寄生型人工生命体スノー(2)
マリナはとある建物の中にいた。そこは縦横百メートル、天井までの高さが十メートルはある、巨大なホールだった。そのホールの大部分には固定された座席が並べられており、一階席から三階席まで、合計で二千席ある。その席は全てが同じ方向を向いているわけではなく、微妙に歪曲しており、その全席の視線を結ぶ先に、間口二十メートル、奥行き十五メートルの舞台が設置されていた。
モースコンサートホール。それがこの施設の名前だ。捻りも何もない名前だが、分かりやすくて悪くない。マリナはそう考えている。もちろん、今はもう稼動していない。最後に演目が公演されたのは、今から五十年以上も前のことになる。
マリナはホールの出入口から、無人の客席を縫って舞台に向かって歩いて行った。ホールの出入口から舞台へは、緩やかな階段を下っていくようになっている。これは、最後列からでも、座席の背に邪魔されず、舞台の様子がよく眺めるように配慮されてのことだ。そのため、マリナは舞台に辿り着く前から、舞台の上にいる者の存在に気が付いていた。天井に取り付けられた幾つものスポットライトに照らされた舞台の中心。そこに──
幼い少女が眠っていた。
マリナは音もなく舞台に近づくと、タンッと舞台の上に跳躍した。そして舞台の中心で眠る少女に近づいていく。マリナが近づいても、少女は目覚める気配を見せなかった。マリナは少女の脇に立つと、眠り続ける少女を黙って見つめる。
少女の容姿は、可愛らしくも美しいものだった。透明な白い肌に、長い睫毛。小さな鼻に、魅惑的な丸みを帯びた唇。身長百三十センチほどの小柄な体躯を包むのは、花が散りばめられた白いドレス。花弁のように膨らむスカートからは、白いストッキングの脚が覗いている。そして、少女の体躯を抱き込むように、緩やかなウェーブを描き、広がる少女の髪。それもまた──
凍りついたように白い。
マリナがその少女を見つめ続けていると、暫くしてから、その少女が身じろぎを始めた。少女は「うーん……」と、可愛らしい声を出しながら、身体をもじもじと動かし、瞼をゆっくりと開ける。そして上体を起こし、手を挙げて全身を伸ばす。さらに大きな欠伸をした後、少女は傍に立つマリナに向かって、にっこりと微笑んだ。
「おはよう『左腕』。『右腕』の子は上手く回収できたのね」
「……はい」
おはよう。少女はそう言ったが、マリナは少女が眠らないことを知っている。少女は昔から、人間の行動をよく真似る。それが自身には不可能な体験──睡眠や食事といったもの──であればあるほど、少女はムキになってそれを模倣しようとする。
人間に対する劣等感からではない。
人間を超える存在としての意地なのだろう。
そんな少女の子供じみた行為に、マリナは愛おしさを覚える。すると少女が「あっ」と、マリナの右手に握られている、黒い棒状の物体を指差した。
「灼熱の刀。それも回収してくれたのね」
「はい。もとより、この刀はモースで作られたもの。マリナの回収ついでにと」
「マリナ?」
「『右腕』に付けられていた名前です」
少女は「ふーん」と興味なさげに呟く。
「まあいいや。取り敢えずそれは、『左腕』のあなたが持っていて。後で元あった場所に戻しておくけど、今はすぐにでも、やらなきゃいけないことがあるわ」
「では……」
少女は、黄金の瞳を輝かせて、言う。
「うん。『四肢』を全部、あたしに戻す」
少女の言葉に、マリナは──マリナの身体を支配した『左腕』は──恭しく頭を下げた。
「承知しました。母上」
リディの意識は、氷の床に辿り着き、モースを発見した辺りから、プツリと途絶えている。そして次に意識を回復させた時、彼女はすでにモースの街の中にいた。
だが、その間の記憶がないわけではない。意識をなくしてから、自分の身体が何を見て、何を聞き、何を喋ったのか、それは鮮明に思い出すことができた。そのため、彼女は寄生生物スノーの存在を知ることができたし、また、自分の身体が──自分の身体に侵入した存在が──マリナに、どれほど残酷なことをしたのか、それを知ることができた。
リディの記憶は、氷の床からモースへと落下した時点で途切れている。その後マリナがどうなったのか、彼女は知らない。だが、リディの最後の記憶に焼きついた、マリナのひどく怯えた表情が、彼女の気を急かす。
マリナを助けなければならない。
そのためには、マリナが現在どういう状況にあり、どのような危機が迫っているか、あるいは、危機に陥っているのか、知る必要がある。だからリディは、彼女を救ったという、上半身裸の男に助言を求めることにした。リディの身体に侵入した存在、そしてマリナの正体でもある寄生生物スノー。同じスノーであるこの男ならば、一連の出来事について何か知っているのではないかと、考えたからだ。
リディは男に、今までの経緯を事細かく説明した。男はそれを真剣な面持ちで黙って聞く。そして、リディの話が終わると、男は大きく息を吐き呟く。
「そいつはまた……難儀な話だな」
すると男は腕を組み、スッと目を閉じると沈黙してしまった。そんな彼に、リディは急かすように言う。
「お願いです。モースで何があったのか、教えて下さい。こうしている間に、またいつ、あたしがあたしでなくなっちゃうのか、分からないんです」
「いいや、取り敢えずその心配はねえぞ。リディちゃんよ」
男は閉じていた目を開くと、手をひらひらと左右に振る。
「さっき確認した。リディちゃんの中にいた奴は、もう出て行っているさ。痕跡一つ残さずにな。相変わらず手際がいい野郎だよ」
男は憎々しげに、チッと舌打ちをした。彼のその反応を見て、リディは尋ねる。
「あたしの中にいた人が誰か、あなたは知っているんですね?」
男は少し躊躇したものの、素直に頷いた。
「リディちゃんの中に入り込んでいたのは、恐らく『左腕』の野郎だな」
「『左腕』?」
「奴の部位さ。ちなみに俺は『左脚』。あと『右脚』もこのモースにいる。リディちゃんのダチだっていうマリナは、恐らく『右腕』だな。そんで、それぞれ四つの部位を合わせて『四肢』と呼ばれている」
「呼ばれている? 誰にですか?」
「母上さ」
母上。リディの身体に侵入していた──『左腕』と言ったか──がマリナとした会話の中にも、同じ単語が現れた。リディたちが一般的に使用する、自分を産んでくれた女性と、同じ意味合いで使用されているのだろうか。どうにもリディには、彼らが言う母上は、それとは異なる含みを、持っているように感じられた。
「あの……『左脚』さん……でいいでしょうか? そのスノーの存在も含め、モースの秘密を教えて下さい」
男は顔を伏せると、再び長い沈黙に入った。そして一分程経過した後、顔を上げる。彼の眼光が鋭く尖り、リディを射抜いた。
「……リディちゃんは『右腕』のダチだって言ったね。あれ、マジで言ってんの?」
「……どういう意味ですか?」
「俺たちゃ見ての通り、リディちゃんたち人間とは違う。どちらかといえば、人間の身体に寄生するんだから敵だと言ってもいい。リディちゃんの言うマリナも、その意図があったかなかったかはさておき、人間の身体を奪って生活をしてきたんだ。そんな人間から見れば化け物の俺たちを、リディちゃんは本当にダチだって思えるのか?」
男の質問は、リディが無意識に避けようとしてきた問題だった。リディの知るマリナの姿は、本当の彼女の姿ではなかった。彼女のあの美しい姿は、マリナが寄生して奪った身体であり、元は別の人間の身体だったのだ。マリナの正体は実体のない寄生生物で、人間から見れば自身の身体を奪う敵であり──化け物だ。
それを恐くないと言えば、嘘になるだろう。実際、リディは寄生生物スノーによって、一度身体を奪われているのだ。自分の意識がドロドロに溶かされ、魂までも奪われていくようなその感覚は、今思い出しただけで、身体が震えてしまう。
だが──それでも、マリナを放っておくわけにはいかない。リディが最後に見たマリナの表情が、自身の正体を知り絶望するマリナの表情が、誰かに助けを求めるように歪んだマリナの表情が、記憶に焼きついて離れない。
ビックフットからリディを護ってくれた、強く凛々しいマリナ。
村人と酒を飲み、笑い、喧嘩し合う、明るく無邪気なマリナ。
森のキャンプで、温泉や美味しい食事について語り合い、未来を夢見たマリナ。
その全ての彼女を、リディは大好きになってしまったのだ。だから、見捨てていくことなどできるわけがない。
「あたしが……マリナを本当に友達と思っているのか……あたしにも分かりません。でも、まだ彼女の近くにいてみたい。彼女のことをもっと知りたいんです。だから、このまま彼女を見捨てて帰るのは絶対に嫌なんです」
リディは、自分の気持ちを男に偽りなく話した。それはきっと、男が望んだ百パーセントの答えではなかったはずだ。しかしリディ自身が、マリナに対する想いと覚悟を、言葉にして明確にしておく必要があった。自分がどうして、マリナをこんなにも助けたいと願うのか。それに迷うことがないよう。
男はリディの言葉を聞き、暫く何かを考え込むように、腕を組んだままジッと黙り込んだ。そして小さく呟く。
「参ったな。気に入っちまった」
男は猛獣を思わせる豪快な笑みを浮かべ、リディに言った。
「いいぜ。ここモースで何が起こったのか、俺の知っていることを教えてやるよ」
マリナの姿をした『左腕』は、母上のいるコンサートホールを離れ、モースの街を散策していた。彼の目的は二つ。一つは、街にいる『右脚』と『左脚』を見つけ出し、母上の意向を伝えること。そしてもう一つは、ある少女の生死を確認することだ。
その少女は『右腕』と行動を共にして、ここモースを訪れた。『左腕』は少女の身体に潜みながら、その動向をつぶさに観察し、時期を見て少女の身体を支配し、『右腕』の回収を成功させた。しかしその際、少女の身体をモースへと落としてしまうアクシデントがあったのだ。モースを覆う天井から地面までは約三十メートル。この高さから装備もなく落下した少女が、生存している可能性は万に一もないと言えるだろう。だからこそ、『左腕』は少女の生存確認は後回しにし、母上への報告を優先した。今でも、その判断に誤りはなかったと思っている。しかし──
(どういうことだ?)
少女が落下したと思われるその近辺を調べても、少女の死体を発見することはできなかった。モースの現況を考慮すると、死体がないこと自体はあるいはあり得るだろう。だが、少女の血の跡がどこにもないのは、不可解としか言いようがない。
(まさか……生きているのか?)
考えにくいが、死体を発見できない以上、その可能性も考慮せざるを得ない。そしてそれが事実であるならば、早急に対処しなければならない。つまり──
(見つけ出して、始末する)
『左腕』はそう決意すると、白いワンピースを翻し、その場を後にした。