二人の母親(4)
またあの夢だ。
リディの目の前には、母親であるアリア・コルトーと、そのアリアに抱かれる赤ん坊のリディの姿があった。まだ赤ん坊のリディは、アリアから必死に母乳を飲み、アリアはそんな娘を落とさないよう、右手で慎重に抱きかかえながら、左手はペンを忙しなく走らせている。アリアが描いているのは、アリアが訪れたことのある、どこかの風景画。アリアが自身に刻んだ、記憶と想いの転写。それにリディは、幼い頃から魅了された。そして今回もまた、アリアの残した風景画に導かれるように、モースを訪れた。
(そこで、マリナに会ったんだよね)
雪女マリナ。リディの母親であるアリアの面影を持つ不思議な人。
マリナに興味を抱く切っ掛けは、ビックフットに襲われているところを、彼女が救ってくれたからだ。可憐な容姿に反した、その規格外の強さに、リディは心を惹かれた。マリナのことをもっと深く知りたいと、ビックフットに襲われている最中にも関わらず、彼女に取材交渉までしたぐらいだ。それほどまでに、リディはマリナに夢中になった。
しかし、そのマリナへの想いの中に、母親への想いが僅かなりもなかったと言えば、嘘になるだろう。いくら頭で否定しようとも、マリナが母親でない確かな証拠を突きつけられても、マリナの中に母親の面影を探している。だがらこんなにも、マリナに拘ってしまうのかも知れない。
(そういえば、この夢を前に見たのは、マリナと初めて会ってすぐだったよね)
改めて、リディは夢の中にいる、アリアとリディを見つめる。そして彼女は──
その夢の違和感に気が付いた。
「リディ。目を覚ましてくれリディ」
マリナの声を聞き、リディはそっと目を開けた。リディの目の前に、マリナの顔がある。彼女の表情は、今にも泣き出しそうなほど、くしゃくしゃになっていた。
(あたしと違って綺麗な顔なのに……もったいないな)
場違いにもそう思う。リディが目を開けたからか、マリナは少しだけ顔を綻ばせた。
「よかった……本当に……声を掛けても返事をしないから……心配したんだぞ……」
「ごめんね……心配かけて」
「謝らないでくれ……君が謝ることなんて何もないんだ」
「……ここは?」
仰向けで倒れているリディに、マリナが四つん這いの姿勢で、覆いかぶさっている。それだけはすぐに理解できた。しかし、意識を失う直前の記憶が曖昧で、現況が把握できていない。リディは、視線だけを動かして、周囲を見回した。
リディの周辺には多くの瓦礫が積み重なっていた。瓦礫の大きさはまちまちで、小指の先程度の小さなものから、リディの頭部ほどの大きなものもある。瓦礫の中には、脚や背もたれの取れた椅子も混ざっているようで、その損傷具合から、何か大きな力がその椅子に掛けられたことが知れた。例えば、高いところから落下するなど。
(そうだ……あたし、二階から落ちて……)
リディは、再び正面を向き、マリナの背後を見る。そこには、マリナと同じ背丈ほどの大きな瓦礫が、彼女の背中の上に乗っかっていた。そこでようやく、リディはマリナが自分にしてくれたことを理解した。
「マリナ……あたしを庇って……」
その言葉に、マリナは力なく首を振る。
「そんな言い方は……止めてくれ。全て……ぼくの責任なんだから」
マリナの顔や腕は傷だらけだった。頬が裂け皮膚がめくれ上がり、腕には拳大ほどの瓦礫が突き刺さっている。流れるような白髪は見る影もなくボサボサで、ワンピースも所々はだけて、白い肌が露出していた。リディからは見えないが、恐らくマリナの背中は、それらよりも酷い有様だろう。
二階からの落下による衝撃をその身に受け、降り注ぐ瓦礫から自身の身体を盾にして、リディを守った。マリナの身体には、その代償が克明に刻まれていた。
「ごめんリディ……謝ったって……どうしようもないことは……分かっている。でも……謝ることしか……ぼくにはできない」
マリナは沈痛な面持ちで、そう言った。もしマリナが泣くことができたのなら、大粒の涙を流していたことだろう。それを確信できるほどに、マリナの表情は深い悲しみと絶望に染まっていた。
「ぼくが……いなければ……誰も死ぬことがなかったのに……君だってこんな危険な目に合わずに済んだのに……」
苦しそうに、自身の存在を否定するマリナ。そんな友人の頬に、リディはそっと右手を当てた。リディの行動を不思議そうに見つめるマリナ。リディは友人の頬を、優しく撫で付ける。まるで友人の流した、見えない涙を拭き取ってあげるように。そしてリディはニッコリと笑った。
「ありがとう……マリナ」
「ありが……とう?」
リディは頷いて言葉を続けた。
「マリナがいてくれて……本当に……よかった……マリナが……あたしの夢を……叶えてくれたんだよ」
「リディの夢?」
話しながら、感情が昂ぶってくる。ずっと願い続け、だがどこかで、とうに諦めていた、一番の願い。それが目の前にある。そのことにリディは──
「マリナのおかげで──」
涙を流した。
「お母さんと、また会えた」
マリナはアリア・コルトーだ。リディはそれを確信した。
どうして今まで気が付かなかったのか。リディは自分の鈍感さに、ほとほと愛想が尽きる思いだった。
アリアを識別する記号。彼女の右胸にある逆ハートの痣。それがないため、リディはマリナを、アリアとは別人だと判断していた。
しかしリディは先程見た夢──アリアがリディに授乳している光景──に、違和感を感じた。それは、アリアが左手で風景画を描いていたことだ。アリアがモースへと旅立つ前日、リディは彼女からモースの風景画を描いてもらった。その時のアリアは間違いなく、右手で風景画を描いていたはずだ。
ではどういうことなのか。もう誰にだって分かるはずだ。あの記憶は、母乳を飲んでいるリディが、鏡越しに自分とアリアを見ていた時のものだったのだ。だからこそ、アリアは左手で風景画を描いていたし、母乳を飲む自分を、客観的に見ているという奇妙な記憶がリディに残っていたのだ。だとすれば、アリアを識別する記号、逆ハートの痣は、彼女の右胸ではなく左胸にあったことになる。
そしてマリナの左胸──ワンピースがはだけ、胸が露出している──には、くっきりと逆ハートの痣があった。
リディは大粒の涙をボロボロと溢しながら、マリナに自分の想いを伝える。
「マリナはね……お母さんを……あたしに会わせてくれたんだよ……お母さんは昔に死んじゃったのかも知れないけど……それでも身体だけでも……もう一度あたしとお母さんを会わせてくれた……マリナがいてくれたおかげで……あたしの一番の夢が叶ったんだよ」
リディの瞼が突然重みを増した。疲労からか目が霞み、意識が再び闇に沈もうとしている。リディはそれに必死に抗った。そして、最もマリナに伝えたかったことを話す。困惑したマリナの──出会ったばかりの友人の顔を、懐かしく眺めながら。
「だからね……マリナがいなければよかったなんて違うよ……少なくても……あたしがお母さんと会えたのは……マリナがいてくれたからなんだから……マリナはね……あたしにとって……色々な夢を見せてくれて……叶えてくれた……ヒーロー……なんだ……から」
そして、リディは意識を失った。
「リディ?」
突然、リディが気を失った。疲労から眠ってしまったのか。そう思ったが、マリナはすぐに気が付いた。リディの後頭部に血溜まりが広がっていることに。
「リディ!」
いまマリナの背中には大きな瓦礫が乗っている。その重量を両腕で支えているため、リディの頭の傷がどの程度のものか触って確認することができない。だがリディの頭から流れる血の量は、掠り傷というにはあまりにも多すぎる。恐らく、リディが話の途中で気を失ったのも、失血によるものだったのだろう。
(守れなかった……)
マリナは痛烈な思いだった。せめてリディだけでも無事に帰してやりたい。そんな儚い願いさえも、今マリナの目の前で無残に散ろうとしている。
(どうすれば……どうすればいいんだ)
マリナは必死に頭を回転させて、リディを救う手立てを考えた。治療するにしても、その知識も道具もここにはない。リディを運び出そうにも、瓦礫に囲まれたこの状況では、無闇に動くことすら叶わない。
(頼む……誰でもいい……彼女を……リディを助けてくれ)
心の中で強く願う。
その彼女の想いが──
二度目の奇跡を生んだ。
────
(マリナ──)
────
彼女の心の中で──
彼女を呼ぶ声が聞こえた。
「お母さんに対して、なんてひどいことするのかしらね」
彼女はそう言いながら、瓦礫の中から這い出した。パンパンとドレスを掌で叩き、埃を払う。所々破けてしまった。またショッピングモールに出向き、新しい服を調達しなければならない。
「やれやれ。この瓦礫の中から『右腕』を探すの? 嫌になっちゃうわね」
二階席の崩落で、一階席の半分は瓦礫に埋もれてしまった。この瓦礫をどかして人一人探し出すのは、面倒な作業となるだろう。
「うーん……『右腕』がこの程度で死ぬわけないし、出てくるまで待とうかしら」
そう思い、五分ほど待機してみる。しかし、瓦礫の中から『右腕』が出てくる気配はない。彼女は多少不満げに呟く。
「まさか……頭潰されちゃったかしら?」
やはり自分で探さなければならないかも知れない。そう思い、彼女は溜息を吐く。
だが──
「あら? あの瓦礫の隙間に見えるのって、『右腕』のワンピースじゃないかしら」
少し離れた瓦礫の隙間から、白い布がはみ出していることに、彼女は気が付いた。少し違和感を感じながらも、彼女はその白い布の場所まで歩いていく。その布は、人一人すっぽり収まるぐらいの、大きな瓦礫に挟まれていることが分かった。彼女は瓦礫を片手で掴むと、ひょいっと持ち上げて背後に放り投げた。そして、瓦礫の下を見る。
そこには、白いワンピースを着た女性が瓦礫に潰され倒れていた。間違いなく『右腕』が寄生していた人間の身体だ。ただし──
その女性は黒髪だった。
彼女は直感で横に飛び退いた。彼女が先程までいた場所を、白刃が通り抜ける。彼女は瓦礫の上に着地し、態勢を立て直すと、自分を斬りつけてきた女性を睨みつけた。
その女性は、小柄な少女だった。ボロボロのダウンや厚手のパンツを着ている。右手には白銀の刀──灼熱の刀だ。そしてセミショートの癖毛の髪は──
燃えるような白色だった。
「第二ラウンドだ」
黄金の瞳を持つ少女が、彼女に刀の切っ先を向ける。
「お前を──焼き斬ってやるよ」
リディの姿をしたマリナが、不敵に笑った。