第八話『行方不明』
「トーマさん!ゲイルさん!」
迎えに行くと、フェアリーが半泣きの笑顔で駆け寄ってきた。そのままトーマに抱きついたのは言うまでもない。
「心配かけてゴメンな。呪いじゃないのは確認してきたから、今度からは心配しなくていい」
「今度からって。また行くの?」
「ああ。今日わかった事だけじゃ、工事業者の人間が絶対に大丈夫とは言えないからな。まあハッキリ言ってしまえば、犠牲者を出さずに非常に簡単に取り壊す方法はあるんだが」
「何?」
「確認作業なんかしないで、いきなり重機でバキバキドカーン!以上」
「あー。そりゃそうか。そうしろって言えばどうだ?」
「それは無理でしょうね。だからイガラシさんもそう仰らないのでしょうから」
そう言いながら笑顔で近付いてきたのは、この家の夫人、ナンシー・ミラー。フェアリーの母親である。
「ご無沙汰しております。娘には大変良くして頂いてるようで、本当に感謝していますわ」
「いや。お嬢ちゃんがいるおかげで俺も楽しいし、助かっている。礼を言うのはこちらだ」
「そう言って頂けると、重役を押し付けた身としては救われます」
これがナンシー・ミラーか。ゲイルは意外に思った。職業柄顔は知っていたが、写真で見た彼女は無表情で、いかにも大富豪の夫人といった高慢さを感じさせられるイメージだった。それがトーマに対するこの表情はどうだ?まるで普通の優しいお母さんのようだ。
「イガラシさん。この後、お仕事は?」
「緊急の仕事が入らなければ、次は二十時以降に二つ」
「では今は空いていますのね。お茶を入れますので、少し休んでいかれませんか?」
「俺みたいなならず者を家に上げたら、周りの人間に良く思われないぞ」
「ほほほ。今さら。どの道私どもは一族の中では異端ですもの。それに恩人をならず者呼ばわりして感謝もしない人間の方が、よほどならず者ですわ。あなたに危険な仕事を押し付けて、感謝するどころか文句を言う人達のなんと多く、なんと愚かな事か。先日の火災の事もそうですわ」
「あれは子供の救出の仕方が危険すぎる上に、ショック状態の子供を更に泣かせたと、公式には出ていたと思うんだが」
「メディアの作った情報など信じられるものですか。私はあなたのファンですから、ちゃんと調べましたのよ。事実は私が思った通りでしたわ。子供が抱きついて泣いたのは、安心したからに他なりません。怖がって泣いた子達が、その対象に抱きついたりするはずがありませんもの」
「いや、まあ、それはどうでもいいんだが。ファンってなあ」
トーマは呆れて片手で頭を抱えた。そんなトーマがゲイルには意外だった。人から感謝されたり誉められたりする事に慣れていないからか、どこか照れているように見えたのだ。
それにしてもファンとは。トーマの事をそのように言ったのは、この夫人が初めてではないだろうか?いや、もしかすると今まで救われた子供たちの中には、トーマをヒーローだと思った子もいるかもしれないが、そんな事を言おうものなら、まるでR指定の暴力映画を見たかのように、親から鬼の形相でたしなめられるだろう。何しろトーマは『金のためなら平気で殺しも請け負う、冷酷非情な社会の必要悪』というのが世間の評判だ。
「ところで夫人、強引に重機で破壊するのが無理というのは、どういう理由ですか?」
「そうそう。ママ、どうして?」
「ですから、外でお話しするのも何ですし、どうぞ中へ。ゲイルさんでしたわね。あなたも」
結局こうして笑顔で強引に家の中に通された。
さすがは宇宙都市きっての大富豪の家である。客間まで時間のかかること。二十一世紀初頭の日本の中流家庭に生まれたトーマにしてみれば、映画やマンガみたいな世界だ。ゲイルにしても、十七世紀から続く直系の血筋で、そこそこ裕福な家系ではあるものの、あくまでも一般家庭の範囲内だし、十代半ばから一人暮らしをしているので、やはりこういった豪邸は初めてだった。
「それで、重機での破壊が無理なのが何故かという話でしたわね」
陽射し(人工の)が差し込む客間で、なんと夫人の手ずから入れられたジャパニーズ・ティーを前にして話し始めた。
「そもそも呪いが恐ろしくてイガラシさんに行った依頼です。強引に破壊などしたら呪われてしまうのではないかと思って、誰もやりたがりませんわ。依頼主の意にそぐわない仕事では、仕事料が減額されてしまう恐れがあります。それを避けたいからこそ、イガラシさんもそうしないのですわ」
「はあ。なるほど」
何故これほどの人物が、ミラー家の中でも地味な存在として扱われているのだろう?ここの主である三男は良識ある堅実派で、同族経営を嫌い、経営陣に必要以上にミラー家ゆかりの者を加えない主義だという。故に一族の中では異端とされ、財閥総帥の跡継ぎ候補にも名前は挙がらない。その妻も表舞台に出てくることはほとんどなく、趣味で日本文化交流会なる教室を開き、日々陰謀とは無縁の生活を送っているというが、しかし。
その宇宙都市きっての大富豪一族の一員は、更にこう続けた。
「私が依頼主ならお願いしたのですけれどね。重機でドカーン!残念ですわ」
「ああ、確かにそれは残念だな。ナンシーさんが依頼主なら良かったのに」
「ママは怖くないの?呪い」
「呪いで死んでいたら、お義父様などとっくに地上から足が離れているわよ。命がいくつあっても足りないでしょうね」
「でも人に対してじゃなくて、場所についている呪いだってあるかもしれないじゃない」
「フェアリー・ローズ、私は呪いなどというものがない、と言っているわけではないのよ。人知を超えた事は現実にあるのだし、そういうものもあるかもしれないわね。だけど実際にどれだけの人に恨まれたり呪われたりしているか分からないお義父様が生きているのよ?あの方のせいで潰された会社の社長さん、その家族、社員とその家族。それだけでも何千人、何万人になるか。怨念のこもった遺書を置いて自殺した人の数もね。つまり、きっと亡くなった人の怨念よりも生きている人の生命力が勝っていたら、それは届かないのではないかしら。イガラシさんも私も、そんなものに負けない自信がありますもの。だから平気なのよ。ね、イガラシさん」
「そうだな」
「そういう事よ、フェアリー・ローズ。絶望的な状況にあっても屈しない心。大切なものがあって、それが人であれ、地位であれ、物であれ、絶対に守りたいなら、何ものも恐ろしくはないのよ。一番怖いのは大切なものを失くすこと。それを忘れなければ、得体の知れない呪いなどに怯える必要はないわ。怯えていなければ冷静に物事が見えます。だからイガラシさんは何も恐れないのではなくて?」
トーマにとって失くしてはならない大切なもの。カレン。彼女と、お腹にいる子供と共に、誰に邪魔をされる事もなく平和に生きられる場所。それを作るために何が何でも生き続ける。それが、トーマが恐れない理由。それが、トーマの強さの理由。ならば自分は彼を信じる強さが必要なのだろうか?彼の、妻や子供のために生き抜く執念を信じて?仕方がないと割り切っているつもりだが、やはり虚しい。
ふと頭にひんやりとした感触を覚えて隣を見ると、トーマがフェアリーの頭に手を置いて笑いかけていた。
「また落ち込んでいるな。大丈夫だ。俺はお嬢ちゃんも大切で、絶対に守らなきゃいけないものだと思っている。だからこそ、この依頼はキッチリやり遂げたい。俺にはそれくらいしか、お嬢ちゃんが喜ぶことはしてやれないからな」
「そんな事!……ない。トーマさんといられるだけで、私は嬉しいから」
ナンシーは嬉しそうに二人を見つめていた。穏やかな母親の顔。この表情を見ているだけで、フェアリーに対する愛情が伝わってくる。トーマはここを離れると言っているが、この母親から娘を引き離して平気なのだろうか?ゲイルがそんな事を思っていると、ナンシーの方からさりげない言葉の爆弾を落としてきた。
「ありがとうございます、イガラシさん。そう言って頂けると、安心して娘と別れられますわ」
「え?ナンシー夫人。あなたは、レオン‥‥‥いや、トーマがここから離れるつもりなのをご存知なのですか」
「当然でしょう。元々流れてこちらへ来られた方なのですから。ここで永住するはずもないでしょう」
「それでよろしいんですか?」
「いいも何も。親子とはいえ、ずっと一緒にはいられないのは、大抵のご家庭では同様でしょう。私共は二年以上前から別々に暮らしています。ですが、その前の何年かよりずっと、心はつながっています。モザイクの絵画を思い出して下さい。至近距離だと全体像が見えず、何が描かれているのか分かりません。が、離れてみると何が描かれていたのかが分かり、新鮮な驚きと同時に、全体像を理解できた喜びも感じます。人の心も似たものだと思いますわ。ですから今の私は娘と離れていても、イガラシさんと楽しく、時にはもどかしい思いを抱きながら暮らしている様子‥‥‥どんなものを食べ、どんな表情をするのかなど、全て思い浮かべる事が出来ますし、それだけで幸せになれます。勿論たまにでも会えれば、それに越したことはありませんけれど、会えなくても心はそばにありますわ」
「ママ‥‥‥!」
フェアリーは思わず立ちあがってナンシーの元へ行き、抱きついた。小さな子供のように泣きながら。その様子を見ながらトーマは深く頭を下げた。
「悪い。本当は、あんた達を引き離したくはないんだが」
「あなたが謝る事ではありませんわ。元はと言えば私共の一族が招いたことで、あなたは少なくとも私と主人、そしてフェアリー・ローズにとって恩人であり、救世主なのです」
「そんな大げさな」
「大げさではありません。二年前のあの時、私たちが救われたのは命だけではなかったのですから」
真っ直ぐな感謝の気持ちを受けて、トーマは居心地が悪そうに目をそらし、夫人が淹れた『ジャパニーズ・ティー』を口に運んだ。元々日本人だとはいえ、それほど茶に詳しかったわけではない。一般家庭の子供だったのだから。それでも飲みやすい温度、トロッとした口当たりと、ほんのり甘い味から、なんとなく丁寧に淹れられた玉露なのだろうと想像はついた。懐かしい味と言えるほど今まで玉露に縁はなかったが、ふと懐かしい気がしたのは何故だったのか。薄れて、ほとんど思い出せない母親の面影が一瞬、トーマの脳裏をよぎった。
その後、一時間以上ミラー家で談笑し、家に着く頃にはもう夕食をとらなければ夜からの仕事に間に合わないくらいになっていた。フェアリーは帰るなりエプロンを身に着け、キッチンへ走った。ナンシーから土産に良いステーキ肉をもらったので、即、調理してくると。同居を始めた頃であれば、せっかくの肉に火を通しすぎてしまいかねなかっただろうが、この二年で努力を重ね、調理師免許を取得した実力はダテではない。安心して任せた。
ゲイルは「夕食が出来たら呼んでくれ」と言い、仮の自室に戻った。情報屋の仕事はよろず請負業と同様、それ以上に1年365日、24時間休みなしだ。情報は時間を問わずに常に世の中を駆け巡っているものだから。そうして戻った部屋でゲイルは今、茫然としていた。知らない所で不測の事態が生じていたのだ。
「レティシアが行方不明!?最後に見かけたのはいつだ?一年くらい前?部屋には入ってみたのか?荒らされた様子とか、争った後のようなものは‥‥‥。そうか。分かった。こっちで調べる」
電話の相手は、レティシアやゲイルが住んでいたアパートの管理人だ。この時代、紙を使った新聞や広告などは存在せず、郵便物がポストにたまって長期の不在が知れるという事はない。ただ、この管理人は世話好きで、一人暮らしの住人の所によく差し入れを持っていく。そのためレティシアの不在も分かったし、姿の消し方が不自然であるのにも気付いた。
ゲイルは、当初はもちろんレティシアに連絡をした。だが家はおろか、I・Bも、電話をしてもコール音すらせず、メールは弾かれ送信できない。急ぎ伝言を頼もうと管理人に電話をしたのだ。まさか行方不明になっているとは。しかも一年も前から。
管理人の話によると部屋に争った形跡はなく、荒らされた様子もないので、家に何者かが押し入って事件に巻き込まれたといった感じではなかったらしい。家賃は毎年一年分を一度に払っていたので、金に困って雲隠れをしたとも思えない。何より、ちょっとした旅行に出る時にも、何日不在にすると必ず管理人に伝えていたほど、キッチリとした性格だったのだ。何も言わずに姿を消すのは不自然すぎると心配していた。
(レオンに言うか?言ったところで、こちらでの仕事を多く抱えてるんだ。しかもデカい仕事も待っている。レティシアの捜索など出来るはずもないが)
自分は情報屋だ。タレコミ屋から情報を仕入れ、整理することは出来る。しかし自分の所に入る情報だけでは偏ったものになる。情報屋同士での横の連帯は余程の事がない限りはないので、情報交換も出来ない。当然だ。独自の情報を持っていてこそ、商売が成り立つのだから。そこで様々な情報を収集できる『よろず請負業』者であるトーマの協力が欲しいのだが、その望みは薄い。依頼をすれば受けてくれる可能性はあるが、いくら吹っかけられるものやら。
考えをめぐらせた結果、やはり放ってはおけないという事で、夕食時にとりあえずトーマに話してみた。
「ふ~ん。で、俺にどうしろと?」
大体予想通りの反応だ。この男がレティシアの事で狼狽や動揺をするところなど、想像もできない。しかし、だからといって引き下がってはレティシアが哀れすぎる。いくら提示してくるか考えるだけでも恐ろしいが、人の命がかかっているのだ。意を決して、依頼という形でトーマに頼もうとした。その時。
「分かったよ。俺が探せばいいんだな?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥へ?」
「それが言いたかったんじゃねえの?」
「いや、そうだけどさ。なんつーか、あっさり引き受けてもらえるとは思っていなかったぜ」
「予想しているとは思うが、もちろん無条件にやる気はないぞ」
「んなこたぁ分かっている。‥‥‥いくらだ?」
聞いておいてから、ゲイルの喉がゴクンと鳴った。一体いくらだ?現実的に、個人が払えるレベルの額にしてくれよと、心の中で拝むように手を合わせた。しかしトーマの口から出てきた言葉は、ゲイルが全く予想だにしていないものだった。
「金はいらない。その代わりレティシアを見つけたら、二人でリブリー・シティに戻って、二度と俺に関わろうとするな。つーか忘れろ。それが条件だ」
「なんだ、それ?お前みたいにインパクトのあるヤツ、どうやったって忘れられるわけないだろ」
「人の頭の忘却機能を甘くみるな。案外、覚えておきたい事も忘れちまうもんだ。死んだヤツの声とかな。なんとなくは思い出せても、徐々にあやふやになってきちまう。だから、たった三年にも及ばない月日しか一緒にいなかったヤツの事なんざ、いずれ忘れられる。心配するな」
「そうじゃねえだろう!俺はいいとしても、レティシアは」
「二者択一だ。俺にレティシアを捜させたいなら俺の事は忘れろ。それが無理だと言うなら、この件には一切関知しない。どうだ?金はいらないと言っているんだから、破格の条件だぞ」
確かに破格の条件だ。だが、まだ金額を提示された方が良かった。
金は出すから捜してくれ。見つけたらレティシアの想いを受け止めて、ずっと一緒にいてやってくれ。そして俺にお前の謎について本当の事を話してくれ。などというふざけた事を言えるはずもなく、トーマの条件にケチをつける権利もゲイルにはない。しかし、ここで独断で依頼をしてしまえば、レティシアは二度とトーマと会えなくなり、話す機会も与えられず拒絶される事すらあり得る。そうなった場合、レティシアは生きる気力を失うのではないか?トーマが依頼を終えて街を出て行っただけで、すでにギリギリの状態だったのだ。もう関わるな、忘れろと、完全な拒絶を受ければどうなるか。
「まあ呪いの館の件もあるし、それが片付くまではここにいていいという約束もしている。だからゆっくり考えればいいさ。姿を消して一年も経つなら、今から焦って捜したところで状況は変わらねえだろ。これから一ヶ月前後で、今さら生死に影響を及ぼす劇的な変化があるとも思えないしな」
「お前‥‥‥本当に冷たいのな。心底レティシアのことはどうでもいいのかよ」
「ああ。いちいち依頼人に情を移していたら、こんな仕事やってられねえよ」
「細かい依頼ならともかく、しばらくは一緒に暮らした仲だろ。少しくらい情が移るのが人間ってもんじゃねえのか?」
「‥‥‥隠していて悪かった。実は、俺はお前の言うとおりヴァンパイアなんだ」
「‥‥‥はあ?急に何を言っている?」
「人間じゃねえから人の心なんざ分からない。若く美しい処女の血が最上級の食事だから、お嬢ちゃんをそばに置いている。この子もそれを承知でいてくれるしな。レティシアは少なくとも処女じゃねえし。どうでもいいんだ、実際。どうだ?この答えで満足か?」
トーマは冷たい目でゲイルを見た。普段はトパーズ色の目が赤くなる瞬間。
しつこくレティシア、レティシアと言われ、怒る気持ちは分かる。しかしゲイルは見ていたのだ。トーマといた時の幸せそうな彼女を。トーマが去った後の彼女を。とても同じ人間には見えないような変わり方だった。だから、せめてもう一度会い、話をしてやって欲しい。それだけだ。一緒にいられない理由を言ってくれれば。そう思いトーマを捜し続け、ようやく見つけたと思った矢先に行方不明になるとは。自殺しているのでは?という不安はある。と言うよりも、八割ほどはその可能性を考えている。しかしそれを口にしてしまえば、トーマに「そう思うなら俺に無駄な労力を使わせるな」と言われそうで。
(待てよ。レオンは冷酷なほど理想論を排した考え方をするヤツだ。レティシアが自殺している可能性を考慮しないはずがない。それでも“二人で帰れ”と言った。つまりレオンはレティシアが生きていると信じてくれているという事か)
再びトーマを見ると、不機嫌そうにステーキを食べていた。怒っていると言うより、不機嫌そう。思い返してみると、彼はムッとする事は多い気がするが、激情は見た事がない。ほとんど笑わないし、泣くのはもってのほか。幸せを感じる瞬間などありはしないのでは?と思う。表面上がそうだから周りから誤解をされる。ゲイルも何度「冷たいヤツだ」と思ったことか。しかし実は違うのかもしれない。レティシアの生存を前提にしているあたり、言葉ほどに冷淡ではない気がする。本当に冷たいなら「どうせ、もう死んでるだろ」の一言で片付けてもおかしくないのだから。
やはり、もっと知りたいと思う。この男は奥が深くミステリアスだ。これほど興味を引かれる存在など金輪際、現れないだろう。そう考えると縁を断つわけにもいかず、かと言ってレティシアは放っておけない。結局その堂々巡りから抜け出せなくて、ここで結論を出す事はかなわなかった。
「カレン。レティシアが行方不明だそうだ。やはり俺を追って街を出たんだろうか?」
食後トーマは妻の元へ行き、いつものように他の誰にも話さない心のうちを彼女に語りかけていた。コールド・スリープの装置を改造した、生命維持装置とも言える彼女のベッドに、もたれかかるように座りながら。
「なんで俺なんだ?ゲイルの方が優しいだろうに。お嬢ちゃんにしても、なんで俺なんか」
『あなたは、もう少し自分がモテる事を自覚するべきです。私も、あとシンディーだって、あなたの事を好きだったんだから。他にも思い当たる人が何人もいるわよ。本当に気付かなかったわけじゃないでしょ?』
優しい声が答える。無論ガラスケースの中に横たわる彼女が声を発しているわけではない。十四歳から五十年ほど一緒にいたため、自分がこう言えば彼女ならこう言うであろろうという答えが、リアルに思い浮かぶのだ。実際トーマはそう思っているのだが、何となく本当に彼女の声が聞こえているような錯覚(?)を起こすことはままある。錯覚でしかないと分かっていても、幸せな時間である事に変わりはない。
「彼女たちの場合は護られている間の、勘違いの恋愛感情だと思っている。だから日常が戻ったら、すぐに忘れられるんじゃないかって」
『相変わらず女心が分からないのね。困った人。そんなドラマティックな体験をして、簡単に忘れられるはずないじゃない。しかも思い出は美化されるのよ?レティシアさんの思い出の中にいるあなたは、きっと映画のヒーローみたいなのでしょうね。それにあなたは普段、どちらかと言うとそっけないでしょ?そんな人が、たまに優しくしてくれたり、ピンチの時には命がけで護ってくれるのって、女の子からすればもう好きになってくれ、と言われてるようなものよ』
「じゃあ普段から優しくすればいいのかよ?」
『いやあね。気持ち悪い』
「気持ち悪いって、お前なあ」
『ふふ。ごめんなさい。でも、そんなのあなたらしくないわ。仕方ないもの。あなたは好かれようとして、そうしているんじゃないんだから。もしレティシアさんがフェアリーさんみたいに、ちゃんと告白してきていたら、あなたは返事をしたでしょ?』
「ああ。恋愛感情は持てないと、ハッキリ言う」
『言われてもいない気持ちに対して、俺は君をそんな対象だとは思っていない、なんて自意識過剰な事は、よほど自分に自信がある人じゃなきゃ言えないわよ。だからリブリーでの事は、あなたに責任はないと思う。でも、これからの事は別よ。ちゃんとレティシアさんを見つけて話してあげなきゃ。彼女が、あなたが恋しいあまり街を飛び出したのならね』
話してどうこうなるものでもないのに。そうは思っても、愛しい妻の助言には逆らえない。とにかく彼女が目を覚ましたときに、彼女にも、お腹の子にも顔向けできるよう、極端に人(?)の道を外れたマネだけはしないと心に誓っているのだ。
「分かったよ、カレン。だけどな、俺は自他共に認める朴念仁だ。レティシアの心を傷つけないように話すというところまで保証はできないぞ」
『うん。ありがとう、トーマ』
「お前が礼を言う事じゃないだろ。じゃあ、そろそろ仕事に行ってくる。また帰ってきたら会いに来る」
いつも通りにそう言い、ガラスケース越しにキスをして出て行こうとした時
「トーマ」
それこそリアルに呼び止める声が聞こえ、驚いて振り返った。妻は眠っている。今のは何だったのだろう?さっきまで自問自答のように話していた時とは明らかに異質のものだった。そう言えばフェアリーの事件の際に、彼女がカレンの声を聞いたと言っていた。こんな感じに聞こえたということなのだろうか?続く言葉を待ったが、何も聞こえてこない。やはり錯覚だったのか。一瞬カレンが目を覚ましたのかとも思えたのだが‥‥‥。
声は聞こえない。しかし何か引っかかるものがあって、カレンの部屋を出てから、仕事に出る前にフェアリーの部屋へ行った。
「トーマさん、どうしたの?仕事があるんじゃ」
「ああ、すぐに出る。その前に、お嬢ちゃんに頼みたい事があってな」
「頼み?トーマさんが‥‥‥私に?」
言葉の後半は声が喜びに満ちていた。家事はこなしているが、それ以外ではまだ何も役に立てないと思っていた自分に、トーマが頼みごとがあると言う。嬉しいに決まっている。
一体なんだろう?ニコニコと待ち構える彼女に告げられた任務は、あまりにも意外な内容だった。
「カレンの部屋の観葉植物‥‥‥俺が例の廃屋の仕事に本格的に取り掛かり始めたら、お嬢ちゃんが面倒をみてくれないか?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥え?」
「何となくなんだが、カレンがそう望んでいる気がするんだ。お嬢ちゃんと話したいのかもな」
自分が娘のように思っている子だ。恐らく彼女も会いたがっているはず。あの時フェアリーに声をかけたのなら、なおさら。二年も一緒に住んでいるのに何故今、この時期になってこんな風に思ったのだろう?自分でもよく分からない。それでも本当に思ったのだ。カレンとフェアリーを、きちんとした形で会わせてやりたいと。
フェアリーは戸惑っていると同時に、ひどく不安そうな表情を浮かべている。やはり死んだように見える者と二人きりになるのが怖いのか?それとも想い人の妻の部屋にあるものを世話するのは辛いのか?実際、唐突な話だし仕方がないかと、トーマは苦笑してフェアリーの頭を撫でた。
「急にゴメンな。イヤならいいんだ。忘れてくれ」
「あ、あの‥‥‥イヤじゃないよ。ただ急にそんな事を言い出すから、なんか遺言みたいで怖くて」
そうくるとは思っていなかった。言われてみると、突然そんな風に思った事といい、確かに何か虫の知らせっぽい感じではある。トーマにそんなつもりは全くないし、不吉に感じてすらいないのだが。何故ならば虫の知らせならぬ、他でもないカレンの知らせなのだから。
「お嬢ちゃん。俺はナンシーさんと、お嬢ちゃんの面倒をみるって約束したんだ。カレンを幸せにするという皆との約束を守れず、カレンと腹の子供が幸せに生きられる場所を作るという誓いを守れず、ナンシーさんとの約束まで守れないようじゃ、俺は究極のウソつきになっちまう。だからそんな深い意味はないんだ。ただ、さっきも言ったとおり、カレンがお嬢ちゃんに会いたがっているような気がするから。それだけだ」
フェアリーはまだ不安そうに下を向き、やがて顔を上げると少し笑って頷いた。
「うん。トーマさんがそう言うなら。それに実は私ももう一度、ちゃんとカレンさんに会いたかったの。あの時のお礼も言いたいし」
「あの時?って、ああ。お嬢ちゃんが俺らみたいに変化しそうになった時に、止めてくれたっていう」
「うん。あの声は絶対にカレンさんだと思うし。前は一瞬で部屋を出たから」
「そうか。そうだったな。だからカレンも会いたいのかもしれない。お嬢ちゃんがいいなら頼むな」
「分かりました。でもプレッシャーだな。枯らしちゃったらどうしよう?」
「ははは。平気だって。丈夫な観葉植物ばかりだし。手入れの仕方で分からない部分は、また聞いてくれたら教えるから」
トーマはいつもと変わらない。言葉は遺言のようだったが、不吉な意味はなかったのだと分かってホッとした。
本心を言えば複雑な部分があるものの、大切なカレンの部屋にある観葉植物の管理を任されたのは信頼の証であり、一人前だと認めてもらえたようで嬉しい。何よりそちらの気持ちの方が強い。あともう一つ思ったのは、現在ゲイルが同居しており、トーマの留守中にうっかりカレンの部屋に入られては困るから、という事情もある気がする。見張りになるならそれもいい。トーマの役に立てるなら。フェアリーはそう思い、頑張るねと答えた。