47都道府県独立す。ただし強制 TKの場合
TK
恐らく一番脆弱なはず。
この文を投稿予約したのは一月六日です。
ある日地球が目覚めた。
そして宣言する。
「私は成長するのだ。ワッハッハ」
その後に続けた言葉が最悪だった。
「地表にしがみついている諸君。地球は大きくなるからね。いろんな所がバラバラになるよ。日本は都道府県単位でバラバラになるよ。バラバラになるとき振動は抑えるけどさすがに海水の擾乱は発生するから県バリアーで防ぐね。僕が落ち着くまで七年くらい掛かるからね。頑張って生きて」
言った途端激しい揺れと共に轟音が鳴り響いた。揺れは震度で言えば三から四程度だろうか。この程度で潰れる家屋・建築物は日本にはまず無い。問題は揺れ続けた場合だが、普通の地震と同じ程度の時間で揺れは収まった。
日本は夕方だった。まだ夜中で無いだけ良かったのかも知れない。ただし季節は秋の終わりという北半球の人間にとっては悪い時期だった。
日本が都道府県単位でバラバラになった。
そして漂流を始めたのである。
波をかき分けチャプチャプ行くのだ。
最初の被害者は県境付近を走行していた列車や車だった。膨大な死者が出た。
東京の羽田空港地下を通る首都高湾岸線の海底トンネル川崎側地下に居た車は全て水没。生き残ったのは出入り口付近にいた車の人だけだった。
関門トンネルと青函トンネルも同じだった。
海底トンネルの出入り口からは海水が一時的だが飛び出してきた。
東京湾アクアラインの海ほたるは千葉県でありそのまま残ったが、神奈川県側は水没した。
県境に架かっていた橋は全て落ちた。
地下鉄や地下街も酷かった。
走行中の地下鉄は全てその場で停止。運転手や車掌も状況が分からず、詰め寄る乗客に説明しようが無かった。
最初に気がついたのは東京メトロ南北線の乗客だった。荒川を都心方面へ通過した地点で停止してしまった。後数駅行けば助かったのに。地下鉄ではあり得ない音が近づいてきていた。ドドドドと激しい水の押し寄せる音だった。閉め切った車内で騒然とした中聞こえた音に乗客はパニックになり緊急時の手動開閉レバーでドアを開けて飛び降りた。非常灯の明かりしか無く暗くて下も見えないのに飛び降りた彼は足を痛めた。痛いと思ったがそこまでだった。次々と飛び降りてくる乗客に踏み潰されやがて死んだ。彼はその方が良かったのかも知れない。その時には海水が来ていた。海水は繋がっている地下鉄を海抜0メートルまで満たしていった。防水扉は情報が交錯している内に浸水が始まり閉じることが出来なくなった。列車が停止していて閉められない扉もあった。一部の駅では自主的に閉めようとしたが中の人を見捨てるのかと人道的な人達が邪魔をして閉鎖に失敗。かえって被害を拡大した。地下鉄の水没被害は東京メトロ南北線の荒川から数駅分だけだった。
だが、そこから排水路や下水道の海抜0メートル以下の配管に海水が満ちるのだった。
最初に悲惨なことになったのは人口密集地だった。
どこと言えば東京であろう。
日本の載荷人口は近代農業を持ってしても人手不足や後継者難、さらには住宅地や工場用地になったりして減り続けていると言うこともあり、東京都に一千六百万人がいればどうなるかは想像するまでも無かった。
最初は停電だった。
電力も大規模な発電所は大井と品川の火力発電所だけであり、大井は停止中、品川は川崎より燃料ガスが提供されていたために停止。
多摩湖の水力発電所も急な負荷によって緊急停止した。もっとも一万九千キロワットであり、東京の需要に対しては屁の突っ張りにもならないだろう。
送電が無くなり東京全域にわたる停電である。
都市ガスの供給も横浜からの導管が切断され各地のタンクに有る分だけの供給となった。
LPガスも都内に有る分だけだった。
復旧のめどは立たなかった。
各地下街や地下鉄は非常用電源による非常灯のみの点灯で、人々は落ち着いて地上に出ようとしたがエレベ-ター・エスカレータ共動かない。仕方が無いので歩いて上がっていった。
一部の人がパニックになったが、周りを見て落ち着いたようだ。それでも暴れる人はいた。
まだ理性はあったので体の不自由な人をみなで手伝った。
多くのビルでは自家発電機などと言うしゃれた設備はない。停電イコール、エレベーター・エスカレーターの停止である。エレベーターサービスの会社は有っても、通信網が停電でほぼ死んでおり連絡が付かない。連絡が付いても対応件数が多すぎて全てへの対応は不可能であろう。
エレベーター内で脱出できずに衰弱死や餓死をした人も多い。
県を超える通信網は光ファイバー網はおろかNTTのマイクロ回線さえも使用できなくなった。
インターネット網に繋がる各社サーバーは自家発電で生きていたが、突然の物理的な回線切断による障害から立ち直るのに時間が掛かった。都外のサーバー経由のネット情報は全滅だった。
そのため再開され接続数が減って回線には余裕が出たインターネットは、この異常事態に情報を求めアクセスが集中しても余裕で繋がっていた。そもそも集中しているアクセスの数が少なかった。
スマホや携帯、WiFiも基地局周辺しか繋がらなくなった。イルミネーターへの電力が絶たれたためで、一部の自家発電設備のあるところがかろうじて繋がる状態だった。その基地局も自家発電の燃料が尽きれば終わるだけだ。
PCは自家発電や太陽光発電などの停電時でも動くPCしか繋がらなかった。
海底ケーブルも切断され海外との連絡も絶たれた。通信衛星は軌道が変わったことと基地局のアンテナの位置により通信が出来なくなった。金融関係で悲鳴が上がったが、世界中同じである。諦めろ。
人々は警察に連絡しようとしても、自家発電設備や太陽光発電の有るところ以外は補助電源が必要な電話機やIP電話は全て使えなくなっていた。昔ながらの電話線一本で繋がっている電話は無きに等しかった。それにNTT基地局の自家発電設備の燃料が尽きれば終わりだ。
情報都市の終わりが近かった。
水道も水圧低下で二階さえも届かなくなっていた。これは水源が奥多摩だけになってしまったからだ。他の水源地は県外か多摩川や江戸川であり、多摩川や江戸川は既に海だった。断水しているところも多い。
下水道は東京メトロ南北線の水没した周辺では使えなくなっているところも出ている。その周辺では下水道から溢れ出た汚水で汚染されていた。
また、残存しいる水で流しても流れないこともあり、各地のトイレは悲惨なことになっていた。
各地の食料品を売っている店舗は決済できない対象が多い為に大混乱になっていた。
停電と同時に客を外に出して閉店した店舗も多かった。
日本分解後数時間経って夜間にようやく発表された政府と都のテレビ、ラジオ、インターネットによる緊急放送。この時点で放送が受信できるのは自家発電で動いている施設と、太陽光発電からの蓄電設備が有る施設や家屋だけだった。それに自動車とスマホなどの携帯端末だった。インターネットは繋がる環境の激減でアクセスが集中しても簡単に繋がった。有益な情報は少なかった。新規の情報はほとんどがガセ・出鱈目であり、やけくそで悪戯的書き込みをしているとしか思えなかった。
それでも全ての電力が落ちている事を考え広報車での拡声器による放送も行った。その放送も各地での渋滞で行き渡らなかった。
東京都には公的な石油製品の備蓄は無く、民間石油販売業者のタンク内のみである。
大井発電所も、今タンクは空であり運転のめどは立っていない。発電は不可能。
上下水道は自家発電の燃料が切れ次第停止。そもそも水源が消えており、都内全域に行き渡る上水道はない。その後は火災が起きても消化は困難。
全ての鉄道は不通。
病院は自家発電設備の有るところ以外は難しい治療は出来ない。その燃料もいつまでも持たない。
言わなくてもいい情報まで流れた。
食料は一ヶ月分の備蓄があるとしたが、皆信じなかった。
不十分な情報は、混乱を加速させ流言飛語が飛び交った。
とどめの情報は、他県からの助けは期待出来無い。と言ったことだった。
他の県からの助けは無いと思った方が良かった。他の県もパニックであったのは当然だ。
翌日の朝、人々は食料と水を求めて売っている店に押し寄せたが、海外全てと国内でも幾つかの電子決済は使えず、現金以外は使えなかった。
東京が本店のカードを持っていても電源の生きているATM以外は使えなかった。銀行は非常事態として窓口で対応した。ただそれも自家発電設備を備えている店舗だけであり、多くは閉まったままだった。
開くにしても連絡が付いた近くに住んでいて鍵を持っている管理職が歩いての出勤であり、開店は遅くなっていた。開店しても都外の銀行には繋がらないので、都外の銀行に口座を持っている人は引き出しも出来なかった。
支払いが出来ない人間と支払いが出来る人間との間で争いになった。
これが東京暴動の始まりだと言われる。暴行・盗み・強盗・強姦・殺人、何でも有りだった。
各地で争いが起こり火災も発生した。しかし、警察も消防も動けなかった。パニックになって溢れる車によってパトカーや消防車・救急車が移動できなかったのである。しかも複数箇所での同時発生に対応できる人数は居なかった。
歩いて近場の消火栓まで行っても水圧が弱く勢いよく出なかった。高圧管でこれで有る。普通の水道はもっと圧が低かった。主力で有る朝霞浄水場は埼玉県だった。奥多摩の水だけを頼りに水道局は頑張ったが、これが限界だった。配管の関係でもう出ていない場所もある。
怪我人や病人を歩いて行ける病院に運んでも電力や水のめどが付かず「受け入れはするが期待はしないでくれ」と言われる。
犯人を逮捕しても最寄りの警察署まで連れて行くことも出来なかった。中にはナイフや金属バットなどの凶器で対抗してくる者もおりやむなく発砲、射殺に至るケースもあった。
警察も消防も医療機関も頑張ったが未曾有の災害の前には無力だった。
政府と都は自衛隊に治安維持活動を命令・要請したが、発砲は許可されずただ抑えろと言うだけだった。
自衛隊側は規模が大きすぎて対応不可能という答えを返すしか無かった。
次に政府の重要機関や都庁を守らせようとしたが移動困難として無視された。
発砲するな、自分達を守れ。そんな命令は多くの隊員から反感を持たれた。現場指揮官はそんな雰囲気を察して、出動困難と報告する。今そんなことをすれば、自衛隊が暴徒の標的になるのは考えるまでも無かった。隊員の安全が確保できるか分からないし国民に銃を向けることはためらわれた。
もっとも、その前に自衛隊基地にも人々が押し寄せておりその対応しか出来なかった。
この時点では自衛隊の対応はまだソフトだった。
東京は燃えていた。電力と水が無い都市など無残な物だった。
他に押し寄せたのは羽田空港と東京港だった。
しかし、どこに行くにも向かう空港の位置が分からないのである。GPSシステムは軌道が変わり使用不能だ。地上航法支援システムの発信位置は基地局の位置が常に変化しており信用できない。それに自家発電の燃料が切れればそれで終わりだ。パイロットで意見が分かれた。今すぐ離陸する派と事態が落ち着くのを待つ派だ。燃料の少ない機体は待つしか無かった。給油しているが押し寄せる人間を見ると北海道まで持てばいいから終わらせて欲しかった。
パイロットの多くは北海道へ行くべきと考えていた。食糧の自給率だけ考えれば他には無かった。石油の備蓄基地もあり製油所もある。製鉄所さえある。取り敢えず飢えずに生きていけそうなのは北海道以外考えられなかった。
県バリアーも上空まではない。飛行機なら行けるだろう。
ただそれは自分の家族との別れを意味していた。だから、決断は着かなかった。
東京港には貨物船しかいなかった。客船はこの時入港していなかった。
そこにこの一言があった。
「御免ね。故郷へ帰りたいよね。僕が送ってあげよう。国籍で分けるから国へ帰れるんだよ。国の中で別れた人も故郷に帰れるんだよ」
各国の航空機が消えた。出国待ちの人も日本人以外は消えた。逆に日本の飛行機が揃っていた。日本人も溢れている。ただそれもつかの間だった。県別で分かれたのか知らないが徐々に減っていた。
東京の人口も三百万人以上減った。
東京港は船で溢れかえったが、電力が無く荷下ろしが出来なかった。コンテナ船はただの邪魔者だった。お菓子や輸入食品などが入っている可能性もあるがどのコンテナか分からない。停電で検索システムが動かない。麦を積んだ穀物船も居たが、だいたい荷下ろしはバキュームである。電源が死んでいるためポンプが動かず荷下ろしは人が少しずつ行うしか無い。誰がやるのだろう。多くは日持ちするようだがいつまで持つのだろうか。しかも食べられるようにするまで手間が掛かる。他にも加工済み食品を積んだ船がいた。ただし警戒してか桟橋に近づこうとしない。タグボートの人が何か交渉している。
便宜置籍船は情け容赦なく船籍登録してある国へと移動した。中の人は船員手帳に記載された国籍の国に帰った。
翌日、異変が起きてから二日後の朝。東京は静かだった。空気も綺麗だった。普段より小さく見える距離に半分になった富士山が見えた。地球の奴、富士山まで県境で割りやがった。マグマの噴出は不思議なことに無かった。地球の奴。いや、ありがとうございますか。マグマが噴出していれば人類が生き残れる可能性はかなり低くなってしまう。何処かの大マゼラン星雲に有る星のように硫酸性の海になる可能性もあった。
スマホが使えなくなったせいか、そこら中に捨ててある。
政府は東京が各道府県に見捨てられたことを発表しなかった。
どこも東京の人口を一部でも受け入れれば自分の所が生存が厳しくなるのだ。地球が落ち着くまで七年間生きていかなければならない。その後の展開も分からなかった。
どこの道府県でも、この非常事態に綺麗事や甘い事を言う人間は排除された。現実を直視しない人間や綺麗事で生きている人間が厳しい現実を見据えている人間に負けたのだ。
一度援助の手を差し伸べてしまえば際限なく助けてくれと言うに決まっている。自県と他県どちらが大切か言うまでもいなかった。
小型のモーターボート・クルーザー・ヨットやそれこそ伝馬船や屋形船辺りまでが東京を逃れようと出航していった。
県バリアーは如何した。
バリアーを通過できても他県で受け入れて貰えるのだろうか。暴徒や不法難民扱いされるのがオチだろう。
少ないが残った漁船や遊漁船などはいた。彼等は漁業で食っていく気なのだろう。都では残っている軽油やA重油をまずは上下水道と病院に、それから漁船や農業機械に廻すと言っている。
助けが来るまで耐えると信じて。
各地の冷凍倉庫、冷蔵倉庫は真っ先に荒らされた。冷凍倉庫はそのままの方が内部温度の上昇が少ないのだが、荒されたことにより早くダメになってしまった。
三日後、下水道の自家発電燃料が尽きようとしていた。これはさすがに燃料を探してきて補給した。もうしばらくは持つだろう。
上水道は、二十三区内はもう出ない。他でも水圧は弱く建物の二階まで届かないところも広がっていた。
各地の大型ビルでは自家発電装置が稼働しているが、ビルの中の全員を退出させ燃料切れになる前に管理者の側で次々に停止した。あらかじめ伝えておいたにもかかわらずビルの中の人間はパニックに成る人間が多かった。信じていなかったのだ。高層マンションの人間やホテルの客もだ。インターネット産業に関わる人間はわめいたが、時間を区切られて強制的に止められた。残っている人間は自分の足で階段を降りて貰うしか無かった。
電力が死んでいるのだ。上下水道もビルのタンクにあるだけ使えば止まる。上水道は元が出ない。外部からの補給も見込めない。防災について教育されてきたビル管理者から見れば、今更インターネットや高層ビルに価値は無かった。
まだ燃料の残っているビルもあったが、そこには周囲から避難民が押し寄せてきた。でもせいぜいあと三日程度の燃料だった。
政府や都はこれらのビルや施設とNTT基地局に対する燃料補給を行わないことにした。燃料を補給しても必要な用途に対して使う燃料が多すぎた。この先補給が無いのだ。無駄と言うより非効率な燃料は使いたくなかった。
インターネット網の維持も諦めた物の一つだ。複数の施設の運用には大量の燃料を必要とする。ネット情報で生き残りをと言う声もあったが余りにも不正確で適当な情報が多く、そんな不確かな物に貴重な燃料を消費できないし頼るなら本を見ろ、と言う考えであった。
まだ施政者の頭はまともであった。
数ヶ月後の東京は世紀末の世界だった。
既に備蓄食糧は尽き、各地で残り物を争って入手している状態だ。
都心部を諦めた人達が向かったのは八王子から奥だった。まだ田畑が有り、自活できる可能性があると思ったのだ。各地の渋滞により車を捨てて歩く人間が出始め道は車の通行が出来なくなった。
だが彼等が目にしたのは、田んぼや畑では無く家並みだった。
自分達の勝手な妄想で押し掛けた者たちが暴徒となるには時間が掛からなかった。
政府は暴徒を鎮圧するよう自衛隊に治安維持法に基づき命令を出した。
警察では出来なかった。
実行できるのは自衛隊だけだった。この時はなけなしのヘリコプターで出動して暴徒を射殺した。これ以降生き残るのに邪魔をする人間はテロリスト認定された。
暴徒は数百人が射殺され自衛隊の本気を知ると都内へと帰っていった。途中で略奪を働くもやはり射殺された。
暴力で支配しようとする者達は徒党を組んで暴れ回った。
多くは自衛隊によって始末された。ここに至って自衛隊はまともな国民のみを助けることにしたようだ。
東京は自動車での移動は燃料不足で出来なくなり、道路を埋めていた放置車両はかなり撤去されていた。燃料の節約のためにエンジンを掛けずにいた車の多くがバッテリー上がりで動かなくなっていた。これはハイブリッド車でも同じだった。多くの人はこの無知の罠に掛かった。大きなバッテリーを積んでいるのだ。掛かるだろうと。
都が確保に成功した燃料は、初動が遅かったせいも有り多くは無かった。そしてそれは病院の非常用電源と上下水道と食糧確保のために多くが使われた。
上水道は水源が奥多摩湖だけでは供給できず、あれからすぐに二十三区は供給網から外された。二十三区に供給すればすぐに空になってしまう。都庁や政府から供給命令が出たが無視せざるを得なかった。無い物は無いのだ。それよりも食料源になるだろう三多摩が大事だった。
それに伴い下水道も停止した。下水道を稼働させることが出来る水量が無いためだった。下水道を生かすため頑張って燃料を確保したがもう出来ることは無かった。
奥多摩湖の貯水率は激減している。主な水源の山梨がサヨナラしてしまったからだ。
燃料の確保は最悪の場合、自衛隊による強制的な確保をするしか無いが、それをやれば完全に自衛隊は敵にされるだろう。
もう火事になっても消防車は動かせなかった。昔ながらの破壊消火で対処するしか無いが、化学繊維や合成樹脂の燃える煙に近づけず、さらに頑丈であるため建設機械が動かせない現状では自然消火まで放置された。
書類上、東京都の食糧自給率は1%である。単純に言えば百人に一人しか生きられない。それも贅沢なことを言わないカロリーベースでだ。これは農業だけで無く漁業を含めてであり生き残れる人数は更に減るだろう。
農地面積は田畑で五千ヘクタール。うち田んぼが百五十ヘクタール。他に樹園地が一千五百ヘクタールだ。登記上であり実際は分からない。ほとんどが三多摩に在る。
戸建ての家で庭がある家では野菜類の種を植えるが水道が使えない状態では天気任せにするしか無く成功率は低い。
川や湧き水の付近では確保のために他者を排除する動きがある。
一年後、東京の人口は一三〇万人まで減っていた。殺人・自殺・焼死・事故死・病死・凍死・餓死。他には暴動鎮圧で次々と亡くなっていった。一番多いのは餓死だった。次いで水質悪化や衛生状態を保てないための病死だった。
死体は衛生上燃やしたいのだが燃やす燃料も無く(それだったら上下水道や食糧確保に使うと言うことだ)海に投げ入れられた。それでも死体のごく一部だった。
都内は悪臭が漂い、地下鉄や地下街入り口の周囲はそれ以上の悪臭が漂っていて近づく気にもなれなかった。食料になりそうな物はあらかた略奪され尽くしているが、揚げ油とかの価値が無い物は残されて腐っていた。地下街に逃げた人がそこで力尽きて死体になって腐っていることもある。電力が無く換気も出来ないのだった。
生き残った人達にも疫病が広がっていた。
もう都内の医療機関は機能していない。残っているのは昔からやっている医院で食料や燃料と交換で治療をしている。それでも医療用の薬品類が尽きそうだった。放棄された医療機関跡や医療関係商社から医薬品や医療器具を回収してくれる人は重要だった。
都外への脱出は手段が無く早期に船や航空機で脱出した者に限られた。県バリアーの影響や受け入れて貰えたかは知らない。
県バリアーが無くなった今、空になった穀物船で脱出しようにも燃料残量が少なく航法支援システムも死んでいる現状では行き当たりばったりの航海であり、現状の海図もないので海底地形がどうなっているのか分からない。座礁の危険は大きかった。燃料が尽きる前に陸地に着いたとしても受け入れて貰えるかは不明だった。排除すると言っている以上、受け入れては貰えないだろう。船を維持するために度々機関を始動しているために燃料は減っていた。船舶用重油は陸上では使用できないために船から降ろされなかった。
頼りの自衛隊員も痩せている者が増えていた。自衛隊にしても食べ物が不足しているのは同じだった。
士気は崩壊寸前である。自衛隊は最後の政府の命令として農業地帯防衛を下命された。誰が命令を出したかは分からない。だが生き残ることに賭けた人間がいたのだろう。正式な命令書だった。三多摩の農業地帯を守るため都内から向かってくる暴徒と言う名の都民を射殺しているのだ。生きるか死ぬかを、殺して少数が生き残るか全員仲良く死ぬかを選ばされたのだ。何かきっかけが有れば瓦解するだろう。
既に自分達だけ食糧を確保しようとする人間は、自衛隊によって排除されていた。警察も上層部はともかく前面に出ている警察官は協力した。
政治家や官僚、金持ちがわめいていたが、金や権力は意味をなさなかった。むしろそういう食糧確保、強いては生き残るのに邪魔をすると思われる人達はいつの間にか姿を消していた。
不足する弾薬だが、横田基地の無人化とその後の自衛隊による接収である程度確保された。
都外の情報は自衛隊の他、飛行場に残されている航空機の短波無線機やアマチュア無線によって知られている。それも燃料節約のため太陽光発電で動いている機材以外は一時的なものだった。
東京が一番悲惨なのは間違いないだろう。次いで大坂、神奈川のようだ。
情報封鎖は出来なかった。生き残っている者に知られても船以外移動手段が無かった。各県とも他県からの侵入者は排除すると言っている。行くだけ無駄だろう。
漁船は厳重に管理されている。飛行機並みの警戒態勢だった。
航空機の使用は偵察以外は厳禁だった。常に自衛隊の警戒が敷かれている。パイロットや整備関係者も家族を含め厳重に保護されている。
各県とも百キロ程度の間隔で離れているらしい。
二年後、東京の人口は八十万人まで減っていた。まだそれでも多くが飢えていた。既に二十三区だけでは無くその周辺都市への水供給は停止している。水源が持たない。再開は考えられなかった。
それでも協力して農業生産は増えていた。単体では最大面積の横田基地や各学校、公園など土が出ていれば手当たり次第だった。
河川周辺では協力して生き残っている人も多かった。少ない土の地面を全て畑にして生き残りを懸けていた。田んぼを造ろうとしたが田んぼは難しすぎた。水を入れようとすれば下の土部分が出来ていないために抜けてしまう。田んぼをやっている農家の人達は都内は恐ろしいと言って出てこず、協力して貰えなかった。
それらの人達も外部からの食料強奪に対しては容赦なかった。
もう羽田空港と航空機の維持は諦めた。残っているジェット燃料はヘリコプター用として回収されたほかは、スピンドル油を少量混ぜ軽油として使う。
三年後、東京の人口は五十万人まで減った。必死になって行った農業生産はまだ釣り合いが取れていない。さらに人口は減っていくだろう。もう頼りの自衛隊員も五分の一位まで減ってしまった。自衛隊員の死因は暴徒との戦闘よりも過労死と自殺が多かった。過労死の多くは栄養状態が良ければ防げただろう。
残りの弾薬も少なかった。ダンプに鉄板を装着してテクニカル気取りの連中には対戦車ロケットをお見舞いしてやったこともある。
多くは八王子より奥で生活しているが、一部は公園や学校など土の地面を畑にして残っている食料を探して食いつないでいた。水は昔から有る池と雨水にわずかに流れる綺麗とは言えない川の水が全てだった。
ごくわずかの湧き水もあったがグループで占有している場合が多かった。
地下水くみ上げ設備のあるところでは、発電機を繋いで燃料の節約をしながら汲み上げていた。
電力は奥多摩近郊しか配電されていない。五百キロワットに制限されていた。その多くは食糧倉庫に使われている。奥多摩湖はあるが奥多摩湖に流れ込む水の多くは山梨県からだった。今の水量で出来る発電量はこの程度だった。後は太陽光発電だけだ。
この頃になると燃料事情は多少の余裕が出てきた。残っている量は減りつつあるのだが使用者が減っていることで使わなくなった車両や施設から油を抜いていた。これは都内まで進出してかき集めてもお釣りが来た。都内で頑張っている者達とは協力できていないが、さりとて敵対しているわけでは無かった。燃料確保は早い者勝ちだった。
四年後、遂に人口は三十五万人まで減った。まだ農業生産と釣り合いが取れていない。畜産は養鶏がほとんどになった。牛、豚を飼う余裕は無く、一部で飼われているだけで超高級品となりつつあった。既に牛乳は全員に分けるほどの量は無く飼育農家の自家用と調理用で消える。
現金は有りすぎて意味をなさなかったが、物々交換よりは効率的として使われていた。
魚は県境の川が海岸になってしまったために海魚は結構釣れた。ただ釣り具がいつまで持つかは分からない。竿がなくなっても竹を使えば良いのだが、糸がなくなれば終わりだった。糸を代用する物はまだ見つからない。
七年後に再び各県と繋がる事を期待するしかなかった。
この頃になると自衛隊が事実上の支配者だった。
乱暴な者も増えてきているが、致命的な事態にはならずにすんでいる。
五年後、東京の人口は二十五万人と推定された。八王子から奥の人口はだいたい把握できているのだが、都内の人口が分からなかった、推定では二十万人はいないと見込まれていた。八王子から奥に住む人からすれば、なぜあのような環境劣悪なところに住みたがるのか理解が出来なかった。悪臭を放つ地下街や地下鉄入口、そこら中に始末しきれずに放置されている死体。疫病も流行ったことが有る。
でも、それでも住みたい人間はいた。
人口と農業生産がようやく釣り合いが取れた。後は維持していくだけだろう。物資が続く限りではあるが。近代農業の恩恵を受けることが出来なくなれば更に人口は減るだろう。
すでにスマホはインターネットが使えず無用の長物となりカメラ代わりに使われるだけだった。
もうすぐバッテリーの寿命が来て放棄されるだろう。だがまだ使えそうな奴は沢山在った。
PCも一部で必要上から使われているだけだった。インターネット網はもはや存在しなかった。インターネットも電話も使えなくなって久しい。
情報機器はラジオが主力になった。乏しい資源の中、自衛隊と民間有志でコミュニティFM局を持続させた。中継器と子アンテナを複数造り奥多摩まで聞こえるようにした。周波数は微妙にずらしてある。受信範囲は狭くて良いので一基辺りの出力は小さい。太陽光発電で昼間は稼働している。夜間は時間制限はあるが水力発電の電力だ。せめてもの娯楽だった。
都内でかき集めてきたトランシーバーと無線機が通信手段となった。
電力は都内からかき集めてきた太陽光発電装置を使い余裕が出ているが、それは使用量が少ないからだった。使うのは電灯、それも全てLEDに換えられた。他には冷蔵庫と洗濯機だった。これらは最新の使用電力の少ない物を予備に保管してある。いくらでも有ったので無料だ。冷蔵庫も夜間の開閉は戒められた。電池は充電池とかき集めた乾電池を使った。
その電池も製造設備が無く在庫だけで、乾電池は期限切れになる前に使い切るのみだ。
自動車など始動に鉛バッテリ-を必要とする物は次第にバッテリーの寿命が来て、在庫の物に換えるのだが保存が利かない充電済みバッテリーばかりだ。電圧が低下しないよう定期的に充電しているのであるが、いつまでも使えるかわからない。
リチウムイオン電池内蔵のスターターを確保しているが、バッテリーの内部抵抗が極大となった場合や内部断線等の他、極板の寿命が来れば使えなくなる。
そのリチウムイオン電池でさえ寿命がある。いつまで持つのか。
生き残った技術者がいて努力はしているが、他の物の転用は困難であると言うことだった。
特に漁船のバッテリーは大型車両と同じサイズなので苦労している。
焼き玉エンジンを探したが生き残っては居なかった。
暇つぶしはFMラジオを聞くこととテレビを見ることだった。新規の放送は無くDVD・ブルーレイや録画した物しか無いのだが。それも時間は日中の発電量が多いときだけだ。
ただこの頃より、微振動が増えていた。皆、再び異変かとおののく。
釣りに出ていた人達から変化の報告があった。
多摩川・荒川・江戸川の県境と推定される位置からは急深であったが、遠浅に変化していた。何故か砂地で瀬もある。おかしいと。
次いでダムの監視者からも変化が有ると告げられた。山が見える。
生き残っている自衛隊員による調査が行われた。
多摩川・荒川・江戸川の県境と推定される位置からは急深であったが、遠浅に変化していた。何故か砂地で瀬もある。
上記に関しては、沖合五百メートルまで遠浅で水深三十メートル程度しか無いと。そこからは徐々に深くなっているようだ。ただし今までのいきなり深い海では無く浅い海だと。それ以上は機材が無く不明だと。
釣りで釣れていた大型魚が少なくなり海岸で釣れる小型魚が増えているという。
山が見える。
上記に対しては、今まで断崖だったために県境まで近づくのは禁止されていた。
安全を確保しながら徐々に進んでいくと、県境の向こうに山が出来ていた。
意を決して踏み込んで見るも危険な生物は見られず。クマの糞も見つけられなかった。
植生は山梨の山と同じに思える。
両方とも継続して監視することが決められた。
六年目
山が高くなってきた。奥多摩湖の水量も回復傾向にある。県境の海だった部分が上流は川になりつつあった。東京の周囲が広がっているのだ。
人口は変わらない。新たな命も生まれ育っているが、減る人数と変わらない。
時折あった微振動がかなり減っている。人々は地球が安定期に入ったと噂をしている。
七年目に期待をした。
東京の人口一千六百万人としましたが、昼間人口はこのくらいだそうです。
途中で消えた三百万人は他県の人口と外国人・外国籍の人口の合計です。作者想像。
東京は一千万人以上の亡骸を放置。二十三区内は悲惨です。
五年後の人口を二十五万人としましたが、八王子から奥多摩までで十万人、旧市街地は十五万人くらいと推定。
合計二十五万人も生き残れるのでしょうか。
東京都の食糧自給率は東京都産業労働局の資料を参考にしています。漁業も含めたカロリーベース1%は平成二十八年ですが、1%以下の数字を表記上出せなかったのかも知れません。航空写真で見る限りあの農地では1%は過大表記では無いかと思います。令和ではもっと悪化していると思います。
ゴルフ場、横田基地、学校、公園等を全て畑にすれば生き残れるかも知れません。野菜のタネはホームセンターなどで。でもF1種ですよね。二代目三代目はどうなるのでしょう。ジャガイモはほっとけば芽が出るしね。それ以前に食べられて終わりでしょうけれど。頑張って残したと言うことで。
代わりに全周海ですので漁獲量、まあ魚釣りですが増えるかも知れません。
ルアーやワームで釣ると思うのですが、生き餌は砂地を掘れば取れます。作者は昔、スコップ持って河口で掘って使ったことがあります。ただ、引っ込むのが早いのでよほど深く掘らないと中途で切れた状態の奴しか取れません。ミミズでも良いでしょう。
バッテリーは寿命があります。いつまでも使えると思っている人が多いのには驚きました。
オートバイ用くらいにしか残っていない即用式バッテリーは考慮していません。
ジェット燃料は灯油の親戚です。
2ヶ月もすればトイレットペーパーは無くなっており、お尻はどうしましょうか。あえて書きませんでした。雑誌や新聞か。コピー用紙では痛いと思うが無ければ使うか?
電力の無い所ではウォシュレットは使えませんし、第一水が無いところがある。
不浄の・・と言うには水は無く。考えるとアレだったので書けませんでした。
実際一番困ると思うんですよ。
カニバリズムなどの禁忌を犯す等の表現はしませんでした。




