二人の母親(2)
ガラスをぶち破り、コンサートホールに入ったところまでは理解できた。だがその後のことは、恐怖から顔を伏せ、バイクにしがみ付いていたため、何が起こったのか自分でもさっぱり分からなかった。
リディが気付いた時には、彼女は『左脚』の腕に抱えられていた。彼が彼女に笑顔──なぜか頬が引きつっているように見えたが──を向けて、感嘆したように言う。
「参ったね。まるで囚われのお姫様を救う、白馬に乗った王子様のようだったぜ。まあ、白馬っていうにはごつい車体だがな」
「えっと……何の話です?」
頭に疑問符を浮かべ、首を傾げるリディ。『左脚』は「いや、こっちの話」とだけ言うと、リディを優しく床に降ろしてくれた。極度の緊張からの解放で、足元がフラつくリディ。その彼女の肩を支えて、『左脚』が舞台に向けて顎をしゃくった。
「あそこに、リディちゃんのダチの、マリナがいる。取り敢えず、一緒に行こうか」
「マリナが!?」
リディは素早く舞台の上に視線を送る。そこには確かに、白いワンピースのマリナが、仰向けに倒れているのが見えた。リディはすぐさま舞台に向かって駆け出した。脚が絡みながらも舞台手前まで行き、素早く舞台に上がる。マリナの下に辿り着くと、リディは屈みこんで、一度彼女の全身を眺めた。そしてマリナの腹部に、大きな傷跡を発見する。
「何この傷! ちょっと、マリナまさか死んじゃったんじゃ!」
「落ち着けよリディちゃん。スノー感染者はこの程度じゃ死なねえ。そいつに意識がないのは別の理由だ」
「じゃあ、目を覚ますの!? あ……でも今マリナってマリナじゃないんだっけ?」
リディの質問に、『左脚』は頭を振った。
「いや、『左腕』の奴は母上に喰われてもういねえ。あとは──」
その言葉の途中で、ホールの天井から女性の声が割り込んできた。
「十四回目の約束を信じて、アタアアアアアアアアック!」
リディを追い掛けてきた『右脚』だ。彼女は明るく絶叫しながら、リディと『左脚』目掛けて、鈍器を容赦なく打ち下ろしてきた。すっかり『右脚』の存在を忘れていたリディは、自身の迂闊さを呪う暇もなく、骨までぺしゃんこにしそうな『右脚』の鈍器に、叩き潰された。鈍器の衝撃が舞台を揺らす。
「あとは──」
『右脚』の鈍器を、『左脚』が両手で押さえ込んでいる。『左脚』の足元で尻餅をついて目を瞬かせるリディを、彼は一瞥して言う。
「奇跡を起こせたのかどうか……それを確認するだけだ」
「え?」
『左脚』が鈍器を抱え上げ、『右脚』を舞台袖に放り投げた。
「うっきゃあああああああ!」
叫び声を上げながら──こんな時でさえ、『右脚』の声はどこかふざけたものを感じる──、彼女はくるくると回りながら舞台袖に消えていった。それを確認して、『左脚』がリディに向き直った。
「一旦ここを離れるぞ!」
「え……でも」
戸惑うリディに、『左脚』が口早に言う。
「状況がまた変わった! 今なら態勢を立て直すのが得策だ! うまくすれば──」
ここでまたも、『左脚』の会話が中断された。『右脚』を吹き飛ばした舞台袖から、突然触手が伸びてきて、ぐるりと『左脚』の首に絡み付いたのだ。
「うおっ!」
触手によって『左腕』の身体が浮き上がり、大きな音を立てて舞台に叩きつけられた。そしてそのまま触手に引き摺られるように、彼は舞台袖に消えてしまった。
「『左脚』さん!」
追いかけようにも、気を失っているマリナを放っておく訳にもいかず、リディは呆然と舞台上に座り込んでいた。そして──
「直情的なくせに、妙に判断力があるのよね。『左脚』って。でもさすがにここで逃がすほど、お母さんはお人好しじゃないわよ」
舞台奥に空いた穴──なぜそんな所に穴が空いているのかは、リディはもちろん知らない──から、白いドレスを着た幼い少女が、姿を現した。緩やかなウェーブを描く長い白髪に、輝くような黄金の瞳。その美しい少女に見覚えはないが、話だけならモースに入ってから、幾度となく聞いている。
「あなたが……マリナたちの母上?」
「初めまして。『左腕』の記憶に残っているわ。リディちゃん……よね?」
にっこりと微笑んで、少女はそう言った。全く邪気のない──親しみさえ感じる──可愛らしい少女の笑顔。『左脚』の話によれば、この子供こそが現モースの支配者であり、モースに侵入した人間を排除してきた殺人鬼ということになるのだが、正直、リディには俄かには信じられなかった。
しかし、不思議とリディの身体は震えていた。理性とは別に、本能に近い感性が、彼女にけたたましく警告を発している。少女に関わってはならないと。
少女は値踏みするように、ジッとリディを見つめていた。そしてポツリと言う。
「震えているわね。もしかして、寒いのかしら?」
「……寒い?」
的外れな少女の問い掛けに、リディは思わず聞き返した。少女は腕を組むと、困ったように眉根を寄せた。
「あたし達にとっては適温でも、人間には凍えるような寒さなんですってね。何なら、完全防熱壁を起動させてあげようか?」
「ぼうねつへき?」
「ええ。空気への熱伝導率を零にする、モースが作り出したシールドよ。昔、まだスノーが開発される以前には、そのシールドで建物全体を覆って、熱の拡散を防ぎ、暖房効果を高めていたの。もちろん、こういった公共施設には必ず設置されていたわ」
少女はペラペラと、聞いてもいないことを話し始めた。リディは呆気にとられて、少女の話を黙って聞く。
「八年前に『左脚』がイタズラで起動したから、多分まだ動くと思うけど。あ……でも暖かくしちゃったら、今度はあたしのほうが参っちゃうか。うーん……ごめんなさい。やっぱり我慢してもらえるかしら」
「……一体、何の話なの?」
ようやく絞り出したリディの声は、掠れていた。少女がリディの問いに、あっけらかんと答える。
「何って……長話になりそうだからリディちゃんの身体を気遣ってあげたんだけど?」
「長話?」
先ほどから、リディは少女の言葉を繰り返してばかりだ。それほど少女の会話は、リディには要領を得なかった。少女は楽しそうに身体を跳ねさせると、手を打ち鳴らした。
「ええ。あたしはね、モースの外から来た人間と会話するのが楽しいの。すっごく刺激があるからね。『四肢』を生んでからは、興味の対象が子供達の経過観察に移っちゃったから、最近はしていなかったけど。せっかくの機会だし、楽しくお喋りしましょう」
「バカにしてるの?」
リディは少し挑発的な物言いになったことを、言ってから後悔した。だが少女は気にしなかったようで、プルプルと首を振り、笑顔でリディの言葉を否定する。
「そんなことないわ。あたしはもっと人間のことを知りたい。それだけよ。ただ、聞いてばかりじゃ悪いから、リディちゃんからの質問もきちんと答えてあげるつもり。気になることがあったら、何でも聞いてちょうだい」
「……信じられない。だって、あなたはモースの秘密を守りたいんじゃないの?」
「いやだ。そんなこと、リディちゃんが気にする必要なんかないのよ。それにほら──」
少女は調子を一切変えずに言う。
「死人に口無しって言うでしょ」
リディは、マリナの傍に落ちていた黒い鞘を拾い上げると、抜刀しないまま身体の前に構えた。脚は震えて、立ち上がることができない。リディは尻餅をついたまま表情を怒らせ、少女を精一杯に威嚇する。
「近づいたら斬るからね」
リディの宣告に、少女は馬鹿にするわけでもなく、さりとて警戒するわけでもなく、何事もないように淡々と話を続けた。
「そのリディちゃんが持っている刀。実はそれもモースのものなの。さっき話をした完全防熱壁を利用した武器でね、刀身には膨大な熱量が封じ込められている。スノーに感染した人間は銃弾ぐらい当たっても、傷跡がすぐ再生しちゃうから効果なくてね。そんなスノー感染者を無力化するために、斬ると同時に傷跡を焼くその刀が考案された。因みに、柄に防護壁を発生させる装置があるんだけど、当時の科学者は、そこまで装置を小型化するのにひどく苦労したみたいよ」
「やらないと思っているの? あたしを舐めないで!」
「いいえ。誤解だわ。その逆よ。感心しているの。今話した通り、その武器はスノーにとって、つまりあたしにとって、警戒すべき武器の一つだと言いたいの。それを選択したことを、あたしは高く評価している。ただし、あなたにそれを扱える腕があるならだけど」
「あたしは剣術だって心得ている!」
本で読んだだけだけど。リディは内心で絶望的にそう呟く。
「なら余計な心配だったわね。まあ、リディちゃんが敵対行動を取るというのなら、あたしも無理に止めはしないけど。でも、覚悟したほうがいいわよ」
ここで初めて少女がリディに対し、あからさまな殺意を向けてきた。
「それをした瞬間、あたしはこの楽しい会話を切り上げて、あなたを殺しちゃうから」
少女の警告にリディは全身が凍りついた。体温が実際に一、二度下がったのではないかと思うほどに身体が冷え、呼吸が激しくなる。刀を握る手に力が入らない。これでは、剣術の技術云々の前に、抜刀することすら怪しい。
少女が一歩、リディに近づいた。それだけでリディは、恐怖から心臓を鷲掴みにされるようだった。
(ああ……あたし本当に死んじゃうかも)
身体の緊張に対して、妙に落ち着いた心の声。それがむしろ、リディに絶対的な死を、強烈に予感させた。その時──
リディの持つ刀の柄に、白い手が置かれた。
呆然と、リディは横を見やる。そこには、美しい女性が立っていた。腰まで伸びたストレートの白髪。花弁のように裾をなびかせる白いワンピース。透き通るような白い肌。まるで図ったように、全身を白一色で染めあげた女性。だがその瞳だけは──
全てを焼き尽くす、黄金の炎を湛えていた。
「ぼくがお前を殺してやるよ」
マリナが殺意を滾らせて、そう言った。
(どうやら、奇跡は起きたようだな)
舞台から感じる『右腕』の気配に、『左腕』はニヤリと笑った。そんな彼の様子を見て、『右脚』が地団駄を踏みながら言う。
「何笑っているのよ、『左腕』! 私ってば、すっごく怒っているんだよ!」
「はあ? なんでテメエがキレてんだよ」
眉根を寄せ、『左脚』が尋ねる。『右脚』は「ひどおおい!」などと言いながら、首を左右にプルプルと震わせる。
「私を投げ飛ばしたこと、忘れちゃったの!? いい? 女の子を投げ飛ばすことは、人がやっちゃいけないことベスト……えっと……三十八? ぐらいいけないことなんだよ」
「お前が最初に俺を潰しに掛かったんだろうが。まあ別に良いけどよ。因みに、そのランキングの一番は何なんだ?」
「もちろん、母上に逆らうことだよ」
即答する『右脚』に、『左脚』は両手を鉤爪のように尖らし戦闘態勢を取る。その様子に『右脚』も鈍器に変形した右手を一振りして、肩に抱えるようにして構えを取った。
「んじゃあ、相入れることはねえな。残念だな。テメエは『左腕』よか、話していて楽しいやつだったんだがな」
「私も『左脚』のことは嫌いじゃないよ。でも母上に逆らっちゃダメだよね。私たちは同じ『脚』だから、親近感あったんだけど」
呼吸を整えながら、『左脚』は考える。戦闘能力に関しては『右脚』の実力は、『左腕』のそれを上回るだろう。自分と比べれば、ほぼ互角か、自分が少し上回る程度。何にせよ、即座に決着は付かないだろう。
つまり、リディの下に応援に駆けつけるのは、もう暫く時間が掛かるだろう。
(気いつけろよ、リディちゃん。俺たちの母上は、奇跡を一度起こした程度で倒せるほど、ヤワじゃねえぞ)
そう内心で呟くと、『左脚』は駆け出した。