二人の母親(5)
『左脚』は態勢を低くして駆け出した。『右脚』の懐に素早く潜り込む。鉤爪のように尖らせた両手を、『右脚』に連続で叩き込む。『右脚』はそれをバックステップで躱しながら、攻撃の間隙を縫い、鈍器に変形した右腕を『左脚』に振り下ろした。『左脚』は素早く『右脚』の右横に回り込むと、彼女のがら空きとなった脇腹に、硬質化した右手を貫手にして突き刺した。『右脚』の顔が苦痛に歪む。『左脚』は追い打ちを掛けようと左手を振り上げるも、腹部に衝撃が走る。『右脚』の蹴りに吹き飛ばされ、『左脚』は床を転がった。
「なんで……なんでそんな頑張るんだよ! どうせ母上には勝てっこないじゃん!」
『右脚』が右脇腹を押さえ、苦悶の表情でそう言った。『左脚』は腹を押さえながら、ゆっくりと立ち上がる。
「奇跡なんて起きっこないんだよ! 何頑張っちゃっているんだよ! カッコ悪いよ!」
「……そりゃあ……がんばっちまうわな」
『左脚』はニヤリと笑う。
「奇跡なんてな起きるもんじゃねえ。起こすもんだ。んでもって、奇跡を起こすためのコツってのは、遮二無二になることさ」
『左脚』は再び駆け出した。
何もない、雪のように真っ白な空間。そこにマリナは立っていた。マリナの目の前には、見知らぬ女性。その女性が、マリナに語り掛けてきた。
「直接こうして会話するのは初めてよね」
「あなたは……」
マリナの見知らぬ女性は、見知った姿をしていた。長身で細身。腰まで伸ばしたストレートの髪。少し吊り上がった眼。真っ白なワンピース。その女性は、マリナと振り二つの姿をしていた。ただし、雪のように白いマリナの白髪に対し、女性はその雪が解けたような黒い髪をしている。
女性が自分を指し示しながら言う。
「私? 私はアリア・コルトー」
「アリア……それってリディの母親……」
「そう。リディは私の娘なの。ただ、五歳のあの子を置いて旅に出た私が、母親を名乗っていいかは、分からないけどね」
自虐的に笑いながら、女性──アリアは言った。
「どうしてあなたが……それに、ここは一体どこなんだ?」
マリナの問いに、アリアが困ったように眉根を寄せた。
「うーん……なんなのかしら? 心の中とか……そんな感じ? よく分からないわ」
アリアが投げやりにそう言った。そして、マリナをまっすぐ見つめ、優しく微笑む。
「ただ、私は今までもずっとマリナ──あなたの中にいたわ。話すことができなかっただけで、あなたのことを、あなたの傍で、ずっと見ていた」
「ぼくを……?」
アリアが「ええ」と頷く。
「こうやって出てこられた理由は、私にも正確なところは分からない。母上ってやつにスノーを食べられて、その濃度が薄まったことが原因なのかも知れないし、まったく違う理由からなのかも知れない。でも今はそんなことどうでもいいわ。私がマリナを呼んだのは、あなたにお願いがあるからなの」
アリアの表情が、真剣味を帯びた厳しいものに変わった。
「私の娘を……リディを助けてあげて。それができるのは、マリナしかいないの」
アリアがマリナを見つめ、そう言った。自分を見つめるアリアのまっすぐな瞳。マリナはそれに耐えられず、アリアの視線から目を背ける。
「ぼくだってリディを助けてやりたい。だけど、ぼくにはどうすることもできないんだ」
「いいえ。マリナにならできるわ」
アリアが頭を振る。そして彼女は驚くべきことを口にした。
「マリナがリディの中に入れば、私の時のように、怪我だって治るはずよ」
マリナが驚愕に目を見開いた。
「ぼくを……彼女に寄生しろというのか」
「寄生じゃない」
アリアが再び頭を振る。
「共生よ。リディを支配するのではなくて、あの子と共に生きて欲しいの。あの子の傍で、あの子のことを護って欲しいの」
「ぼくが……リディを……」
それは確かに、リディを救うことができる唯一の可能性なのだろう。だが、マリナは簡単にそれを決断することができなかった。
「それをすれば、リディをぼくの運命に巻き込むことになる。いや、もうすでに巻き込んでしまっているが、それでも、引き返せないところにまで来てしまう。母上とだって、彼女は戦わざるを得なくなるんだ」
「だから、マリナに護って欲しいの」
「ぼくに……彼女を護ることができるとは思えない……家族を誰一人護れず、全員死なせてしまった、ぼくなんかに……」
マリナの瞳から涙が溢れた。現実では泣くことができない彼女が、空想の世界で大粒の涙をボロボロと流す。そんな彼女に、アリアがそっと近づいてくる。アリアが右手をマリナの頬に当て、マリナの涙を優しく拭う。
「マリナ……あなたは家族をきちんと護ってくれたじゃない。その証拠に、今こうして私とリディがいる」
「え?」
「あら? おかしいかしら。言ったでしょ。私はあなたの傍で、ずっとあなたを見ていた。あなたが村でどう過ごしたのか、誰と喧嘩して、誰と笑い合ったのか。あなたの癖だって知っているわ。良いところも、あまり良くないところも、全部……見守ってきた」
アリアが微笑んだ。
「私はもう、すっかりマリナのお母さんになった気分だったんだけど」
「お母さん……?」
アリアが頷く。
「マリナが私の娘なら、リディとは姉妹ってことになるわ。マリナが生まれたのが十一年前だから、ちょっと可笑しいけど、リディは五つ違いの、あなたのお姉さんね」
「……リディが……ぼくの姉さん……」
マリナは、自分の頬に触れているアリアの手を、ぎゅっと握った。自分の涙に濡れた彼女の手は、どんな氷も溶かしてしまうほどに、温かいものだった。
「ぼくに……そんな資格があるだろうか。ぼくに……再び家族を持つ資格なんて……あるだろうか」
「資格なんて、そんな悲しいことを言わないで。そんなもの必要ないわ。私がマリナを家族だと思っているんだもの。あなたは私の大切な、二人目の娘なのよ」
「ぼくに関われば……みんな不幸になる」
「不幸だなんて決め付けないで」
アリアが頭を振って言う。
「不幸だというのなら、自分の大切な人が──自分が見守ってきた大切な娘が、苦しんでいる姿を見るほうが、私にとってはよっぽど不幸なことよ。そしてねマリナ。あなたの幸せが、母親の一番の幸せでもあるの」
「……しかし、ぼくは……」
「それにね、あいにくと多少の危険で二の足を踏むような、ヤワな女じゃないの。これでも仕事柄、大陸中を飛び回っていたんだから。それはリディもそうでしょうし──きっと村のみんなもそうだったに違いないわ」
「……みんなも?」
「マリナ。あなたの家族の想いを忘れないであげて。あなたがモースへ行くと言った時、村のみんなが見送りに来てくれたわよね。それがどうしてなのか、あなたにも分かっているはず。辛いことがあって、何も考えたくなくなってしまう気持ちは分かるわ。だけど、そのあなたを想う、みんなの気持ちまで考えないようにしてしまってはダメよ。忘れようとしてはダメなのよ。あなたがみんなを愛していたように、みんなもあなたを、愛していたんだから」
アリアの言葉が、身体に染み込んでいくのを、マリナは感じた。一つ一つの、アリアの温かい言葉が、冷たい身体に浸透し、内側から熱を持つ。冷え切った心が氷解する。自身への憎悪が涙となって、瞳から溢れ落ちる。
アリアが優しくマリナに問い掛ける。
「落ち込んでいる今のあなたを見て、フランクならなんて言うかしら?」
「……うじうじするな。この馬鹿って、言うんだろうな」
フランクがしかめっ面で、マリナを怒鳴りつけている。
「テッサはあなたのことを恨んでいるかしら?」
「困った時はお互い様って、笑うのかもな」
テッサが豪快に笑い、マリナの肩を叩いている。
「マルコさんに謝ったほうがほうがいいかしら?」
「止めとくよ。一晩ベッドを共にしろだなんて、また言われたら敵わない」
マルコが残念そうに肩を落とし、すぐに歯を見せて笑った。
彼らだけではない。村人全員が、マリナに笑いかけ激励を送ってくれている。彼女に恨みごとを言う者は、そこには誰一人としていなかった。
もちろん、こんなものはマリナの勝手な想像でしかない。彼女が自分にとって都合の良いように作り出した、ただの幻想だ。だがそれを理解していても、マリナには思い浮かべることができなかった。彼らが自分に敵意を向ける姿を。自分に対し口汚く罵る姿を。マリナの知る村人たちは、自分をいつも温かく向かい入れてくれた。人とは違う化け物である自分をいつも──受け入れてくれた。
「自信を持って、マリナ。あなたは誰も不幸になんかしていない。あなたはみんなから愛された家族だった。そして私とリディにとっては、二人の夢を叶えてくれた、ヒーローでもあるのよ」
「ぼくが……二人の夢を……」
アリアが「ええ」と首肯する。そして彼女は、優しくマリナを抱きしめた。
「ありがとう。私とリディを最後に会わせてくれて」
アリアの鼓動が、マリナの胸に伝わる。そのリズムに合わせ、マリナの心臓が強く打ちつけられる。身体が痺れるように震え、全身に力がみなぎってくる。溶けてしまうほどに、身体が熱い。
「お姉ちゃんを宜しくね。マリナ」
マリナは、涙でくしゃくしゃになった顔で、笑って答えた。
「……ああ」
十一歳の少女は母親に強く抱きついた。