ページの裏側
未ジャンル
本はたいして読まない。
わたしはアップルティの入ったマグカップを置く。もうこんなに夜は深いというのに、カーテンを閉め忘れていた。寂びた窓枠の外を見つめ、暗闇に溺れた金星を探すように夜にすがっていた。硝子に映る自分を見て、慌ててカーテンを閉める。部屋の中はひんやりと初冬の空気が張り詰めるようで恐ろしい。わたしは当然のふりをして足元のストーブをつけた。
そうして読書は再開される。本はたいして読まない。なぜなら表紙を開くのが面倒だからだ。ページをめくるのが面倒だからだ。主人公に肩を寄せるのが、あるいは寄せなくても。登場人物の名前を覚えるのが面倒だからだ。とりあえず本を読むのは面倒だ。小学生のころに配られた"読書カード"も、わたしはクラスでワースト3に入るくらいに真っ白なままだった。
わたしは本を書くのが好きだ。なぜなら、いや、なぜだろう。それはわからないけど、とりあえず本を書くのが好きだ。
わたしはハッとする。つまらないことは放り投げ、手元の活字に目線を戻した。本はたいして読まない。ただ、彼の文章をのぞいて。
主人公は女の子だった。わたしによく似た女の子だった。楽しいことが好きなところも、後先考えずに行動するところも、わざとそんなふうにしているところも。気が付けば自分と重ねたまま文字を追ってゆく。自意識過剰だとわかっていつつもとまらない。本とはそういうものだ。
時刻は日をまたいだところだった。今日は親が朝まで帰ってこないため、口うるさくされる心配はない。夜更かしは特技である。
わたしは夢中で物語を読み進める。話は展開されようとしていた。自分の狭い世界から逃げ出したい女の子。わたしも一緒に逃げ出してしまいたかった。キャンバスに絵の具と万年筆、たくさんの物語が詰まったわたしだけのノートを持ち出して、本当にそれだけでいい、他には何もいらない。逃げ出してしまいたかった。
ただし逃げ出したとしてもそこで終わりではないのだ。世界は広がっている。試練はつきものだ。だけどそれを恐れない人になりたい。新しい敵を怯まずに倒してみたい。格好良く、ほらあの女の子のように、騎士のように、赤い目の長耳のように。
舞台は夜の古城。
頑丈な鎧を身にまとった兵士たちが襲いかかる。僕はステッキを振るい、それは兵士の長い剣とぶつかり合って火花を散らす。剣は薄い白銀の色を輝かせ、綺麗な月を映していた。すると後ろからまた違う兵士が斬りかかり。僕は大きく飛躍する。兵士の顔面を踏み台にして石の壁を蹴った。
二人の兵士がごっつんこしている間に、僕は黒幕である城の王にステッキを振り下ろす。王は所持していた短剣でそれを弾き返した。予想内の反撃に僕は無事地面に着地する。
王は楽しげな笑みを見せながらゆっくりと鞘に手をかけた。太い剣を抜く。やはりそれも月光を反射させ、わざとらしい仕草で斜めに構えられた。僕は王に向かって走り出す。ステッキが宙を斬る。空気を真っ二つにしながら、一歩、また一歩、じりじりと距離を詰めてゆく。かすりもせんな、と王が笑ったとき、その手元から剣が弾け飛ぶ。僕はにやりとした。しかし焦る素振りのない王。僕は油断せずに後ろへ下がり、音を立てて落下した剣をすかさず拾った。その太さに見合う、とても重たい剣だった。けれどそんなことを考えている暇はない。邪魔になってしまったステッキを迷わず捨てた。
王は赤いマントの下に隠していた短剣を軽やかに投げる。それは夜の空間を平行に滑り、僕の毛先を切って壁に突き刺さる。はらりと赤茶色の髪が散り、それと同時にまた短剣が投げられる。これ以上散髪されるわけにはいかないと、僕は剣を構えた。鈍色の残像が泳ぐ。少しだけ息を切らせ、その吐息を闇に溶かした。
身体の芯が火照りだすのを、感じた。
わたしは万年筆を置く。すっかり温まった部屋の中ですっかり冷めてしまったアップルティをすすり、腕を持ち上げて伸びをした。彼の小説を読むと夢の世界に訪れてしまう。そしてペンを握らずにはいられない。ファンタジーとはそういうものだ。
いくつになっても同じことを考えている。ファンタジーはわたしの心を救いながら生き続ける。幻想のようでそうでない、桃源郷のようで実は望郷。社会にはたくさんの魔法があるから、ファンタジーは夢なんかじゃない。ただそれが理解されずにいるだけだ。わたしはそれが悔しかった。自分の世界をわかってくれる人なんてほんの一握り、否、一握りもいなかった。
おもしろくない。
そんな感想をご丁寧に頂いた。わたしは書けなくなった。別にそう言われるのは今回が初めてではなかった。そんなに傷付くことじゃない。少し痛かっただけで。おもしろくないことなんて、わたしが一番わかっていた。ああ、だからこそ他人に言われて悔しかったのかもしれない。何も知らない癖に。わたしの世界を深く見つめていない癖に。馬鹿にされた気がした。表紙だけ見て何がわかるのだ。目次だけ見て何が。だけどそんなのは言い訳にすぎない。だっておもしろくないのは本当だから。
気付いていたんだ薄々。たくさんの物語があふれている中、自分の物語に陰ができていたこと。こんな話、たいして望まれてないんじゃないかって。わたしの物語がつまらないのはわたしがつまらないせいだ。わたしは何度も何度も自分の物語に謝った。
時計の針は傾きを増していた。真夜中が色濃く滲み、わたしの瞼も重くなってゆく。大好きな彼の小説の大好きなシーンを繰り返し読む。回数を重ねるごとに感じ方は変わってくる。最初はわくわくしてどきどきして堪らない。次には結末を踏まえながら登場人物の気持ちを考える。最後に彼の気持ちを考える。
ページの裏側は誰にもわからない。例えば、わたしの書いた小説を読んだところでわたしがどんな感情で書いているのかは読みとれない。こんなに書くのが辛くても、誰にも伝わらない。だから彼がどんな気持ちで書いているのかは知らない。物書きとはそういうものだ。
だけどわたしは彼の小説が好きなのだ。どれだけ彼が自分の文章を気に入らなくても、それは変わることのない事実。彼の言葉はどんなものより優しく、とてもやわらかい。まるで人柄を表しているようで、わたしはいつも笑ってしまう。それが彼の自信になればいいなあと思った。
わたしは万年筆をペン入れに仕舞う。ノートも引き出しに直し、一つに縛ってあった癖っ毛をほどく。そしてオレンジの灯りを消した。
少しだけ、ほんの少しだけカーテンを開く。深く碧い海底のような空に明けの明星が煌めいた。ちりばめられた金平糖は瞬きを弱め、夜鳥の声は遠くなる。森の緑が爽やかな風に揺らいだ。窓枠は高貴な額縁のように景色を捉え、分厚く描かれた朝焼けの色に塗り固められている。手が届かない気がして、熱く涙が込み上げた。
気付けば万年筆を握っていた。書けない癖に書いてしまう。それがただの自己満足でも、今はそれでよかった。わたしの言葉を通じて、誰かの心が躍ればいいと思った。書かずにはいられなかった。
本とはそういうものだ。