろうな、とヒルヒメはどこかで思っていた。だから、強く反論する気持ちは湧かない。
「容赦ない現状認識だね」
「現状認識に容赦を入れると死にますよ」
「そうなの?」
「そうです。希望的観測は確実性を持ってから。不確定な中で盲目的に希望を持つと絶望に真っ逆様です」
ツンと澄ました様子で「例え辛くとも地に足を着けねばなりません」と言い切った。
「じゃあ、当分のところ元の世界に帰るのは諦める。で、そうなると、しばらくはここの世界で生活しなきゃいけないんだよね」
「ええ」
ヒルヒメの言葉にツキヨミは、極めて冷静に頷く。ヒルヒメが思い出せる限り、自分がやったことと言えば普段と同じように生活をし、普段と同じように風呂に入り、普段と同じように〈エルダー・テイル〉にログインをして、仲間達と交流をして、突然のように意識を断たれた。ただそれだけ。
普段とおおむね同じ行動を取っていたのに強制的にこの世界に――もしくはこの状況に巻き込まれた。
そこには何らかの原因やこちらの落ち度があるかも知れないが、現状でそれらはヒルヒメ達が窺い知ることは出来ない。
その上、この状況や異世界から脱出する方法が存在するとしても、その方法を少なくとも今この瞬間、ヒルヒメとツキヨミは知らない。
つまり何らかの手段を探して元の世界に戻るにせよ、この世界に巻き込まれたのと同じように『偶然』もとの世界に復帰できるのを待つにせよ、ヒルヒメ達はその間、この世界で生き残る必要がある。
「この世界で死ねば元の世界で目が覚めるという可能性もありますが、実行はお勧めしません。まず本当に帰れるのか確証がありませんから」
「そうだね。あんまり賢い選択じゃない。本当に死ぬだけだったら元の世界に帰るどころじゃないし」
「仮に帰れたとしても、死ぬ覚悟は相当必要ですよ」
「そうかも」
『元の世界に帰れるんだって! じゃあ死んじゃおう!』なんて心境には到底なれない。少なくとも、現状のヒルヒメはそうである。
「……じゃあ、まずはこの世界でどうやって生きるか、だね」
「ええ。流石にナイフ一本で無人島に挑む……程ではないにせよ、以前のような文化的な生活はしばらくはお預けですよ」
「うーん。でもさ、サバイバル自体は問題ないんじゃない?」
「そうでしょうか」
「だって、少なくともわたし達はレベル90だよ? 難関のゾーンやダンジョンを今から突破しろっていうならともかく。ただ単純に生きるだけなら、そんなに辛くないんじゃないかな。この世界にはお店もあるし、お金だって持ってるし。装備も……今の格好はアレだけど、そこそこに性能は良いし。大丈夫じゃない?」
「……私は、そうとは思いませんね」
「どうして?」
ツキヨミはこの状況をかなり悲観しているらしい。そう、ヒルヒメは悟る。どうしてだろうか、と、ふと冷静になって思考してみる。
けれど、ヒルヒメはツキヨミの抱えているであろうその懸念が分からない。「わかんない。降参」とヒルヒメは素直に白旗をあげる。すると、ふ、とツキヨミはわずかに口元を緩めた。だがそれは一瞬で、再び険しい表情になる。
「私達が異世界だかゲームの世界にだか判りませんが、巻き込まれたという時点で既に、変でしょう」
「うん。まあ、それは確かにそうだけど。……どういうこと?」
「つまりこう思うのです。『通常なら異世界に迷い込むなどある訳がない。通常でない事が起きた現状、当たり前は当たり前に通用しない。つまり、当たり前に生活が出来ると信じると怪我をするだろう』と」
ツキヨミの言葉に、ヒルヒメはしばらくきょとんとしていたが、やがて眉間を寄せ口を開いた。
「なんというか。すごく嫌な三段論法だね」
「だけれど、そうでしょう?」
「それはそうかもだけどさ」
ツキヨミは自身の手のひらを軽く握ったり開いたりする。もしかすると90レベルはあるはずの自分の身体を信用していないのかもしれない。
「もうひとつ指摘すると、恐らくは新拡張パックが導入されています」
答えを促すようにツキヨミはヒルヒメに視線を向ける。
「〈ノウアスフィアの開墾〉……だっけ?」
「はい。新拡張パックが導入されているという前提で考えると、新アイテムやモンスター、クエストが追加されているのみならず新ゾーンも追加されている筈です。なにより、いままであったゾーンさえリメイクされているかも知れない」
「いわれてみれば……その通りかも」
ヒルヒメから視線を逸らしツキヨミは言葉を続ける。
「私は〈暗殺者〉なので、魔法については不明ですが、剣技やその他体術などは問題なく使えます。ショートカットに登録していた技などは素早く繰り出せますが、それ以外となると……一度メニューから選択するので戦闘中には遅くて危険ですね」
「うん。わたしも登録した技が素早く出せるのは、やってみたから判ってる」
「ですが。出来るからといって戦闘に必ず勝てる訳ではない」
「そうなの?」
「ヒルヒメは身長どれくらいですか。現実の方で」
「165くらいだよ。このキャラも大体同じ」
そう答えたところで、身長を設定出来る事を思い出す。
「そっか、現実とこっちで身長が違う人が居る……って事?」
「そうです。私も同じですが。恐らく、身長が異なる者は腕の長さや視界に違和感が出る。底の厚い靴を履いているような程度ならばまだマシですが、場合によっては竹馬に乗るだとか逆に縮んでいる可能性もある訳です。そういう風に、現実の身体とこの身体に違いがある」
「つまり、わたし達が今こうして使っているこの身体はわたし達が慣れ親しんだものじゃない、って事か」
なるほど、と納得して頷くと「理解が早くて助かります」とツキヨミは目を細めた。
「仮に剣技や魔法が使用できたとしたとしても、身体を実際に動かす感覚がどこまで戦闘向きなのか分かりません」
「そっか。ゲームでモンスターをやっつけるのとリアルでやっつけるのとでは感覚は違うよね……」
「……それ以上に、この状況だとステータス確認がし難い」
不思議そうに首を傾げたヒルヒメに説明を続ける。
「額のあたりに集中すればステータス画面は見えます。パーティを組めば、私とヒルヒメのお互いのHPも確認できるでしょう。しかし、これを戦闘中に常に意識するのは結構大変です。援護者になるヒルヒメはまだしも、私のように前線で戦う職業の場合。目の前に敵がいる状況で、斬り合いながら意識できるかというと、かなり難しいと思いませんか」
「戦闘は相当に厳しいってこと?」
「そうです。まあ、正確には『ゲーム通りにはいかない』という感じでしょうかね」
ツキヨミは改めて説明しなかったけれど、視界の問題もあるだろう。パソコンでゲームとして遊ぶ場合、視界をぐっと広くして全体を見るような視点でプレイをすることも出来た。けれど、このような状況になってしまえば目の前120度くらいの光景しか認識することは出来ない。
たとえばトロルやジャイアントなどの巨大な敵と戦う時、ドラゴンのように高速で飛行する敵と戦う時は、以前とは比較にならないほどの死角が発生するだろう。――つまりは戦闘に関しては問題が山積みなのだ。
「それだけ?」
「まだあります」
「なに。話しにくいこと?」
困ったようなため息の音。見るとツキヨミは少し困ったような面倒そうな表情をしていた。
彼が何を憂いているのか、ヒルヒメにはさっぱり分からなかった。
正直に言えば今まで話したような事は、戦闘の問題やゲームとの差違点の問題など些末なことだ。確かに面倒だし難易度も上がるけれど、乗り切れないような問題ではないだろう。
「なんだろ」
首を傾げると、次は呆れ混じりの溜息が聞こえた。少しむっとしてヒルヒメは口を結ぶ。
「貴女、なぜ私が来るまであの聖堂から出ようとしなかったのですか」
「……それは、怖かったから」
「なぜ」
「え?」
「だって、ヒルヒメは日本では出勤や買い物などで一人で外出することもあるでしょう」
「それは……まあそうだけど」
「――〈エルダー・テイル〉の日本サーバーにはだいたい120万くらいのキャラクターが登録されていて、10万人前後のアクティヴ・ユーザーが居るとされていましたよね」
「うん。急にどうしたの」
それはヒルヒメ達プレイヤーにとって、常識といえる数字の羅列だった。
「今日は新拡張パックのお披露目ということで普段より多くの人がアクセスしていたでしょう。私の予想では、日本サーバーではだいたい三万人前後。これはフレンド・リストのうちログインしている割合からいっても、さほど見当外れな数字ではない。恐らく、この異世界には、三万人の日本人が取り込まれています。他国のサーバーについては判りませんが」
ヒルヒメが素直に頷く。
「つまりここには三万人の人間が居て――」
ツキヨミはあえてプレイヤーとはいわなかった。
「でも統治機構も法律もない。――つまりは、犯罪を起こしても誰も取り締まらないのです」