雪女マリナ(5)
名もないこの村は、ソーゲ森林地帯の北部に位置し、農業や狩りなど自給自足で生計を立てている。森の外との交流は、最低限の物資のやりとりを除いては殆どなく、外界から隔離された生活を送っている。良くも悪くも、近代化の波に晒されることのなかったこの村には、木材を主として造られた、温かみのある建物が軒を連ねていた。その建物は殆どが平屋で、雪が積もらないよう、屋根には急勾配が付けられている。
リディは村の中を一人歩き、マリナがいるという酒場に向かっていた。ストーブで暖められていた部屋の中と異なり、陽が落ちた──すでに午後八時を回っていたらしい──外の気温は、身を引き裂くほど冷たいものだった。乾かしてもらっていたニット帽やダウンで防寒し、白い息を吐きながら、足早に目的地へと歩を進める。
酒場を探すのは苦労しなかった。もともと、この小さな村の中には十棟ほどの建物しか存在していない。その中で、リディを介護してくれた女性──テッサが言った通り、一番騒がしい建物を目指して歩くと、それは容易に見つかった。
村で一際大きい平屋。そこから、怒声や罵声が入り混じる雑多な声が、漏れ聞こえてくる。その荒れた声に、リディは建物に入ることを一度は躊躇するも、マリナに会いたい気持ちと、この凍える寒さも相まって、意を決して建物の扉を開いた。そして、まずリディの目に飛び込んできたのは、部屋の奥に見えるカウンターに土足で上がり、酒瓶を振り回しながら、禿頭の男と激しく言い争いをしている、マリナの姿だった。
「だから、この勝負はぼくの勝ちだろ! 言い訳ばかりしやがって! 男らしくないんだよ! このハゲ!」
「黙れテメエ! 俺は知ってんだぞ! お前、十八杯じゃなくて十七杯だろ! 一杯ごまかしてんじゃねえか! よって、この『村一番の豪酒は誰だ? 第二十三回酒盛り対決! ドンドンパフパフ』は無効だ無効!」
「誤魔化してない! 数え間違えただけだ! そもそも、十七杯だって十四杯のお前には圧倒的に勝っているんだ! どうして無効にされなきゃならないんだ!」
「誤魔化してまで勝とうっていう、その精神が気にくわねえってんだよ!」
「そうやって難癖つけて勝負を有耶無耶にしようとしている、お前の方が勝負を誤魔化しているじゃないか!」
「んだとこのガキ!」
「やるか!? このハゲ!」
目を尖らせたマリナと禿頭の男との間に、激しい火花が飛び散る。周りにいた連中はそれを止めようともせず、むしろ「やっちまえマリナ!」や「たまには勝てよフランク!」など、二人──フランクとは禿頭の男の名前なのだろう──の喧嘩を囃し立て、無責任に盛り上がっていた。
そのマリナの様子を見て、リディは呆然と酒場の入口で立ち尽くした。目を剥き、下唇を突き出して、男にガンつけるマリナのその姿は、リディが彼女に対して抱く神秘的なイメージとは相反するものだった。リディはそのことに、少なからずショック──ひどく勝手ながら──を受ける。とここで、酒場入口付近で酒を飲んでいた一人の男が、リディの存在に気が付いた。男は手をメガホンのように口に当てると、マリナに──カウンターの上で酒瓶を振り上げている──声を掛ける。
「おーい、マリナ! お前が連れてきた子がここに来てんぞ!」
男の声に反応して、マリナがリディの方に振り返った。すると彼女は、凶悪な威嚇顏から一転、パッと顔を輝かせる。
「おお! 起きたのかリディ!」
マリナはそう言うと、再び禿頭の男に向き直り、振り上げていた酒瓶を、男の頭頂部に無言で叩きつけた。「げはっ!」と男が登っていたカウンターから崩れ落ちる。マリナはそれを一瞥することもなく、身軽にカウンターから飛び降り、軽い足取りでリディの前まで近づいてきた。
「体調はどうだ?」
「え……ええ。まだ痛みはありますが、大丈夫です」
「そうか、良かった。心配していたんだ」
「ありがとうございます。えっと……ただ、あたしよりも、心配した方がいい人がいると思うんですが」
マリナに酒瓶を叩きつけられ、頭から血を流して床に倒れ伏している禿頭の男を眺めながら、リディはそう呟いた。しかし、マリナはリディのその呟きが聞こえなかったのか──あるいはキッパリと無視したのか──、カウンターの奥にいる店主らしき女性を親指で指し示し、リディに向けウィンクした。
「お腹すいているんじゃないか? ちょうど今、とある大会に優勝して賞金が手に入ったんだ。ぼくが奢るから、何か食べていくといい。お酒は──」
「あ……未成年ですから」
「そうか。この村ではあまり年齢など気にする必要もないと思うが、まあ君がそう言うなら無理強いはしないよ」
リディはマリナに誘導されるまま、カウンターの席に着いた。因みに、床に転がっていた禿頭の男は、リディが余所見をした隙に、マリナが蹴りつけ壁際に転がしていたりする。
「さあ、好きなものを頼んでくれ。だが強いてお勧めを言わせてもらえれば、ビックフットのモモ肉のソテーなんて絶品だぞ」
カウンターに貼り付けてあるメニューに目を通していたリディは、マリナの言葉に驚愕し、即座に訊く。
「ビックフット!? あれ食べるんですか!?」
リディの驚きを予想していたのだろう。マリナは楽しそうにニヤリと笑うと、指を立てて訳知り顔で言う。
「当然だろ? こんな辺境の村では、使えるものは何でも使う。食えるものは何でも食う。それが常識さ」
「でも、人を襲う怪物ですよ」
「熊だって狼だって人は襲う。ビックフットが異形な姿をしているからといって、差別するのはよくないぞ」
「差別っていうんですかね?」
リディは首を傾げて疑問符を浮かべた。すると、厨房でコップを拭いていた店主の女性が、カウンター越しにリディに話し掛けてきた。
「まあ、最初は気味が悪いわよね。でもマリナの言う通り、驚くほど美味しいのよ。他では食べられないし、もうこの村の名物みたいなものなの」
「じゃあ、この村ではずっとビックフットを食べてきたんですか?」
リディの素朴な疑問に、店主の女性は頭を振って答えた。
「いいえ。ビックフットを食べるようになったのは最近のことね。マリナがこの村に来てからだから、十年ぐらい前からかしら。あんな凶暴な動物、マリナぐらいしか狩ることができないもの」
マリナは十年前、この村に来た。何となくその事実を頭の隅に記憶しつつ、リディはマリナに視線を向けた。彼女は腕を組み、誇るように胸を張っていた。
「まあ、あんな大物を狩れるのは、大陸広しといえど、ぼくだけだろうね。この村で一番の猟師だって、みんなから評判──」
「誰が一番の猟師だ!」
白い髪を掻き上げながら、マリナが気持ちよく喋っていると、その彼女の言葉を遮る怒声が酒場に響き渡った。声の主は、頭から盛大に血を流している禿頭の男だった。彼はマリナに蹴られた腹を抑えながらも、脂汗に滲んだ顔を怒りに染めていた。
「酒じゃ負けても、狩りの腕でテメエに後塵を拝した覚えはねえぞ! まだ狩りを始めて十年そこそこの若輩が! ナマ言ってんじゃねえ!」
唾を飛ばして抗議する禿頭の男を、マリナは「ふん」と、鼻で笑った。彼女はヒラリヒラリとワンピースの裾をなびかせながら男に近づくと、肩をクイっとすくめ、馬鹿にするように戯けた口調で言う。
「あーら。どこの誰かと思えば、いつも小物ばかり捕まえてらっしゃる、フランクじゃありませんこと? そうよね。あなたの雀の涙ほどの成果こそ、この村一番の猟師と名乗るのにふさわしいですわよね。おーほほほ」
めちゃくちゃな上流階級口調で、禿頭の男を挑発するマリナ。男は禿頭に血管を浮き上がらせながら、子供のように地団駄を踏むと、ビシリとマリナに指を突きつけた。
「このガキが! 誰が雀の涙だと! 俺は堅実に狩っているだけだ! テメエみてえに不定期に捕まえてくるアマチュアと違って、定期的に安定した食料を提供してんだ!」
「ちょっと待て! 今の言葉は聞き捨てならないぞ! 誰がアマチュアだ! ぼくが何度 この村の食糧難に貢献してきたと思っているんだ! 取り消せ! ゆでダコ!」
「誰がタコだ! 俺がタコなら、ヒョロくて白いテメエはイカじゃねえか!」
「イカだと! この絶世の美女を捕まえて、軟体動物に例えるとは無礼だぞ!」
「ざけんな! どこの誰が美女だと!?」
「美的センスが絶望的なまでに欠如したお前には分からないようだな!」
「欠如してんのはテメエの目上を敬う心だろうが!」
「敬って欲しければ金払え! 馬鹿!」
「銭ゲバがほざくな! 阿保!」
「ボケ! カス! ボーリング頭!」
「クズ! ゴミ! 白絵の具の化身!」
不毛な言い争いを続けるマリナと禿頭の男。それをまた、周囲の人間が無責任に囃し立てる。周りから煽られ、徐々に二人の喧嘩はヒートアップしていき、今にも掴み掛からんばかりに熱を帯びてきた。するとその直後、二人の頭に大きな寸胴鍋が同時に直撃した。二人は声を上げる間もなく、仲良く床に倒れ伏す。そして寸胴鍋に潰された二人を、店主──鍋を投げつけた張本人──が怒鳴りつける。
「いい加減にしな! 二人とも! 毎度毎度顔を合わせれば喧嘩ばかり! 今はお客さんがいるんだよ! これが原因で、外で私の店に悪い噂が立ったらどうするんだい! 少しの間ぐらい、大人しくしていな!」
シンっと静まり返る店内。ついさっきまで二人を囃し立てていた周囲の人間も、一様に口をつぐんだ。マリナと禿頭の男に関しては、静かにしているというより、気を失っているように見える。店主の女性は大きい溜息を吐くと、すぐさまリディに対し営業スマイルを浮かべ、こう言ってきた。
「悪かったね。じゃあ、何を食べる? ビックフットのサーロインなんかどうだい?」
「え……いや、食欲ないので……」
リディはコーンスープとパンを注文した。
この村には宿泊施設がない。そのため、リディはこの村にいる間、彼女を介護してくれた女性──テッサにお世話になることになった。喧騒に満ちた酒場──後半はほぼ全員が沈黙していたが──からテッサの部屋に戻り、リディは一息吐く。室内は薪ストーブで暖められているため、上着を着たままでは暑いぐらいだった。リディは手早く上着とニット帽、ネックフォーマを外すと、ベッドに腰掛ける。するとコンコンと、閉じられた黒いカーテンの向こうから、窓を叩く音が聞こえてきた。リディは訝しげに眉根を寄せ、ベッドから立ち上がると、カーテンに近づき、左右に引き開ける。
窓の前には、マリナが立っていた。リディは予想外の訪問客に目を丸くし、すぐに窓を開けて、マリナに話し掛けた。
「マリナさん。目が覚めたんですね」
マリナは酒場で寸胴鍋に押し潰され、気を失っていた。リディが食事を終えた後も、目を覚ます様子がなかったので、悪いとは思いつつ、マリナを置いて、彼女はこうして部屋に戻ってきたのだ。マリナは鍋をぶつけられた頭を摩りながら、苦笑して言う。
「ああ。ひどい目にあったよ。それに、随分と恥ずかしい姿を見せてしまった」
「いいえ、そんなこと……」
マリナに対して、神秘的なものを感じていたリディは、本音を言えば、多少落胆もしていた。しかしその反面、そんな彼女の人間らしい一面を垣間見ることができ、どこかホッとした気分でもあった。
「それに、お酒飲んでいたんですよね。少し酔っていたんじゃないですか?」
取り繕うように言ったリディのその言葉を、マリナは頭を振って否定する。
「いや、ぼくは体質的に酒に酔わない。酔えないんだ」
「え、そうなんですか?」
「ぼくの体温は常にマイナス二十℃近くある。普通の飲み物は飲めないんだ。口の中で凍ってしまうからね。でも、アルコールを含んだ液体は凝固点が低くなるから、ぼくでも飲むことができる。だから、嗜む程度に飲むようになっただけなんだ」
酒場のカウンターに置かれた、大量の空ビンを見る限り、明らかに嗜む範疇を超えているように思えたが、リディはそれとは別の指摘をマリナにする。
「じゃあ、お酒の勝負なんて負けっこないですよね。だとすると、あのツルピカのおじさん、なんか可哀想ですね」
「ツル……いや、フランクの奴もそのことは知っているよ。というより、村にいる連中全員が知っていることだ」
「え? でもそれだと……」
「口に出して言ったりはしないがね。この村に十年もいるんだ。とっくに気付いているだろう。だがそれでも、みんな分け隔てなくぼくと接してくれる。一緒に酒を飲んで、一緒に騒いでくれる。馬鹿で短気なフランクもそうだ。ああ見えて、気のいい連中なのさ」
マリナは照れたように笑って、そう言った。まるで、知り合いに対して家族を自慢するように、気恥ずかしそうに微笑んでいる。その姿を見て、リディは静かに納得した。
(これが、マリナさんの本当の姿)
雪女マリナ。ソーゲ森林地帯に現れる正体不明の白髪の美女にして、ビックフットと同列に語られる人外の怪物。ソーゲ森林地帯に入る前、近くの村で聞いた話からリディが想像した、マリナのイメージがそれだ。
だがマリナの本当の姿は、自分が住む村の村人を慕い、また慕われる、何処にでもいるような普通の女性に過ぎなかった。確かに彼女は、普通の人間にはない特徴を持っているようだが、そんな瑣末なことを気にする人は、この村には存在しないのだろう。
(うーん……ちょっと反省だね)
マリナと出会った時、リディは彼女に向かって変人だの変態だのと喚き散らした。それは、雪女と出会えた興奮からつい口走ってしまったことなのだが、それを踏まえても、リディは自身の失言を後悔した。
「あの……色々ご迷惑をお掛けしたようで、すみませんでした。あと、この村まで運んで頂いたようで、ありがとうございます」
リディはマリナに改めて謝辞の言葉を述べた。マリナは手を左右に振って「気にすることはない」と、軽く受け流して肩をすくめた。
「それに、お礼を言うのはぼくのほうだ」
「あたしにお礼ですか?」
「ああ、君が包帯男の隙を作ってくれたおかげで、ぼくは窮地を脱することができた」
「そんな……もともとあたしが人質になっちゃっているわけですし」
「あれはぼくの揉め事で、君は巻き込まれたに過ぎない。君が気に病む必要なんかない」
「ということは、やっぱりあの包帯男とマリナさんは前からの知り合いなんですね。口ぶりからそうだとは思っていましが。どういったご関係なんですか?」
「お? これはもう、取材が始まっていると考えていいのかな?」
マリナが悪戯っぽく笑う。リディが「え?」と目を丸くすると、マリナは可笑しそうにクスクスと笑い、リディに言う。
「ぼくに取材したいんじゃなかったのか? それとも、酒場での醜態を見て、興味が失せてしまったかな?」
「いいんですか!? 取材させてもらっても!」
「恩人の頼みだしな。無下には断れないよ。ただし、あまり期待はしないでくれよ。大した逸話とか伝説がある訳じゃないんだ」
マリナはそう言って、ウィンクした。