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夏目綺譚  作者: 夢梅
6/7

あたしと変わり目のおはなし

恋愛

 その声は言葉に出来ないほどに愛しく。


 「付き合いたいと思ってるんだ」

 昼下がりの空は水彩絵の具を滲ませたようだ。淡く光を帯びながら、しなやかに温い風を吹かせる。冬の終わりは過ぎ去り、もうすぐ春が訪れるように思えた。緑の川は綺麗に日光を含み、桜の枝々は少しずつ色付き始める。

 そんな穏やかな窓の景色とは裏腹に、あたしの心には余裕がなかった。

 「若葉は、どう思ってる?」

 受話器越しに囁かれる言葉の一つ一つが歓喜で信じられずにいた。身体の内側は火照りつつも指先は酷く冷たく、緊張している様が自分でもよくわかる。

 思っていることを口にするのは苦手だ。何て答えようか。嬉しい、とても嬉しい。嬉しいのだけれど、素直に喜べないあたしがいる。

 「……また、電話してもいいですか。沢野先輩」

 何故なのかはわからない。どうしてだろう、あたしも大好きなのに。この突っかかるものは何なのだろう。

 無意味に部屋中を歩きまわりながら「ああいいよ」の声を聞いた後、通話を切ってベッドにダイブした。皺が出来たシーツの上で髪を掻きながら、傍の三面鏡に映り込む真っ赤な顔の自分を見て恥ずかしくなった。元々癖っ毛である髪は予想以上に乱れていて、だらしのないあたしが何人もそこに映った。


 *


 とりあえず落ち着こうとキッチンへ向かい、お気に入りのグラスに水を注ぐ。気泡が浮かんでは弾け浮かんでは弾け渦巻きながらグラスを満たしてゆく。それを一気に飲み干した。乾いた喉に冷たい水が吸い込まれてゆくような感覚は、あたしの目を醒まさせる。

 冷静になってよくよく考えてみると、さっきのはやっぱり夢なんじゃないか? そう思い立ち首を傾げながら着信履歴を確認したが、彼の番号は確かにそこに残っていた。 

 彼――沢野先輩は、同じ中学に通っていた二つ上の高校生だ。

 二人の出会いは二年前。あたしが中学一年生の三学期だった。当時三年生だった先輩は、放課後になるといつも図書室で時間を過ごしていた。うちの中学はエスカレーター式だからか、それとも勉強なんてしなくても余裕だったからか、先輩はいつも物語を書いていた。分厚い本を読んでいることもしばしば目にしたが、実際原稿用紙にペンを走らせていた時の方が多かった。本を読むのが好きなあたしも、自分の部屋でよく執筆をしていた。そのためか親近感もあり、彼の作品を読んでみたいと小さく思った。

 そしてチャンスは訪れる。二月のある日、部活が早く終わりいつもより早い時間に図書室へ向かった。アルミの取っ手をスライドし、扉を開けると、古臭い紙と埃の匂いがあたしを歓迎した。そしていつも通り沢野先輩の姿を探す。けれど、見当たらない。先輩がいつも座っている特等席には原稿用紙だけが広げられていた。

 思わず、足を進める。純白のピータイルを上履きで歩くキュッという音が、静かな空間に一つ響いては消えてゆく。覗きこんだ原稿用紙を見て、あたしは感嘆した。それはただの文字の連なりではなかった。

 綺麗な言葉に丁寧な文末は読む人の心を抱きしめるように離さず、普段何気なく使っている単語の一つ一つが、この原稿用紙いっぱいに広がる世界の掛け替えのないパーツとなって生きている。なんて素晴らしい文章なのだろう。壮大なファンタジーはあたしの胸に凄まじい感奮を起こし、創作意欲を湧き立たせた。

 「もしかして読んだ?」

 その声に、はっと顔を上げる。隣に立っていたのは沢野先輩だった。

 「え、えっと」

 「よかったら感想聞かせてくれよ」

 勝手に読んだことを叱られると思っていたあたしは驚いた。

 「でも、あたし話すの下手だし、あの、すみません。おかしいですよね」

 自信なさ気なあたしの言葉に先輩は微笑む。

 「おかしくないよ」

 近くで見た彼はとても優しかった。例えるならば、春の陽だまりのように穏やかで包容力があって、それでいて何処か美しい陰の色があるように思えた。

 先輩の影響もあってか、あたしの執筆に対する想いはより熱いものに成長していった。それに比例し、物書きとしての腕も上達してゆく。在り来たりな表現はきらきら煌めく自分の比喩として綴ることが出来るようになった。ティッシュのように薄かった文脈は読みごたえのあるものになった。プロの目からしてみると道端の石ころ同然の拙い文章かもしれないけれど、あたしにとって自分の物語は、自分だけの世界で輝く宝石の数々だった。

 あたしが先輩の文章を読んで喜ぶように、先輩もあたしの作品を読んでアドバイスなどをくれた。良い感想をもらうと嬉しくて仕方がなかった。

 そんな中、沢野先輩は卒業する。うちの中学はエスカレーター式だからまた会えるだろうという考えは甘かった。急な話で、先輩は遠くへ引っ越してしまうようだった。あたしは手に汗をかきながら先輩にメアドを教えてもらった。

 そこからメールのやりとりが始まる。実質先輩と直接話をしたのは少なかった。最初と最後と作品の感想を言い合ったほんの数回だけ。話すのが苦手だったあたしは、メールでの緩やかな会話がとても楽しかった――――。

 「若葉ー」

 過去を思い出していたあたしは突然の声に驚く。暇なら買い物へ行って来て欲しいと言う母にあたしは渋々了解し、髪を整えて家を出た。


 *


 外に出てみて、ブラウスにカーディガンは少し寒かったかなと後悔する。買ったばかりのパンプスでアスファルトを踏みしめながら、あたしは大きく田舎の空気を吸い込んだ。

 春の訪れは、硝子越しに見たものとそうでないものとでは全然違った。花の蕾の鮮やかさも空の高さも全くの別物で、冬眠から覚めたばかりの小鳥たちの囀さえずりはより一層繊細に歌われる。行く人の足取りは軽く、まるでダンスを踊っているよう。春休みに入ったばかりの街は大いに浮かれている。

 春は変わり目だ。

 たくさんのことが終わって始まって変わってゆく。世界はくるくると色を変え、気が付けば違う世界になって自分だけが置いてけぼりをくらうようだ。

 「もっとゆっくり動いてくれればいいのに」

 ぽつり、呟いた。そして一人思い出す。この間の涙を。あたしもきっと変わってしまったのであろう。一人の人間の心を置いていってしまったのだ。あたしは最近彼氏と別れたばかりだった。

 信号を待っているとき、小さな子供と目があった。子供は年老いた老婆と手を繋いでおり、楽しそうに歌を歌っていた。

 信号の色がエメラルドに光り、あたしと子供と老婆、反対車線の人々は一斉に歩き始める。あたしは横断歩道の白い部分だけを踏むように慎重に足を進めていたが、三歩ほどで馬鹿らしくなって止めた。

 人とすれ違う。同じ街で生きているたくさんの人々は殆どが知らない人ばかりで、誰一人あたしの行動に変化させられることなどない。けれど、あの人は違った。だって例外だ。あの人はあたしのことが好きだったから。

 「樹は悪くないよ」

 人混みの中で独り言を言った。そのか細い声は、たくさんの他人の固い足音と話し声に揉み消された。あたしは静かに苦笑する。

 樹は素直な少年であった。

 沢野先輩が卒業してすぐに付き合い始めた彼は、気の利く嘘も吐けないような男だった。あたしに声をかけられると喜び、あたしの気持ちに時々重いと言った。傷付くこともあったが、あたしは樹が好きだった。先輩が卒業したあとの物足りなさを感じさせないほどにも思えた。学校では彼の姿を目で追い、夜にはメールをした。ちゃんと好きだった。


 *


 見慣れたスーパーマーケットは横断歩道のすぐ先にあった。汚れた自動ドアを越えれば、様々な食品と人の匂いが混ざりあっていて、あたしは微かに顔を歪める。すでに人の垢でくすんでしまった赤色の買い物かごを腕にぶら下げ、まず最初にキャベツを一玉手に取った。

 そう、季節は変わってゆく。ここに並ぶ野菜でさえ入れ替わるのだから、当たり前といえば当たり前なのかもしれない。

 あたしが樹に別れを告げたのは、やっぱりあたしが変わったからなどではないと思った。変わったのはまわりだ。世界の豹変ぶりに、あたしは付いていけなかったのだ。ああ、ほらまた人の所為にして。

 人間関係は上手くいかなかった。

 真面目に暮らしているのに、それが気に入らないと罵ってくるクラスメイトがいた。あたしが言い返しても言い返しても理不尽な言葉で詰め寄る。他のクラスメイトに庇ってくれる人なんていなかった。あたしは人間の冷たさを知った。下がっていく成績に両親は頭を抱えた。部活では後輩との仲が険悪になった。初めて部活を辞めたいと思った。

 好きで始めた吹奏楽は一瞬にして不協和音となり、何度も何度もあたしを襲った。吹くことが苦になった訳じゃない。愛してやまないトロンボーンの伸び縮みにうんざりした訳でもない。ただ、自分の中の何かがゆっくりと崩れ堕ちてゆく喪失感。楽譜を辿れば辿るほど音符が見えなくなる。たくさんの人の罵声の羅列に見えてくる。何処か違う国の言葉で責められる。クラスメイトに、両親に、後輩に。

 小説も思うように書けなくなった。楽しさで溢れかえったような輝く文章は溶けて失くなり、重々しい内容の冷たい表現が増えた気がする。

 食事は喉を詰まらせるように押し込むけれど、すぐに吐き気がやってくる。拒食気味になったあたしは少し痩せた。

 最初はこんなはずではなかった。もっと余裕があって、毎日は充実していた。あたしは辛かった。誰にも気付かれずに泣き続けるのが辛かった。

 樹はそれに気付いてはくれなかった。

 別れを切り出すと、樹は泣いた。だけど自分の決心は固いと伝えると、震えた声で了承した。


 白く光る棚から牛乳を取ってかごに入れる。冷やかな温度はあたしの指先の熱も吸いとった。ついでに隣の棚にあったペットボトルのりんごジュースも追加する。あたしはりんごジュースが好きだ。甘酸っぱい味は自分に似ている気がするから。独りの夜を過ごすときの気分と重なる。

 辛いことを思い出すと、必ず浮かんでくるのは沢野先輩の存在だ。

 今までずっと続いていたメールのやり取りは、あたしの心を癒した。メールの中のあたしは元気だった。思ったことを真っ直ぐ伝えられたのは、きっと文章のやり取りだったから。たまにする電話のあたしは酷く口下手で、携帯の向こうの彼を困らせることも何度かあった。でもよく考えてみると、だからこそあたしは執筆が好きなのだと思う。慣れた人には自然と活発に話せるようになるのだが、自分の中でなんとなくそれもまたうるさくて困らせるのではないかと思っていたりもする。

 なにであれ、あたしが先輩に届ける言葉はいつも楽しげだったに違いない。明るくあしらったあたしの文章は、素敵な色で塗りたくられていた。

 「えーっとあとは……」

 脳内でぐるぐる考え事をしながらも、母に貰ったメモを片手に買い物を進める。そうでもしないと、頭がパンクする。キャベツの所為で重くなっているかごは、あたしの腕にずっしりとした疲労感を与えていた。

 「疲れたなあ」

 こんなふうに口に出せばよかったのかな。そうすれば、樹は気付いてくれた? だけど「キャベツの入ったかごが重いので疲れました」なんて一から十まで説明しなければならないのか。それが悪いだなんて言わない。ただ寂しかっただけ。

 ソーダ味の棒アイスを一本かごに入れ、レジに置いた。

 「いらっしゃいませー」

 店員ははっきりとした口調でそう言い、かごの中の商品を次へ次へと流してゆく。店員は髪の短い中年女性。慣れた手付きで素早くレジを打ち、会計の値を言いながらあたしがすでに用意していたお金を受け取った。

 「丁度お預かりします、レシートはどうされますか」

 「あー、いいです」

 「はい。ありがとうございました」

 レジの近くのテーブルでかごの中身をビニール袋に詰めた。袋を持ったとき、キャベツの重みで底が破れてしまわないかヒヤヒヤする。


 店を出ると、太陽は傾きかけていた。美しい薄黄色が水色の空を照らす。先ほど買ったアイスを開封し、その清く不透明な青色を日の光にかざした。中の棒がぼんやりと霞んで透ける。こんなふうに、人の心も簡単に透かすことが出来ればいいのに。

 横断歩道で信号を待ちながら一口かじりつく。アイスは舌の上でしゅわりと凍てつき砂糖の甘さを残して消えた。

 苦しい時に支えてくれたのは誰だったのか。

 信号待ちで群がる人々を眺めながらふと思う。この人たちはみんなそれぞれに大切な人がいて、それはきっとあたしも同じで。自分の中の掛け替えのない人たちに一番なんて決められないけれど、樹よりもやっぱり先に浮かぶのは沢野先輩なんだ。

 先輩は、いつもあたしを気にかけてくれていた。文章のやり取りの中でも、いつも。誰にも気付かれないあたしの胸中の闇を、素敵な色で隠した闇を、彼はいつも見つけてくれる。邪魔な塗装を優しく剥がし、暗い海に溺れるあたしに手を差し伸べてくれる。電話の声だってずっと優しくて、泣きそうになる。笑った声がとても好きだ。

 だけどそれだけじゃないのだ。優しくしてくれるからという理由だけではない。もっともっと深い、朝の森の神秘であり、白昼夢の兎であり、真夜中の星達であり、それは言葉に出来ない胸のときめき。

 そう、言葉に出来ない焦げる想い。

 ――それならば、付き合えばいいじゃないか。

 あたしの中の誰かが言った。そんなに強く想っているのなら、恋人になってしまえばいい。確かにそうだ。けれど、今のあたしにはポケットから携帯を取り出して彼にリダイアルする勇気はなかった。何故だろう。

 ただ只管にアイスを食べ進めてゆく。そしてついにそれが滴る汁も舐め干して棒だけになったとき、信号の色は切り替わる。止まっていた時が突拍子もなく動き出し、人々は一斉に進み始めた。

 待って、少し待って。

 身体のどこかから一気に蠢きだしたたくさんの形の焦りは、得体のしれない大きなものとして膨らんでゆく。

 足が動かない。みんな進んでしまう。あたし独り取り残して、世界は変わっていくのだ。こわい。こわいよ、とても。こんなにも弱いあたしはおかしいのだろうか。

 "おかしくないよ" 突然あの日の声が。あなたの声が聞こえた気がして

 涙が、

 こぼれ た。


 「若葉?」 背中の方で聞き慣れた声がする。振り向くと、そこにはさっき食べきったアイスと同じ青のワンピースを着こなした、親友がいた。

 「由実子……!」

 人の流れに逆らいながら、あたしは由実子に抱きついた。


 *


 「えっ、沢野先輩に!?」

 あたしが電話のことを話すと、由実子はとても驚いた。

 「うん。現実味ないよね」

 「なんでよ」

 「だって突然だったし、まさかあの沢野先輩があたしを好きでいてくれたなんて」

 「そんなことない。先輩だって一人の男の人なんだから」

 川沿いの小さな公園は静かだった。最近別の場所に大きな公園が出来てからは、みんなそちらへ移っていった。由実子と二人、腰かけたベンチは空気と同じ温度に冷めきっていて、人肌を懐かしむようにあたしたちの体温を吸収する。

 ちらほら芽吹きだした薄赤の桜の酸っぱい香りと、公園のあちらこちらに植えつけられた色とりどりの花の香りが心地よかった。緑色の青葉を付けた銀杏の木からはきらきらと木漏れ日が差し込み、あの秋の儚さからは想像も出来ないくらいの和やかさがそこにはあった。

 「でも、よかったじゃん。付き合うんでしょう?」

 あたしが袋の中からりんごジュースを取りだしたとき、由実子が言った。黒髪を可愛らしく揺らし、大きな瞳にあたしを反射させる。しかし、ずっと黙っているあたしに彼女は不満そうな表情を見せた。

 「何、もしかして樹と別れたこと気にしてるの?」

 あたしは「わからない」と、キャベツの所為で伸びきってしまったビニール袋の持ち手をいじりながら答えた。

 「じゃあ断るんだ」

 「……断りたくない」

 「どうするの?」

 「どうしよう」

 由実子は呆れて溜息を吐いた。あたしは憂鬱な気分でペットボトルの蓋を開け、中身を一口飲む。りんごジュースは甘酸っぱく、やはり自分と似ていた。口の中に広がるのは毎日の想いと辛さと小さな幸せ。

 「自分が何にためらっているのかわからない」

 澄みきった空は少しオレンジ色掛かり、そのグラデーションに描かれるのはレースのような筋雲。午後の温かい微風があたしたちを撫でる。あたしはまたペットボトルとキスをして、その酸味に浸った。

 「ねえ、どうして樹と別れたの?」 由実子がベンチから立ち上がる。

 「……寂しかったんだ」

 大きく伸びをする彼女に、あたしは小さな声で答えた。

 「少し、疲れてしまったんだと思う。考えなくちゃならないことが山積みになって、溜めて、自分で自分の首を絞めて。でも一番に気付いて欲しい人は、きっとそんなあたしの苦しみに興味なんてなくて」

 声が震える。それでも由実子は黙ってあたしの話に耳を傾けた。

 「だけど、それで好きじゃなくなっちゃったなんてわがままだ。気にしてもらえないから嫌だなんて勝手なんだもん、でも、結局そんな理由で別れたのはあたし。泣かせてしまったのはあたし」

 ずっと自分の膝を見ていた。幼い頃、たくさん転んで一生傷になってしまった汚い膝。あの頃はどうして立ち上がることが出来たのだろう。

 「若葉、それは――」

 「でもね。もしかしたら、ただ飽きてしまっただけなのかもしれない。でも仕方がなかったの。多分あたし後ろめたかったんだ。付き合ってからずっと樹に嘘吐いてた」

 大粒の涙が溢れだす。口が滑るように回って、頭の中で絡まっていたものが紐解かれてゆくようだった。由実子は全てを悟ったように頷き、あたしを抱きしめて一緒に泣いてくれた。

 「おかしいかなあ」

 そんな言葉に、きっとあなたは首を振るんでしょう?

 「あたしずっと前から。最初から沢野先輩が好きだったんだもん」

 それは、紛れもない本当の気持ちだった。

 とても昔に生まれたこの想いは、あたしにとっては身体の一部になっているようなものだった。樹に告白される前から芽生えていたこの感情は、今、初めて花を咲かせた。

 「だけど樹と付き合ってわかったんだ。恋人には終わりがある。もしも、またいつかの変わり目であたしが耐えられなくなったら、今度は先輩とこうなってしまうかもしれない。あたしの心の余裕の無さにあきれて、嫌われちゃうかもしれない」

 川のせせらぎはあたしの心臓を擽るようだ。木漏れ日はやがて夕方の涼しいそれとなり、煌めきながら薄れてなくなった。

 ――いつか、いつもと違う先輩の文章を読んだことがあった。

 あたしは先輩の作品の中でそのお話が一番好きだ。切なく柔い男女の物語で、優しい先輩の本当のお話だった。恋愛ものだったけれど、悲しいというよりも寧ろ先輩の一部に触れられた気がして嬉しかった。もっと、もっと聞かせて欲しいと思った。あたしの知らない先輩のお話を。

 そう、知らないことが殆どだ。ああそうか。あたしは不安なのか。

 「文章のやり取りの方が長くやってきたんだ、あたし書くのと喋るのとで全然違うんだもん。次に会ったときに先輩があたしに幻滅したらどうしようとか、そんなことばっかり考えてしまう。自分に自信がないの……!」

 やっと形になって現れた自分の敵に、あたしは立ち向かうことが出来ずにいた。

 「若葉!!」

 そんなあたしの名前を呼ぶのは一人の親友。

 ゆっくりとあたしの胴を引き離し、真っ直ぐな眼差しでこちらを見つめた。暮れだした太陽の光が柔らかく差し込むような、そんな川の流れを背にして立っている。

 「先輩のこと、もっと信じてあげなきゃ」

 「で、でもあたし年下で子供だから迷惑かけると思うし」

 「それでもいいの!」

 「それに遠いし」

 「馬鹿!!」

 由実子はあたしの両肩を強く叩いた。じんわりとした痛みが重たく骨に伝わってくる。

 「若葉は先輩が年上で嫌だって思ったことある? 距離があることを気にしたことがある?」

 「違う……っ!!」

 しゃくり上げながら、あたしは心の中の淀みをすべて吐き出すように涙を流し続ける。

 「先輩が、嫌かなって」

 「じゃあ若葉は? あんたはどう思ってる?」

 由実子の問いかけで、あたしは完全に目が醒めた。身体中の重荷が一気に飛んでゆく。ああ、なんだ。こんな簡単なことだったんだ。馬鹿だなあ。あたしは本当に馬鹿だなあ。何度思い返しても尽きることのない、この気持ちに迷いなんてない。

 そうだ、あたしは。

 「沢野先輩がいてくれればそれでいいの!!」

 明るく朱色に染まりかけた大空は、昼と夜の変わり目だ。いろんな種類の雲は春風に吹かれて千切れ、桜の蕾は極め細やかにしなりと開く。街の明かりはところどころパズルのように灯を点けて、変わり目は酷く美しかった。


 *


 由実子にお礼を言って別れた後、家路を歩むあたしは沢野先輩の着信にリダイアルすることを決めた。相変わらずに冷たい指先で履歴を開いて、彼の名前を選択する。コールと共に胸も高鳴り、鼓動の速さが加速してきた3コール目で先輩は電話に出た。

 「もしもし?」

 いつもと同じ、大好きな先輩の声。少し低くて優しくて、心が落ち着く。そんな、誰の声よりも今一番聞きたかった先輩の声。

 「わ、若葉です」

 やっぱり話すのは苦手だ。早く慣れてしまって、メールのときの自分のように明るく元気に喋りたい。だけど出来るかな? だって今も声や手が震えてる。

 「あの、あんまり上手く話せないけどいいですか?」

 「大丈夫だよ。若葉のペースでゆっくり話せばいい」

 あたしはそんな台詞を聞いて笑う。

 普段はあまり足を運ばない、駅の裏の小道で遠回りをしてみた。ヘビイチゴやツクシ、オオイヌノフグリの花が可愛らしく色を付け、古いアスファルトの端に小さく咲いていた。夕色に滲んだ街並みが、線路の向こうに広がっている。

 あたしは深い深呼吸をし、口を開いた。

 「先輩、あたし少し不安なんです」

 先輩は受話器の向こうで何も言わずに次の言葉を待っている。あたしは立ち止まった。天を仰ぎ、ちかちか瞬く一番星を見つけて微笑む。

 「だけど、だけどね。その不安な気持ち以上に。あたし、沢野先輩が大好きです」

 精一杯心をこめて伝えた。風があたしの癖っ毛を泳がせ、森の木々をざわめかせ、新芽の香りは鼻先を擽る。

 「――やったあ!」

 耳元で、先輩の喜ばしい笑い声が聞こえた。あたしはとても恥ずかしくなって、火照った頬を左手でパタパタと煽いだ。照れくさいけれど、物凄く嬉しかった。

 「だ、だけど先輩。あたし先輩が思ってくれているような子じゃないかもしれませんよ」

 それでもやっぱり怖くなってしまい、少しの保険をかけてしまう。言った後すぐに後悔したけれど、彼はいつでも魔法の言葉をあたしにくれる。

 「何言ってるの、若葉は若葉だよ」

 そして、泣きそうになるんだ。

 「……あの、先輩は遠くに住んでることとか気になりますか?」

 「ううん。ただ、若葉が嫌かなって」

 「あたしは嫌じゃないですっ」

 「そっか、よかったあ。うん、行けない距離じゃないよ。絶対逢いに行くから」

 「はい。待ってます」

 「遠慮しなくていいからね。もっと俺を信じて、わがままを言ってもいい」

 先輩の言葉は不思議だ。姿が見えるわけじゃないのに、傍で寄り添うようにあたしを包み込む。

 好き。あなたが好き。とても好き。大好き。世界で一番好き。死んでしまいそうなくらい大好き。

 「じゃあ、また電話とかメールとかしたいです」

 「もちろん。俺もしたいし」

 先輩の声にいちいち反応しながらも「ありがとうございます」と笑い合った後、名残惜しくも通話を終えた。

 あたしは再び歩き出す。

 嬉しくて嬉しくて、自然と笑顔を咲かせてしまう。本当に夢のようだった。けれど、右腕に掛けられたビニール袋のキャベツの重みで、現実なんだと実感する。今すぐ先輩のところまで行って抱きしめてもらいたいけれど、それが出来ないことがもどかしい。だけど何故か寂しくはなかった。こんな気持ち、おかしいよね。

 「おかしくないよ」

 どこかで聞いた、そんな言葉を呟いた。

 お気に入りのパンプスが地面を蹴る。さわさわと夜が近付く音を流行りの歌のように楽しみながら、桜の枝のピンクを見た。変わり目がしっとりとうねりながら消えてゆく。

 あたしの隣で、春が笑った気がした。

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