表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スノースキン  作者: 管澤捻
雪女マリナ
5/27

雪女マリナ(4)

「誤算だったな」

 包帯男の身体は十数個もの部品に分断され、マリナの足元に転がっていた。その断面は全て、黒く焦げ付いている。マリナは包帯男の部品の一つ──頭部だったモノ──を見下ろしながら、淡々と独白を続ける。

「まさか、彼女が反撃するなど、考えていなかったのだろうな。かく言う、ぼくも意外だったよ。だが、おかげでお前をこうして始末することができた」

 マリナは刀を逆手に持ち、包帯男の頭部に打ち下ろした。刃先はあっさりと男の頭蓋を貫通した。彼女は男から刀を引き抜くと、大きく息を吐いた。

 マリナはすぐさま身を翻すと、雪の上に倒れている少女の下に駆け寄った。雪の上に仰向けに転がる少女の顔は、冗談かと思うほどに蒼白になっている。マリナは少女の脈を確認するために手を伸ばすも、すぐにその手を引っ込めた。マリナの体温は平均でマイナス二十℃弱ある。そんな彼女が少女に直接触れば、少女の皮膚はたちまち凍傷を起こしてしまうだろう。

 マリナは少女に触れないよう、少女の口元に慎重に手をかざした。僅かではあるが、呼吸を確認できる。マリナはひとまず、ホッと胸を撫で下ろした。だが、ちゃんとした専門家に診てもらわないことには、安心することはできない。それに、仮に怪我はなくとも、この極寒の地──マリナにとっては多少暖かいぐらいなのだが──に、意識を失った少女を捨ておくこともできない。

「リディ……と言ったか? 彼女はぼくの命の恩人だし、仕方ないか」

 マリナはそう言って、苦笑した。


 母──アリア・コルトーのことを、リディはそれほど多く覚えていない。長身で細身の女性。腰まで伸ばしたストレートの黒髪に、長い睫毛に縁取られた少し吊り上がった瞳。形の整った高い鼻に、ピンク色の薄い唇。好きな色はエメラルドグリーン。好きな食べ物は海鮮をふんだんに使ったキッシュ。好きな飲み物はブラックコーヒーに砂糖とミルクを入れた──すでにブラックではないのだが、彼女はよくこう表現をしていたのだという──もの。性格は明るく、人見知りもまずしない。快活で気が強く、そして、優しい女性だったという。

 写真や父──ジェフ・コルトーから、この程度の母のパーソナルな情報は容易に得られた。しかし、そういったデータではない、リディが直に触れ、感じ、想った記憶というものは、ごく僅かしかない。なぜなら母は、リディが五歳になった頃、彼女の前からいなくなってしまったからだ。

 アリアは若い頃、フリーライターとして大陸を飛び回っていたらしい。だが、ジェフと結婚し、リディが生まれたことで、その仕事を諦めて、所帯に付くことを決心した。少なくとも、ジェフはそう思っていたし、本人であるアリアもそう思っていたようだ。しかし、アリアは仕事を捨てることができなかった。リディが五歳を迎えた時、アリアは、以前自身が調査した未開の地に、再調査に向かった。すぐに帰ってくると、まだ幼いリディを抱きしめて。そしてそれが、リディとアリアとの最後の思い出となった。

 お前は母親に捨てられたんだよ──

 リディをそうなじってくる、心無い者たちも周囲にはいた。だが、リディはそんな言葉を気にしたことはない。リディは母親のことを恨んだことなどないし、僅かな記憶しかなくとも、母親のことを愛していた。それはきっと──五年という短い時間であったとしても──、アリアがリディのことを真剣に愛してくれたからなのだろう。だからこそ、アリアのその想いがリディの細胞の奥底にまで宿り、記憶はなくとも、リディもまた母親のことを真剣に愛することができたに違いない。非科学的な見解であることは承知の上で、リディはそう考えている。

 アリアとの最後の思い出が、五歳の別れの記憶であるならば、最初の思い出は何だろうか。リディはふと考える。そして思い付く。リディがまだ生まれて間もない頃の記憶。彼女が自己を認識するはるか前、覚えていようはずもない、夢にも似た記憶。

 アリアは、赤ん坊のリディを胸に抱き、母乳をあげていた。リディはお腹が空いているのか、不乱に乳房に吸い付いている。アリアはそんなリディを優しく右手で抱き、左手で忙しなく鉛筆を動かしていた。アリアが描いているのは、美しい風景画だった。アリアはずば抜けた記憶力を持っており、以前訪れたことのある風景を、写真のように自身の記憶に焼き付けている。それを、紙の上に描き写しているのだ。記憶を巡らせ、当時の想いに馳せながら無心に鉛筆を走らせて、紙の上に風景を描く。その母親の表情はとても穏やかで、リディが好きな母親の顔の一つだった。

 リディがアリアと別れるまでの間、彼女が娘に描いてくれた風景画は数百枚にも上った。そしてその全てが、リディの宝物となった。リディが母親と同じ、大陸を回りながら記事を書く、フリーライターの道を選んだのも、そのアリアが残した風景を、自身の目で見てみたいと思ったからだ。

 それだけじゃないでしょ──

 リディの中で、反発の声が上がった。リディは少しの躊躇いの後、素直になることに決めた。どうせこれは、自分の虚ろな夢の中でしている独白なのだ。誰に聞かれるわけでも、否定されるわけでもない。

 自分がフリーライターとなった理由──

 そしてこの地を訪れた理由──

 それは──

 自分の前からいなくなった母親──

 アリアが最後に訪れた場所に行けば──

 彼女に再び会えるのではないか──

 そんな(ゆめ)を見ていたからだ。

 

 リディは目を覚ますと、全身に走る痛みに顔を歪めた。背中に感じる硬めのスプリングと、身体に掛けられた柔らかいシーツの温もり。焦点の合わない目を何度か瞬かせながら、ぼんやりと自身の状況を頭の中で確認する。

(ベッドの上……あたし、いつの間に眠っちゃったんだっけ?)

 ベッドに入る以前の記憶が、どうしても思い出せない。母親の夢を見ていたためだろうか、夢と現実の境が曖昧になり、意識がはっきりしない。

 そんなリディの身体に、気付けとばかりに、再び鈍い痛みが走った。リディは痛みをこらえて、シーツの中から右手を出し、目の前にかざした。右手には痛々しく白い包帯が巻かれている。

「白い……包帯……あ!」

 リディはベッドの上でガバッと上体を起こした。途端、全身に走る痛みに、ビキンっと身体を硬直させる。リディは涙目になりながら、──痛みが走らないよう殊更ゆっくりと──周囲を見回した。

「いたた……確かあたし……変態包帯男にやられて……でも、ここどこ?」

 そこは見覚えのない部屋だった。長方形の板材を組み合わせた床や壁。中心が一段高くなっている天井は、太い梁が縦横に均等に張られ、照明用のランプが吊るされている。部屋の中心には木製の丸テーブルがあり、丸い桶とタオル──汚れているが雑巾ではないだろう──が置いてある。部屋に一つだけある窓は黒いカーテンで閉じられており、外の様子は見えない。部屋の隅には薪ストーブが置かれており、中にはオレンジ色の炎が激しく踊っている。そしてそのストーブの近くに、リディのリュックサックと、ハンガーに吊るされた彼女の上着とインナー、パンツがある。

 リディはセミショートにした癖毛の黒髪を指で掻いた後、シーツをどかして自身の格好を確認する。下着が透けるほどに薄い生地の、白のTシャツに白の短パン。そして腕や脚──シャツをめくるとお腹にも──包帯が巻かれている。

 リディは少しずつ、自身の状況を理解する。どうやら、包帯男にやられ気を失った後、自分はこの部屋に運ばれ、怪我の治療をしてもらっていたらしい。そしてあの場において、自分を運ぶことができた人間は、一人しか思い浮かばない。リディがそんなことを考えていると、部屋に一つしかない扉が音を立てて開いた。リディは反射的に扉に振り返えると、そちらに向けて声を掛けた。

「マリナさん!?」

 しかし、扉の前に立っていたのは白髪の女性ではなく、栗色の髪を後頭部で纏めた、恰幅の良い中年の女性だった。彼女はリディの声に驚いたのか、暫く目をぱちくりと瞬かせていたが、すぐに歯を見せてニカっと笑った。

「あら、光栄ね。あんな若い子と間違われるなんて」

 女性はそう言うと、部屋に入りテーブルに近づいていく。女性の手には湯気の立つ鍋が握られている。女性はテーブルの前まで来ると手に持った鍋を傾け、鍋の中のお湯をテーブルの上にある桶に移した。鍋が空になると、女性は鍋をテーブルの脇に置き、桶に掛けられたタオルをお湯に浸して、強く絞って水気を切る。そして、タオルを持ってリディに近づき、笑顔で言う。

「汗を拭いてあげるわ。寝冷えするといけないでしょ」

「あ……ありがとうございます。でも、自分でやれますから」

「そう? 構わないけど、無理しちゃダメよ。あなた、もう丸一日眠っていたんだから」

「丸一日もですか?」

 女性から温かいタオルを受け取りながら、リディは驚き目を丸くした。女性は近くにあった丸椅子を自分に引き寄せると、そこに腰掛け、「ええ」とリディに頷いた。

「でも安心して。怪我自体はたいしたことないわ。ただ疲労が溜まっていたみたいね。随分と無理をしていたんじゃない?」

「そう……なんですかね? 自分では分かりませんが。あ……すみません。お礼をまだ言っていませんでしたね。看病していただいたようで。ありがとうございました」

 リディは、ベッドに座ったまま、女性に対して丁寧に頭を下げた。女性は手をひらひらと揺らしながら、「気にしないで」と笑顔で応じる。

「それに私はたいしたことはしていないわ。ベッドと包帯を少し貸しただけ。お礼なら、あなたを森からこの村まで運んだ、マリナに言ってあげてちょうだい」

「マリナさん! ここにいるんですか!?」

 リディが声を上げ、女性に詰め寄った。女性は、そんなリディの態度に眉根を寄せつつ、コクリと頷いた。

「え……ええ。もちろん。彼女、この村に住んでいるもの」

「会えますか!?」

「そうね……この時間ならきっと酒場にいると思うけど」

「場所を教えてもらってもいいですか? えっと、すみません。紙とペンを貸してもらえれば……」

「あら、メモなんて必要ないわよ」

 リディが「へ?」と首を傾げる。女性はクスクスと笑った後、ウィンクしてリディにこう言った。

「村を出て一番騒がしい建物。そこがそうなんだから」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ