08
まるで夢をみるようにぼんやりと湖を見つめる伯爵は、ラウラの声に気が付いていないようだった。
ゆっくりと湖畔に近づき、そして
「危ない!」
「……え」
ラウラの手が、伯爵の肩を押さえる。足首まで水につかった状態で足をとめた伯爵はぼんやりとした眼をラウラにむける。
一体、何をしているのかとでもいうかのように。
「なにやってんのよ! 死にたいの!?」
「……離せ」
押さえるラウラの手を振り払い、伯爵はずんずん湖へと進む。水はくるぶしから膝までかかる。
ラウラは歩く伯爵の背後にかじりつくように押しとどめる。
「離せっていわれてはいそうですかって言えるか! アホー! 水浴びしたいなら昼間にしろっ!」
懸命に押しとどめるが伯爵の足はとまらない。ラウラを引きずるように湖の中へ中へと進んでいく。ラウラの体も水の中へと引きずりこまれる。
「どこにこんな力が」
やせ細り、力なんて全然ないように見えたのに。
まるでラウラの力などまったく関係ないよう。このままでは溺れてしまうのも時間の問題だ。ならば――ラウラは伯爵から手を離し、腰にさげた剣を鞘ごと引き抜く。
どうも伯爵はまともではない。
ならいっそのこと気絶させた方が早い。
ラウラは柄をふりかぶり、伯爵に振りおろす。が、其の瞬間、ラウラの体が吹き飛ばされた。湖に背中からたたきつけられ、痛みに開いた口に一気に水が流れ込んでくる。苦しさのあまりに水面に浮かびあがろうとした彼女の体を何かが押し込めた。
(な、なにっ!?)
指が水を掻き、足が跳ねる。だが、体は浮き上がらない。
いや、浮き上がらないのはない。
(誰かが体を……!?)
がばり、と口から空気が零れ落ちる。激しく揺れる水面に映るのは――伯爵ではない。
(女……、幽霊の……?)
一瞬浮かんだその考えは、すぐさま打ち消される。
水に映ったその女はアルマントの部屋をじっとみつめていた女ではない。黄金色をした髪を高く結い上げ、細面の顔を知らぬ顔だった。美しい事は美しいが、その表情に浮かんでいるのは強い憎しみ。
「おまえさえ……おまえさえいなければ……!」
美しい色をつけた女の爪がラウラの首に食い込む。
ゆらゆらゆれる水面越しに見える女の顔はまるで鬼のようだ。いや、鬼よりもさらに悪い。それに
(なんなのよ、この馬鹿力!)
一応は剣士として力仕事もそれなりにしてきた。エンジュが「俺は頭脳派だ。肉体仕事はお前だ」というから男も負けないいきおいでいろいろやってきたというのに。それなのに。なんなんだ、あんな細い腕一つ払うことができないなんて。
(くそおおおお!!)
ラウラの口からごぼりと空気がこぼれる。
もう息もほとんどない。苦しさも超え、意識が遠のく。目が霞み聞こえるのは水音だけ。女の顔がゆがんで見えるのは、水のせいなのかもうはっきりとはしない。懸命にもがく指先から力が抜け、ゆっくりと沈んでいく。
(……あたしの……こども)
聞こえるはずもない声が、聞こえてくる。
いや、聞こえているのではない。頭に直接語りかけてくるのだ。
(あたしの……こども……、どうしてこんな……ことに)
子供? 消えてかけたラウラの命が再び燃え上がる。
「くああああ!」
喉も裂けんばかりに声をあげ、ラウラは立ち上がる。息はあがり、ふらつくが彼女はなんとか息を吐きあたりを見回す。
だが、女はいない。
「どこだ……っ、ふざけたまねをっ」
ぼたぼたと雫を滴らせながら、ラウラは大きく叫ぶ。だが、そこにいたのは茫然と湖をみたままの伯爵とそして光の塊。
幽霊だ。
ラウラはさっと腰に手をやる。だが、剣は湖に沈んでしまいそこにはなかった。小さく舌打ちし、ラウラは伯爵を背にかくすように幽霊の前に立ちはだかった。
「あんたか! さっきのふざけた真似してくれたのは」
光は小さく頭をふったように見えた。
「違うのか」
光はうなずく。
「なら」
と、その瞬間、ラウラの背後にいた伯爵が悲鳴を上げ、湖の中に転がった。激しい水音にラウラは振り返る。
先ほどまでのゆめうつつの眼ではない。
眼がこれ以上ないほど大きく開き、口からは泡を拭かんばかりに怯えている。
伯爵は頭をふり、ラウラを。いや、ラウラではない。彼女など今の彼の眼には入っていない。怯えた眼がとらえているのは彼女の向こうにいる光の塊だ。
「違う……違う、わしのせいじゃない……」
よほど気が動転しているのか。開けた口に水が入ろうとまったくわかっていない。ごほごほむせかえりながら、伯爵はがたがたと震える。
「あれは……妻が……妻がしたことだ……」
「伯爵! 何を言ってるんだ。しっかりしろ!」
ラウラが伯爵の胸倉をつかみ、水から引き上げる。そして彼の頬をしたたかにたたいた。たたかれたそこはたいそう赤くなっていたから、よほど痛かったはずだ。だが、伯爵は茫然としたまま光を見つめるばかり。
「あれを連れさったのは妻だ……わたしではない。わたしは反対したのだ……子を連れ去ろうなどとは」
「は?」
今、奴は何を言った?
驚愕に目を見開くラウラに、伯爵は光をみつめたまま言葉を続ける。
「あれは……あれは、……子ができない……だから」
「まさか……あんた」
ラウラは掴んでいた手を離し、光に振り返る。
じゃあ、先ほど見た光景は。そして彼女はまさか……。
「まさか……あんたは……」
光がゆっくりと形をかけ、女へと変わる。その面はとても美しく、アルマントにとてもよく似ていた。まるで子のように。
「じゃあ……もしかして」
「そう。アルマントの実の母親だよ」
答えた声にラウラは振り返る。と、湖畔にたたずむのは
「エンジュ……」
ラウラは息をのむ。エンジュの傍らに立ちつくしているのはアルマントその人だった。女に瓜二つの顔で、湖の中で茫然とする自らの父を、そしてすでに人の形をとどめていない母を信じられないといった様子で見つめていた。
「……今のって、どういう意味」
ゆるゆると頭をふるアルマントに、ラウラはあの、と声をかける。しかし、それ以上何を言っていいのか、わからなかった。
そんなラウラの様子にエンジュはため息をつく。
「お前、似てないだろ。父親にも母親にも。そう思っていたんだろ」
「……し、しかし……」
「ま、似てない親子もないわけじゃない。俺は今回のことを調べているうちに、十六年前にある親子が突如失踪したという話をつかんだ」
「失踪?」
きょとんとするラウラに、エンジュは顔をしかめる。
「……で、お前、そんなところで何、やってんだ?」
「い、いいじゃん。べつに! で、失踪した親子がアルマントなの? 」
「いや、違う」
エンジュは頭をふる。
「はああ?」
「親子は見つかったんだ」
「見つかった!? 今、どこに!?」
「墓場あたりじゃないか? 遺体となってな」
しれっと答えるエンジュに、ラウラははあ? と眉をよせる。l
「遺体って……あんた……まさか」
「失踪して十日もたっていたし、見つかったのは湖の底。長いこと水につかっていたせいで腐敗も酷くて本人とわかったのも、最後に立ち寄ったという宿屋の女将が彼女が着てた服に見覚えがあったということだけ」
「……じゃあ、もしかしたらその二人が偽物かもしれないってこと?」
「さあな」
肩をすくめ、エンジュは湖を見る
「彼女かもしれないし違うかもしれない。ただ、あの幽霊はおそらく誰かに何かを伝えたかったんだろ」
「誰……に」
ラウラの呟きに、アルマントは湖を見つめた。
相変わらず伯爵は湖にへたりこんでいた。目はうつろで、最初に会った時のような傲慢さはもうどこにも見えなかった。もしかしたらすでに意識はこの世界には無いのかもしれない。すでに意識は現にはないのかもしれない。
「何を伝えたかったんだろう」
ぽつり、と呟くアルマントに、エンジュはさあなと肩をすくめた。
「それは本人にしかわからないことだ。だが、もう十分伝わったんじゃないのか?」
「え?」
「なあ、気がついていたんだろ?」
エンジュの言葉に、アルマントは思わず振り返る。そしてややあって、ゆっくり息を吐き出すと再び視線を湖へと向けた。
「結婚したら私はこの地を去ることになる。ありがたいことに王妹の夫として所領がもらえるらしいからね」
「へえ……それは、玉の輿」
「ラウラ!」
エンジュの声に、ラウラはしまったというように口をつぐむ。が、それをアルマントは頭をふって押しとどめる。
「別にかまわない。本当のことだからね。実際、彼女は私などが結婚できるような相手ではなかったからね」
「そっか」
ラウラは呟き、アルマントの視線を追う。
「ちゃんと、伝わったんだね。言いたいこと」
光はすでに人の形をとどめてはいない。ゆっくりと崩れ落ちていく光が、湖に散っていく。最後にのこされた顔がゆるやかな笑みに変わる。
穏やかな頬笑みがアルマントにむけられ、唇がゆっくりと動く。
(わたしの……こども……)
「かあ……さん」
アルマントの言葉に、光が砕け散る。粉々になった光は湖面をすべり、湖底へと沈んでいった。
そしてその日を境に、幽霊はふっつりと姿を現さなくなった。