二人の母親(1)
『左脚』は退屈していた。母上より生を受けて十一年。彼は自身に与えられた役割──モースに侵入した人間を排除する──を、粛々とこなしてきた。とはいえ、ここモースに人間が現れることなど、非常に稀である。数年に一度、冒険家や森に住む村人などがビックフットに追われ、偶然にひょっこりと現れるぐらいだ。初めの五年程は、その役割を何の疑問も抱かずに遂行してきた。しかし、モースの街を散策──役割の都合上、モースの街並みを見て回る機会に恵まれていた──しているうちに、ある感情が芽生える。
ここモースとは異なる街を見てみたい。もっと色々な知識に触れてみたい。
彼はモースに迷い込んだ人間を保護し、その人間を無傷でモースの外に送ることを条件に、人間から外の情報を集めていった。彼らのする外の話は、ひどく魅力的で、この凍りついたモースとは異なる、熱気に満ちた世界に思えた。
外の世界を見たい。その好奇心は日に日に抑えることができなくなっていった。だが、母上がいる限り、彼はモースの外に出ることができない。それは物理的な束縛ではなく、心理的なものではあったが、十一年間、母上の管理のもと生きてきた彼にとっては、実体の伴った束縛よりも、よほど強力な拘束力を持っていた。
だから彼は、リディを利用して母上を討つことを考えた。
彼がリディの友人奪還に協力したのは、詰まるところ自分のためだ。彼女の友人は、十一年前に母上から姿をくらました『右腕』である。リディに協力し『右腕』を母上から奪還すれば、『右腕』の信用を得て、こちらの仲間に引き込みやすくなる。そういった打算があった。もちろん、『右腕』も母上に喰われないために、彼の協力は必要であるはずだ。つまりお互いの利害が一致する、ウィンウィンの関係というやつだ。
だが『右腕』の奪還は絶望的となった。とはいえ、既に母上に反抗する意思を示してしまった以上、一人でも母上と戦うしかない。となれば、これは彼個人の戦いとなる。無関係となったリディを、その争いに巻き込むのは忍びない。だから、彼はリディに二つの選択肢を提示した。モースから逃げるか。友人が戻る奇跡に賭け、母上と戦うか。
(リディちゃんに奇跡をチラつかせたのは、失敗だったな)
あの言い方では、リディちゃんが母上と戦うほうを選択する可能性がある。もちろん、それは彼女の望んだことであり、彼が強制したことではない。だが誘導したきらいはある。
(俺自身、その奇跡ってやつに期待しちゃってるのかね)
だからつい、その言葉が口を突いてしまったのか。彼はそう自身の心情を分析した。
モースの数少ない娯楽施設。その中でも一際大きな建造物。モースコンサートホール。
彼はその建物の前に立ち、ゆっくりと歩を進め始める。建物出入口の自動ドアを通り、正面フロアを進み、奥に見える二重扉を抜ける。そして視界に広がるホール。座席の数は、中三階まで含め、全二千席。当時のモースの人口が千人と言われているため、その約二倍もの座席があることになる。彼はその座席のさらに奥──なだらかに傾斜するホールの底──に視線を送る。二千にもなる無人の座席に見つめられそこに鎮座するのは、幾つものスポットライトに照らされ薄闇に浮かび上がる、大きな舞台。その舞台の中心に──
白いドレスの少女が立っていた。
「久しぶりね『左脚』。滅多に顔を出さないんだもの。お母さん、寂しか──」
『左脚』は少女が言葉を言い終わる前に、床を蹴り駆け出した。舞台手前に到達すると、跳躍し、右手を振り上げ少女に襲い掛かる。
しかし、『左脚』の右手は、少女の掲げた小さな左手に、あっさりと掴まった。『左脚』は舌打ちをすると、少女の脇腹を蹴りつけようと、身体を捻る。その直後、少女に掴まれた右手に、あたかも万力で締めつけられたような、強い痛みが走る。そして、強烈な力で身体を振り回されると、舞台から客席に向かって投げ飛ばされた。『左脚』は、自分をはるかに凌ぐ力に抗うこともできず、座席をなぎ倒しながら床に倒れ伏す。
「相変わらず、やんちゃな子ね。それが、あなたのいいところでもあるけど」
「ガキ扱いしてんじゃねえぞ。母上」
『左脚』は、身体を震わせながら、身体をゆっくりと起こした。痛みがあったわけではない。僅かな攻防で見せつけられた、自身と少女とのその実力差に、身体がどうしようもなく震えるのだ。そんな彼を舞台上から見据え、少女がクスクスと可笑しそうに笑う。
「親から見れば、子供はいつまでも子供のままなのよ」
「知ったようなことを、偉そうに抜かしてんじゃねえ! 母上の愛情なんか人間の模倣でしかねえ! 実際は俺たちのことなんざ、ただの暇潰しの道具としか思ってねえだろ」
「残念だわ。あたしはこんなにも、あなた達を愛しているのに。それを理解してもらえないだなんて。でもね、あなたもすぐに、分かってくれるはずよ」
舞台の袖から、女性が現れた。白髪に白いワンピース。鞘に収められた無骨な刀を右手に握り、黄金の瞳を『左脚』に向けている。
『左腕』によって支配された、元『右腕』の女性だ。彼女はゆっくりと舞台上を歩くと、白いドレスの少女の傍で、ピタリと立ち止まった。それを確認して、少女が口を開く。
「あたしの中に戻れば、あたしが如何に愛情深い母親であったか、理解できるから」
少女の笑みが一段と深くなった。
「もう! かれこれ十三回目の約束が反故されたよ! 私とあなたの仲でしょ! 次こそは! 次こそは信じているからね! 私を失望させないでよね!」
何度目かになる『右脚』の攻撃を躱し──彼女の言葉を信じるなら十三度目か──、リディは一息つく。一度左手をハンドルから外し、手を握ったり開いたりと繰り返す。左手をハンドルに戻し、次は右手で同じことを行う。長時間緊張に晒された身体は、訛のように重く、反応が鈍くなっている。『右脚』の身勝手な約束を果たしてしまうその時は、それほど遠くはなさそうだ。
だが、どうやら間に合ったらしい。前方に外観の八割がガラス張りの建物が見えてきた。『左脚』からリディに伝えられた、母上が待つというコンサートホール。そこに、マリナがいるはずだ。
リディは大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。意識を集中し、今後の自身の行動を頭の中でシミュレーションし、クリアすべき課題を列挙する。その中で、リディが最優先してクリアすべき課題は──
(この乗り物……どうやって止めるんだろ)
バイクは一切の減速をせず、コンサートホール入口のガラスを突き破った。
白いドレスの少女が右腕を上げた。すると、少女の小さな腕は見る見る変形し、肉厚な剣へと変わる。小柄な少女はその大剣を軽々と腰に構え、傍に立つ白いワンピースの女性に視線を向ける。そして、ワンピースの女性の腹部に、その大剣を突き刺した。
ワンピースの女性の眼が見開かれ、身体が小刻みに震えだす。『左脚』はその光景の意味を、瞬時に理解した。自身の身体に濃縮されている寄生生物スノー。自分自身とも言えるその寄生生物が、ワンピースの女性から少女へと移動していることが、気配で分かる。
少女が女性を食っているのだ。
「本当に『左腕』は優等生だわ。あっさりと、あたしの中に浸透していく。子供に優劣を付けるつもりはないけど、『左脚』も彼のように手の掛からない子だとよかったんだけど」
少女はそう言うと、スッと左腕を上げた。そしてその左手人差し指を、『左脚』に突きつける。
「もっとも、そういった意味では、あなたは誰よりも人間に近いわ」
少女の左腕が伸び『左脚』に迫る。『左脚』は震える身体に鞭打って、横に飛んで少女の貫手を躱す。少女の左手が床を砕き、手首まで埋まった。
『左脚』は歯をギリリと食い縛り、少女を睨みつけた。少女が『左脚』より先に、『左腕』を食べ始めたのは、彼にとっては幸運と言えるかも知れない。少なくとも、二対一の状況は解消されるからだ。しかしそれは、一対一であったとしても『左脚』を喰えるという、少女の絶対的な自信の表れとも言える。
(気に入らねえが認めざるを得ねえ。母上にとって俺の反抗なんざ、それこそ手間の掛かるガキをあやす程度にしか思ってねえんだ)
今の攻撃を躱すことができたのも、少女が加減したからかも知れない。そんなことを勘ぐらざるを得ないほど、少女と『左脚』とでは実力差があった。
(だが……そいつは初めから分かっていたことだ)
それを分かった上で、自身の信念を貫こう思った。母上の束縛を抜け自由になる。その意志を示したかった。誰に記憶されるわけでもない。何に記録されるわけでもない。だがそれでも、存在しない何かに向けて、自分が下した結論を見せつけてやりたかった。これが俺なんだと、叫んでやりたかった。
(下らねえ意地だ。だがその意地を取っちまったら、俺はそれこそ、母上のただの部位に成り下がっちまう)
『左腕』は腰を落とし、半身の姿勢で構えを取った。呼吸を整え、少女を睨みつける。少女の一挙一動に注意を払い、飛び込むタイミングを図る。開き直ったせいか、頭の中から雑念が振り払われ、思考がクリアになる。だからかも知れない。『左脚』は、少女に貫かれた女性の異変に、気付くことができた。
腹部を剣で貫かれた白いワンピースの女性。その女性の両手が、自身を貫く剣の切っ先を掴んでいた。一瞬、『左脚』にはその意味が分からなかった。女性の表情は俯いているため、『左脚』から見ることはできない。だからその意図を察するのに、時間が掛かってしまったのだ。
(あれは、剣をただ掴んでんじゃねえ。剣を押し戻そうとしてんだ。まるで──)
母上に喰われることを拒絶するように。
瞬間、『左脚』は少女に向かって駆け出した。少女が左腕を伸ばし、『左脚』の迎撃に掛かる。彼は少女の攻撃を躱しながら、何とか少女に近づこうと苦心する。だが少女の攻撃は執拗で、少女との距離を一定以上縮めることができない。『左脚』は僅かに見えた光明が、どんどん小さく薄れていくことに、大きな焦りを感じる。
(くそ! くそ! 近づけねえ! このままじゃあ、全部喰われちまう!)
埒があかない現況に、『左脚』が多少の怪我を覚悟して、少女の下に飛び込もうと足先に力を込める。その時──
「うっきゃああああああああああああ!」
絶叫とともに、玄関フロアに続く扉が、手前に弾け飛んだ。その布を引き裂くような痛烈な声に、『左脚』はつい声のした方向に振り返る。そこには──
バイクに跨るリディの姿があった。
「はへ?」
思わず、『左脚』の口から素っ頓狂な声が漏れる。リディの乗ったバイクは、何度かバウンドしながら、座席通路を信じられない速度で駆け下りだした。『左脚』は反射的にバイクを躱そうとするも、それを制止して、逆にバイクに向かって跳躍する。絶叫しながらバイクにしがみ付いていたリディを素早く腕に抱え上げると、彼はすぐさまバイクから身を翻した。と、同時に『左脚』はバイクの車体を蹴りつけ、その進路を変更する。無人となったバイクは、ホールに設置された座席の後部に追突し、勢いそのままに宙に舞った。そして、重量級のバイクの車体が──
舞台に立つ少女を撥ねた。
少女は舞台奥のベニヤ板を突き破り、舞台裏までバイクと一緒に吹っ飛んでいった。ワンピースの女性を舞台に落として。
その光景を『左腕』は信じられないような思いで暫く見つめていた。そして、腕の中で目を回すリディに視線を移すと、引きつった笑みを浮かべて呟く。
「まさか、リディちゃん……マジで奇跡を起こしちまったか?」