寄生型人工生命体スノー(1)
ここは夢の中だ。
リディはそれを確信した。理由は二つある。一つは自分の身体が自分の思い通りに動かせないこと。そしてもう一つは、その世界が背景のない、真っ白な空間に浮かんでいること。だから彼女は、それを夢の中であると認識することができた。だがしかし、裏を返せばそれ以外の感覚、触感や匂い、空気の味は、現実のそれと区別がつかないほどに、確かな実感を伴ったものだった。
夢の中に登場する人物は二人。まずはリディ自身だ。彼女はいつもの防寒着、ニット帽とネックフォーマ、厚手のダウンにモコモコの手袋、裏地に合成毛皮を貼り付けたパンツに、男性もののブーツを履いている。そしてもう一人が、雪女マリナだ。彼女は、腰まで伸びた白髪に黄金の瞳、透き通る白い肌に白いワンピースを着ている。マリナの右手には白銀の刀が握られ、そこから淡い光が放たれている。リディがよく知っているマリナの姿だ。ビックフットすら退ける、とても綺麗で力強い、幻想的な女性。だが夢の中のマリナは、少しだけいつもと違っていた。
夢の中のマリナは、眉を歪め、見開かれた瞼の奥で、瞳を震わせていたのだ。その表情は明らかに、怯えていた。お化けを見て怖がる子供のように、濁りのない恐怖が、彼女を震わせている。それは、リディの知る、強い彼女には、似つかわしくない姿だった。
(どうしたの? マリナ)
リディはそう喋ったつもりだった。しかしリディの声は実態を持たず、ただ自分の中で反響するだけに留まった。マリナのところまで駆け寄ろうにも、脚は動かない。リディは自分の身体で動かせる部位がないか、一生懸命に探し始める。すると突然、自分の右腕が上がり、マリナに向けて手を差し出した。
(?)
これはリディの意志ではない。彼女とは別の意志が、リディの身体を操っている。まるで自分の中に、別の誰かが入り込んでしまっているように。そんな不気味な想像に、リディは心の中で、背筋を粟立たせる。
そして突然、リディの右腕が伸び、怯えるマリナの身体に突き刺さった。
(マリナ!)
リディは絶叫した。リディの右腕はマリナの腹部に深々と突き刺さり、背中から飛び出している。リディは自分の右腕を引き戻そうとするも、相変わらず彼女の身体は、彼女の意志に従ってくれない。リディは泣きたい気持ちになった。実際、心の中ではボロボロと大粒の涙を溢していた。だがリディの身体は、苦しみもがくマリナの姿を、乾いた眼で見つめるだけだった。
マリナに異変が起こる。マリナの頭部がどろりと溶け始めたのだ。氷が高温に晒され溶かされていくように、ぼたぼたと水滴を落としながら、頭部がその形を崩していく。マリナが苦しそうな声を上げる。頭部の半分が溶けてなくなると、今度はマリナの手足が、頭部と同じように溶け始める。マリナが自分を抱きしめるように、身体に腕を回す。崩れゆく自分の身体を、必死に支えようとしているのだろうか。だがそんなマリナの抵抗むなしく、彼女の身体は急速に溶け落ち、地面に大きな水溜りを作っていった。
そして、マリナは完全に溶けてなくなってしまった。
(夢だ! 夢だ!)
リディは心の中で、顔を手で覆って叫んだ。これが夢だということは、始めから分かっていた。だが痛いほど締め付けるこの胸の痛みに、リディは半狂乱になって叫び続ける。
(覚めろ! 覚めろ! 覚めろ!)
唐突に視界がぼやけ、世界が薄れてくる。全ての感覚が希薄となり、取り留めがなくなっていく。
リディの意識が霧散した。
リディは目を開けると、芯まで冷え切った身体を一度震わせる。リディは氷の床にうつ伏せになって眠っていた。その氷の底には、見たこともない都市が広がっている。死霊都市モースだ。リディは幾度か瞬きを繰り返すと、億劫そうに身体を起こした。白い息を吐き、自身に問い掛ける。
「えっと……どうなったんだっけ?」
夢の中とは異なり、自分の意志で声も出せ、身体もしっかりと動かすことができる。それに安堵しながら、リディは眠る前の記憶を掘り起こそうとする。だが上手くはいかなかった。頭の中にその記憶があることは実感できるのだが、まるでタールに沈んでいるかのように、それを引き上げることができない。
「……マリナ?」
一旦記憶を掘り起こす作業は諦め、リディはマリナの姿を探した。何があったにせよ、マリナに事情を訊くのが一番手っ取り早いと考えたからだ。視線を巡らし、周囲を探る。
マリナはすぐに見つかった。
「マリナ!?」
マリナは氷の床にうつ伏せに倒れ、気を失っていた。リディは慌てて彼女の下に駆け寄った。だが駆け寄りながらも、リディはマリナの姿に違和感を感じていた。その違和感の正体は、マリナの傍に辿り着いた時、明確となった。
氷の床に倒れているマリナ。そのマリナは髪が黒かったのだ。肌の色もマリナほど白くはない。それに服装も、いつもの白いワンピースではなく、一般的な防寒着であった。
そこでリディは気が付いた。
彼女はマリナではない。
彼女は母親である──アリア・コルトーだ。
「お……母さん?」
何故、母親がこんな場所に倒れているのか。頭が混乱する。リディは屈み込むと、アリアの身体にそっと触れ、彼女を揺すった。アリアに反応はない。肩が激しく上下する。動悸が昂り、心臓の音が耳の奥で反響する。
これは、一体何なんだ。
リディは気を落ち着けようと、アリアから手を離す。すると──
その手が真っ赤に染まっていた。
「え?」
いつの間にか、アリアの腹部に大きな穴が空いていた。そこから流れた血が、アリアの服を赤く染め、氷の床に大きな血溜まりを作っていく。
「お母さん!」
リディは咄嗟にアリアの腹部に手を押し当て、彼女の身体から血が溢れないようにする。だがそんなことで出血は止まるわけもなく、見る見るうちに、血溜まりが氷の床に大きく広がっていった。
「お母さん! 嫌だ! お願い! 死なないで!」
ドクドクドクドクと、アリアから血が溢れていく。リディは泣きながら、アリアの血で真っ赤に染まった手を、必死にアリアの腹部に押し当てる。
アリアの温かい血が──
リディに染み込んでいく。
アリアの血に染まった赤い手。
アリアの絶望に染まった赤い手。
リディは悲鳴をあげた。
「いやああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
そしてリディは、夢から覚めた。
リディが目を覚ました時、まず初めに見えたのは灰色の天井だった。リディは眠気まなこのまま、ゆっっくりと上体を起こす。彼女にかけられた毛布が、ふわりと捲れ上がる。リディは毛布を指で摘み上げると、怪訝に眉をひそめ、ぐるりと周囲を見回した。
そこは簡潔に言えば、灰色の箱の中だった。まるで、一つの大きな石をくり抜いて作られたように、つなぎ目が見当たらない直方体の部屋。縦横が五メートルと十メートル、高さは二メートル強ほどだろうか。その部屋には、一辺が一メートルほどの窓──ガラスは入っていない──があり、そこから光が部屋に差し込んでいた。そしてその窓の向かいには、人が二人並んで通り抜けられるほどの、廊下へと続く出入口がある。
その出入口には、リディを見下ろすように立つ、一人の男がいた。
「なんかスッゲエ声が聞こえたと思えば、どうやら目を覚ましたようだな。嬢ちゃんよ」
そう言うと男は、ニカっと野生的な笑みを浮かべ、ずかずかと大股でリディに近づいてきた。奇妙な男だった。吊り上がった目尻に高い鼻。笑顔から覗く異様に伸びた犬歯。上半身は裸で、発達した筋肉が男の輪郭をなぞっている。レザーのパンツに鋲が打たれたブーツ。そして──
短い白髪と黄金の瞳。
いつの間にか、ニット帽をなくしてしまったようだ。リディのセミショートの黒い癖毛が寒気に晒され、パサパサになっている。彼女は、捲れた毛布を胸の前に寄せると、大きく息を吸う。肺に送り込まれる冷たい空気に、改めて彼女は寒さを実感した。
この凍えるような寒さの中、上半身裸の男は、身震い一つすることなく、軽い足取りでリディに近づいてくる。その様子から、リディは男の正体に、何となく当たりを付ける。
男はリディの前まで来ると、膝を曲げて屈み込み、リディの目を見つめてくる。リディが不思議そうに目を瞬かせていると、男は「ふむ」と、納得したように、膝を打った。
「やっぱ、ただの人間だよな。もしかしたら連中が別の身体に入っているだけかと思ったが、純度百パーの生人間だ」
「生人間?」
リディは疑問符を浮かべ、男の言葉を繰り返した。男は頭を振り、「いや、こっちの話だ」と、リディの疑問を受け流す。
男は再び立ち上がると、近くの壁に寄り掛かって、腕を組んだ。そして欠伸混じりに、リディに話し掛けてくる。
「さて嬢ちゃん。あんたが何者か話してもらおうか?」
「……あの……誰ですか、あなた? それに、あたしはどうしてここに?」
「おいおい、質問しているのは俺の方なんだがね」
男は白髪を掻きながら、呆れたように肩をすくめた。
「まあ、いいか。俺は嬢ちゃんの命の恩人ってやつさ」
「……命の恩人?」
「ああ。天井から降ってくるあんたを、俺が助けた」
「天井……」
リディは視線を上げ、灰色の天井を見つめた。男は「違う違う」と首を振り、指を上に立てて言う。
「この部屋の天井じゃなくて、この街、モースを囲っている透明の天井のことさ」
「モース……モース!」
リディは毛布を跳ね上げ、立ち上がった。
「ここってあのモースなんですか!? 死霊都市モース!?」
「ん……死霊都市……てな分からねえけど、モースはモースだな」
リディの迫力に、男が目を丸くする。リディは近くの窓に駆け寄ると、そこから頭を突き出し、部屋から外の景色を眺めた。
高さ十メートルはあるであろう、直方体のシンプルな建物が軒を連ね、その建物の側面に等間隔に窓が並ぶ。建物の隙間を舗装された道路が縦横に奔り、用途不明な直方体の箱がそこらに転がっている。さらに空を見上げると、街全体を覆う氷の天井が見えた。
レルミット大陸では見られない景色。そこは間違いなく、死霊都市モースの景色だった。
「ついに……来ちゃったんだ」
リディは異郷の景色を眺めながら、呆然と呟いた。
モースに辿り着いた時、リディはもっと大きな感動が湧き上がってくるものと思っていた。だが実際その地に立ってみると、感動というよりは困惑の方が大きかった。これは気を失い、彼女の知らぬ間にモースに到着してしまったためなのだろうか。正直、モースが底に眠る氷の床を見つけた時の方が、その喜びは大きかったぐらいだ。
リディが窓から外を覗いていると、男が近づいてきて、彼女の隣に立った。男は今いる場所から、少し離れた箇所の氷の天井を指差し、リディに言う。
「ほら、そこら辺から嬢ちゃんは降ってきたってわけだ。もう天井は再生されちまって傷一つ残っちゃいないがな」
「あんな高いところから……」
リディの呟きに、男は胸を張って陽気に応えた。
「おうともよ。俺が偶然通り掛って助けてやらなかったら、嬢ちゃんは間違いなく地面に激突して、ぺしゃんこになっていたぜ? 命の恩人と言っても、間違いじゃねえだろ?」
それが事実なら、確かにこの男はリディの命の恩人なのだろう。だが、あんな高いところ──地面から氷の天井まで三十メートルはある──から落ちた人間を、助け出すことなど、普通の人間には不可能だ。
もっとも、その点についてリディは男の話をさほど疑ってはいなかった。なぜなら、その普通の人間には不可能という問題に対しての回答を、すでにリディは得ていたからだ。彼女は、自分の隣で氷の天井を指差す男を、ジッと見つめた。男が、リディの視線に気付き、彼女を不思議そうに見つめ返す。
「……どうした?」
「あなた……スノーって言う、寄生生物ですよね?」
男の目が見開かれた。男はバッとリディから身を引くと、腰を落とし構える。
「嬢ちゃん、なぜそのことを知っている?」
男が警戒心に満ちた声音で、リディに問い掛ける。リディは、男から向けられる敵意の視線に晒されながら、ゆっくりと男に向き直った。そして、男に頭を下げる。
「お願いです。ここで──モースで何が起こったのか、あたしに教えてください」
意外なリディの行動に、男がキョトンと目を瞬かせる。リディはそんな男の反応は気にせず、黙って頭を下げ続けた。その彼女の態度に、男が戸惑いながらも、構えを解く。そして頭を掻きながら、男が質問する。
「モースで何があったか……ね。あまり大っぴらにされちまうとまずい理由がこっちにもあるんだが……嬢ちゃんはなんでそれが知りたい?」
「絶対に口外しません。だからお願いします。ある人を助けるためには、あたしはここで何があったのか、知らなきゃいけないんです」
「ある人?」
リディは「はい」と返事をすると、下げていた頭を上げた。真剣な眼差しで男を見つめ、自身に決意するように、彼女は言う。
「大事な友達を助けたいんです!」