もしもその手に触れられるなら
「くそっ」
生ゴミの腐った臭いが鼻につく明け方の繁華街を、俺は血の混じった唾を吐きながら歩いていた。
「とばっちりもいいところだ」
ブツブツ呟きながら、俺はアパートの鉄階段を上がり、黒いスーツのジャケットのポケットを探る。
鍵を探り当てると、そいつを鍵穴に突っ込み、苛立ちをぶつけるように力いっぱい半回転させ、鉄の扉を押し開いた。
半日ぶりに戻ったワンルームは、昨日の夕方仕事に行く前に食ったカップ麺の臭いがこもり、一瞬吐き気がした。
入ってすぐ左にある簡易キッチンの台に、音を立てて鍵を置き、俺はジャケットを脱いで、部屋の奥のパイプベッドに向かって放り投げた。
ちょっとコントロールが甘かったのか、ベッドからジャケットが滑り落ち、小さく舌を打つ。
「めんどくせ」
ベッドに近づき、ジャケットを拾い上げて身を起こした俺は、思わず息を呑んだ。
「誰?」
誰もいないはずのこの部屋のベッドに、着物姿の見慣れない女が座っていたのだ。
「家まで来るのは、ルール違反っすよ」
一応客かもしれないので、俺は営業用の口調を使った。
「やっと見つけた」
布団の上で正座をした女は、俺の顔を見上げ、絞り出すような小さな声で言った。
その目には、俺に対する憎しみと涙が滲んでいた。
(こんな女、客にいたっけ?)
心当たりを探ったが、その顔に覚えはなかった。
「えっと、前にご贔屓にしてもらいましたっけ? 俺、合鍵は渡さない主義なんだけど、どうやって……」
これ以上トラブルはごめんだと思いながら、俺は改めて女に目を向けた。
「もしかして女優さん?」
よく見れば、なかなかの美人だった。
透き通るような、白く輝く肌と、深い漆黒の瞳を囲む睫毛の長い切れ長の目。
今時珍しいほどの見事な黒髪は、正座をしていても床に付くくらいまであり、肩甲骨の下あたりで紫と銀の糸を織り込んだ紐でゆるく束ねられていた。
横髪は顎下で切り揃えられていて、わかりやすく言えば、よく時代劇で見るお姫様みたいな髪型だ。
そして女は、光の加減で地模様が浮き上がる、鮮やかなブルーの着物を着ていた。
最初はコスプレかとも思ったが、仕事柄質のいい生地の見分けはつく。
女が身に付けている着物は、肉厚な絹を使った高級品だ。
だから俺は、女優が撮影用の衣装のままやってきたのかと思ったのだ。
この界隈の店では、ドラマの打ち上げなどがよく開かれているし、芸能人を見かけることも珍しくない。
「わらわを忘れたか。青竜」
女は、一層憎しみを込めた目で俺を見つめてきた。
「いや、俺、そんな名前じゃねえし。人違いなら出て行ってくれ」
そう言って、俺は女の肩に手をかけた。
いや、手をかけようとしたが、それはできなかった。
見た目には確かに女の肩に触れているはずなのに、俺の手は手応えもなく女の肩をすり抜けたのだ。
「なあ、幽霊って見たことあるか?」
「何それ?新しい女の趣味?」
俺の問いかけに、ケイジはそう言って吹き出し、ロッカーの扉を開けた。
「いや。最近押しかけてきた女が、幽霊なんだよ」
我ながら馬鹿らしい話をしていると思いながらも、俺は話を続けた。
「へえ。それっていい女?」
笑いを堪えるケイジにムカつきつつも、俺はあの女の顔を思い浮かべる。
切れ長の少し影のある眼差しが、俺の脳裏に鮮やかに浮かぶ。
「まあ、結構レベル高いんじゃね?」
「美人の幽霊なら、俺もぜひ取り憑かれたいね」
声を殺して笑い、ケイジは派手なパープルのシャツに袖を通した。
まるで信じていないケイジの様子に少し苛ついたが、俺だってそんな話、他人からされたら笑い飛ばすわな。
「ところで、ミサの件は大丈夫なのかよ」
ふと、ケイジは真面目な表情に戻って、俺の顔を心配そうに見つめた。
「あいつの男、ヤバイやつだったんだろ? この前は途中でサツが来たから一発殴られただけで済んだけど、次会ったらマジでヤバくね?」
ああ、そうだ。
あの変な女が部屋に現れた日、俺はミサの男から思いっきり顔にパンチをくらったんだ。
あの女のせいで、すっかり忘れていた。
「まあ、いいよ殺されたって。俺、この世に未練とかねえし」
「おいおい。そんなこと言わずに人生楽しもうぜ」
光沢のある紺色のジャケットを羽織ったケイジは、ロッカーのドアを閉めながら眉を寄せてそう言った。
「そのためには、まずは金を稼がなきゃな」
親指を立ててニカっと笑うケイジにつられて、俺も思わず苦笑いする。
「さあ、仕事だ。仕事」
ロッカールームの扉を開け、廊下へ出るケイジのあとに俺も続く。
これから俺たちの仕事が始まる。
俺の親父は血の一滴まで腐りきったギャンブラーだった。
日がな働きもせず飲んだくれ、毎夜のように怪しい仲間が安アパートに集まり、賭け麻雀に興じていた。
そして、そんなどうしようもない親父と俺との生活を支えるため、母親は親父の留守中、男を家に連れ込み、売春をしていた。
そんな訳で幼い頃から俺は、夜は酒で荒れた男達の怒号を、昼は母親の喘ぎ声を聞きながら育った。
当然、碌な人間に育たないと自分でも思っていたが、やはり全うな道を歩むことはできなかった。
中学を出た俺は、金も持たずに単身でこの町を訪れ、以来なんとかここまで生きてきた。
つまらねえ悪さは数えきれないほどしてきたが、塀に入れられるのは時間の無駄なので、とりあえず今はホストとして働き暮らしている。
無駄にいいだけだと思っていたこの顔が、結果的にこれまで俺の空腹を満たしてくれた。
「ねえ、リュウ。アフター付き合ってよ」
甘ったるい声を出し、客の女がわざと腕に胸を押し付けてくる。
いつもならなんとも思わないこんな行為が、最近はやたら気に障る。
拒否しているのを気付かれない程度に、やんわり女の腕から逃れ、俺はグラスに氷を落とす。
「すみません。このあとは先客があって」
「え〜。そんなこと言って、女ができたんじゃないの? 最近付き合い悪くない?」
口を尖らせる女の顔を横目に見て、俺は小さく舌打ちする。
厚く塗られたファンデーションも、ぬらぬら光る赤いグロスも反吐が出そうなほど気持ち悪かった。
俺が今まで相手にしてきた女たちは、こんな汚ねえ奴ばかりだったのか。
そう思うと、無性にアイツの顔が見たくなった。
ここ最近、俺は仕事が終わると客からのアフターの誘いも断り、急ぎ足で部屋に戻るようになっていた。
「お帰り。リュウ」
月明かりに青く染まる部屋で、彼女は微笑んで俺を出迎えた。
光にとけ込みそうなほど、透明感のあるその存在に、俺は心を洗われるような気分になる。
これまで汚ねえものだけに囲まれて生きてきた俺にとって、こいつは初めて目にした穢れの無い存在に思われた。
「まだいたのか。碧」
言葉とは裏腹に、俺は心の底からほっとため息をついた。
この女、碧との奇妙な生活が始まって、半月が経とうとしていた。
彼女が幽霊であるということは、初対面の時、肩をつかもうとした手がすり抜けたので、割とすぐに理解できた。
以来不思議と俺は、彼女を気味悪がることも無く、こうして部屋に居座ることを容認している。
いや、それどころか帰宅してドアを開ける瞬間、俺はいつもある恐怖を感じている。
それは、幽霊であるこいつに対する恐怖じゃない。
今日帰ったら、もう消えていなくなってるんじゃないか。
ドアを開ける瞬間、それを確かめるのが怖かった。
いつの間にか、俺にとって碧は、無くてはならない存在になっていた。
「迷惑か?」
「まあ、いいけど」
不安気に問いかける碧の顔を見て、俺は思わず彼女に背を向け、わざと素っ気なく言う。
このまま見つめていたら、こいつを抱きしめたいという衝動が抑えられない。
当然、幽霊である彼女を、この手に抱けないことはわかっている。
でも、思わず手を伸ばして、その事実を実感することが何より怖かった。
碧は戦国時代のある田舎城主の娘、つまりお姫様だったらしい。
恋人だった旅芸人の男を探し、これまでずっとこの世をさまよってきたのだという。
彼女が言うには俺がその男「青竜」の生まれ変わりらしいのだ。
青竜は、旅をしながら金払いの良さそうなパトロンを探し、舞いや歌を披露しては、しばしの寝床と食事を得、寂しい想いをしている女がいれば、金と引き換えに夜の相手もしていたという。
「前世の俺も、今とかわんねえ腐った奴だな」
それを聞いて苦笑する俺に、碧は真剣な顔になって声を荒げた。
「違う! 青竜は誰よりも美しい心を持っていた!」
碧と青竜は、出会った瞬間互いに恋に落ちたという。
だが、お姫様である彼女と旅芸人の恋など許されるはずはなく、ふたりは駆け落ちを決意した。
その約束の場所に青竜が現れず、絶望した彼女は自ら沼に身を沈めたというのだ。
彼女は互いに恋に落ちたと思っているが、現実は純情な田舎のお姫様が、女の扱いに馴れた男にいいように弄ばれたのだろう。
おそらく青竜は、土壇場で彼女を裏切り、行方を眩ませたに違いない。
碧もそれが薄々わかっているからこそ、俺と初めて対面した時、再会の喜びよりも、憎しみの表情を浮かべたのだ。
「お前は本当に青竜に瓜二つじゃ。わらわはこの顔が好き……」
うっとりとした表情で俺を見上げる碧から、俺は思わず顔を背ける。
彼女が今見つめているのが、俺ではなく、青竜だとわかっているから。
当時、青竜は、この唇に触れ、その体を抱きしめることができたのだろう。
そう思うと、生きている頃の彼女を知る青竜に激しく嫉妬した。
女から金を巻き上げることで生きてきた俺が、寄りにもよって幽霊にマジになりかけてるなんて、シャレになんねえよな。
「また会ったな」
仕事に行く途中、裏通りを歩く俺の隣に黒塗りのセダンが止まり、ゴリラみたいな黒くて肉厚な肌の男が窓から顔を出してきた。
こいつは、先日俺の横面を殴ったミサの男だ。
ミサは俺の客のキャバ嬢で、その男のこいつは、このあたりで幅を利かせている組の幹部らしい。
俺にマジになったミサは、別れ話を切り出し、俺は逆恨みされてこいつに殴られたってわけだ。
「お前、ミサに本気なのか?」
俺はミサに対して、客以上の感情を持ったことは無い。
そりゃ、仕事中は甘い言葉をささやいたこともあったが、ホストのそんな言葉を本気にするヤツのほうが世間を知らなさすぎるんだ。
第一、今の俺はミサに限らず、生きている女にこれっぽっちの興味もない。
そう、幽霊であるアイツ以外には……。
「いや。彼女はただの客ですよ」
めんどくさそうに答える俺に、ゴリラは分厚い唇を歪ませて歯ぎしりをした。
「ミサはお前にマジなんだぞ」
「客がマジになったからって、そのたびに相手してたら、こんな仕事やってられませんよ」
俺はため息混じりにそう言って、ゴリラに軽く手を振った。
「じゃ、俺これから仕事なんで」
再び歩き始めた俺の背後で、セダンのドアが複数開く音がした。
嫌な予感がして振り返った瞬間、バラバラと近付いてくる男たちの姿が見え、身構える間もなく、みぞおちに膝蹴りが叩き込まれた。
「ヴェッ!」
遠慮のない蹴りを3回腹に打ち込まれ、俺は血の混じった胃の内容物を吐き出した。
足元がよろめき、立つこともできなくなった俺の体を、一人の男がセダンの後部座席に引きずっていき、他の男が背中を蹴って車内に押し込んだ。
「出せ」
ゴリラが運転席の男にそう告げると、セダンはゆっくりと走り出した。
後部座席の足元に転がされた俺の頭を、下っ端らしい男の革靴がぎりぎりと踏みつけた。
(たぶん俺、殺されるな)
拳を握りしめ、俺は覚悟を決めた。
(碧……。死んだら俺、お前に触れられるかな)
そう思うと、死ぬのも悪くないかなと思い、自然に笑みがこぼれた。
「これから痛い目に遭うってのに、こいつ笑ってやがる」
革靴の男がそう言って、気味悪そうに俺の顔を覗き込んだ。
暗闇の中に俺はいた。
あたりを見回す俺の目の前に、白く綺麗な手が差し伸べられた。
「リュウ」
その手の先を見ると、寂しそうに微笑む碧がいた。
俺は思わずその手を握りしめた。
なめらかな柔らかい肌が、俺の手の中で微かに震えていた。
「やっと、お前に触ることができた……」
ほっとため息をつき、そのまま俺は碧の体を引き寄せて強く抱きしめた。
小柄な細い体全体が震えているのが胸に伝わってくる。
「リュウ。お前はこちら側には来るな」
「お前とこうしていられるなら、俺はそっちに行きたいよ」
「リュウ……」
その時、俺の手に伝わる碧の感触が、少しずつ薄れ始めた。
失いたくないと、両手に力を込めるほどに、俺は自分自身を強く抱きしめるようになっていく。
「嫌だ。俺はお前と……!」
「リュウ!」
目を見開くと、ケイジが俺の顔を心配そうにのぞき込んでいた。
「よかった! 気がついたか!」
ケイジはそう言って天井を仰ぎ、安心したようにため息をついた。
「お……俺? ここは?」
「病院だよ。お前ミサの男と、その若い衆にボコられて、3日間意識が戻んなかったんだよ」
まだぼやけた頭で周囲を見回すと、確かにここは病室らしく、白い壁と天井に囲まれた空間だった。
枕元にはクロムメッキのスタンドが立てられ、そこに掛けられた袋から、透明の液体が規則正しく体に流し込まれていた。
「つっ!!」
思わず身を起こそうとして、俺は激痛を感じ、再び布団の上に身を沈めた。
「バカ、お前、体中骨折しまくってんだぞ。内臓にも傷がいってるらしいし、その怪我でよく生きていたもんだよ。商売道具だからと情けを掛けてくれたのか、不思議と顔は無傷だがな」
俺の肩をベッドに押しつけ、ケイジは大きくため息をついた。
ああ、そういえば、あのあと、黒塗りのセダンで港に連れて行かれた俺は、ゴリラたちにボコボコにされたんだ。
途中で意識を失って、そこからの記憶はないが……。
「碧は……?」
「あお?」
「さっきまでここにいたんだ。確かにここに」
そう言って俺は包帯だらけの自分の両手をまじまじと見つめた。
さっき、碧に触れた感触は、意外に生々しく残っていて、それを噛み締めるように、俺は自分自身の手を愛し気に撫でた。
しばらくそんな俺の様子を黙って見ていたケイジが、思い詰めたような低い声で言った。
「なあ、お前、最近変だぞ」
眉を寄せる俺に、ケイジは真剣な表情を向けた。
「客のアフターは断るくせに、仕事が終わったらまっすぐ家に帰るし、最近急にやつれてきたじゃないか。前に言ってた幽霊の話。まさかと思うが本当なのか?」
「……」
「俺、オカルトとか興味ねえけど、今のお前見てたらマジヤバいって感じる。お祓いとかしてもらったほうがいいんじゃねえか?」
ケイジの言葉に、思わず俺は我を失った。
「嫌だ! そんなことしたら、アイツが消えちまう! さっき死にかけて初めてアイツに触れることができたんだ! アイツと一緒にいられるのなら、俺は死んだほうがいい!」
俺は痛みも忘れて身を起こし、点滴の針を引き抜いた。
そのままベッドから抜け出し、病室を出ようとする俺の体を、ケイジが背後からタックルするように全身で引き止めた。
「落ち着け! リュウ!」
その時、騒ぎを聞きつけて、医者や看護士が病室に数人駆け込んで来た。
興奮する俺の体を何人もの男女が取り押さえる。
暴れる俺の様子を見て、医者が一人の看護士に何かを伝え、頷いた看護士は病室を早足で出て行った。
「頼む、あいつのところへ行かせてくれ! 死なせてくれ!」
再び病室に戻ってきた看護士の手には、注射器が握られていた。
それを手に取った医者は、針の先を覆っていた蓋を口にくわえ、複数人に取り押さえられた俺の右手を強く握ると、一気にそれをぶち込んだ。
どうやらそれは鎮静剤だったようで、しばらくすると俺の意識は遠退いていった。
気が付くと、俺は畳敷きの広間の中央でひれ伏していた。
「おもてをあげよ」
そう言う男の声がして、俺はゆっくりと上半身を持ち上げた。
すると、正面の一段高い場所に、髷を結った中年の男が座っていた。
一瞬、己の置かれた状況に戸惑い、俺は自分自身に目を配った。
エンジに色とりどりの花々が描かれた女物らしい着物を着流し風に身につけ、長い髪は首の後ろでゆるくひとつに束ねられている。
その姿は、この品格のある空間には、どう見ても不似合いに思われた。
「おぬしも、碧に惚れておるのか?」
中年の男……いや、殿は真剣な、どこか悲し気な表情を俺に向けていた。
「……はい」
「好き合っているのであれば、わしもおぬしらの仲をなんとかしてやりたいのじゃがな」
殿はそう言って言葉を濁された。
「とあるお方から、碧をぜひ嫁にと所望されておるのじゃ。おぬしもこの国の置かれている現状は理解しているであろう」
私は、再び深く頭を下げた。
旅の途中立ち寄り、しばらく世話になっている内に、この国の抱えている問題は肌で感じていた。
領地が狭く、土のやせたこの国は、米のとれ高も少なく兵力も乏しい。
そのため、常に力のある国に頼っていなければ、この戦乱の世、存続することさえ危ういのだ。
おそらく今回の碧の縁談も、後ろ楯となってくれる国への人身御供のようなものだろう。
「例えわしが二人の仲を認めても、流れ者であるおぬしをこの国の城主にするわけにはいかぬ。しかし、碧は城からほとんど出たことのない世間知らずの娘じゃ。おぬしに城での暮らしを捨てて、あれを幸せにしてやれる自信があるのか?」
私はきつく目を閉じ、唇を噛み締めた。
遠回しであっても、殿の言葉が、私に碧を諦めろとおっしゃっていることは、痛いほどわかっていた。
私の歌と舞を気に入り、城に招いて手厚くもてなしてくださった殿と、流れ者の私にあたたかく接してくれたこの国の人々を、危険に晒すことなど私にはできなかった。
「わかりました。姫には私からお伝えいたします」
私がそう言うと、殿はほっとしたように息をつかれ、笑顔を浮かべられた。
「すまぬな青竜」
城から出た私は、碧と約束した森の沼へと急いだ。
私たちは今夜そこで落ち合って、この国を共に出ようと誓い合っていた。
山奥の寂しい沼地に私が息を切らして訪れた時、とうに約束していた時刻は過ぎていた。
「青竜、来てくれたか! 遅いからもう来てくれぬのかと思ったぞ!」
木々の隙間をぬって降り注ぐ月明かりの中、私の姿を見つけた碧はそう言って、小走りで駆け寄り、胸に飛び込んで来た。
その愛しい姿に、思わず私も彼女を強く抱きしめる。
姫とは思えぬ質素な袿を身につけ、裾を引き上げた旅の様相から、彼女の決意が感じられ、私は、告げるべき言葉を一旦飲み込んでしまった。
「これからはずっと、ふたりでいられるのだな」
両手で私の顔を包み、嬉しそうに見つめる瞳が涙に濡れていた。
その輝く瞳を直視することができず、私は彼女から視線を逸らした。
「……いえ、旅に出るのは私ひとりです。姫様は城にお戻りください」
私の言葉に、碧は大きく目を見開いた。
「今、なんと?」
一気にその頬を伝った涙が、月の光に反射し、愛らしい唇が哀しみに震えた。
私はいたたまれず、彼女の体を引き離して背を向けた。
「嫌じゃ! わらわはお前と共に行く!」
私の背中の衣を掴み、叫ぶ碧の声も、涙に震えていた。
「足手まといです!」
叫ぶように私がそう言うと、瞬間、碧の手が私の背から離れた。
「私は高貴なご婦人の夜伽の相手をして報酬をいただくこともある。女連れではそれもできなくなる」
「そんな、もうその仕事は二度としないと……」
私は苦い涙をのんだ。
今この瞬間、愛する人を誰より傷つけているのが自分自身だと思うと、この身を切り刻みたいほど恨めしかった。
ふたりでこの国を出ることを決めた時、私はこれまでの生活から足を洗い、今後は碧以外の女には触れぬとの誓いを立てていた。
それは彼女が何より望んでいたことだった。
それをも反故にされ、碧はこの上なく傷ついたに違いない。
私のことを心底恨み、忘れてくれればいい。
祈るようにそう思い、私は彼女に背を向けたまま歩き始めた。
「嫌じゃ嫌じゃ! お前にはもう誰も触れさせぬ!」
泣き叫ぶような碧の声が聞こえるのと同時に、彼女の体が私の背中にぶつかってきた。
次の瞬間、腰のあたりに違和感を覚えた。
そろそろと手を添えると、そこには小刀が突き刺さり、手のひらが真っ赤に染まった。
「思いだしたよ。碧。何もかも」
これは夢じゃない。
前世の記憶だ。
そう、俺は碧の手によって命を落としたんだ。
俺が息絶えたあと、碧は夜通し泣きながら森をさまよい歩いた。
そして明け方再び沼に戻った彼女は、俺の亡がらを見て、自分の罪の深さと哀しみに打ち拉がれ、自ら沼にその身を沈めたんだ。
「ごめん。碧。ひとりで冷たい沼に入らせて……」
ひとりきりでこの世を去った碧は、寂しかったんだろう。
だから、ずっと俺を探し求めてた。
今度こそ共に旅立つために。
あの時、俺に彼女を連れ去る勇気があったなら。
それともいっそ、ふたりで沼に身を投じていたら。
お前をこんなに長い間、苦しめることもなかったのに。
「碧。今度こそ一緒に旅に出よう」
振り返ると、そこには碧が立っていた。
涙を流し、立ち尽くす彼女の手をとり、俺は微笑みかけた。
すると突然、俺たちの目の前にあの沼の情景が広がった。
「これからはずっと、この手に触れていられるんだよな」
小さく頷く碧の手を引いて、俺は沼に足を踏み入れた。
「鎮静剤の量を間違って、ショック死させたんじゃないですかね」
解剖室に横たわる男の死体を見て、新米の刑事は得意げにベテラン刑事に自分の推理を語った。
「何かわかりましたか。先生」
新米刑事の言葉を無視して、ベテラン刑事は監察医に問いかけた。
監察医はマスクを外しながら、ベテラン刑事の目をみつめて首を左右に振り、ため息をついた。
「どうにもわかりませんね」
話から外された新米刑事は、ちょっと面白くなさそうに、机の上に置かれた調書を手に取った。
本名 長谷竜矢 22才
通称 リュウ
職業 ホスト
怪我を負って運ばれた病院で突然暴れだし、鎮静剤を投与されて2時間後に死亡
「やはり鎮静剤のせいでしょう。それでなければ殴られた時の打ち所が悪かったか」
新米刑事はそう言って鼻から息を吐き出しながら、興味なさそうに調書を再び机の上に投げ捨てた。
死ぬ三日前、この男がヤクザに拉致され、殴る蹴るの暴行を受けたとの報告もあった。
実際男の体は至る所骨折し、内臓も損傷しているようだ。
そんな体で暴れたという証言は信じがたいが、目撃者が多数存在するのでどうやら事実らしい。
「いや……それが……」
監察医は口ごもり気味にそう言い、アザだらけの若い男の遺体に目を落とした。
体は直視できないほどアザだらけなのに、顔には傷ひとつないことが逆に不気味だった。
「この方、溺死なんですよ。どういうわけか。病室のベッドで亡くなっていたというのに」
納得できないという風に腕を組む監察医の目線を追って、ベテラン刑事もその美しいという形容が相応しい男の死に顔に目をやった。
冷たいステンレスの台の上に寝かされた男の顔は穏やかで、眠っているかのようにも見えた。
そんな男の口元を見つめ、ベテラン刑事は小さくつぶやいた。
「それにしてもこのホトケさん。なんでこんなに幸せそうに笑ってんだ?」
完