雪女マリナ(6)
リディは再び上着を着用し、ニット帽をかぶると、部屋の窓から外に身を乗り出した。暖房の効いた部屋から、極寒の外に飛び出したことで、リディの身体が小刻みに震える。おっさんみたいなクシャミをするリディを見て、マリナが申し訳なさそうに言う。
「すまないな。ぼくには暖房の効いた部屋は暑すぎるんだ」
マリナのその言葉に、リディはふと思い出す。マリナがお酒を飲んでいた酒場の室内も、この外気と同じように凍えるほど寒かった。あの時は深く考えていなかったが、あれも暖房が苦手なマリナに対する、村人たちの配慮だったのだろう。
さらにマリナが続けてこう言った。
「だが君まで外に出る必要はないんだ。窓の外からでも取材を受けることぐらいできる」
リディはブンブンと頭を振ると、鼻水を垂らしながら快活に応える。
「いいえ。それは取材を申し込む立場として、失礼だと思っています。相手を尊重し、同じ状況に身を置いてしゅばいをじだら──」
「意気込みは立派だが、ろれつが回ってないじゃないか。ほら鼻水も拭けよ。凍ったら鼻が痛くなるだろう」
「すみません……もう大丈夫です」
リディはネックフォーマを鼻まで上げて、自身の吐く息で鼻周りを温めた。そのまま身体を摩りながらジッとしていると、次第に身体が外気の寒さに慣れてくる。リディがマリナに向けて頷いてみせると、マリナもまたリディに頷き返した。そして、話が再開される。
「さて、あの包帯男が何者かって話からだったな。答えは簡潔だ。ぼくは知らない」
「知り合いではないんですか?」
「知るには知っている。正体を知らないってことさ」
マリナが、部屋の壁を背にして、雪の上に座り込んだ。そしてリディに向けて、自身の隣に座るようジェスチャーで伝えてくる。リディは素直に従って、マリナの隣にちょこんと座った。マリナは宙を見つめると、記憶を探るように話を続ける。
「あいつが初めてぼくの前に現れたのは……確か一年ほど前だったかな。いつものように狩りをするために森に入っていた時、奴が現れた。そして、理由も言わずに自分に付いて来いとだけ言ってきたんだ。ぼくがそれを断ると、奴は今回のように、ビックフットをけし掛けてきた。それから、森で奴と出会うたびにその繰り返し。いい加減、ぼくも辟易していたところさ」
「あの包帯男とマリナさんの関係は、それだけなんですか?」
「それだけだ。訳が分からないだろ?」
戯けたように、眉を上げるマリナ。リディはポケットから紙と鉛筆を取り出すと、マリナの話の要点を手早く紙に書き込む。リディは包帯男にやられた腕の傷を摩りながら、鉛筆の先を唇に当て、思案顔でマリナに尋ねる。
「包帯男の人が言っていた、マリナさんの生まれ故郷という話。あれは事実ですか?」
「デタラメだとは思うが、確証はないな。ぼくは自分の生まれ故郷を知らない。強いて言えば、この村ということになるが」
「その辺りを詳しく説明してもらってもいいです?」
「ぼくが十年前にこの村に来たことは、酒場の店主に聞いて知っているな? 正確には十一年前になるんだが、ぼくはそれ以前の記憶がないんだ。それまでどこで生活をして、どうやって村に辿り着いたのか、その辺りが記憶に靄でも掛かっているように、明瞭に思い出すことができないんだ」
記憶喪失。それは、フリーライターとして大陸を回っているリディにとって、心動かされる言葉だった。やはり、この白髪の女性には──低すぎる体温や突出した膂力といった身体的特徴の他に──大きな謎を秘めているのではないか。そう思うと、リディは寒さも忘れて胸が熱くなった。
リディは、思わず綻ぶ表情をキッと引き締める──他人の記憶喪失を喜ぶというのは失礼だと思った──と、紙の上で鉛筆を走らせながら、マリナに尋ねる。
「マリナさんは十一年前、外からこの村に来たということですね。で、それ以前の記憶はない。ですが、十一年前といえばマリナさんはまだ子供だったんじゃないですか? いくらマリナさんでも、子供がビックフットのいる森を抜けるのは、難しいと思いますが」
「君はぼくが幾つに見えているんだ?」
「えっと、二十代前半ぐらい? あたしと同じ──十六歳ってことはないと思いますが」
マリナの大人びたスタイルと顔付きを見て、リディはそう言った。これでマリナが自分と同い年であれば、リディは同じ女性として、大きく自信を喪失してしまう。
マリナは「ふーん」と、気のない返事をしながら、頬を指でぽりぽりと掻いた。
「やはり、それぐらいに見えるのか。自分ではよく分からないが。村のみんなも君と同意見が多かったよ。だが、実はよく分からないんだ。ぼくは十一年前から、歳を取っていないからね」
「歳を取らない?」
「多分だけどね。十一年経っても容姿が変わらないんだ。背が伸びるわけでもないし、シワが増えるわけでもない。もしかしたら急に老け込むのかも知れないが、少なくとも今のところはそういった兆候は見られない」
マリナの告白に、リディの胸はより一層高まった。彼女は記憶喪失で、かつ、歳を取らないのだと言う。次々と明かされる──というより、謎めいていく──マリナの秘密に、リディは興奮を抑えるのに必死だった。
だがそんなリディの興奮は、マリナが独り言のように呟いた次の言葉で、一気に後悔へと変わった。
「まるでこの身体同様、時まで凍り付いてしまったようにね」
自虐的に微笑むマリナ。
リディは浅はかに歓喜した自分自身を恥じた。マリナが特異な体質を持っていようと、仲間と笑い合い、時には喧嘩する、普通の女性と同じであることを、先程認識したばかりなのに。彼女を特別扱いしない村人に感心し、変人だと思わず口走った自身を反省したはずなのに。次々に提示される魅力的な謎と、小説のような彼女の生い立ちに、好奇心が強く刺激され、マリナの気持ちを疎かにしてしまった。
(人が抱える問題を、ただ面白いって記事にするだけじゃ、いつまで経っても三流の記事しか書けない。その人と同調して、ちゃんとその想いを理解しないと、本当に人の心を動かせる記事なんて書けっこないじゃん)
それは、母親であるアリア・コルトーの書いた記事からリディが学んだことだった。一般的なフリーライターが記事を書く際、そこに載せる画像は取材時に撮った写真であることが殆どだ。だがアリアは、極力、手書きの風景画を記事に載せるようにしていたという。その理由を、リディは母親から直接聞いたことはない。だが、母親の書いた記事を父親から見せてもらった時、リディはその理由を明確に理解した。
アリアの記事に載せられた風景画には、写真からでは決して感じ取ることができない、書き手の感情が繊細に描かれていた。その風景を目にした時、書き手が感じたであろう喜びや驚き、悲しみや、時には憤りまでもが、風景画の微細なタッチから視覚を通し、読み手の心に染み込んでくる。それは心地よいものであり、心締め付けられるものでもある、息衝いている記事だった。
リディには、母親のような絵の才能はない。だからせめて、文章の中に自身の想いを込められるライターになりたいと思った。行間から、その記事に書かれた喜怒哀楽を感じ取ってもらえる、そんな母のような一流を目指し記事を書いてきたのだ。
(それでやっと、一端の記事を書ける自信ができたから、この地に行く決心をしたっていうのに、これじゃあお母さんに合わせる顔がないじゃ──)
リディはそこで大事なことに気が付いた。彼女は手早く、ダウンの内ポケットから一枚の折りたたまれた紙を取り出すと、それを広げ、マリナに見せた。その紙には、とある場所の風景が鉛筆で綿密に描かれていた。
マリナは、風景画とリディに交互に視線を移すと、眉根を寄せ疑問符を浮かべる。
「……これは?」
「あたしのお母さん、アリア・コルトーって言う記者が描いた風景画なんですが、これどう思いますか?」
「どう……て?」
「見たことありませんか? この景色。見たことなくても、何か引っ掛かることってないでしょうか?」
曖昧なリディの問い掛けに、マリナはますます怪訝に眉をひそめた。彼女は目を細めて、リディの持つ紙に、少しだけ顔を近づけた。マリナは紙の端から端まで視線を走らせ、少し考え込むしぐさをした後、小さな声で呟くように言う。
「これは……ガラス……いや氷か?」
「はい。氷に閉じ込められた都市を描いた物です」
「驚いた。すごく綺麗な所だな。本当にこんな景色があるのか?」
「……ということは、マリナさんはこの景色を見たことがないんですね」
当てが外れ、肩を落とすリディ。そんなしょげる彼女を見て、マリナが申し訳ないと思ったのか、再び風景画をじっと見つめた。そして、こめかみに指を当てて目を閉じると、マリナは思案するように暫く黙り込んだ。そして再び目を開けた彼女は、少し自信なさげにリディに言う。
「……間違っているかも知れないが、既視感みたいのはある……かもな」
「本当ですか?」
パッと顔を輝かせて、リディが尋ねる。
「だから、自信はないって。だがそうだな、ひどく気になる景色だ。一体ここはどこの景色を描いたものなんだ?」
マリナの問いに、リディは唾を飲み込んで、真剣な面持ちで答える。
「死霊都市モースです」
マリナの目が見開かれる。
「その名前は……」
「はい。あの包帯男がマリナさんの生まれ故郷だと言っていた所です」
「どうしてリディ、君がその風景画を?」
「先程も言いましたが、これはあたしのお母さんが描いたものです。お母さんは大陸中を飛び回るフリーライターで、この風景画はお母さんが取材のために訪れた場所なんです」
リディはそう言うと、風景画を大事に折り畳んで、再びダウンの内ポケットにしまった。落とすことがないよう、ポケットの留め金をしっかりと掛けて、マリナに再び向き直る。マリナは動揺を隠そうとしているのか、眉尻を上げ厳しい表情をしている。その彼女の目をじっと見つめ、リディは言う。
「マリナさん。死霊都市モースまでのガイドをお願いできますか?」
「なに?」
マリナがびくりと肩を震わせた。
「というよりは、護衛に近いです。場所はお母さんが残した資料から、大まかですが分かっています。あたしがこのソーゲ森林地帯に入ったのは、そこに向かうためなんです」
「どうしてそこに?」
「あたしのお母さんが最後に取材した場所が、そこなんです。あたしはその場所にある謎もそうですが、お母さんが取材で訪れた場所を見て回りたいんです」
「ぼくが聞きたいのは、どうしてぼくまで、そこに誘うのかということだ」
「ビックフットにまた襲われるから……というのももちろんあります。ですが、もしこの街がマリナさんの出生に関係しているのなら、マリナさんにも知ってもらいたいからです」
「それは……記事にするためか?」
「マリナさんがそれを知りたいと思っているからです」
マリナの目を真っ直ぐ見つめ、リディはそう断言した。
リディがマリナと出会ってから、まだ一日と数時間しか経過していない。一緒にいた時間で考えれば、もっと少ないだろう。だがそんな僅かな時間でも、彼女に対して分かったことが一つある。それは彼女が──身体的な意味ではなく、精神的な意味で──とても強い女性だと言うことだ。だから彼女は、自分の特異な体質を卑下することなく、自分を受け入れてくれる村人を好意的に捉えることができるのだろう。
だがそれでも、全く気にしていない訳がないのだ。それは今の会話の中で、マリナがふと見せた、寂しそうな笑みを見て、リディは確信した。他者と異なる特徴を持つ者は、例え今は皆から受け入れられていようとも、いつ何が切っ掛けで掌を返され、皆から排斥されるか分からない。そんな一抹の不安が、マリナにもあるのかも知れない。
その不安が、自身の出生を知ることで解消されるとも思えない。だが、自分自身を知ることは、マリナにとって決してマイナスにはならないだろう。リディはそう考え、マリナを死霊都市モースに誘ったのだ。
マリナはリディを見つめ、沈黙した。それは、実時間では一分程度の沈黙だったのだろう。だが、リディの体感的には三十分、一時間ほどにも感じる、長い時間だった。
マリナがリディから視線をそらして、「ふう」と溜息を吐いた。
「もしぼくが行かないと言ったら、君一人でそこに向かうつもりか?」
「はい」
リディは、マリナの問い掛けに、間を空けずに首肯した。マリナが、降参といったように両手を肩まで上げ苦笑する。
「なら……仕方ない。恩人がビックフットに食べられてしまうのは忍びないからな。そのガイドの仕事、引き受けようじゃないか」
「ありがとうございます。マリナさん」
瞳を輝かせるリディ。そんな彼女に対し、マリナは優しく微笑んで言う。
「マリナでいいよ。あと敬語も不要だ。堅苦しくて敵わない」
「え……でも目上の方に対して」
「忘れたのかい? ぼくは十一年前より以前の記憶がないんだ」
マリナはそう言って、悪戯っぽく笑う。
「つまり、ぼくはある意味では十一歳と同じ。リディ。君より年下なんだ」