広くて狭い部屋で雑談する二人
1.特定の人物における性格背景・行動理念の突飛な造形と彼我の距離感の関連性
「小説のキャラってさあ、どうしておかしな行動ばかりするんだ? 経歴もとんでもないものが多いし。
普通の学生とか言いながら実は~、なんてやったら看板倒れじゃん」
こちらから見て向かいに座る一年生の後輩は、隣の図書室から借りてきた小説本を読みながら質問してきた。
あけすけな男子生徒はパイプ椅子に浅く座り、折りたたみ式の長机に上体を投げ出してだらけている。
この図書準備室の中には小生意気な一年生と自分だけ。
考えるまでもなく質問の相手は長机の斜め対面にいるこちらしかいない。
それもこれも、部屋自体は広いくせに人が動けるスペースが狭いからであり、我が理数学部の部員が少ないからだ。
準備室には折り畳み式の長机が一つ、そして山と積み上がったダンボールしかない。
ダンボールの内には図書室の棚に収まりきれない蔵書が押し込まれ、壁の厚みを十重二十重と増やしていた。
廊下と繋がる本来の扉は箱が築いたバリケードで防がれ、出入りは図書室経由でしかできない。
窓も半分以上が開閉不可能になっていて、おかげでこの部屋は学内で一番日没が早い。
我が校の図書準備室とはそういう場所だ。
そんな大量の未整理書物によって手狭となっている準備室は、机一つと人間二人だけで許容上限間近になっている。
あちらが座る卓の端には貸し出し手続きをしていない書籍本が小山を築く。
中間から逆サイドがこちらの領域になっていて、目の前にはノートと入学試験過去問題集と筆記具、少し離れてストローが差し込まれた200ミリ紙パックのミルクココアが置かれている。
これが我が校七不思議の一つ『存続理由が無いのに潰れない理数学部』。その部室でよくある放課後の一幕だった。
……老齢の顧問曰く、図書準備室なのに文芸部じゃないところは突っ込まれなくなって久しいらしい。
ともあれ問題集と格闘中の自分は、シャープペンシルを止めることもなく馬鹿のバカな疑問を切り捨てる。
「小説として物語を売っているんだから当然。
ストーリーで感動を与えるには、情緒の起伏が必須。
登場人物が事件に巻き込まれるタイプでないなら、自発的に活動しなければならない」
「なるほど。昔話の魔女が王女様に呪いを掛けるには、魔女の性格が悪いとか、王女様が我儘しないといけないってことか」
年下の幼馴染は納得の顔でページを捲る。
「すげぇ、こんな理由で主人公を逆恨みするのか。
ちゃんと物事の前後がわかって無いのかな?
それなのに四天王最強とか魔法の天才とか言われても納得できないよ」
一体何を読んでいるのかは知らないが、純粋な愛読者が聞けば貶されたと受け取りかねない言い様だった。
愉快そうに笑っているところを見ると、内容への愚痴というわけなく悪意のない率直な感想なのだろう。
こいつはそういう性格だ。これだから天然のトラブルメーカーは始末に負えない。
準備室にいるのが自分たちだけでよかった。
「芸能人のキャラ付けも同じなのかな。
ちょっと前にお笑い芸人が偶然ファンに出会ってさ、路上で何かしてみろとか言われて、騒ぎになったことがあったよね」
「その要求をした人間は、テレビなどの映像メディアで芸人の顔を知っているだけで好意的なファンとはいえない」
今一度切って捨てる。
しかし相手も黙っていない。
「あの●神博士を演じられた人は、道行く子供に役名で名指しされた時、即座に演技仕返して見せたとか聞くけど。
お笑い芸人のバラエティとは考える軸が違うよなあ」
「……どこからそういった怪しげな知識を拾ってくるんだ。博嗣のアホからか?」
「うん。兄さんは最近そっちの方面に興味が出たのか、色々と古い話を掘り返しているみたい」
厄介な話題に意識せず眉をしかめる。
当方には博嗣の興味が騒動の種に成らないように祈るしかない。
しようがない。問題になったら遠慮なくこいつらをこき使ってやるだけだ。
まあ、こいつが言うことも解らないわけじゃない。
人が相手によって態度を変えるのは当たり前の事で、それは舞台という場所でより顕著になる。
劇を見せる。コントでもいい。
彼らは大袈裟に振舞い。何気ないトーンで滑舌良く大声を張る。
役者の姿が観客に観えないのでは意味がない。声が聞こえなくては客席に座る意味を失ってしまう。
例え作劇上小声での話し合いでも、そう見える演技演出をしているだけで、本当に音量が絞られることは無い。きちんと観客たちに届いている。
役者たちのこうした振る舞いは、状況を解りやすく相手に理解させるためだ。
これは文字で綴られる小説にも適応される。緻密な描写や長い解説説明といった地文は、舞台装置と演出に置き換えられる。
ならば登場人物はどうなのか。
これもまた然りである。
先も言った通り舞台でも小説でも、登場人物たちの言動には起伏がある。
当然著作者たちも落差緩急激しいキャラクターの異常性については十分に理解して執筆していることだろう。
それこそが物語に興味を抱かせる引き金でもあるからだ。
だが、実在の人間と小説の登場人物では事情が違う。
舞台の例えを続けるのなら、演者たちは役に入り込みはしてもそのものになるわけではない。
日常で舞台と同じ動きはしない。癖として役者と知れるなにかしらが現れるかもしれないが、その程度だ。
芝居が終わった後、カーテンコールで主役と敵役が仲良く並んでいても不思議に思う観客はいないだろう。
何しろ客席から舞台までが空間的に連なっている。自らが座る椅子から舞台上の役者までどのように繋がっているのかが明白だ。
つまり舞台演技とは、観客が役者の状況や距離感を自らの五感で正確に識別し理解出来る場所なのだ。
ここで話を路上での反応に戻す。
争点は演じる場所の違いと、距離感への理解度である。
なにより、こいつが言った芸能人という人々が特定のメディアでの露出を高くしていることだ。
人間は自分から遠い場所での出来事を、客観でしか知り得ない。電波発信での伝聞は、空間的に断絶されている状態に近い。
特に喧伝の為本人の性格とズレのある人物を断続的に演じ続けている場合や、過剰なパフォーマンスをしている人物たち。
彼らの言動に惑わされてはいけない。それは役ではなく、自己の人格として誤解を受けてしまうことになる。
子供の呼び掛けに演技仕返したという後者の話は、番組内容を正しく把握した役者さんだからこその反応だろう。
往々にして役と役者を混合する年少者を前にして、自身が何者であるべきか理解していた証だ。
逆にカメラの前に立つ人のどれほどが、自分を撮っている道具が舞台で言われる『第四の壁』と近しくも遠いことを知っているのか。
特にキャラ造りが奇抜だったり長期間だった場合は、距離感の崩壊がより顕著になる。
幾ら芸名を名乗ろうが、見る側は同一視してしまってもおかしくない。
過激な人物を演出している一部には、本当に向こう側に足を突っ込んでいて事件性のあることをやらかしているが……。それはそれ、だ。
過剰行動をする芸能人と創作登場人物の偏った造形、そして舞台役者の共通点は、物語の中心足らんとする自己主張だ。
彼らは観客や読者の注目を集めなければ、目立たなければ意味がない立場のいるのだから当たり前のこと。
故に小説の登場人物たちは、文章という舞台上で必要な過剰演技を常態化させているわけである。
問題点を凝縮すると、きちんと相互の状態を理解して演じられているのかということになる。
路上で急に声を掛けれられても、順当に対応するには相互の関係を把握して置かなければならないと言うことだ。
書籍の距離感に限っては、小説とノンフィクションでは異なるのも面白い。
最初から創作と銘打たれていないのなら舞台と扱えるのは前述の通り。
しかし情報伝聞として作られた場合、容易に『第四の壁』を分厚くさせる。読み手は作者という電波発信源からの情報のみで全てを判断しなければならくなる。
その距離は隔絶も良いところだ。これも意図的に過剰演技をしているとも言い換えられる。
過去の出来事だが、現実に『東方見聞録』という図鑑はその内容を信じられていた時期がある。内容は、御自分の眼で確かめてみてほしい。
これらが役者という技能・職業と、物語上だけに住まう架空存在キャラクターの対比だ。
近ければ乖離を悟り、遠ければ混合する。
舞台や文庫本といった物理的接触を持つものと、彼方まで残される図画文字と伝播される波形。その共通項と差異の理論。
どちらにしろ、こちらが注目すべき舞台は過去試験問題集で、役者は使い慣れたシャープペンシルである。粛々と自分の物語を進めてゆく。
カリカリと小さく乾いた筆記音だけの演目。眼前で消費されている娯楽本に比べれば、
こんな情緒も何もない平坦な筋書きに観客など寄るはずもない。
正しい評価と望んだ平静である。
こちらの無言をどう思ったのか。
向かい相手は数冊積み上げた書籍の一つを手に取り、また笑う。
「四天王最強が続刊のカラー口絵にいるってことは、この巻までに読者が納得できる辻褄合わせが出来たってことかな。
読むのが楽しみだな」
逆の手に持つ読み終えた本を山に戻して、続きを読み始める。
こいつは先に挿し絵を見るタイプだ。
片手に少し曲げた文庫を持ち、ピピピと親指で器用にページを手繰っては時々止めてイラストを楽しむ。
あ、死んだはずのキャラが出てる、とか、おっ!共闘か? と脳天気。
今更に、こめかみがひきつるのを自覚した。
「もう一度言うが、物語を動かすために、登場人物の性格造形を変質させる。もしくは人物背景と言動の乖離を承知で場面を繋げる。物語進行の思惑に添った新しい登場人物を追加する。
そんなよくあることを読者の興味を引く伏線や緊迫の場面に出来るかどうかが、著者としての技能と才覚だ」
こちらの言葉に、相手はこくこくと頷きながらページをピピピピ。
「さっき言った通り、事件が起きなきゃ物語にならないってことだね。
物語を動かす為の異常行動を支える、これまた突飛な各種設定群。
継続して読者引き付けるための萌えキャラたち、つまり様々な趣向に応える属性を持った登場人物ってわけだ。
一見”普通”と書かれた立て看板との違いも、最初から狙って付けてるわけだ」
巻末の後書きまで跳ばし読みして、ひらめきに指を鳴らす。
手にした本をアクロバットペンシルのように舞わせ、見開きを下げ握る。左側に挿し絵が描かれている項を差し出した。
そのページには珍妙奇っ怪なポーズをした剣士らしき人物が描かれている。
地の文を速読する限りには、この男は大企業の課長で、社外秘の大魔法を披露する場面らしい……。
一見には理解しかねる場面である。
「その論法ってマンガにも通用するよね。
挿し絵でもこれなんだから、ビジュアルが多くなれば多くなるだけ、キャラの尖った部分の連続になっちゃう」
「そうなると最早インパクト勝負の一発芸大会だ。
役者とキャラクターの距離感がどうとかの話ですらない。
その登場人物が先に構築されている世界観に合致するならば良い刺激にはなるがな」
「連載が長くなったり巻数が増えると、比例して登場キャラも多くなるしね。
漫画やラノベのイラストがとんがった性格や言葉使いは多くなるのは当然なんだ」
「だが、物語の芯から乖離した奇人変人ばかりになってしまうと、喜劇コメディを通り越して最早口枷ギャグだ。
最初から面白人間大集合として描かれているならいい。しかし物語として売り出すのは難しくなる。登場人物の異常行動に描写資源を吸われ、肝心のストーリーが薄れてしまうからだ。
何処も彼処も意表を突けば良いってものじゃない。これらの配分も著作者の腕の見せ所だな。
これが両立出来れば名作と呼ばれる物に近付ける」
「あ、それは解るよ。
この作品のスピンオフ漫画に出てきた特徴的な語尾と衣装を着たあざとかわいいキャラがすごい人気でさ。
本編に合流する時、まさかのタイミングと怒濤の伏線回収でラインがちょっとしたお祭り騒ぎになったんだよね」
こちらの締めになるほどなるほどと、相も変わらず頻りに首を動かして後輩は読書に戻る。
とりあえずはこいつも納得したようだ。
話は終わったと一息つく。
ノートに視線を戻し手元の難題に戻る。
本当に難しいわけじゃなく、問題集の区分として仕分けられたランクではあるが。
だというのに、年下の一年生は笑いながら話を続ける。
「物語を動かすって意味じゃ、僕らは完璧にモブだよねぇ」
「日常が平穏であるように努めているんだ。そうでなくては困る」
きつく言葉を返す。
次いでにこっちの状態を察しろと、これみよがしに筆記の音を立てた。
それでもあちらの口は閉じなかった。
「逆にさ……」
ああ、もうっ。こうなったら直球だ。
机を叩いて苛つきを露わにする。
「うるさい黙れ! 集中できない」
「だったら早く終わらせてよ。一緒に道場へ行きたいから、こうして待っているんじゃないか」
後輩がぶーたれる。
漫画表現的にはプーと頬を膨らませたことだろう。
「こっちの邪魔をするぐらいなら、先に行ってしまえ!」
今度こそはっきりと拒絶を言い渡すと、目に見えてしゅーんと縮んだ。
こっちより頭半分は小さい体躯をより寂しそうに丸めた。
いっそ仔犬と見間違う過弱さを漂わせる。
言い過ぎたかと思いつつも、先達として言わなければならない。
「何度も言っているが、もう少し周囲を見渡せ。空気を読めとは言わないが、話相手が何をしているかぐらいは見ろ」
「うん。わかった」
素直に頷き読書に戻る本物の仔犬と比べては可愛くないヤツ。
まったく。それもこれも図書委員たちが好き勝手に蔵書を増やすからだ。
昨今は学校の図書室でティーンズ向けノベルが棚一つ占領しているのことも珍しくない。
図書委員にそちら系統の人間が混じると馬鹿に出来ない年数まで尾を引き、芋づる式に導入希望が列挙される。
そうした暇つぶしの材料があるから、どれだけも居座れてこんなことになる。
蔵書の急増、つまり理数学部の部室がダンボールの要害と化している惨状の元凶だ。
本の傾向変調を防ごうにも、事の起点が嘗て本校に在学していた知人で、且つ現行で教員側に影響力を持っている。
生徒側から図書委員や生徒会に圧力を掛けても止められない。
ついでに言えば目の前のこいつにネット発のノベル作品を布教した人物でもある。しかも若干腐っている。
その人は基本的に博愛主義で、こちらはその慈愛に救われた恩義がある。だから強く反発できず歯痒い。
気休めを言えば、元凶の人が自身の趣味を無理に押し出さず、黙認気味に緩く保護しているだけなことだ。
それでもかなりの数になっているのだが。
だとしても、次の獲物としてこちらも趣味人の泥沼に引きずり込もうとするのは勘弁して欲しい。
理数学部の在校生としても、一個人の趣向としても、本気で迷惑だから止めてくれ。
そういうのはもう十分、腹一杯なんだ。
苛立ちを納める為200ミリ紙パックのミルクココアを掴みストローで一口啜る。
放置され購入時から微温くなっているが、甘い味が口内に広がり喉を通るのは心地よい。
可愛くない仔犬が物欲しそうな視線を向けてきたが、先程の仕置を込めて完全無視する。
「あのさ、終わるまでもう喋らないから待っていてもいい?」
萎れた後輩が怯えた態度で訴えてきた。
無言で首肯して、問題集に向き直る。
こっちは詰まりに詰まったスケジュールをやりくりしているのだ。大人しくしてくれるのなら、それでいい。
本当に二人で道場に行きたいらしく、テーブルシェア相手は静かに読書に戻っていった。
きゅっと絞まる気持ちに、少しだけ唇を食む。
こいつは昔馴染み。だから言動の奥にある願望を知っている。
出来るだけ長く二人で居られる時間が欲しい。
とある事情から一人で過ごした時期がある後輩は、甘えたがりなのだ。
現状と性格を知っていながら声を荒げてしまった。
自分を先達とか言ったが実は理性で御しきれなかっただけ。
苛ついただけかもしれない。あいつからも諮らってやれと言われていたのに。
……蔵書話も、結局は八つ当たりの大儀欲しさ。整理できない感情から来る理不尽な憤りだ。
少しだけミルクココアの甘みを打ち消すなにかが、腹の中に滲んだ気がした。
それから少し時間が過ぎ、携帯電話にセットしていたアラームが鳴る。
ここでの自習を切り上げる合図だ。
問題集に一区切り付けて閉じると、飲料パックも含めてさっと卓上を片付ける。
席を立つ前に、そわそわと動く向かい相手に呆れた。
仕方なしに手の平を振って発言の許可を出す。
「これから道場だよね。カバン持つよ。色々入っているから重たいでしょ」
嘆息する。
こいつなりの気遣いだろうが、余計なお世話だ。
後輩に荷物持ちをさせる居心地の悪さを想像し断ろうとした矢先、笑顔で返された。
「片方が手ぶらじゃ不自然だから僕のと交換ね」
言うや自分のカバンを突き出してきた。
まあそれぐらいは甘えさせてやろう。
こちらが軽いカバンを受け取ると、あっちは卓上のカバンを持ち、開いた腕で読み終えた文庫本の束を抱えた。
「それと、さっきの続きだけど」
終わった話題をまだ掘り返すのか。
本当に空気が読めず懲りない奴だ。
「平穏に過ごそうとすれば僕らでも普通の人間でいられる。
どんなに壮大な設定を付けられたキャラクターでも、物語が必用とされない限り只の名無しモブキャストだ。
それでいて、平凡な人でも奇想天外なトラブルに巻き込まれることもあるし、どれだけキャラを尖らせても物語が始まるとは限らない」
図書室に続く出入り口で小柄な少年が少しだけ振り返える。
「そういう意味じゃ恵姉は良い例だよね。
長い黒髪でクールビューティの眼鏡委員長系、長身巨乳の武道有段にプチお嬢様で男言葉。
そんでもってトドメの超能力者。
主人公やれるぐらい属性てんこ盛り。
なのに僕らの周りじゃラブコメやバトル物、探偵が必要な怪事件とか、その他諸々がまったく起こらない」
「お前が属性盛りとか言うな。この大・暗・黒・竜・が」
立ち止まった巴馬透の背中を、ヤツの軽いカバンで叩いてドアの先へと追いやる。
二つ年下の幼馴染より、まだまだこちらの方が上背がある。
私の身長が高めなこともあるが、透も平均より小さい体躯をしている。体格差で押し出しするのも苦ではない。
こいつが正体に戻らなければ……、ではあるが。
世界各地の終末伝説に基づく超々弩級巨大怪獣の類である透は、重ねた本が崩れないようにたたらを踏みながら図書準備室を出ていった。
私は手に持つカバンを一瞥して後を追う。
全教科の教科書を受け取った初日に完全暗記するような人外のカバンは、一冊のノートと筆記用具しか入っていない。
これは真面目に授業を受けるための道具だ。
教科書は全て学校の個人ロッカーに仕舞われ、授業ごとに取り出される。
ノートも教科別に使い分けることもしない。換わりに毎ページに日付と時限数、そして授業の内容が丁寧に書かれている。
そう、この幼馴染は存在と能力に身合わない実直な性格をしている。
能力の発露にも気を使っていて、このカバンさえも本当の中身と重さを知っているのは私と透の同族たちだけだ。
学内の人間で理解出来る者がいるかどうか。
ただの一学生が全教科書を丸暗記している。
これこそ正に異常行動なのだが、これはまあ、こちら側の覗ける存在へのトラップでもあるから深くは言わないでおこう。
ここに来るまで自らの能力で自刃し続けていた透は、悪夢の循環から解放された今生を甚く気に入っている。
こうして眷属である私に人間らしく絡んでくる程度には、ありふれた少年の貌をして型に嵌っている。
世界を愛す故に殺戮の慟哭を放っていた頃とは比較出来ないほど、とても安定している。
二人揃って校門を抜け、実家が経営する合気道場に向かって歩く。
私の横では『乖離による減少』の形象具現態が無邪気に微笑っている。
雑談を交わしながら、私は『天弦欠けし逆七芒星』後方右舷『殺龍機』の巫女として祈る。
願わくば『殺龍機』が今のキャラクター像を崩さず、終末の巨獣としての本性本懐を果さずに要られますように。
この世界、この演劇、この物語、この小説がそういう日常的な方向に進みますようにと。
たとえ立川恵の能力が彼ら右舷『離龍』を源泉にしており、己の祈りが現実から幸を遠ざけるもの、だとしても。
遥か昔、もう一柱の我が主『封龍機』と共に那由多の世界を旅し、『殺龍機』を解放させた奇跡があるのだから。
一縷の望みに掛けて、深く、祈り続ける。
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2.原風景・原体験の奪取が観測拠点と方向性に及ぼす影響の大小
本日も図書室準備室で新規蔵書のティーンズ向け小説を読む巴馬透。
「そうそう。体感型ゲームに閉じ込めれたり、異世界に転生するなら、エロゲーに行きたいってさ」
「よし、そこに直れ。頭蓋を鏡開きにして望まぬ世界へ飛ばしてやる」
唐突に阿呆なことを言い放った斜向かいの透に対し、席を勢いよく立つ私。
終末の巨獣がぶるぶると怯えたように首を振る。経験則でこちらが本気なのを知っているからだ。
「違う違うよ! 言ってたのは僕じゃなくて『覇』! それもネットラノベの感想だよ!」
折りたたみ式長机の斜向かいで、少年の姿をした黒龍が縮こまる。手に持っているのは、投稿小説サイトで公開された作品の書籍版だ。本の題名と透の言葉から類推するに、別世界に輪廻転生する内容なのだろう。
「……もう少し考えてから喋ろって、この前言ったばかりだよな」
「ごめん。対象年齢制限でそんなに怒るなんて思わなかった」
「私たちにとって年相応の態度は日常を過ごすための擬態だが、だからこそ根幹の人格は失われない。私を誰だと思っているんだ」
「でもさ恵姉は兄さんと例の勝負しているじゃないか。今更でしょ」
「自分を『滅龍機』の様な純潔無垢の女の子と言うつもりもない、がっ!」
「おうちっ!」
幼馴染みの頭をミニサイズ英和辞書で一叩きして座り直す。
そんなことより重要なのは。
「この手の揺さ振りはヤツの常套手段だ。陰謀策略と解っていながら、なぜ話題に出す」
「最近のすごい作品を勧めたら、面白かったって言ってさ。おっちゃんが戦い以外で喜ぶなんて珍しいから嬉しくって」
怒られたことを一瞬で忘れたかのように透が笑顔に戻る。
昨晩、風呂上がりで自分の部屋に戻った時、ふと野外から気になる音を聞いた。音源を探り隣家の庭を覗いてみると、巴馬兄弟がタブレットPCを片手にあれやこれやと話していた。
またなんぞの悪巧みなら後で仕置きせねば思ったのだが、風邪を患うのも省みず即時突貫介入するべきだったか。
「つい話し込んで、先程の言葉を聞いたと」
肯定動作で首をコックコック上下させる透に、私は呆れかえった。
「機構経由ではなく、こちらの側でどんな話をしたかと思えばネット小説の感想だったとは」
「本題はちゃんと終わらせたよ。予定より簡単に落とし所が見つかったから少し雑談しただけ」
その"少し"で的確に品位を下げる邪龍だから注意が必用なのだ。
スケベオヤジはこちらが直接殴れないのを理解した上でセクハラを仕掛けてくる。更にはお馬鹿な透や配下の龍機たちを介した婉曲な方法を好む。
最早パワハラをも兼ねた立派な悪行だ。さすが属性:王覇。俺様全開の無遠慮ヤクザである。
だが憶えていろ。私は根深い質だからな。確実に報復してやる。
まずは透への釘刺し。再発防止の注意をする。
こいつの脳天気さに対して何処まで通じるか解らないが、気休めにはなる。
「ヤツの”面白い”は一般的な意味合いと指し示す箇所が違うだろ。確実に"見下し"が入っているぞ」
「知ってるよ。おっちゃんからもっとないかって聞かれたから、アニメ化もヒットした作品を紹介したよ。本当に嬉しそうだった」
「アニメを推した、だと……」
驚愕と恐慌に喉の水分が一瞬で蒸発した。
自習時にはいつも常備している購買のミルクココア。紙パックのそれを掴み取り、縋る様に流し込んで対処する。飲み込んだ反動を一息吐いて、龍機極点の一柱に喝を叩き込む。
「馬鹿! 真性のサディストに餌を与えるなっ!」
今のは悲鳴に近いなと自己分析が出来るほど、感情的な嫌悪だった。
脳裏に最新のモバイルウェアに指を突きつけながら腹を抱え膝を叩き、下品な大声で笑い泣く汗血馬の姿がありありと思い浮かぶ。
もちろん感銘を受けての行動ではない。目の前の作品を心の底から馬鹿にした衝動の発露だ。いっそのことそのまま一生笑い続けて腸捻転で苦しみながら窒息死すればいいのに。
「ヤツが小説一つに感動する可愛げのある存在なら、これほど悪しく言わない。どうせ『作品が面白いのではない。受け手で感性が希薄なだけだ』とか言うに決まっている」
「その後ろに『初めて見るものだから新鮮に感じるだけ。強風に転がる木の枝を見て笑う赤子と変わらない』って続いたよ」
おい。ちょっとまて。
そこまでの感想を聞き状況を理解していながら、なぜセクハラを通した。
もしやヤツの陣営に鞍替えしたのか。その場に居たはずの『シリス』はなにをしていた。
これでは釘を刺すどころではない。神獣弐柱が相克に反して連結すると最悪には世界が……。
戦慄く私に、透が笑う。
「ラノベの話題なら、僕はおっちゃんの味方をするからね」
あけすけな透の台詞に、一気に脱力した。
この話題は、根っこから機構と無関係だということを思い出したからだ。確かに最初から雑談の一幕と言われていた。
填められた。年下の幼馴染みに遊ばれた悔しさに顔をしかめる。
透はまだ笑っている。
小憎らしいのでもう一度辞書を振った。
今度は簡単に手の平一つで柔らかく受け止められる。
「単純に嬉しかったんだよ。恵姉や兄さんじゃこうはならないでしょ」
確かにヤツならばどんなライトノベルだって楽しむだろう。先に述べた通り加虐という方法だが、心から楽しんでいるのは間違いない。
”記憶””記録”に近しい私や博嗣では透の読み友達にはなれない。加えて透に対して過保護気味になっている。
初めて”物語”に触れ感動する黒龍にとって、赤竜馬は方向性が違えど一緒に楽しめる存在なのだ。
だからといって覇者を読書仲間と呼べるのかわからないが。
「さっきからずっと変な顔してるよ。大丈夫?」
「苦い思いをさせているのはお前だろうが……」
「恵姉っておっちゃんのことすごく嫌っているよね。理由を知ってるからこれ以上は大人しくするよ」
透が文庫本を屋根のようにして机の下に潜り込む。
ヤツの第一、第二印象共に最悪の接触だったからな。当然の帰結だ。
それにしても『初めて見るものは、出来が粗くとも新鮮に感じられる』とはね。
昔、上の兄にも出会った時に同じ台詞を言われた。
意味は『覇龍機』の”見下し”と違い「興味本位で関わるな」という警告だったが、当時は青臭さ全開で恥ずかしい返しをしたものだ。
机の下から見開き文庫本を頭に載せた後輩が土竜よろしくせり上がってくる。
「面白いラノベを読んでみんなが楽しくってできないのかな?」
今日はもう大人しくしているんじゃなかったのか?
まあいい。例によって斬り伏せるだけである。
「人によって感性の起点と方向性が違うんだ。まして同好の志こそ、一定の人数を超えると派閥に別れて衝突するぞ」
オタク趣味で世界は解りあえる、と寝ぼけたことを言う人がいるが。
断じる。それは、あり得ない。
理由は、現実に目を向ければ一目瞭然。
同じ趣向を持っていても向かっている先が違えば、争いの火種になる。
機構の『天使』によれば、組み合わせの前後が逆になるだけで血を見る惨劇に発展するらしい。
昔とあるアニメーション作品でハイタッチする腕だけのカットがあった。
この腕が主人公五人組の誰と誰が行っているか、手前は誰で奥側は誰なのか。そんなことを巡って暗闘が起こり、最後には大々的な抗争にまで発展したそうだ。
同じアニメーション作品を趣向する人間に限ってもこの有様。
更に同系作品の対比を実関係の対立に持ち出して煽る偏屈者すら生まれている。
古人たちはよく言った、人間三人寄れば派閥ができる。
むしろ共通項のない無味乾燥な関係を平和と呼びたくなる。
「やっぱり最後は皆殺し荒廃エンドしかないのかな」
「物騒なのはお前の属性だけにしろ。反対に手を携える人々や穏やかな死、遺される系譜が存在する。派閥に限らず組織団体とは円満に活動するために動くからな」
「でも結局は主観や主義の食い違いでぶつかるんだよね」
「そこは方向性よりも加重に注目するんだ。排他に偏重しなければ良い。意見の衝突もまた何かを生み出す切っ掛けになりえるからな」
「うんうん。やっぱり僕たちは正しく間違え、図らずも正鵠を射るシステムだね」
己の否定を受け、暗黒龍は小さく笑うと机の下に戻っていった。
同じジュブナイルノベルを楽しむのでも、『殺龍機』と『覇龍機』での差は累積された経験値の大きさだ。
ヤツの言うとおり、生まれたばかりの透は書物の内容を新しい経験として受けている。
一方で世の全てを睥睨する王覇にとって、娯楽小説はマンネリズムに埋もれたものでしかない。もはや”同じ”であることを笑止するだけだ。
もう一度土竜が顔を出す。
「ところで恵姉、それ面白い?」
「ああ、面白かったよ。賞賛される理由も理解できた」
そう言って、私は透から推薦された文庫をぱたりと閉じた。
これは最近アニメ化映画化などマルチメディア展開された大ヒットラブストーリーの原作だ。
主役カップルのお互いを尊重し、困難にあっても助け合い支え合う姿は、とても感動的だ。
「面白さが理解できたって……。心を揺り動かされたとか言わないんだね」
「まあ、この程度なら馴れてるからな……」
しかし残念ながら『石版の司書』には普遍的なものでしかなかった。
世間一般に名作でも、私には見飽きたものの一つでしかない。
机に置いた文庫のページをつま弾きながら、結局自分もアッチ側の存在なのだと痛感するのであった。
天弦欠けし逆七芒星:簡易図解
http://www.tinami.com/view/731036