プロローグ
ミラー家の騒動から二年。トーマはまだ、その土地に留まっていた。
およそ五年で別の土地に移り住むことを繰り返すようにしているので、そろそろ引っ越し時なのだが、なかなか出来ずにいる。今は完全に同居しているフェアリーがほとんど両親に会えなくなると思うと、少しでも長くこの地に留まってやりたいと思う『親心』である。
そのフェアリーは、あれから資格取得に励んでいた。この二年で取った資格は四つで、現在は五つ目の結果待ち、次の資格取得を目指して勉強中、という状態だ。何故こんなに短期間に資格を取っているのかと言えば、ひとえにトーマの役に立ちたいがためである。
そして……
「やったよ、トーマさん!五つ目合格!」
「マジかよ?すごいペースだな。そんなに頑張らなくても、もっとゆっくりすればどうだ」
「大丈夫。安心して。無理はしていないから。勉強って、したいと思ってすれば楽しいんだもん。もっと色々覚えたい。覚えて、それから……」
早くトーマの仕事が手伝えるようになりたい。言葉にはしなかった。が、そんなフェアリーの気持ちくらい、言われなくてもトーマには分かっている。
フェアリーはトーマに対する好意を隠そうとはしない。二年前からずっと彼を好きな気持ちに変わりはないし、更に強くなってさえいる。実際、前の事件の際に告白した上に、無理やり唇を奪ったり(?)もしたわけで、彼がフェアリーの気持ちを知らないはずはなく、隠す必要もないのだ。あわよくば少しでも意識してもらえればという下心もあるが、彼は相変わらずフェアリーを『お嬢ちゃん』と呼び、まるで子供扱いである。まあ、百五十年以上も生きているトーマからすれば、子供以外の何者でもないだろうが、自分だってもう二十二歳で酒も飲める年なのだ。女扱いまでは望めなくても大人として認めて欲しい、そう思う。
トーマは女心に、というか、自分に向けられる好意にかなり鈍感なのだが、フェアリーに関しては、ちゃんと彼女の気持ちを分かっている。彼女があからさまに好意を示している為でもあるが、二年も一緒に暮らしているとさすがに気付く事も多い。トーマが眠れる妻の所へ行く時、笑顔の下に切なさを隠して手を振っている事、日常生活の中で手が触れた時、顔が近くに寄って目と目が合った時など、何かを求めるように瞳が揺れている事。分かってはいるのだが…………。
フェアリーの頭をクシャクシャと撫で、トーマは彼女の目線の位置まで顔を持っていった。当然フェアリーは驚き、顔を真っ赤にした。
「……トーマさん……」
「ぷっ!ヘンな期待すんな。な、資格取得祝いに美味いモンでも食いに行くか」
「あ……もう!知りません!」
「行きたくないのか?」
「…………行きたい」
「よし。じゃあ用意してこい」
ふくれっ面で、それでも急いで用意をしようと小走りで部屋へ向かうフェアリーの後姿を見ながら思う。
彼女に対する情はある。それは間違いない。しかしその情の正体が、恋や愛と呼べる類のものではないと自覚しているので、彼女の気持ちには応えられないのだ。いや、もしかすると少しはそういった感情もあるのかもしれないが、トーマの心の大部分は妻であるカレンで占められているし、一時の情に流されて関係を結んだとしても、最後にはカレンの元へ戻る。ずっと一緒に暮らしていくのに、自分が『奥様が目覚めるまでの慰み者』となる事に、フェアリーが耐えられるとは思えない。そしてトーマ自身、フェアリーをそんな風に扱いたくはない。だから先程のように「俺にとっては、お前は子供なんだ」と示し続けるしかないのだった。
用意を済ませて出てきた頃、フェアリーのご機嫌は治っていた。笑顔で駆け寄る彼女を複雑な心境で見やり、トーマは苦笑しつつ立ち上がった。
「さてと、お嬢ちゃんは何が食べたい?」
「う~ん。食べたいものはあるんだけど」
「なんだ?」
「つい食べに行きたいって言っちゃったけど、トーマさん体を張って頑張ってお金を稼いでいるのに、私の為に無駄遣いしていいの?」
「ははっ!そんな事気にしてんのか。大丈夫だ。お嬢ちゃんの家からは養育費とかで毎月、実際にかかる以上の金を貰ってるからな。それは仕事で稼いでいる金じゃないし、お嬢ちゃんの為に使うべきもんだろ」
「え?養育費?いつの間に」
「仕事抜きでお嬢ちゃんと同居を始めてすぐ。それからずっとだぜ。もういい、つってんだけどな。自分達の気は済むし、俺は楽して金が入るんだから一石二鳥だろうと、貰えるものは貰っておいた方が得だとか言いやがって。お嬢ちゃんの両親はいい根性してるよ」
フェアリーは両親の姿を思い浮かべ、クスッと笑った。今も時々両親に会いに家へ帰っているが、以前とは比べものにならないほど家族仲がいい。その分、家にいて悪態をついていた長い時間が悔やまれる。あの優しい両親を悲しませていた自分に腹が立つ。トーマがいなければ今でも誤解したままだったかもしれない。そう考えると、あの事件は結果的に自分にとって必要なものだったのだと思える。あくまでも結果論だが。
それでも今から家に戻りたいとは思わない。誰よりも何よりも、トーマのそばにいる事が幸せだから。その幸せをかみしめるようにトーマの腕を取った。
「じゃあ甘えちゃおうかな。創作野菜料理のフルコース!」
「野菜かよ。普通のフルコースでもいいんだぞ?」
「だって野菜が好きなんだもん。それともトーマさんがお肉食べたい?」
「いや。俺も野菜は好きだぜ。じゃ、行こうか」
どさくさまぎれにトーマと腕を組んだまま、フェアリーは上機嫌で頷き歩き出した。その直後
「おい、レオン!いや、トーマ・イガラシだろ?」
後方から聞こえてきた男の声に、え?と振り返りそうになったフェアリーの肩に腕をまわし、トーマは振り返れないようにした。
「トーマさん、知り合いなんじゃ」
「だろうな。だがな、俺みたいな仕事をしている人間に街中で声をかけてくるのは、たいていロクな奴じゃない。無視するに限る」
「うん。分かった」
言いながら密着した体にドキドキしているフェアリーである。見知らぬトーマの知り合いに、心の中で感謝したりもしている。が、そうこうしている間に後方にいた男は小走りに近づき、トーマの肩に手をかけて無視する事を許さなかった。
「無視しなくてもいいだろ?レオン。探したんだぜ。五年も」
「そりゃ、ご苦労だったな」
「相変わらず冷たい奴だな。こんな美人の彼女が出来たんだから、ちょっとは柔らかくなれよ。なあ?」
そう言って男はウインクしてみせた。
一見した限りでは三十歳前後だろうか?外見年齢ではトーマより少し年上くらいに見える。欧米系の顔立ちは、十人に聞けば九人は確実に「ハンサムだ」と答えるだろうほどのハンサムで、身長はトーマより五センチばかり高く、体格は一・五倍ほど筋肉質だ。魅力的な大人の男といった雰囲気だが、軽そうな態度にフェアリーは一目見て嫌悪感を覚えた。
「でさ、レオン。何で俺がお前を探してたと思う?聞きたいだろ?」
「興味ないね」
「い~や。聞いた方がいいと思うぜ。と言うより、少し聞いたら興味を示すはずだ。断言してもいい」
「勝手に断言してくれ。行こう、お嬢ちゃん」
「待てよ!俺は知ってるぜ。お前の秘密」
「そう言えば俺が動揺するとでも思っているのか?誰でも一つや二つ秘密なんざあるだろ。俺やお前みたいな仕事をしている人間なら尚の事だ」
「これは、とっておきだ。聞けよ、『SWORD』」
明らかな挑発に、トーマはトパーズの瞳を冷たく光らせた。
「8番街の『G・S→トーマ』だ。用があるなら明日、午後二時にそこへ来い。ただし言っておく。もし余計な事をかぎまわって、知らなくてもいい事を知ったのなら、俺はお前を消すぞ。それを覚悟しておけ」
「お~怖っ!参ったな。多分、余計な事だぜ」
「なら消すまでだ。遺書を書いておけ。じゃあな」
そう言い捨て、今度こそ男の前を去った。居場所を聞いて満足したのか、男も追いかけて来ることはしなかった。
「ねえ、トーマさん。教えて良かったの?」
「ん?ああ、居所の事か。別に。あいつは情報屋だし、俺が教えなくても場所くらいつかんでるだろ」
「情報屋?」
「ああ。前に住んでいた所で二年半ほど使っていた。俺が今まで利用した情報屋の中でも、飛びぬけて優秀なヤツだったな」
「優秀なんだ。そんな風には見えなかったけど」
「そうか?俺は見かけの印象とやらは分からないな。ただ」
「ただ?」
「あいつは知っている奴に似ている。見た目も話し方も性格も。だからか、あいつは苦手だ」
「ふ~ん」
「なんだよ?嬉しそうな顔して」
「トーマさんが自分の事を話してくれるのって珍しいんだもん」
「そんな事が、そんなに嬉しいのか。やっぱ女はよく分からないな」
そう言えばカレンともこんな会話をしたなと、傍らのフェアリーを見た。不意にその姿がリアルにカレンと重なり、トーマは思わず驚愕の表情を浮かべてしまった。しかし当然それは一瞬で、すぐに嬉しそうにニコニコと歩いているフェアリーに戻った。
(チッ!まったく俺は。あいつと会ったせいか。あいつがイアンと似ているから)
最初に会った時から思っていた。他人とは思えないほど似ている。だから何となく落ち着かなくて、前の土地は三年ほどで出て行ったのだ。ちなみに『レオン』というのは、前の土地で使っていた名前である。
「それはそうと、あの人が言ってたトーマさんの秘密って何の事なのかな」
「さあな。『SWORD』の事は知らないはずなのに、その名前を言ってきたからな。その辺の話じゃないのか」
「それってヤバくないの?」
「どうだろうな。俺の、というか、SWORDの情報を売って利益を得たいなら、わざわざ俺の前に姿を現して、秘密を知っているなんて言わないだろ。何か交渉したい事があるのか。ともかく話す前にヤバくなる事はないと思うぜ。それより、イヤでも明日にはあいつと会わなきゃいけないんだ。今は忘れろ。せっかくの食事がマズくなる」
「うん。そうだね」
とは言いつつフェアリーは気になっていた。あの人は何を知っているんだろう?この二年、トーマと親しくはなれたと思うが、依然として彼の事は何も知らない。百五十余年分の、壮大な歴史の全てを知れるとは思っていないが、ほんの些細な事でもいい、知って、もう少し彼に近づきたい。近づきたいけれど
(多分トーマさんの事だから私は部屋にいろとか言って、話は聞かせてもらえないんだろうな)
こんな事だけ分かっても、ちっとも嬉しくない。恨めしそうにトーマを見ると、彼は険しい顔をしていた。今は忘れろと言っておきながら、トーマ自身気になっているようである。