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スノースキン  作者: 管澤捻
雪女マリナ
2/27

雪女マリナ(1)

 ソーゲ森林地帯。そこは、レルミット大陸の北西に位置する面積百キロ平方メートル以上の広大な森林地帯だ。未開拓の場所も広く、未だ多くの謎と神秘を内包している。ゆえに、この森には大陸中の歴史学者や考古学者が毎年多く訪れる。彼らの目的は、世界的な発見により得られる名声や、単なる知的好奇心など様々であるが、どちらにしろ、現在までにまともな成果を上げられた者は誰一人としていない。

 ソーゲ森林地帯に入った者の結末は、大きく二つに分類される。一つの益も得られず森から逃げ帰った者たちと、一つの益も得られず森から逃げ帰ることも()()()()()()者たちだ。そして、森から生きて帰ってきた者たちは口を揃えてこう言った。

 あそこには、二つの怪物が潜んでいる。

 ソーゲ森林地帯に入る前、彼女はその話を事前に聞いていた。ソーゲ森林地帯から五キロほど離れた村の酒場で、つい先程ソーゲ森林地帯から逃げ帰ってきたという、自称神秘学者──彼女にもよく分からない肩書きだが──から、直接話を聞いている。齢五十を超える白髭の男が、滑稽なほどに震えて話をしてくれたことを、彼女はよく覚えていた。

 だからこそ、彼女はソーゲ森林地帯に入る前、その準備を怠ることはなかった。村の土産物屋で売っていた魔除けのストラップを購入し、村で一番の祈祷師から厄払いを受け、雑誌の運勢欄で最良の時を選び、ソーゲ森林地帯に足を踏み入れた。準備は万全だった。ただ一つ、彼女が誤っていたこと。それは、雑誌の運勢欄に載っていた、この一言を軽視したことにあった。

『今日、あなたに運命的な出会いが待っているかも♪ ラッキーカラーはホワイト』

 彼女はその一文を憎々しげに頭に思い浮かべながら、森の中を必死に走っていた。地面に降り積もった雪は、場所によっては小柄な彼女の腰の高さほどもあるだろう。彼女は積雪に足を取られないよう、あらかじめ雪が踏み固められている獣道を適宜選択し、針葉樹の隙間を縫うように走り続けた。しかし、舗装された道路を走るのとでは、体力の消耗が当然ながら異なる。彼女の脚は、走り始めてからまだ五分──あるいはまだ一分も経っていないのかも知れない──で悲鳴を上げ、腿が上がらなくなってきた。それでも、脚を止めることもできず、彼女は遮二無二なって、森の中を走り続けた。

 視界は良好だった。降雪もなく、何十メートル先の樹々まで、しっかりと視界に捉えることができる。また耳をつんざくような風もなく、聞こえてくるのは、自身が雪を踏みしめる音と、荒い息、そして爆発しそうなほどに鼓動する心臓の音だけだった。加えて、自身に迫る生命の危機に感覚は鋭敏になり、普段以上に周囲の状況を把握できた。そしてそれが、彼女の命を救った。

 ミシリッ──

 そんな音が頭上から聞こえてきた。彼女は半ば反射的に頭上を見上げる。すると、彼女の進行方向の先にある針葉樹、そこに降り積もっていた大量の雪が、枝をへし折りながら地面に落下していくのが見えた。彼女は回転する脚を止めそのまま転倒する。彼女が積雪に顔面から突っ込むのとほぼ同時、彼女の目と鼻の先に、大量の雪と枝が土砂のように崩れてきた。

 もしもあのまま走り続け、この雪に押し潰されるようなことがあれば、彼女の矮躯(わいく)な身体などひとたまりもなかっただろ。彼女はホッと一息をつくと、すぐさま立ち上がり、再び走り出そうとした。しかしすぐに、彼女はそれが不可能なことに気が付く。

 限界まで酷使された脚が、一度急停止をしたことにより、その活動を完全に止めてしまった。彼女が必死に脚を動かそうとしても、脚はブルブルと痙攣するだけで、彼女の意志がそこに反映されることはなかった。それだけではない。心臓はすでに痛みすら伴うほどに荒々しく早鐘を打ち、いくら深い呼吸を繰り返そうとも、一向に楽になる気配がない。白い息を繰り返し吐き出しながら、彼女は陰鬱に認めた。

 もう走ることはできない。

 彼女は背負っていたリュックサックを脇に下ろすと、すぐにチャックを開け、その中身を雪の上にぶちまけた。リュックサックから出てきたのは彼女の仕事道具一式。それを手荒に漁ると、彼女は掌に隠れるぐらいの、小さな立方体の鉄片をそこから見つけ出す。

 鉄片には薄いガラスの蓋が付いており、そのガラスの奥に赤いボタンがある。このガラスを破り赤いボタンを押すと、十秒後に小規模の爆発を起こす仕掛けとなっている。つまり、簡易な小型時限爆弾だ。通常は道を塞ぐ雪や氷を破壊するために使用するものだが、使い方次第では武器にもなり得る。彼女はそう考え、小型時限爆弾を右手に持つと、力強く拳の中に握りしめた。

 その直後、彼女の身体を影が覆った。雪に這いつくばった彼女は、恐る恐る頭上を見上げる。彼女の目の前に、それは立っていた。

 それは、まるで起立した巨大な雪だるまのようだった。全長は四、五メートルほどあり、周りに積もる雪と同化するかのように、全身が白い体毛に覆われている。腕と脚には不自然に盛り上がった筋肉が付いており、その腕は直立した状態でも地面に拳がつくほど異様に長い。顔の半分まで裂けた口には歯がなく、口腔から覗くピンク色の舌が、まるで別種の生き物のように蠢いていた。眼球は、分厚い体毛に隠れているせいか、彼女に確認することはできなかった。そもそも、眼球それ自体があるのかも疑わしい。そんなことを考えてしまうほどに、その生き物は既存の動物とは規格外の様相を呈していた。

 ソーゲ森林地帯に出没する二つの怪物の内の一つ。

 通称──ビックフットだ。

 ソーゲ森林地帯に入り、大半の者が帰ってこない理由。それは皆このビックフットに襲われ、食われてしまったからだ。この怪物に見つかったら最後、その巨体から逃げきるすべはない。それを彼女は、今こうして身をもって実感した。

 右手に握りしめた小型爆弾。今ならそれをビックフットに投げつけることができただろう。だがしかし、彼女はその爆弾のスイッチを押すことができなかった。ビックフットに対抗する武器として一度は考えたが、改めてこの怪物を目の当たりにし、こんな玩具が役に立つとは思えなくなってしまったからだ。

 ビッックフットが手を振り上げた。その巨体からは到底考えられないほど、その挙動は軽快に俊敏だった。死を覚悟する暇もない。ビックフットの巨大な拳が高速で、彼女の脳天に叩きつけられる。彼女の頭蓋は破壊され、脊椎は何重にも折れ曲がり、赤い体液を撒き散らし、粘土細工のように潰される。そんな彼女の脳裏に一瞬にして浮かび上がった、自身の死に対する妄想は──

 拳を振り上げていたビックフットが、縦に分断されたことで、霧散して消えた。

 左右に分かれたビックフットの巨体は、彼女を挟み込むように、雪煙を巻き上げて前のめりに倒れた。彼女は身動きとれずに、呆然と前方を見つめる。その彼女の視界の中心には、一つの白い影が写っている。

 それは、美しい女性だった。長身で細身の体躯。雪のように白く透き通るような肌を、花弁のように舞う白いワンピースで包んでいる。引き締まった魅惑的な唇に、形の良い高い鼻。そして──

 腰まで伸ばした銀糸のような白髪と、長い睫毛に縁取られた黄金に輝く瞳。

 その女性は右手に棒状の何かを握っていた。よく見るとそれは剣だった。しかし、ただの剣ではない。両刃が主流のレルミット大陸では珍しく、その剣は片刄で、刀身が僅かに曲線を描いていた。彼女は記憶を探り、それが『刀』と呼ばれるマイナーな剣であることを思い出す。鎧で身を固めた敵を想定し、刀身を叩きつけて攻撃する一般的な剣と異なり、極限まで斬ることを追求した、特異な剣だ。

 だがしかし、女性の握るその刀は、さらに異質なものだった。その刀身が──あたかも女性そのものを武器に打ち固めたように──白銀に輝いていたのだ。この特徴は、彼女の知るどんな材質にも当てはまらない。

 彼女は暫し呆然と、突如現れたその女性──同じ性別の彼女でさえ見惚れてしまう美しさを持つ女性──を見つめた。そして彼女は、近くの村で聞いた噂話を思い出す。

 ソーゲ森林地帯に現れる二つの怪物。ビックフットと対に語られる存在。森から逃げ帰った冒険者の多くが語った、ビックフットから彼らを救った白い美女。

 通称──雪女。

 これが雪女──マリナと、彼女──リディ・コルトーの出会いであった。


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