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43.再会を約束して。


「サクラ! そんなことしたらお前が一番後悔するやろッ!」

 朧は離れていたサクラに歩み寄りながら声を荒げた。

 解放だといえば聞こえは良いかもしれないが、実質することは澪を屠ることと同じだ。しかもこの世に生まれてきて悲しく辛いことしか知らないまま、澪の魂を手放すことに朧は納得いかない。

 蓮太郎もそれは同じであるようで、気弱な視線を揺らめかせながらも、サクラと澪を見つめている。

 ずかずかと大股で近づいてくる黒い狐を、サクラは冷え切った瞳で見返す。

「これ以上私に近づくな」

 淡々とした口調で神は言った。

「あ?」

「近づいたら知らんで」

「何言うてんねんッ」

 すっかり頭に血が上ってしまっている朧は、サクラの言葉にかまわず更に歩を進めた。しかし主である神の纏う風と花びらに触れた途端、それは雷のような衝撃を朧にもたらした。

 ばち、と音がして神経に沿って痛みが全身を走る。緩やかにたゆたっているように見えたその風が驚くほど力強く、朧は構えていなかったせいもあり派手に吹き飛ばされた。

「うわっ!?」

 バランスを崩して稲穂の上に投げ出された朧に蓮太郎は息を飲み、見ていた澪も目を見開いた。手足が痺れてすぐに起き上がれない朧は、しかめっ面のまましばらくその場に蹲っていたが、やがてゆっくりと身を起こす。しかし、一瞬自分になにが起こったのか分からないといった様子でサクラに視線を持ち上げた。

 そんな朧の前で悠然と立っているサクラだけが、黒髪に縁取られた整った顔に笑みを滲ませた。

「だから言うたやないか。知らんでって」

「いった……なんや……」

 ふわりふわりと花びらを纏わせているサクラを見上げて、朧の赤い瞳がやはり訳が分からないように瞬いた。

「この風と花は、極楽に行くもんしか触ることがでけへんねん。お前はまだ生きる運命や。まだまだいろんなもん見て、いろんなこと経験して笑ったり泣いたりせなあかん。それにあほのまま極楽に行くのは向こうの神さんに申し訳ないから、お前はまだ行かれへんねん」

 意地悪げに瞳を細めながらサクラは小さく笑った。

「ほ、ほんなら……澪やったらええっていうんか?」

 呆然とした朧が小さく問いかけると、サクラは一瞬月の瞳を歪め、小さく頷いた。それから目の前に立っている小さな狐に視線を流した。

「お母ちゃん、まってるで」

 その声音はとても優しく、沁みるように澪の鼓膜を打った。黄金色の毛に覆われた耳がピクリと動き、大きな瞳がうっすらと潤みを増していく。

「……ほんまに?」

「ん?」

「ほんまに、お母ちゃん待ってるん? ……妹も、おる?」

「ほんまや。ちゃんと待ってる。もっと早くこうしてやったら良かったんやけど、ごめんやで」

 呟くように言うサクラの瞳が降り注ぐ陽光をきらりと弾いた。それは蓮太郎にも朧にも泣いているように見えた。

「サクラさん……ほんまにええんですか……?」

 優しい蓮太郎の金色がサクラを見つめ、そしてその前に立っている小さな狐に廻る。

 痛めつけられた身体はサクラによって癒された。だからというわけではないが、やはり朧同様、辛いことしか知らないままこの世を去ることに、勿論喜べるはずがなかった。

 兄弟二人の思いは同じだ。それを色違いの瞳に宿らせて見つめられ、サクラは逡巡したように長い睫毛を震わせた。

 しかし、今の自分が澪にしてやれることは、やはりどれだけ考えてもこれしかない。

 この先闇雲に存在させても、澪の救いになるとは、サクラにはどうしても思えなかった。いつでも手を差し伸べることはできたのに、ここまで放っておいたことを激しく後悔している今の自分では、明るい展望などない。

 だけど誰も喜んで澪を死なせるのではない。サクラとて感情はあるのだから、蓮太郎と朧の視線は身を切られるほどに痛かった。

 普段飄々と自由気ままで、圧倒的な力を備えているサクラの顔が、ほんのわずかに儚く微笑み、そして震えている睫毛を伏せた。

「サクラ……」

「サクラさん……」

 兄弟の唇から同時に主の名が零れ落ちた瞬間、神の雫が一つ落ちた。

 それに兄弟たちは、ありえないものを見た気持ちで言葉をその先押し出せなくなった。あたりは暖かな風がふわりとサクラの纏う花の香りを漂わせている。

 しばらく、風が肌を撫でていく感覚しか狐たちにはなかった。決して無音ではないはずなのに、耳が痛くなるほどの静寂に包まれた感覚だった。

 眉間に皺を刻んだ狐の兄弟と、不思議なものを見るようにサクラを見つめている小さな狐、そしてその三人分の視線を集めている神は、ただただ静かに自分の感情がおさまるのを待っているようだった。

 長いようで短いような、一瞬にも感じられるような、なんともいえない時間が過ぎて、ふと、俯きがちだったサクラが整った顔を上げた。

 その頬に流れるものはなくなっていた。

「澪。私はお前と会えて幸せやったで」

 遠い昔、ほんの短い時間だが、サクラに心を開いていた時期もあった。明るく屈託のない澪の笑みは、サクラにとって大切な思い出になっている。

 瀕死の澪を見つけたとき、サクラの細く白い手を振り絞った力で握り返してきたとき、あの時もサクラは心から詫びた。気付かなくて申し訳なかったと。

 そして本当なら、あの時、澪を殺すことだってできたはずだった。苦しみしかない生ならば、神のサクラが母親の元に返してやってもよかったのだ。

「ごめんな」

 サクラの唇から落ちた言葉が、ふわりと風に運ばれていく。それを大きな耳で受け止めた朧が息を飲んだと同時に、神が装束を揺らして澪を抱き締めた。

 温かく愛情をこめたその抱擁に、金色の狐の瞳が大きく見張られた。

「サクラさん……ッ」

 蓮太郎が息をのみ、朧が縋るようにサクラに手を伸ばした瞬間、澪がふんわりと光に包まれ始めた。それは見ていてため息が零れそうな鮮やかな光で、同時に温かかった。

 花の芳香を躍らせた光で澪の輪郭が薄くなる。赤い装束に包まれた澪は、苦しそうでも悲しそうでもなく、ただ大きな目で自分を包み込んでくれるサクラを見上げていた。

 抵抗もしないそんな狐の髪を、サクラが愛情を宿らせた手で撫でる。それからこれが最後だと、きゅっと腕に力をこめた。

「また、帰って来い」

「え……?」

「私のところに帰って来い。そのときは、お前は自由や」

 金色の髪を撫でながら、サクラは何度も何度も同じことを澪に伝えた。今度この世に生まれてくるときは必ずいいことがある。家族と友人に囲まれた幸せがあると。

 サクラの顔はよくは見えないけれど、だけど声音は震えている。赤い瞳でその様子を見守っていた朧は、澪に向かって言葉を投げかけた。

「ほんならそのときは、俺が友達になったるわ」

 あっけらかんとしたそれに、輪郭の解け始めた澪が瞳を瞬いた。サクラの腕の中で少しだけ身動ぎした小さな狐に、朧と蓮太郎が重ねて言葉を送る。

「僕も、あなたと友達になりたいです」

「てか、約束やッ。ほんでめっさ遊んだるから、はよ帰って来いや。サクラの子供でもかまへんで」

「私の子供てなんやねん」

 朧の言葉に思わずサクラが笑う。泣き笑いの美しい神の腕で、澪は水に溶けるように消えていった。

 最期の澪の感覚がなくなるとき、サクラの肩が見ている兄弟にもはっきりと分かるほどに震えた。

 澪への後悔を、サクラは目を閉じて受け入れる。もっとしてやれることがあったはずなのに。

 澪からの歩み寄りを待つだけで、結局何もしてやれなかったことへの後悔は、きっと何年、何十年、それ以上経っても忘れることはないだろう。

 何にも囚われない存在であるくせに、何でもできる存在であったのに、アヤカシの世界に入り込むことはよくない。そんな理屈をこねて、たった一人の狐も守れなかった。

「ごめんやで……」

 花と風と共に、既に跡形もなく消えてしまった澪に向かって、サクラは小さく頭を下げた。さらりと黒髪がサクラの視界を遮った。

 かなりの時間、誰も口を開かずその場に立ち尽くしていたが、やがて朧が大きく息を吐き出してその場にしゃがみ込んだ。肺の空気を搾り出すような深い深いため息のあと、力なく言葉を落とした。

「てか、こんなんなしやでぇ……」

 言って、朧はかくりと頭を垂れた。蓮太郎は朧に歩み寄りながら涙を手の甲で拭う。その金色の瞳にはサクラへの気遣いと、ほんの少しの時間対面した小さな狐に悲哀を燈している。

「僕らのことに巻き込んでしもうて、あの子に、かわいそうなことしました」

 二人ともそれ以上は何も言えなくなって、ただ背中を向けているサクラを待つが、神は微動だにしないまま声を二人に投げかけた。

「少しだけでかまへんから、一人にしてくれへんか」

 二人の視線を背中に受けていたサクラが、振り返ることをしないまま小さな声で言った。風に靡く、艶やかな黒髪に覆われた背中がとても小さく見えた。

 蓮太郎がそんなサクラに小さく丁寧に頭を下げると、朧も立ち上がる。そのまま二人は何も言わずに澪の唯一だった世界を後にした。

 暗闇を抜け、本来の自分たちの世界に戻るとそこはもう夜になっていた。満天の星に満月、その下にはそれぞれの集落の明かりが仄かに小さく見えている。

 長い間、集落ごとに時間を過ごしてきたその明かりは、きっと澪が心から求めていただろう家族の集まりであり、穏やかに繰り返されてきた幸せの明かりだ。

 それらを山頂から見ているうちに、蓮太郎はどうにも泣けてきて仕方がなかった。

 人間でも狐でも何でも、当たり前に暮らしていけることが幸せなんだ。贅沢さえ言わなければ、ささやかな幸せの日々を重ねていける。

 澪がどれだけ長い時間を一人で暮らしてきたかは、正直なところ蓮太郎には分からなかった。勿論、今生きている狐たちでは到底知ることはできないだろう。

 一族から弾かれるしかなかった澪のような存在を、これから先出してはいけない。どんなことがあっても、自分が父親の跡を継ぐのなら、決して二の舞は作らない。泣きながら蓮太郎は、何度も心に決めた。

「みんな笑ってるのが、いいです……」

 頬に流れる涙をそのままに、蓮太郎が言う。すぐ隣で集落の明かりを見つめていた朧が、大きな手を持ち上げてそんな弟の頭を撫でてやる。

「お前なら大丈夫や。俺も頑張るし」

「朧も、辛かったですか……?」

「俺は……幸せやから問題ないし、これからも幸せや」

「……はい」

 朧は蓮太郎の背中をあやすように叩き、空を見上げた。いつの時代も変わらない星の瞬きに、自分の小さな頃を思い出して口許を笑ませた。そしておもむろに口を開いた。のんきな声音の中に真剣みを帯びて。

「強いて言うならお前が幸せにならんと、一族なんかまとめられへんのちゃうかな」

「え……?」

「お前が笑って暮らせるように、誰と一生を共にするか、誰を守りたいか考えろ。誰にも遠慮はいらん。お前が幸せならおのずとみんなついてくるから」

 頑張れ。そう言って朧は蓮太郎の背中を一度強めに叩いた。

 大事な存在が蓮太郎の胸を過ぎる。しばらく会っていないその存在を思い出すと、無性に会いたくなる。声を聞きたくなって、蓮太郎はまた涙が浮かんでくる。

 きゅっと目を閉じて我慢している弟に、赤い瞳が優しく微笑した。

「しかしやな、じいさんどもの言いつけはこれで守れんようになってしもうたな。どうするか……」

 そこまで言われて、蓮太郎ははたと思い出した。澪を説得できればとかなんとか言われていたのを。

 途端、困り果てたように眉を下げた白い狐と、腕を組んで何かを企んでいる黒い狐の背後にぶわっと風が巻き起こった。

「なんや!?」

 突然のことに驚き、勢い良く振り返った兄弟の視界に映りこんだのは、赤い装束を着た主であるサクラだった。

「よっしゃ。行くで」

「行くって……どこにやねん」

 いつもの口調で、いつもの有無を言わさない雰囲気。長い睫毛の下の月の瞳が冴え冴えとして、ぽってりとした赤い唇が余裕の笑みを滲ませている。サクラはこれもいつものように朧の頭を一発はたき飛ばした。

「くそじじいどもを集めろあほ狐。粛清や」

 思わず姿勢を正してしまいそうなほど凄艶に微笑んだサクラに、兄弟たちはぎょっとするしかなかった

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