君と魚
未ジャンル
窓の外は夢のように澄んでいる。
空を眺めると、夜のネオンとはまた違う眩さに、目がちかちかした。
寂しさを埋めるかのように、僕は授業の音に耳をすませる。黒板にチョークが当たる音、シャーペンの芯を出す音、友達が小さく笑い合う声、ノートをめくる音、欠伸。些細な雑音が軋み合いながら僕の脳を引っ掻き回し、蠢いている。
教室に漂う、爽やかな初夏の空気は不協和音に似合わない。
少し汗ばむだけの温度には青葉が薫り、どんな人でも優しく見せた。だけどそれは結局ただの錯覚で、みんな何もわかっちゃいないんだ。
味気のない砂利を噛み締めながら、僕たちは泳がされている。そんな日常を、たくさんの人が幸せだと言い張る。そんなことに僕はいつも悲しくなって、夜にひとりで泣くのだ。
暗くて冷たい真っ黒な水の中をでたらめに潜って、おぼつかない足取りで底を歩く。空っぽになったプランクトンたちが沈殿するその場所には珊瑚が咲いていて、孤独な僕を指差して笑った。
溺れてゆく。
紺色の闇は檻のように頑なに広がっていった。
「どうしたの?」
夕暮れ色の帰路、僕たちは橋の上を歩く。
「なんでもないよ」
隣を歩く君の問いかけに、ぼくは俯き、そう答えた。焦げ付くような胸の熱が、僕の頬を火照らせる。
橋の柵の間から見える川の流れが、茜色に乱反射して輝かしい。夕日や雲は透明な赤色なのに、空は薄い水色なのが不思議だ。そんなつまらないことを考えながら、ゆっくりと家路を踏みしめてゆく。
「雨、降らないかな」
君が言った。僕はアスファルトをにじる自分の足から視線をあげ、「えっ」と声を出した。こんなに綺麗な晴れの日に、どうしてそんなことを言うのだろう。
君の横顔を見つめて次の言葉を待つ。君の顔は美しかった。
「だって、相合い傘できるでしょ」
少し恥ずかしそうに君は言う。橋の下で魚が跳ねた。口の中にいっぱい砂利を詰め込んだ魚が跳ねた。水しぶきが飛び散った。
「降らないよ」
僕は苦笑した。
「雨は嫌」
臆病に首を振り、空を仰いだ。汚い鳥が羽ばたいている。山の木々が踊っている。風が吹いている。
そこの家の庭には向日葵が咲いている。大きな顔で奇妙なほどに上を向き、今にも首が千切れそうだ。花は鮮やかな黄金に染まり狂い、夕焼けに照らされた。
「どうして?」
相合い傘を却下された君は、なんだか寂しそうな顔で尋ねる。
僕はまた俯いた。確かに君との相合い傘はとても魅力的ではあるが、それでも僕は怖かった。どれだけ君が僕の手を握ってくれたとしても、不安は消えない。
「溺れちゃうよ」
震えた声で、僕はそう呟いた。だって、傘を差してもコートを着ても長靴を履いても適うはずないんだ。小雨は針で夕立は怒号だ。
「こわいよ」
僕は涙を流した。頭がくらくらする。
「ごめんね」
君は小さく謝った後、僕を抱きしめようとして止めた。それはさよならと同じ意味だったんだと思う。君は駆けてゆく。僕のことなんか最初から見ていなかったんだろうな。
艶やかに光るこの空の高いこと。僕は君が好きだった。
「痛い」
僕はぽつり囁いた。校庭には雪が積もっている。景色は一面真っ白で、白銀に煌めいていた。空も山も土も屋根もぜんぶ白。人々は心をときめかせて走り回る。だけど凍てつく寒さは僕の体を貫いた。
「ねえ、行こうよ」
あの日から友達になった君が僕を誘う。楽しげにマフラーを巻きなおし、ミルク色の吐息を浮かべては宙に溶かしていた。
「痛いから、いいや」
「痛い?」
「うん、触ると痛い」
冷たくてズキンと痺れる。そう伝えると、君は寂しそうな顔をして「そっか」と頷いた。
純白の世界に混ざってゆく君の背中を眺めながら、僕は静かに笑ってみせた。味気のない砂利を噛み締めて、雪の中を泳ぎ疲れる。しあわせだと言い張るのは、ただ気付いていないからだと最近になって知った。僕は傘を差してひとりで帰ることにした。
すると、遠くの方で、君が寂しそうな顔をした。
雪は既に止んでいる。