命を粗末にする女、トマトを粗末にした男。
――ああ、死んでもいいんだ。
私は八階建てのビルの屋上に立っていた。それから手すりに手をかけて、ひょいっと手すりの向こう側に移動した。
街の様子がだいたい見渡せる景色をしばし見つめて、私はこれから死ぬことを意識した。
お母さんはきっと悲しむだろう。涙も流すに違いない。お父さんはどうかな? いつも喧嘩ばっかりだったから、悲しむことはあっても涙を流すことはないかもしれない。
申し訳ないとは思う。だけど、それだけだ。
私は昔から他の人とは違っていた。
全ての物に異質な感覚を味わい、違和感に苛まれていた。
人にあいさつすることに違和感。正しさを追求することに違和感。間違うことが悪いかのように叱咤する先生に違和感。
私はきっと皆と何かがずれているのだろう。だから皆が普通にしていることに違和感を覚えてしまう。疑問を感じ、納得できないでいる。それが不快で、いつしか私は周りと接することを避けるようになった。
全ての物から避けるようになってからは楽だった。
何も感じなくなって、何かに意味を求めることもなくなった。いつの間にか笑顔も忘れてしまったけれど。
気が付けば私は周りのことどころか、自分のことにさえ何も求めることはなくなってしまった。自分から家族と話すこともなくなったし、時には食事することも忘れちゃうようになったし、何よりも生きることに執着を持たなくなった。死んでもいいんじゃないかと思うようになったのだ。
さぁ、もうこの世界に未練はない。生きる気力もなければ、生きる意味すら持っていない。
さよならだ。
私は飛び降りる前に一旦踏みとどまり、どうやったら一番綺麗に死ねるか考えて、肩から身を投げることに決めた。
スカートを穿いて来ちゃったけど、これはもうしょうがない。というか、どうせ死ぬのだから死んだ後のことを考えるのは無駄なのではないだろうか。
私の少しエッチなパンツぐらい見られても構わない。黒のレースだ。文字通り出血大サービスだ。
こうして私はビルから体重を傾け、重力の流れのままに身を任せた。
その時、隣のビルに群れていた鴉が一斉に飛び上がり、私の頭上を通り過ぎて啼いた。
「なにしとんじゃぁああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
「ぐえええっ!?」
な、何が起こったのか分からない。
有りのまま起こったことを話すと、私は自殺しようと身を投げた瞬間に後ろから誰かに襟首を掴まれた。そのせいで私の落下は止まったものの、首が絞まって今死にそうになっている。
く……苦し……殺される……!
頭の中に白い靄が掛かり始めた頃に私の体は勢いよく後ろに倒され、手すりに当たって頭からビル側に落っこちた。
軽い衝撃が激痛を呼び、激痛が私の意識を覚醒させ、覚醒した私は後ろにいた男に殺意を覚えた。
手を離され首の圧迫から解放された私は深く息を吸い込み、男に向かって怒声をあびせようとして――
「このばかちんがぁああああああああああああああああああああああああああああああ!」
――と、逆に男から怒声を浴びさせられた。わけが分からない。金○先生に謝れ。というかまず私に謝れ。
「ここから飛び降りたら俺のトマトが駄目になっちゃうだろうが! 場所を考えろ! 場所を!」
「……は?」
「だから、この下は俺が育てたトマトがあんの! 分かる? トマト! 俺の! プチトマァト! プチ・トメイトゥ!」
「……」
まず最初に――イラッと来た。
そして次に感じたのは激しい困惑。男の言っている意味が分からなかった。いや、分かるのだが、脳がそれを理解することを拒んでいた。
だっておかしいじゃないか。この男、私を助けるつもりがないのだ。私ではなく、自分が育てたというトメイトゥを助ける為に私の飛び降りを止めに来たのだ。
それって、ちょっと、アレじゃない?
飛び降りようとした私が。
自殺しようとした私が。
言うことではないと分かっているけれど。
それでも言わせて貰う。
人の命をなんだと思っているんだ。
男はニヤッと不敵な笑みを見せて私に手を差し出した。
「お前は幸の薄そうな顔してるよな」
「余計なお世話よ!」
私は男の手を思いっきり引っ叩いて自力で立ち上がった。
全く……全部台無しだ。
いきなり現れたこの男のせいで、私の今日の予定が全て狂った。まぁ、いい。どうせ私はここで死ぬのだから。
私はもう一度手すりに手を掛けた。
「俺の話ちゃんと聞いてたのかこのトマト殺し!」
「ぐえ!? ……だから、首を絞めるの止めなさいよ……この人殺し!」
再びトマトのせいで私は自殺を引き止められた。
この男……頭がおかしいのではないだろうか。人の命よりも自分のトマトを優先するなんて馬鹿げている。有り得ない。
この男は……他人とはどこかずれている。もしかしたら、私よりも。違う。もしかしたらではなく、確実に。
この男は常識に軋轢を生んで、違和感を生み出している。違和感そのものがこの男と言ってもいい。
だからだろうか。今まで他人に何を言われても何も感じなかった私は、この男の言葉に何度も反応させられている。そう自覚した時、私は何故か悔しくなった。意味もなく張り合いたくなった。
『ワン! ワン! ワン!』
「……」
「……」
下から犬が吼えているのが分かった。ビルの真下から。即ちこの男のトマトの傍で。
「……放っといていいの?」
「よし、お前もちょっと手伝え!」
「はぁ? あ、ちょっと!」
私は殆ど返事をする間もなく強制的に男と共にビルを降りた。
なるほど。確かに私が飛び降りようとした真下辺りには赤いトマトが幾つか実っていた。来る時には気付かなかったな。なんとも影が薄いトマトだこと。
しかし人の目は誤魔化せても犬の鼻は誤魔化せなかったらしい。犬がトマトに向かって馬鹿みたいに吼えていた。たかが野菜を敵だと思っているのだろうか、この犬は。マルチーズのくせに生意気だ。
「うおおおお! 行くぞ、アインシュタイン!」
「それって私のこと!?」
いきなり付けられた不名誉なあだ名で呼ばれつつも、殆ど反射で私は男の後ろを走った。
それと、私も言われっぱなしは悔しいのでこの男のことを二重君と(二重だったから)呼ぶことにした。
二重君は己の育てたトマトを守るべくマルチーズの前に立ちはだかった。その姿をちょっと格好いいと思ってしまった私はやっぱりずれているのかも。だけど不思議と不快感はなかった。それがまた悔しい。
二重君は犬を追い払おうと四つん這いになって威嚇する。それは狼のような迫力ある威嚇だったけれど、はたから見たら変態以外の何者でもない。マルチーズもまた私と同じ感想を持ったのか、トマトから変態にターゲットを変えて、勇猛果敢に変態に向かって突撃する。
「うひゃあ!?」と二重君は素早くバックステップ。四つん這いのままでよくできたものだ。それから二重君はトマトをいくつももぎ取り、マルチーズに向かって全力投球した。ついでに私も投げた。
「必殺、潰れるトマト!」
『きゃいん!』
「いや、そのままじゃん!」
マルチーズの雪のように真っ白な長毛はぶつけられて無惨な姿になったトマト達によって真っ赤に染められていた。
マルチーズのトマト染め。なんだかイタリアの料理でありそうな名前だ。
イタリア料理となったマルチーズのトマト染めはパニックに陥ったのか辺りをぐるぐる回りだした後、何処へと消え去った。さらば犬よ。どうか誰にも食べられないように気をつけて。
それにしても二重君。あんなにトマトを大切にしてたのにまさか攻撃に用いるなんて。めちゃくちゃだ。ちぐはぐでずれている。
――というより馬鹿だ。
私が二重君を呆れたように見ている間に、二重君はトマトをもう一つもぎ取り、私に手渡してきた。
「これが俺のト・マートだ! 食ってみるがいい!」
「……」
二重君が言い切る前に私はすでに貰ったトマトに噛り付いていた。
それはちゃんとした畑で育てられたトマトじゃないのに、そもそもプチトマトであるのに甘くて瑞々しかった。
――美味しい。
かなり悔しかったので言わないけれど。
「あら、おかえり。夕食できてるけど、先にお風呂入る?」
「入る」
結局私は家に帰ってきた。あの馬鹿みたいに馬鹿だった二重君と、馬鹿みたいに美味しいトマトのせいで、私は死ぬのが馬鹿らしくなってしまったのだ。
少なくとも二重君より先に死ぬなんて悔しいと思った。
お風呂から上がると食卓にはサラダが用意されていた。赤いプチトマトが入っていたサラダだ。
私は「いただきます」と言ってトマトを食べた。トマトだけを食べた。
だけどそのトマトは今日食べたあのトマトよりも美味しくなかった。
また……食べたいな。
私があの場所でトマトに近付いたら二重君はどうするのだろう?
またトマトを粗末にして、今度は私にぶつけるのだろうか?
「あら……貴方が笑うなんて珍しい日もあるものね」
「……え?」
私は静かに顔を触った。頬が上に持ち上がっているのが分かった。
なるほど。
確かに私は笑っていた。
出演者紹介
二重君……ビルの大家さんの息子。
アインシュタイン……「絶望した!」の人の娘。
マルチーズ……どっかの犬。後に大家さんの餌食に……。
アインシュタインの母……超ポジティブという自己設定をしている人。
トマト……プチトマト。リコピン豊富。抗酸化作用がある。