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スノースキン  作者: 管澤捻
死霊都市モース
8/27

死霊都市モース(1)

 深夜一時。リディはベッドの上で上体を起こした。天井に取り付けられたランプは消され、薪ストーブの僅かな炎が、室内に揺らめく明かりを生み出している。リディはベッドから脚を下ろすと、スリッパを足に引っ掛け、壁に掛けられたダウンに近づく。彼女はダウンを手に取ると、袖に腕を通さず、肩に掛けるようにしてそれを羽織った。ニット帽や厚手のパンツは、逡巡のすえ、不要だと判断した。それほど時間を掛けるつもりはない。彼女は黒いカーテンで閉じられた窓に近づくと、カーテンを開け、少しだけ窓を開ける。部屋に吹き込む冷気に、一度身を強張らせた後、そっと窓から頭を出す。部屋の外には、一人の女性が家の壁に寄り掛かるようにして眠っていた。マリナだ。

 リディは窓枠に脚を掛け、音を出さないよう慎重に部屋の外に出た。ゆっくりと雪の上に足を下ろすと、マリナの前に屈み込む。マリナは、白い睫毛に縁取られた瞼を閉じ、小さな寝息を立て、胸を上下している。眠っている。簡単には起きそうにない。リディはそう判断すると、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 その時、一際強い寒風が、リディの剥き出しの脚に突き刺さった。リディは大きく身震いすると、肩に掛けたダウンを手で押さえ、身を縮こませる。リディは、厚手のパンツをはかず、寝間着の短パンで外に出たことを少し後悔した。

(早めに確認したほうがいいね)

 リディはそう決断し、マリナの右の胸元に手を伸ばした。そして、白いワンピースの裾を指でつまみ、そっと手前に引き寄せる。マリナが目を覚ます気配はない。リディは再び唾を飲み込み、ワンピースで隠れていたマリナの右の胸元を覗き見る。

 今、リディの頭の中には、まだ自分が赤ん坊だった頃の記憶が蘇っていた。その記憶の中では、左手で風景画を描き、右手で赤ん坊のリディを抱く、母──アリア・コルトーの姿がある。赤ん坊のリディはアリアの右乳房から、必死に母乳を飲んでいる。そのアリアの右乳房には、特徴的な形の痣がある。まるで、逆さまにしたハートのような、そんな形の痣。記憶に鮮明に残った、母親を識別する記号。

 包帯男に襲われ、マリナが危機に陥った時、リディは彼女を助けなければいけないという、強い衝動に駆られた。もちろん、それは人として当然のことなのかも知れないが、リディの感じたそれは、他者に向けられる想いとは異なる、もっと本能的で直感に近い感情だった。まるで、身内の人間に向けられる情愛のような、そんな激しくも優しい想い。

 アリアは死霊都市モースの調査に行き、行方を眩ました。それが十一年前のことだ。そして、マリナはその死霊都市モースが生まれ故郷──少なくともその可能性がある──である。そして彼女は十一年より以前の記憶を失っている。この奇妙な符合は、果たして偶然なのだろうか。

 アリアとマリナの容姿は、実は非常に酷似している。もちろん、アリアは黒髪で、マリナのように白髪ではないし、瞳の色もリディと同じブラウンで、マリナのように鮮やかな金色をしていたわけではない。だが、顔の造形やパーツ一つ一つの形、体型などは瓜二つの言っていいだろう。唯一、リディが懸念に思っていたアリアとマリナの年齢の食い違いも、マリナが十一年間、歳を取っていないのであれば、アリアが行方不明になった二十四歳当時の姿を、マリナが保っているのだと説明が付く。

 マリナはリディの母親──アリア・コルトーなのではないか?

 リディのこの考えは、とても推理と呼べる代物ではない。所々論理は飛躍し、また、自分にとって都合の悪い事実には目を伏せ、都合の良い事実だけを突出して考察している。常識的に考えれば、リディの推理が当たることはあり得ないだろう。しかし、現に彼女の目の前に、常識では図れない女性がいるのだ。そう考えると、リディは確認せずにはいられなかった。マリナはアリアなのか。そしてもし、その推理が正しいのであれば、マリナの右胸には、アリアにあった、逆さハートの痣があるはずだ。

 リディは、マリナのワンピースの胸元をめくり、右胸を確認する。そこには──

 存外可愛らしいブラジャーがあった。

(……)

 こんな薄いワンピースでノーブラな訳がない。考えてみれば当然なのだが、リディは何だか興が削がれる想いだった。リディは慎重に息を吐くと、マリナのブラジャーに指をかけ、その中を覗き見る。

(……)

 リディは溜息を吐くと、そっと指を離した。そして、マリナの乱れた衣服を丁寧に整えると、スッと立ち上がる。リディは、落胆とも安堵ともつかない、曖昧な表情のまま、自分の部屋に戻るため、窓枠に手を掛けた。

(やっぱりね。そんなことある訳ない)

 マリナの右胸には、アリアと同じような痣は何処にもなかった。

 リディは、膝を曲げて跳び上がると、窓から自分の部屋に戻っていった。


 朝の七時。リディは目が覚めると、ベッドから起き上がり大きく伸びをした。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、室内をキラキラと明るく照らしている。窓の奥に見える白銀の景色を眠気まなこで眺め、大きく深呼吸をする。冷たい空気が肺に送り込まれ、頭の中がクリアになる。ここレルミット大陸は年間を通し強い寒気に覆われている。その冷気は、日常生活を送る上で大きな障害となっているが、まるでそれが、夜中に空気を浄化でもしてくれているかのように、大陸の朝はいつも清々しいものであった。

(ただ……この寒さはやっぱり嫌だね)

 リディは、室内の寒さに肩を震わせると、はだけたシーツを手繰り寄せ、身体に巻き付けた。吐き出す息が白いことに気付き、リディは薪ストーブのほうを見やる。寝ている間に、ストーブの炎は消え、中には燃え切った炭だけが残っている。これでは部屋が冷えてしまうのも頷ける。

 リディは、シーツを身体に巻き付けたままベッドを降り、壁に掛けられたダウンを手に取った。


 朝食はテッサが用意してくれていた。スクランブルエッグと塩漬けされた生ハム、そしてチーズとミルクが食卓に並べられた。その生ハムがビックフットから作られているのではないかと、リディは多少心配したが、テッサに確認したところ、外の村から仕入れた豚肉だという。リディは安心し、全ての料理を美味しく平らげた。

 食事を終えると、リディはテッサと一緒に食器を洗い──リディから手伝いを申し出た──、その後、ニット帽など防寒着で身を包むと、家の外に出る。家の外には、木に寄り掛かっているマリナの姿があった。

「やあリディ。昨日はよく眠れたか?」

 マリナが愛想よく、片手を上げてリディに話し掛けてきた。リディは「うん」と首肯し、マリナの下に小走りで駆け寄る。積もった雪に足を取られそうになりつつマリナに近づくと、白い息を出しながら、リディは彼女に問い掛けた。

「もしかして、待たしちゃった?」

「いや、午前九時。時間ぴったりだよ。じゃあ、行こうか」

 ワンピースを翻して歩き出すマリナ。その背中を慌ててリディが追い掛ける。脚が長いせいなのか、マリナの歩くペースはリディのそれより僅かに速い。リディは脚を小刻みに動かして、マリナと並んで歩く。

「えっと、まずどうするんだっけ?」

「昨日決めたじゃないか。まずここの村長に外出の許可をもらうんだよ。三、四日は村を離れることになるからな。君はともかく、ぼくはきちんと承諾を得ないといけないんだ」

 村長の家はすぐに辿り着いた。なにせ、この村には十世帯ほどしか住んでいないのだ。一段高い丘の上に作られた木造の家。その扉をマリナが軽くノックする。待つこと五秒。扉がギィっと軋む音を立てて開かれた。

 扉の奥には、六十代を超えていると思しき、老人が立っていた。老人は薄くなった自分の白髪を指でぽりぽりと掻きながら、意外にも、若々しい声で、マリナに話し掛ける。

「マリナか。どうしたこんな朝早くに」

「おはようマルコじい。ちょっと相談があるんだけど、いいかな?」

「ああ構わんよ。だが少し待ってくれ。上着を取ってくるからな。この歳じゃ、外の寒さは身に堪える」

「すまない。ぼくが部屋の中に入れればいいんだが」

「気にするなと、前にもそう言ったはずだ。マリナ。人には誰でも得手不得手がある。お前もそうだというだけだ。お互い、長所と短所を補いながら生活すればいい。私たちのように小さな村の者は特にな」

 いい村長さんだな。そうリディは感心した。村長──マルコは威厳たっぷりに頷くと、悠然と腕を組み、厳かに言う。

「ただし、感謝の気持ちがあるのは良いことだ。その気持ちが本物であるのなら、この私とベッドの中で、一夜を共にしてくれるとありがたい」

 リディは雪の上に、顔面から突っ伏した。マルコが突然放ったセクハラ発言。それに特に怯む様子を見せず、マリナは半眼になりニヤリと笑った。

「無理するなよマルコじい。ぼくに直に触れば凍傷起こして酷いことになるぞ」

「耐えよう。若い女の柔らかい肌に、この身を包むことができるなら、どんな試練も私は耐え抜いてみせる」

「かっこよくないから」

 マリナの手慣れた様子を見て、この手の話は、二人の間で幾度となく繰り返されてきた、冗談の類なのだろう。そう、リディは考えることにした。気を取り直し、リディは少し頬を赤らめたまま立ち上がる。顔や服についた雪を、パタパタと叩いて落としていると、いつの間にか上着を着たマルコが、彼女の傍をスッと横切った。身の危険を感じ、思わず一歩身を引いてしまうリディ。マルコは、そんな彼女の様子を、目を丸くして不思議そうに眺めていたが、すぐに視線をそらすと、近くの岩に近づき、腰掛ける。

「さて、相談とは?」

 眉を上げマリナに問うマルコ。マリナは一度頷くと、本題を話し始める。

「実は三、四日、村を留守にしたいんだ」

「その理由を聞かせてくれるか?」

「死霊都市モースって所に、彼女──リディと一緒に出掛けたいんだ」

「モース──だと?」

 マルコが、マリナの言った都市の名前に、過敏に反応した。垂れ下がった瞼を押し広げ、マリナを凝視するマルコ。マリナがその老人の反応に面を食らい、目を瞬かせる。

「なんだマルコじい。知っているのか?」

「知っているも何も……そうか。マリナ。お前には話したことがなかったな」

 そう言うと、マルコは広げた瞼を再びたるませ、咳払いをした。

「モースとは、ここソーゲ森林地帯の北東に存在する、現在(いま)から約百五十年前に滅んだ都市の名前でな、私たち村の住民は、その都市の生き残りだと言い伝えられておる」

「本当ですか!?」

 リディが驚愕に声を上げた。彼女はマルコに近づく──四、五メートルほど離れていた──と、紙とペンを取り出して勢い込んで老人に話し掛ける。

「詳しくお話を聞かせてください」

 リディの迫力に押されたのか、マルコが冷や汗を垂らして、遠慮がちに言う。

「君がその……マリナが連れてきたフリーライターという客人か?」

「リディ・マルコーです! よろしくお願いします! 話を!」

「話……といってもな。今のが全てだよ。私たちはモースの子孫で、都市を離れ、村を作り、そこに居ついたというわけだ」

「どうして都市を離れたんですか!?」

「さあ……どうだったか。政策の食い違いとか、考え方の違いだったからだと、記憶している。何にしろ、私たち村人にとって、モースとは不可侵の場所であり、訪れれば災いが降り掛かると、そう教えられてきたのだよ」

「災いとは? 具体的にどういったものなんですか!?」 

「だから、私は知らない。古い言い伝えで、根拠のない話だ。だが触らぬ神に祟りなし。私たちはそれを守ってきた。少なくとも私の知る限りはな。それに、質問したいのは私の方だ。マリナや君がモースに行きたがる理由を教えてくれ」

 マリナが、リディの上着の裾を掴み、くいくいっと引っ張る。少し落ち着け──ということだろう。リディは不満げに口を尖らせるも、マリナの指示に従って、一歩身を引いた。マルコが胸を押さえ、ホッと息を吐く。

 リディは、取り敢えず今マルコから聞いた話を紙に書き留めると、上着にしまう。そして、母親のことは伏せて老人の質問に答える。

「あたしは、記事を書きたいからです。フリーライターなので」

 リディの答えに、マリナが続く。

「ぼくは、そこが自分の生まれた場所だと聞いたからだ」

「マリナの生まれた場所? それは間違いないのか?」

「いや、確証はない。それを確かめる意味でも、そこに向かってみようと思う」

 マルコは目を伏せ、暫く黙り込んだ。モースを禁忌の場所として扱ってきた彼らにとって、リディやマリナの相談は、歓迎できるものではなかっただろう。だが、マルコは頭ごなしにそれを否定する真似はしなかった。それはきっと、この老人がマリナの想いを理解し、それを大事にしようと思っているからなのだろう。時間にして一分ほどか。マルコは伏せていた顔を上げると、フッと笑った。

「分かった。マリナ。お前の好きにするといい。村の連中には私から伝えておこう。出発はいつにするつもりだ?」

「今日の午後一時に立とうと思う。すまないな。マルコじい」

「感謝する気持ちがあるなら──」

「その話はまた今度にしようか」

 マルコの言葉を、マリナがぴしゃりと遮る。そして、二人は同時に歯を見せて笑った。


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