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39. 退くしかなかった。

 助けて。

 誰か助けて。

 脚が痛む。脚だけではなくて、全身が痛む。息が苦しい。喉が焼けるようにひりついて、自分の呼吸の音が鼓膜にこだまする。滴る血が自分のものなのか、それともぐったりしている黒い狐のものなのか、それすらも分からなくて、蓮太郎は頬を流れる涙を拭うことも忘れて朧の身体を抱き締めていた。

「お……おぼろ……」

 何が起こったのだろうか。呆然とする頭では先ほどのことを思い起こすことすらできなかった。

 ただ、金色の炎が、灼熱と風を伴って朧めがけて放たれた。そのすぐ傍にいた蓮太郎を、守るように朧はまた自分を盾にした。

 いや、そうするしかなかった――蓮太郎がいたから。

 予期せぬことだったのは朧も同じだろう。自分の身を守ることと、蓮太郎を守ること。それのどちらかを選べとなれば、朧は間違いなく蓮太郎を守る。それをしたまでのことだった。

 しかし業火のような炎を、何一つかばうことしなかった朧の身体は、受け止めるだけで瀕死の傷を負った。がくりと膝を折って蓮太郎にもたれるように倒れこんだ黒い身体を、蓮太郎は何がおこったのか分からないまま受け止めている。

 背中一面の皮膚は焼け爛れ、生身の焼ける異臭が蓮太郎の鼻をついた。これほどまでの炎を受けて形をとどめている方が奇跡なのかもしれない。それだけ朧の肉体と体内を廻る妖力が強くしなやかだということだ。

「おぼろ……目、開けて……?」

 蓮太郎の声が情けないくらい震えている。そんな声で名を呼んだら、普段なら朧が馬鹿にしたように笑うはずなのに、しかし朧の意識は完全に消失している。

 瞼を落としたその顔をじっと見つめた蓮太郎は、金色の瞳から涙を溢れさせて朧の顔を確かめた。血の気の失せた黒い狐は、睫毛一本動かすことはない。呼吸は小さく弱く。内蔵を傷めてしまったのか、口から血が吹き零れるようにして流れ出した。

「うそや……朧……返事して……ねぇ……?」

 自分と大差ない体格の朧の重みを受け止めて、蓮太郎の瞳がますます揺らぐ。だが朧が庇ってくれたとは言え、蓮太郎自身も無傷ではなかった。頭に大きく傷を負い、白銀の髪にべっとりと血がついている。肩も大きく裂傷し、脚にも耐えがたい痛みを感じる。立っているだけでも叫びたいほどの痛みだったが、それよりも朧のほうが心配で気持ちがそこまで回らなかった。

 なんでこんなことになったんやろう。

 そんなことをぼんやりと頭の片隅で考えながら、蓮太郎は滲んでしまった視界を巡らせた。陽射しの溢れる茅葺屋根の上に、小柄な金色の狐が立っている。風が血の香りと焼けた皮膚の匂いをそこまで運んだのだろう。澪は眉間の皺を深くして蓮太郎を睨み下ろした。

「殺されたくなかったら、はようここから去ね言うてるやろ。雑魚が」

 無表情が、澪の感情を逆に表しているようだった。艶やかに闇を纏った瞳が突き刺すように蓮太郎を見ている。憎悪としかいえないその闇を、蓮太郎は見返して頬を流れる涙をそのままに問いかけた。

「なんで……なんでこんなことをするんですか」

 朧の身体を抱き締めたまま、蓮太郎は震える声で澪に訴えた。

「僕ら、あなたに何かしましたか……朧が、あなたに何をしたんですか!? 朧になんの恨みがあったんですかッ!?」

 家族を傷つけられてまで、弱い蓮太郎であるはずがなかった。震える声が次第に叫ぶように大きくなり、それにあわせて蓮太郎の周りの空気が一変した。朧を抱き締めながらも、ふわり、ふわりと白い炎が彩っていく。空気が震え炎が揺れ、それから蓮太郎の髪も尻尾も自身の纏う風に踊る。射抜くように、決して逸らさない瞳の涙は消えないけれど、その中には気弱で優しい狐の姿はなかった。

 頭の芯がくらくらする。それは怒りと悲しみのせいなのか。考えることもできないで蓮太郎は、ただ睨みつけている狐から一瞬でも視線を逸らさない。

 身体中の血が沸騰したように熱い。自分でもはっきりと分かるほど、すべての感覚が覚醒していく。白い炎が大きく渦を巻くように蓮太郎と抱き締めている朧を取り囲む。

 憎い。はじめて蓮太郎が抱く感情がはっきりとした輪郭を持って芽吹いた。誰かを憎むなんてことは生まれてこの方なかった。いつも愛情を与えられ、黒いもの、闇を見たことがなかった蓮太郎は、勿論そんな感情を抱くこともなかった。

 だが、今ここで澪に向かって手を出せば、澪と同じになってしまう。憎いと思い感情が荒ぶる一方、誰かを傷つけることだけはしたくなかった。たとえ自分が傷つけられても、相手を同じ目にあわせてしまうのは、自分を貶めることだと思う。誰かを痛めつけるなら自分が痛い思いをすれば良い。そう思う心優しい蓮太郎だが、このままではどうにかなってしまいそうなほど暗闇が暴れだしてしまう。

 歯を食いしばって懸命に暴発するのを我慢している蓮太郎に、澪が無邪気なほどの微笑を見せた。口許を柔らかく綻ばせ、長い睫毛に囲まれた瞳をゆっくりと笑みの形にしていく。それから、その笑顔に似つかわしくないほどの闇が、澪の身体からあふれ出した。

 漆黒よりもなお黒い、深い深い濃密なそれに、蓮太郎の身の周りに揺らめいていた炎が飲み込まれるようにかすんで消えていく。怒りは大きいが、それ以上に総毛立つほどの悪寒が蓮太郎を飲み込もうとした。さわりと、首の後ろに何かが走ったような気がした。

「お前ごときが、私に何ができる?」

 ゆったりとした口調で澪は蓮太郎に向かって言葉を放った。煌く瞳の中に、二人の狐を映した小さな狐は、その体格に似合わないほどに妖力を巡らせて高めていく。それは蓮太郎に戦慄としか言えない感情を与えた。背筋の寒くなる不快な感覚。あれほど暴れ出しそうな蓮太郎の黒い感情ですら飲み込んで増幅していく澪の計り知れない妖力に、蓮太郎の身体はいつの間にか小刻みに震え始めていた。

 その澪の闇が、怒りで震えていた蓮太郎の体をざらりと撫でていき、思わず悲鳴が零れそうになった。自分の中の黒い感情が消えたわけではないし、勇気を奮い起こせばきっと澪にかすり傷くらいはつけられるはずだ。朧をこんな目に合わされて、はらわたが煮えくり返っているのは変わらない。

 だがどうしても、澪の感情の方が圧倒的に大きかった。子供のような大きな瞳に陰惨な色を宿した狐は、命をなんとも思っていない。まるで虫けらでも見るように冷え切った眼差しを向けてくる。足元から何もかもを覆そうとするかのその眼差しは、全てを否定して嫌悪して憎悪している。

特に、黒い狐。朧には並々ならぬ負の感情を抱いていた。その理由は蓮太郎には分からないけれど、しかし今この場で変えがたい事実は、一つだけだ。

 ここにいたら殺される。

 身の毛のよだつ恐怖に、蓮太郎は朧を抱きかかえるようにして自分に引き寄せ、震える脚で一歩、また一歩と後ろに下がった。足元のたおやかな花を踏みしめ、視線だけは澪から外すことはなく。いやむしろ、逸らしてしまえばその場で殺されそうな気さえした。自分の正気を保つためにも、逸らしてはいけないような気もした。

 それを屋根の上から眺めていた澪は、満足そうに微笑を深めた。

「そうや。はようここから逃げ。情けない狐と人間の子……」

「あ……あなたは……なんで……」

 歯の根が合わない。震える唇でなんとか言葉を押し出そうとしたが、蓮太郎の声は掠れてしまって澪には聞こえなかったようだ。金色の耳をピクリと反応させた狐が、眉をくいと上げた。

「なんや?」

「なんで、あの……人間が、嫌いなんですか……?」

 こんなことを聞けばまた澪の神経を逆なでするかもしれないと思ったが、蓮太郎はそれでも知りたかった。朧をこんな風にしてしまった理由を。涙をためた瞳を受け止めた澪は、意外にも感情を荒げることもなく淡々として様子で口を開く。闇が澪の周りで蠢き、そこから伸びた一部が、あざ笑うかのように後退していく蓮太郎の足元を掠めた。

「人間は……汚い。弱いもんをいじめて馬鹿にする。自分たちと違うモノを恐れ排除しようとする」

「なんで、そう思うんですか……?」

 言葉を重ねていく中で、澪の感情は揺らめき一層闇が濃くなるように感じた。妖美な微笑は艶やかに美しい。しかしその口許を歪めて笑い出した澪は狂気を孕んだ瞳で蓮太郎を見下した。

「でもなぁ……狐も嫌いや。お前らも汚い。同じもんしか認めようとせん。人間も狐も、みんな嫌いや。命だけは助けたるから、はようここから去ねやッ!!」

 魂の底から吐き出された澪の言葉に、蓮太郎が大きく息を呑んだ。朧を抱きかかえるようにしていた腕からも力が抜けそうで、必死にそれを我慢した。そんな腕の中で、朧がわずかに身動ぎした。うっすらと閉じていた瞼を持ち上げた黒い狐は、途切れる呼吸の間から、なんとか言葉を押し出す。

「れん…………逃げ……ろ……」

「朧……?」

 まるで呪詛のように視線をはずすことができない蓮太郎が、朧の言葉にわずかばかりに顔を俯ける。その間にでも澪に食われてしまいそうな感覚は大きくなる。朧は瞼が落ちそうになるのを懸命に堪えながら、蓮太郎に向かって声をかける。

「俺らで……かなわん……迷惑かける、けど……逃げよ……」

 意識をかろうじてつなぎとめている声は、かすれてしわがれている。いつも溌溂とした朧の声からは想像もできないそれに、蓮太郎は苦しくて涙を零さずにはいられなかった。ぽろりと零れてしまった涙は、更に溢れてくる。自身の身体も痛んで仕方なかったが、それでも今は少しでも澪から離れなくてはいけない。蓮太郎は朧の身体を背中に背負い。澪が見つめる中、踵を返した。

 一秒でも早くここから離れて、朧を何とかしなければいけないと。それだけを考えて、ここに来たときの道順を逆戻しするように暗闇を目指した。

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