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水妖の涙  作者: 蒼野理人
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05

 翌日も翌々日も幽霊は出た。だが、出るだけで、幽霊が何をするでもない。ただ、屋敷を見つめるばかり。


「どーなってんだろうねぇ」


 もしゃり、とパンをかじりながら、ラウラは茂みから湖を見つめる。一日目、二日目までは驚いたり、怯えたが三日目ともなるとさすがのラウラでも慣れた。何しろ、彼女は何もしない。ただアルマントの居る部屋を見つめるだけなのだ。

 ラウラは調理場から失敬したパンをかじりながら、ため息をつく。


「エンジュじゃないけどさ。いっそのことこう、なんかしてくれないとこっちも暇なんだけどなー」

「ラウラ」


 茂みの上にある窓ががたり、と開き、中からエンジュが顔をのぞかせる。


「物騒なことを言うんじゃないよ」

「だってさあ」


 むっつりとラウラは口をとがらせる。

 ここで幽霊をぼうっと見ていても彼女は消えるどころか、毎日律儀に現れる。そのたびに伯爵はヒステリーを起こし、召使いたちは怯え、屋敷は日に日に暗くなるばかりだった。 正直言って、幽霊のあの妙な光のほうがまだましという感じだ。


「もう飽きたよ……毎日毎日湖見てさぁ」

「いいじゃん。王妃の涙見放題だよ。それも夕食付で」

「はあ? これが!?」


 ラウラは持っていたパンをつきつける。昨晩もまた伯爵が怒り狂ったせいで屋敷は酷い有様になっていた。その片づけに召使たちは追われ、昼食は残り物のパンだけ。それも買い物にいく暇すらなかったようで、まるで石のようなものしかない。


「かじっているうちに次の日になるわよ! それよりもどうなの? 何かわかったんでしょうねぇ」

「いや」


 エンジュは頭を振る。


「見事なものだ。親父はともかくとして、アルマントの方は口ではああ言っていたが、清廉潔白。たたいても埃一つでてこない」


 そう言い、エンジュは窓枠に肘をつきため息を落とす。


「捨てた女の一人かと思ったんだけどな。王妹に鞍替えされた恨みつらみがたたって、いっそのこと呪い殺してやろうかとでも思ってるのかと思いきや」

「エンジュ……、あんたねぇ。もっと物の良いようがあるでしょうが」


 エンジュは肩をすくめる。


「とにかく、奴には原因らしい原因がない」

「じゃああれはなんだって……」


 ラウラはパンをかじりながら、湖を見る。女の姿が消えてだいぶたつ。今日もあの女はただひたすらアルマントを見ているだけ。何もしない。


「まさかたまたまここに出て、そしてたまたまアルマントを見ているだけってことはないでしょうねぇ」

「あり得ない話じゃないな。それで、今までたまたま追い払われなかっただけというオチだ」


 瞬間、ラウラはパンをもったまま、ぐっわああああ! と声をあげ頭をかきむしった。


「なんなんだ、そりゃ! そんなアホな話しのためにあたしゃ、こんなところでパンかじってなきゃいけないのかああ!」

「五月蠅い、ラウラ。夜だぞ」

「だって!!」


 エンジュは手をあげて、ラウラの泣言を押しとどめた。


「アルマントなら、と言っているだろう」

「え?」


 ラウラは驚いたように目を開く。


「それって」

「親父は見事なまでに真っ黒だ。いろんな意味でな」

「じゃあ……あの人は」

「おそらくな」


 でも、とラウラは押し黙る。見ているのはアルマントの部屋だ。父親のほうを襲えばいいものを。


「どういうことだろ……」

「もう少し調べないとわからないがな。まあ原因は親父の方だということだろう」


 エンジュの言葉に、ラウラは顔をしかめて頭をふった。


「あーあ、男ってやあねえ。ほんと、どいつもこいつも。アルマント様みたいな人がいるってのが奇跡みたいね」


 ぱんぱん、と尻をたたき、ラウラはくるりと踵を返す。そして腰にあった剣に手を添える。柄に巻きつけた布がしっくりと掌になじむ。


「あたしはなんだかあの女の人が悪い人のようには見えないの。エンジュとは違ってね」


 湖をすっと見つめる。湖はあいかわらずさざ波たち、湖畔を波が押しては返す。


「それは同情かい? ラウラ」

「さあね」


 ラウラはさっと髪をかきあげる。

 分厚い雲がわずかに隙間ができ、月光が一筋差し込む。その光が、ラウラの髪をまるで黄金のごとく輝かせた。


「勘だよ……エンジュ」

「やれやれ」


 肩をすくめ、エンジュは窓辺から離れる。


「とりあえず俺はもう少し探る。それまで自重してくれるとありがたいんだけどね」

「一応、考えておくわよ」

「一応じゃない。きちんと覚えておくんだ」


 立ち去るエンジュを見送り、ラウラは再び湖をみる。

 女を形作った光はもうない。あるのは雲間を縫うように差し込んだ糸のように細い細い一筋の月灯りだけ。

 あの女はどうして毎夜ここに現れてアルマントを見ているのだろう。何をするでもない、ただじっと見つめるだけ。


「いや、何もしてないわけじゃないか」


 ラウラはちらりと笑う。

 彼女がしている唯一のことといえば、伯爵親子をこの地にとどめているだけだ。ラウラは湖畔にしゃがみこみ、大きく息を吐く。


「ねー……、何考えてんのよ、あんたさぁ」


 言いたいことがあるならさっさと言えばいいのに。

 何か理由があるなら、聞いてあげるぐらいはするのに。

 ラウラの言葉に、湖は何も答えない。あいかわらず揺れてばかりだ。


「あーあ、何いってんだろ。あたし」


 ラウラは小さく笑みをうかべ、そっと立ち上がる。と、屋敷の二階の一室にゆれる人影があった。

 アルマントの部屋だ。部屋のカーテンは開け放たれ、そこからアルマントがこちらをじっと見つめていた。いや、


「違う……」


 見ているのはラウラではない。その奥に広がる景色。湖だった。

 まるで誰かをさがしているかのように、じっと湖を。


「待っている……? ……まさか」


 はっとしたように顔をあげたラウラは、一路屋敷にむかって走り出した。先ほどまで開いていた窓をのりこえ、薄暗い廊下をかける。階段をかけあがり、ノックもせずにラウラは扉を蹴破るように開けた。


「やあ、……どうしたの? そんなに勢い込んで」


 ラウラが来ることを予期していたのだろう。アルマントは窓を背に、にこやかにほほ笑んでいた。


「やあ、ラウラさん。私に何か?」

「アルマントさん。あの……今、何を見ていたの?」

「見ていた?」


 アルマントは不思議そうに首をかしげる。ややあって、ああと声をあげた。


「ああ、いつもの幽霊を見ていました」

「ゆ、幽霊を!? あああ、あんた、全然怖くないのっ!?」


 仰天したように目をむくラウラに、アルマントはくすくすと笑いだす。


「怖い……ああ、そうだね。普通は怖いかもしれないね」


 でも、とアルマントは呟くようにいい、窓辺へと寄る。


「でも、私は不思議と怖いとは思えないんだ」

「思えない? だって、あれは幽霊で、妙なことをして王都に帰してくれないんでしょ」

「そうだね。でも、別に、帰れなくてもかまわないんだ」


 アルマントの顔からはじめて笑みが消える。


「かまわない? だって、結婚するんでしょ?」

「ああ、そうだね」

「そうだねって」


 まるで人ごとのようだ。

 結婚にたいする考えがラウラたちとは違うといっても、本来喜ばしいことではないのか。特にあの王妹は――ラウラは窓辺にあった絵を見る。まだあどけなさがのこる少女だ。おそらくラウラとさほどかわらない。でも、彼女は見るからに幸せそうだった。そんな彼女をアルマントはさっきから――いや、さっきからではない。ラウラがアルマントに初めて会ってからずっと、あの絵を彼は一度も見ていないのだ。


「アルマントさん、あのう」

「彼女は私を好いてくれているようです……ありがたいことに」

「好きじゃないの?」

「好きですよ」


 アルマントは微笑む。


「しかし彼女の好きと私の好きはおそらく違っています。彼女が何を望んでいるのかわかっているつもりです。ですが、私はそれを与えることはできない」


 それを最後まで彼女には理解してもらうことはできませんでした。そう言ってアルマントは疲れたように笑った。


「あの……もしかして、結婚、したくないの?」


 ラウラの問いに、アルマントは一瞬驚いたように目を開く。そしてゆっくりと頭を振り、ため息をつく。


「父は望んでいるようです」

「あなたは?」

「私は」


 アルマントは窓を見る。視線はあいかわらず何かを捜しているようだった。だが、窓からは何もみえない。幽霊もそこにはない。

 アルマントは頭を振り、小さくため息をつく。


「私のことなどどうでもいいんです。ただ、彼女を傷つけることだけが心苦しいのです」


 そう言ったアルマントをラウラは茫然と見つめる。

 今の彼の姿は、絵の幸せそうな少女とはまるで対照的だった。

 そんなに嫌なら逃げちゃえばいいのに。嫌だって言っちゃえばいいのに。喉元まで出かかったその言葉を、ラウラは飲み込む。

 逃げられるものならとっくにしているだろう。

 けど、できなかった。

 そんなアルマントにとって幽霊によって隔離されたこの三カ月はきっと、荒れに荒れている父親とは対照的に、心穏やかな日々だったことだろう。

 だから毎日部屋の窓から見ていたのか。

 今日もあの幽霊が居てくれるかどうか、と。

 もしかしたら、幽霊もそのことを知っているのだろうか。


「あのさ……一つ聞いてもいい?」

「幽霊の正体ですか?」

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