エピローグ
年間を通し雪と氷に覆われるレルミット大陸。その大陸の北西にある針葉樹が生い茂るソーゲ森林地帯。その森の北部には、小さな名もない村がある。モースから離脱し百五十年間、狭いコミュニティーの中で細々と、だが平穏に生きてきたその村は、たった一人の村人を残して、全滅した。
まだ生活の匂いをそこに残しつつ、無人と化した小さな村。その村の中心には、村人たちの井戸端会議や村のイベントが執り行われる、ちょっとした広場があった。そして今、その広場には、大きな一本の木が立っている。
その木の前には、地面に膝を付き、手を合わせて目を閉じている、小柄な少女がいた。厚手のダウンにパンツ。ウール素材の手袋や裏地が合成毛皮のブーツ。セミショートの癖毛の黒髪にブラウンの瞳。リディ・コルトーだ。
リディは沈黙したまま、目の前の木に手を合わせる。そして一分程経過した後、彼女は静かに目を開けた。するとそれを待っていたかのようなタイミングで、背後から彼女を呼ぶ声が聞こえてきた。
「そりゃあ何のつもりだい、リディちゃん」
リディは背後を振り返った。そこには上半身裸の短髪白髪の男が立っていた。リディは暫く男を見つめた後、その男から視線を外し、目の前にある木を見上げた。そして白い息を吐きながら、男の質問に答える。
「お墓……ですよ。『左脚』さん」
リディの答えに、男──『左脚』は「ふーん」と気のない返事をした。リディは立ち上がると、肌に突き刺さる冷気に、肩を抱き身震いした。そしてふと、空を見上げる。空には薄い雲が広がっており、そこからチラチラと雪が降ってきている。
ここレルミット大陸で暮らしていれば、雪など珍しいものではない。足元にも分厚い積雪があるぐらいだ。それでも、淡く輝くように宙を舞う白色の雪は、何度見ても美しく、幻想的に感じられた。
リディは男に向き直ると、自身の回答に補足を加えた。
「正確には……墓ではなく、墓のようなものらしいです。彼女が言うには象徴だそうで」
「彼女ってのは、『右腕』……じゃなくて、マリナか?」
「はい」
『左脚』は顎に指を当てて考え込む仕草をすると、スタスタとリディの目の前にある木に近づき、その幹に手を当てる。
「名前が彫ってあるな。死んだ村の連中の名前か。つまり、これがマリナの言う象徴ってわけか」
リディは『左脚』の言葉に頷く。そして再び空を見上げた。空に舞っているこの雪は、これから長い時間を掛け、足元に降り積もっていく。それはいつか、今、雪の上にある村人たちの足跡を、その白化粧で覆い隠し、完全に消し去ってしまうのだろう。まるでその村が、初めから無人の廃墟であったかのように。だからこそ、象徴が必要だった。村人たちが確かに生きた記録を残すために、雪に埋もれない証が。
「マリナと話せるか? リディちゃん」
『左脚』の突然の問いかけに、リディは心の中で彼女に尋ねた。そしてすぐに『左脚』に頷いてやり、そっと目を閉じる。
リディの黒髪が雪のような白色に変化する。そして再び目を開けた彼女の瞳は、ブラウンではなく黄金に輝いていた。白髪の少女──マリナは、面倒くさそうに『左脚』に訊く。
「ぼくに何か用か?」
『左脚』はリディからマリナへの少女の変化に、軽薄な調子で手を叩いた。
「おお。マジで二つの人格を切り替えられんのな。変身ヒーローみてえでよ、かっこいいじゃねえか」
「そんな下らないことを言うために、ぼくを呼んだのか?」
マリナは半眼になって、『左脚』を睨みつけた。マリナの気迫に物怖じせず、『左脚』が気楽に肩をすくめる。
「んなことで怒んなよ。俺とお前は言わば兄弟じゃねえか。仲良くやろうぜ」
「あいにくと、ぼくはリディほど君を信用しているわけじゃない。君は自分が自由になるために、リディとぼくを利用したに過ぎないんだからな」
「その点は否定しねえけどな。まあいいさ。俺だってお互い用が済んだってのに、必要以上に馴れ合う気はねえ。ただ、ケジメとしてきちんと礼はしとかねえとな。あんた達のおかげで、母上を仕留められたんだ」
そう言って、ニヤリと笑う『左脚』。マリナはそんな男に、酷薄な声で言う。
「そいつと一緒にお前も燃え尽きてくれていたら、後腐れがなかったんだがな」
「恐いこというねえ。ま、残念ながら完全防熱壁の設備がある地下までは、お前さんの炎も届かなかったようだな。これも、俺の日頃の行いがあっての幸運ってヤツさ」
『左脚』は面白そうに、肩を揺らして笑った。その男の態度がますます気に入らず、マリナは苛立ちも顕に男に言う。
「確かに今回、リディはお前に助けられたようだが、そんなものお前の気紛れに過ぎない。最近はともかく、お前も生まれてすぐはモースに侵入した人間を殺していたそうじゃないか。そんな奴と仲良くする気はない」
「んなこと言われてもね、生まれたばかりで右も左も分からねえ状態だったんだ。母上の言葉に従っちまうのは仕方ねえだろ」
「そんなもの、関係ない」
マリナは『左脚』から目を背けると、村人の名前が幹に刻まれた木を見上げた。一人一人の名前を心の中で読み上げ、顔を思い浮かべながら、呟くように言う。
「殺されて……遺体すら帰ってこない。その苦しみが……残された家族の苦しみが……お前に分かるのか?」
マリナの言葉に、『左脚』が浮かべていた笑みを引っ込めた。彼は、木の幹に刻まれた名前の一つを指先でなぞりながら、マリナに問い掛ける。
「これが墓じゃなくて、墓のようなものってのは、それが理由か?」
「……」
『左脚』の問いに、マリナは沈黙で答えた。
村人の名前が刻まれたこの木は、マリナが森から調達し、この広場に突き立てたものだ。村人の生きた証、その象徴として、形あるものを残したかった。
あるいはそれを、墓と呼ぶことはできるのかも知れない。だが、マリナはその言葉を使いたくなかった。なぜならこの木の下には、村人の遺体など埋まっていないからだ。
「モース近辺には、ビックフットがウロウロしてっからな。村の連中は気の毒だが、そいつらに食われちまったんだろう」
『左脚』からマリナに告げられる、残酷な推測。それはマリナとて、半ば予想していたことだ。だがそれでも、このように言葉にして示されるのは、胸が締め付けられる想いだった。その痛みを堪えるように、胸元を手で押さえながら、マリナは言う。
「ぼくは村のみんなをこの手で殺めておきながら、それをきちんと弔ってやることもできない。歯がゆいったらないよ」
こんな愚痴を『左脚』にしたところで、意味がない。それはマリナにも分かっていたが、つい口を突いて出てしまった。それに自己嫌悪を抱き、マリナは顔を伏せ沈黙した。
すると──
「そんなことは、ねえと思うぞ」
意外なことに、『左脚』が穏やかな口調でそう言った。マリナは伏せた顔を上げ、『左脚』を見やる。彼はマリナに見つめられると、眉尻を下げて苦笑した。
「重要なのは、死んじまった連中に対し、祈ってやれる場所を用意してやることさ。そいつらのことを思い出して、悼んでやれる場所をな。お前さんのこれは、その役割を立派に果たしているんじゃねえかな」
「……お前なんかに慰められたくない」
マリナの言葉に、『左脚』が苦笑を深める。
「そう言うな。これは俺自身にも関係している話だからな。もし遺体がなきゃ故人を弔えねえとしたら──」
『左脚』がマリナから顔を背け、言葉を続ける。
「死んじまった『左腕』や『右脚』に、俺は何もしてやれねえってことになっちまう」
その意外な『左脚』の言葉に、マリナは半ば反射的に、彼に訊いていた。
「お前……まさか後悔しているのか?」
『左脚』が再びマリナに振り返る。その一瞬だけ、彼の寂しそうな表情を見た気がしたが、マリナが瞬きをした時にはすでに、彼は軽薄な表情を浮かべて笑っていた。
「まさか。あのまま母上に従っていたら、俺は今頃、母上の胃袋の中だぜ? 後悔なんてねえさ。ただ仲違いしたとはいえ、十一年間ツラを合わせてきた連中だからな。俺には奴らを弔ってやる、義務ってもんがあんのよ」
そう言って、『左脚』が自身の胸をドンと力強く叩く。
「俺たち寄生生物スノーには、テメエの身体なんてものはない。つまりあんたの理屈じゃあ、俺たちを弔うことなんてできねえってことになる。そんなの俺は御免でね。身体はなくても、『左腕』も『右脚』も確かな個人として存在していた。もちろん『左脚』も、そして『右腕』、テメエもだ」
『左脚』がマリナに向き直り、村の出口に向かって歩き出した。マリナの横を通り過ぎ、彼が雪を踏みしめる音だけが、背後から聞こえてくる。と、突然その音が止んだ。時間にして十秒ほどの沈黙の後、『左脚』がマリナに喋り掛けた。
「あんま、テメエが寄生生物だってことを気にしねえほうがいいぜ。さっきも言ったが、俺たちは意志を持った個人だ。人間とは生き方が違うがね。俺はもう二年ぐらい前に気にすんのをやめた。そんでそっちのほうが、生きていて面白えと思った」
マリナは背後から掛けられる、『左脚』の言葉を黙って聞いていた。そして再び、背後から『左脚』の雪を踏みしめる音が聞こえてくる。マリナは背後を振り返ることなく、『左脚』に声を掛けた。
「ぼくは……お前を信用はしない」
「ん? おお、それは勝手にしな」
マリナから話し掛けられたのが意外だったのか、多少戸惑った声で『左脚』が返事をする。マリナは特に『左脚』の返事を気にせずに、話を続ける。
「だがケジメと言ったな。なら、ぼくも不承不承ながら礼を言っておく。リディの命を助けてくれたこと。そして、ぼくが母上から喰われるのを阻止してくれたこと」
「お……おお。まあ、そいつは俺の都合もあるからな。それに母上に喰われんのを阻止したのはリディちゃんだぜ?」
「うるさい。人が礼を言っているんだ。黙って受け取れ」
「なんで俺が怒られんだよ」
「それと──」
マリンは少し躊躇いがちに、『左脚』に自身の本音を伝えた。
「スノーから生まれた者同士、お前の忠告はありがたく受け取っておく。ありがとう。少しだが、気が楽になったよ」
『左脚』の息を呑む気配が、マリナの背後から伝わってきた。そしてその気配は、すぐに楽しそうな笑い声へと化けた。『左脚』は「どうも」とだけ言うと、雪を踏みしめ、村の出口に向かっていった。
『左脚』が去った後、マリナは大きく溜息を吐き、『左脚』への言葉を即座に後悔した。
『左脚』はモースに侵入した人間を殺して回っていたような奴だ。決して気を許していい相手ではない。それなのに、つい馴れ合うようなことを、最後に言ってしまった。我ながら、軽率な行動だっただろう。
マリナが心の中でそんな反省をしていると、自分とは異なる──少し甲高い──声が、心の中に響いた。
(マリナ。『左脚』さん、多分いい人だよ)
リディだ。マリナは頭を振ると、口に出しながらリディに反論した。
「君が彼を信用するのは勝手だが、ぼくは気を許していない。今回たまたま利害が一致しただけで、敵にも味方にもなり得た奴だ」
(うーん……だけど『左脚』さんがわざわざこの村に来たのって、マリナのことが心配だったからじゃないかな? スノーに関しての悩みって、やっぱり同じ立場にある『左脚』さんだからこそ分かるみたいな)
「……ぼくだって奴が根っからの悪党だと思っている訳じゃない。だが奴は意見が違うというだけで十一年間共に過ごした連中を裏切れるような奴だ。母上に喰われるという切迫した状況があったとはいえ、そういう決断を容易に下せる奴ってのは危険なんだよ」
(容易じゃないかも。あれで結構悩んでいたのかも知れないよ?)
「かも知れないが……警戒は必要だ。いかんせん、奴の戦闘能力は侮れないからな」
リディはまだ納得がいかないのか、心の中で(うーん)と唸っていたりする。マリナはそんなリディの態度に、多少釈然とせず、彼女に聞こえないよう心の中で呟く。
(まったく、誰の心配してやっていると思っているんだ)
もはや、マリナの身体は自分一人のものではなくなった。大事な親友である──かつ一応姉でもある──リディの身体なのだ。リディを不用意に危険に巻き込まないためにも、マリナは神経質にならざるを得なかった。
マリナは立ち上がると、一度グッと背中を反る。そして、心の中にいるリディに声の調子を変えて話し掛けた。
「さて、寄り道はこれで終わりだ。今後のことについて話そうじゃないか」
(……そうだね。まずどうするんだっけ?)
心の中で首を傾げるリディ。マリナは白髪を指で掻きながら、彼女に言う。
「一旦この身体の主導権をぼくが握って、ソーゲ森林地帯を抜ける。そして森を抜けたら、君のナビで近くの村に向かう。村の近くまで着いたら身体の主導権を君に渡すから、旅に必要な機材や食材を買い揃えてくれ。以降、何処に向かうかは君の判断に任せるよ。ぼくは森の外のことを何も知らないからね」
マリナがそう言うと、リディは考え込むように腕を組み──あくまでイメージ上で──沈黙した。そして暫くした後、マリナに質問をする。
(ねえ、あたしが身体を使っている時って、マリナってどういう感じなの?)
「どうって、今の君と似たようなものじゃないかな?」
(感覚とかどうなの? あたしが寒いとマリナも寒い?)
「基本的には感覚は遮断しているかな? ただ身体の支配域を広げれば、感覚の共有も可能だと思うが」
マリナは、リディの質問の意図が分からず、戸惑いながら彼女の質問に答えた。するとリディが、マリナの答えに満足したように、声の調子を上げてこう言った。
(じゃあさ、あたし行きたいところあるんだけど、いいかな?)
「いいかと聞かれても、どこさ?」
(ほら。モースに向かう途中で二人して話をしたところだよ)
その言葉に、マリナも「あっ」と気が付いた。拳を握り、声を上げて答える。
「バロー街。レルミット大陸で有名な温泉街だな!」
(そうそう! そこそこ!)
マリナ同様に、リディも興奮して頷いた。
(マリナ言ったじゃん。お風呂とか美味しいものとか食べたいって。あたしの身体に入っていれば、それできるんじゃない?)
「ああ、そうだ。確かに言った。そうか。その手があった。君が風呂や美味しいものを満喫すれば、感覚を共有したぼくも同じ快楽が得られるんだ。なんて素晴らしいんだ」
(でしょでしょ。マリナの夢が叶っちゃうんだよ。すっごいよコレ)
「ああ、なんて幸運なんだ。前よりも背が縮んで胸もなくなって容姿も……まあうん……って感じになって、少し悲しかったりしたが、こんな幸せがあったなんて」
(そうでしょそうでしょ……ん?)
つい口走ったマリナの本音に、リディが何か引っ掛かるものを感じたのか、疑問符を浮かべている。彼女がその何かに気付く前に、マリナは口早にリディに話し掛けた。
「よし。じゃあ決まりだな。目指すはバロー街。温泉の街だ」
(うん。えっと……マリナちょっと待って。今、何か腑に落ちないものが……)
「行くぞ。オー!」
(……ま、いいか。オー!)
心の内と外、リディとマリナは二人して、右拳を高々と空に突き上げた




