雪女マリナ(4)
「誤算だったな」
包帯男の身体は十数個もの部品に分断され、マリナの足元に転がっていた。その断面は全て、黒く焦げ付いている。マリナは包帯男の部品の一つ──頭部だったモノ──を見下ろしながら、淡々と独白を続ける。
「まさか、彼女が反撃するなど、考えていなかったのだろうな。かく言う、ぼくも意外だったよ。だが、おかげでお前をこうして始末することができた」
マリナは刀を逆手に持ち、包帯男の頭部に打ち下ろした。刃先はあっさりと男の頭蓋を貫通した。彼女は男から刀を引き抜くと、大きく息を吐いた。
マリナはすぐさま身を翻すと、雪の上に倒れている少女の下に駆け寄った。雪の上に仰向けに転がる少女の顔は、冗談かと思うほどに蒼白になっている。マリナは少女の脈を確認するために手を伸ばすも、すぐにその手を引っ込めた。マリナの体温は平均でマイナス二十℃弱ある。そんな彼女が少女に直接触れば、少女の皮膚はたちまち凍傷を起こしてしまうだろう。
マリナは少女に触れないよう、少女の口元に慎重に手をかざした。僅かではあるが、呼吸を確認できる。マリナはひとまず、ホッと胸を撫で下ろした。だが、ちゃんとした専門家に診てもらわないことには、安心することはできない。それに、仮に怪我はなくとも、この極寒の地──マリナにとっては多少暖かいぐらいなのだが──に、意識を失った少女を捨ておくこともできない。
「リディ……と言ったか? 彼女はぼくの命の恩人だし、仕方ないか」
マリナはそう言って、苦笑した。
母──アリア・コルトーのことを、リディはそれほど多く覚えていない。長身で細身の女性。腰まで伸ばしたストレートの黒髪に、長い睫毛に縁取られた少し吊り上がった瞳。形の整った高い鼻に、ピンク色の薄い唇。好きな色はエメラルドグリーン。好きな食べ物は海鮮をふんだんに使ったキッシュ。好きな飲み物はブラックコーヒーに砂糖とミルクを入れた──すでにブラックではないのだが、彼女はよくこう表現をしていたのだという──もの。性格は明るく、人見知りもまずしない。快活で気が強く、そして、優しい女性だったという。
写真や父──ジェフ・コルトーから、この程度の母のパーソナルな情報は容易に得られた。しかし、そういったデータではない、リディが直に触れ、感じ、想った記憶というものは、ごく僅かしかない。なぜなら母は、リディが五歳になった頃、彼女の前からいなくなってしまったからだ。
アリアは若い頃、フリーライターとして大陸を飛び回っていたらしい。だが、ジェフと結婚し、リディが生まれたことで、その仕事を諦めて、所帯に付くことを決心した。少なくとも、ジェフはそう思っていたし、本人であるアリアもそう思っていたようだ。しかし、アリアは仕事を捨てることができなかった。リディが五歳を迎えた時、アリアは、以前自身が調査した未開の地に、再調査に向かった。すぐに帰ってくると、まだ幼いリディを抱きしめて。そしてそれが、リディとアリアとの最後の思い出となった。
お前は母親に捨てられたんだよ──
リディをそうなじってくる、心無い者たちも周囲にはいた。だが、リディはそんな言葉を気にしたことはない。リディは母親のことを恨んだことなどないし、僅かな記憶しかなくとも、母親のことを愛していた。それはきっと──五年という短い時間であったとしても──、アリアがリディのことを真剣に愛してくれたからなのだろう。だからこそ、アリアのその想いがリディの細胞の奥底にまで宿り、記憶はなくとも、リディもまた母親のことを真剣に愛することができたに違いない。非科学的な見解であることは承知の上で、リディはそう考えている。
アリアとの最後の思い出が、五歳の別れの記憶であるならば、最初の思い出は何だろうか。リディはふと考える。そして思い付く。リディがまだ生まれて間もない頃の記憶。彼女が自己を認識するはるか前、覚えていようはずもない、夢にも似た記憶。
アリアは、赤ん坊のリディを胸に抱き、母乳をあげていた。リディはお腹が空いているのか、不乱に乳房に吸い付いている。アリアはそんなリディを優しく右手で抱き、左手で忙しなく鉛筆を動かしていた。アリアが描いているのは、美しい風景画だった。アリアはずば抜けた記憶力を持っており、以前訪れたことのある風景を、写真のように自身の記憶に焼き付けている。それを、紙の上に描き写しているのだ。記憶を巡らせ、当時の想いに馳せながら無心に鉛筆を走らせて、紙の上に風景を描く。その母親の表情はとても穏やかで、リディが好きな母親の顔の一つだった。
リディがアリアと別れるまでの間、彼女が娘に描いてくれた風景画は数百枚にも上った。そしてその全てが、リディの宝物となった。リディが母親と同じ、大陸を回りながら記事を書く、フリーライターの道を選んだのも、そのアリアが残した風景を、自身の目で見てみたいと思ったからだ。
それだけじゃないでしょ──
リディの中で、反発の声が上がった。リディは少しの躊躇いの後、素直になることに決めた。どうせこれは、自分の虚ろな夢の中でしている独白なのだ。誰に聞かれるわけでも、否定されるわけでもない。
自分がフリーライターとなった理由──
そしてこの地を訪れた理由──
それは──
自分の前からいなくなった母親──
アリアが最後に訪れた場所に行けば──
彼女に再び会えるのではないか──
そんな幻を見ていたからだ。
リディは目を覚ますと、全身に走る痛みに顔を歪めた。背中に感じる硬めのスプリングと、身体に掛けられた柔らかいシーツの温もり。焦点の合わない目を何度か瞬かせながら、ぼんやりと自身の状況を頭の中で確認する。
(ベッドの上……あたし、いつの間に眠っちゃったんだっけ?)
ベッドに入る以前の記憶が、どうしても思い出せない。母親の夢を見ていたためだろうか、夢と現実の境が曖昧になり、意識がはっきりしない。
そんなリディの身体に、気付けとばかりに、再び鈍い痛みが走った。リディは痛みをこらえて、シーツの中から右手を出し、目の前にかざした。右手には痛々しく白い包帯が巻かれている。
「白い……包帯……あ!」
リディはベッドの上でガバッと上体を起こした。途端、全身に走る痛みに、ビキンっと身体を硬直させる。リディは涙目になりながら、──痛みが走らないよう殊更ゆっくりと──周囲を見回した。
「いたた……確かあたし……変態包帯男にやられて……でも、ここどこ?」
そこは見覚えのない部屋だった。長方形の板材を組み合わせた床や壁。中心が一段高くなっている天井は、太い梁が縦横に均等に張られ、照明用のランプが吊るされている。部屋の中心には木製の丸テーブルがあり、丸い桶とタオル──汚れているが雑巾ではないだろう──が置いてある。部屋に一つだけある窓は黒いカーテンで閉じられており、外の様子は見えない。部屋の隅には薪ストーブが置かれており、中にはオレンジ色の炎が激しく踊っている。そしてそのストーブの近くに、リディのリュックサックと、ハンガーに吊るされた彼女の上着とインナー、パンツがある。
リディはセミショートにした癖毛の黒髪を指で掻いた後、シーツをどかして自身の格好を確認する。下着が透けるほどに薄い生地の、白のTシャツに白の短パン。そして腕や脚──シャツをめくるとお腹にも──包帯が巻かれている。
リディは少しずつ、自身の状況を理解する。どうやら、包帯男にやられ気を失った後、自分はこの部屋に運ばれ、怪我の治療をしてもらっていたらしい。そしてあの場において、自分を運ぶことができた人間は、一人しか思い浮かばない。リディがそんなことを考えていると、部屋に一つしかない扉が音を立てて開いた。リディは反射的に扉に振り返えると、そちらに向けて声を掛けた。
「マリナさん!?」
しかし、扉の前に立っていたのは白髪の女性ではなく、栗色の髪を後頭部で纏めた、恰幅の良い中年の女性だった。彼女はリディの声に驚いたのか、暫く目をぱちくりと瞬かせていたが、すぐに歯を見せてニカっと笑った。
「あら、光栄ね。あんな若い子と間違われるなんて」
女性はそう言うと、部屋に入りテーブルに近づいていく。女性の手には湯気の立つ鍋が握られている。女性はテーブルの前まで来ると手に持った鍋を傾け、鍋の中のお湯をテーブルの上にある桶に移した。鍋が空になると、女性は鍋をテーブルの脇に置き、桶に掛けられたタオルをお湯に浸して、強く絞って水気を切る。そして、タオルを持ってリディに近づき、笑顔で言う。
「汗を拭いてあげるわ。寝冷えするといけないでしょ」
「あ……ありがとうございます。でも、自分でやれますから」
「そう? 構わないけど、無理しちゃダメよ。あなた、もう丸一日眠っていたんだから」
「丸一日もですか?」
女性から温かいタオルを受け取りながら、リディは驚き目を丸くした。女性は近くにあった丸椅子を自分に引き寄せると、そこに腰掛け、「ええ」とリディに頷いた。
「でも安心して。怪我自体はたいしたことないわ。ただ疲労が溜まっていたみたいね。随分と無理をしていたんじゃない?」
「そう……なんですかね? 自分では分かりませんが。あ……すみません。お礼をまだ言っていませんでしたね。看病していただいたようで。ありがとうございました」
リディは、ベッドに座ったまま、女性に対して丁寧に頭を下げた。女性は手をひらひらと揺らしながら、「気にしないで」と笑顔で応じる。
「それに私はたいしたことはしていないわ。ベッドと包帯を少し貸しただけ。お礼なら、あなたを森からこの村まで運んだ、マリナに言ってあげてちょうだい」
「マリナさん! ここにいるんですか!?」
リディが声を上げ、女性に詰め寄った。女性は、そんなリディの態度に眉根を寄せつつ、コクリと頷いた。
「え……ええ。もちろん。彼女、この村に住んでいるもの」
「会えますか!?」
「そうね……この時間ならきっと酒場にいると思うけど」
「場所を教えてもらってもいいですか? えっと、すみません。紙とペンを貸してもらえれば……」
「あら、メモなんて必要ないわよ」
リディが「へ?」と首を傾げる。女性はクスクスと笑った後、ウィンクしてリディにこう言った。
「村を出て一番騒がしい建物。そこがそうなんだから」